BLOGまち歩き2021.05.24

「西陣」の名前の由来にもなった「応仁の乱」

日本の歴史上で、もっとも大規模な内乱のひとつとして知られる「応仁の乱」。

室町時代の応仁元年(1467)に勃発し、終息に11年、復興に33年もかかったといわれています。

以前の「きょうのちしん」でご紹介した「御靈(ごりょう)神社(上御霊神社)」。

「応仁の乱勃発の地」といわれ、応仁元年(14671月の「上御霊の戦い」がすべての始まりです。

これを皮切りに、いろいろな日にいろいろな場所でいろいろな戦いが勃発しました。

京都には、御靈神社以外にも応仁の乱ゆかりの地が点在しています。

今回は、応仁元年(1467)5月26日から27日に発生した「上京の戦い」をご紹介します。

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「上京の戦い」は、8代将軍・足利義政の後継者をめぐり、諸大名が東西両軍に分かれて衝突。

西軍の大将は山名宗全、東軍の大将は細川勝元、いずれも室町幕府の武将・守護大名です。

宗全率いる西軍が本陣としたのが、堀川通上立売にあった宗全の邸宅。

戦火で山名家代々の邸宅も焼失し、宗全は文明5年(1473)、陣中に命を落とします。

住宅地の中にひっそりと建つ、山名宗全邸宅跡の石碑で往時をしのぶことができます。

西陣織で知られる「西陣」は、応仁の乱で宗全が西に陣を敷いたことが名前の由来だそうですよ。

応仁の乱_リサイズ2.jpg西陣に対して、勝元率いる東軍が東に陣を敷いたのは「東陣」とされました。

戦乱のとき、現在の小川通沿いに「小川(こかわ)」とよばれる川が流れていたといいます。

小川通寺之内に架かる小さな橋「百々橋(どどばし)」を境に、東が東軍、西が西軍の陣地。

東陣は西陣に比べて範囲は狭かったものの、足利幕府の正規軍だったといわれています。

いつのころか、東陣のあたりも「西陣」とよばれるようになったようです。

現在、この地に百々橋の橋脚を支えた4基の「百々橋の礎石」のうちの1基が残されています。

「百々御所(どどのごしょ)」とよばれた「宝鏡寺」の南東、「百々橋ひろば」にあります。

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細川勝元が率いる東軍の本拠地は、勝元の邸宅と、「花の御所」とよばれた足利将軍家の邸宅。

それらの邸宅も消滅しましたが、花の御所は今出川室町交差点から北東一帯に広がっていたとか。

それを示す「従是東北 足利将軍室町第址」の石碑が、今出川通室町の交差点に建っています。

また、烏丸通今出川の大聖寺門跡の境内では、「花乃御所」の石碑も見られますよ。

上立売通烏丸の同志社大学寒梅館の敷地内でも、近年、花の御所の石敷き遺構が発掘されたそう。

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応仁の乱が終息すると、京都から全国各地に離散していた織物職人たちが戻ってきました。

そして、西陣とよばれるようになったこの地で再び織物業が盛んになったとか。

京都を代表する伝統工芸品の西陣織が、西陣の名前を今に残したともいえそうです。

西陣を散策するときは、応仁の乱のゆかりの地をめぐってみるのもよいかもしれませんね。


山名宗全邸宅跡(やまなそうぜんていたくあと)
京都市上京区堀川通上立売下ル西入藤木町

百々橋の礎石(どどばしのそせき)
京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町 

「花乃御所」の石碑(はなのごしょのせきひ)
京都市上京区烏丸通今出川上ル(大聖寺門跡 境内)


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