うつわ知新
うつわと料理は無二の親友のよう。いままでも、そしてこれからも。新しく始まるこのコンテンツでは、うつわと季節との関りやうつわの種類・特徴、色柄についてなどを、「梶古美術」の梶高明さんにレクチャーしていただきます。
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2021.03.27
現代陶芸1
今回のテーマは「現代陶芸」です。第1回では現代陶芸の魅力について、2回目には今回使用したものをふくめ、代表的な現代陶芸について解説いただきます。そして、3回目は、イルギオットーネの笹島保弘シェフとのコラボレーションです。笹島シェフがこのうつわに料理を盛りたいと思ううつわを選び、渾身の料理を盛りつけます。知っているようで知らなかった「現代陶芸の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。現代陶芸 古美術商の私が「現代陶芸」についてお話しすると、「ついにネタが切れたか」と思われるでしょうか。 私は20年以上にわたって美術鑑賞レクチャーを開講しており、今では京都に限らず、毎月、広島や東京でもお話をさせていただいている経験がありますので、この「うつわ知新」の原稿の回数くらいでネタが尽きることはありません。 それでも「現代陶芸」についてお話をする理由はと申しますと、古い時代のうつわも、近代の名工の作品も、やがて枯渇してしまうのではないか、という危機感を感じ始めたからなのです。そしてそれに代わる存在が「現代陶芸」のうつわだと思うのです。 日本人は茶の湯に親しんできたおかげで、茶碗・花生・水指など茶道具のみでなく、茶懐石のうつわに至るまで鑑賞の幅を広げ、美と愉しみを追求してきました。 もしこの強い追求心がなかったら、今頃私たち日本人は、アジアの他の国々と同じようにプラスティックやアルミ製の食器を使って日々暮らす民族になっていたのではないでしょうか。これらのうつわは、薄くて軽いだけでなく、割れない、欠けない、吸水性もないから清潔を保ちやすい、といった多くの面で陶磁器のうつわに対して優位であります。 しかしながら、唯一、「美」という鑑賞的な方面でだけは陶磁器のうつわが圧倒的に勝っていると思うのです。日本人はこの「美」にこだわって、文化としてそれを育てて、利便性を排除してでも使い続けて来たのではないでしょうか。 和食を世界遺産に登録するのに大きな役目を果たした、日本料理アカデミーという組織があります。私は料理人ではありませんが、その末席に名を連ねています。日本料理アカデミーは以前、海外から一流シェフを招いて和食を学ぶ機会を数回にわたって提供しておりました。参加していたのは、世界中のスターシェフたちでした。十日間ぐらいのプログラムだったでしょうか、一人ひとり異なる和食店で働きながら和食の技を学ぶのです。さらにその合間に包丁などの和の調理器具、茶道、和菓子、うつわについての研修も受ける、盛りだくさんのプログラムでした。 最終日には料理関係者のみならず、多くの観客の前で、学んだ技術で調理を行い、研修の成果を発表することになってました。そして、実はその時に使用するうつわを、私どもが提供をしておりました。家内が営む南禅寺の「うつわやあ花音(あかね)」で取り扱う、現代の陶芸家・漆器作家の皆さんにもお声がけして、優に100を超える数のうつわを提供していただいておりました。もちろん私の専門分野の古陶磁器からも、うつわを選べるようにしていましたので、それこそ広間に足の踏み場もないほどに敷き詰めた現代陶のうつわだけに留まらず、私どもの店内すべてのうつわからシェフたちが好きに選べるようにしたのです。 多くのシェフたちは日本のうつわを使った経験があるので、特に大きな期待もなく、平然とした面持ちでうつわの前に立つのですが、直後、彼らは驚愕の表情に変わるのです。彼らの言う日本のうつわは「ノリタケ」や「ナルミ」製の洋食器を意味し、私たちが用意したうつわは彼らのイメージとはまったく異なるものだったのです。やがて彼らは興奮し、「このうつわは一体どこから持ってきたのですか?」「日本人にこのようなうつわを作るセンスがあるのですか?」としきりに尋ね始めるのです。その驚きは、中国や日本の伝統的な古陶磁器ではなく、「現代陶芸」のうつわに向けられたものでした。実は海外の料理人も観光客も、さらに言えば日本人でさえ「日本はうつわの超先進国」であることを知らないのです。それを知っているのは海外で日本美術を扱うギャラリーや、美術館関係者くらいなのです。 恥ずかしながら私も、これを経験するまでそんな事情を知りませんでした。そう言えば、オーストラリアの美術館から美術品の購入担当者が幾度か私の店を訪ねてきたとき「日本の近代の陶芸作品は世界の宝だ」と話してくれたなあ、というようなことが、かすかに頭に残っていたくらいでした。 「現代陶芸」のうつわの中には、日本で大人気の作家の作品や、「これは海外のシェフにも気に入ってもらえるであろう」と私たちが自信満々の作品も多数並べていたのですが、その自信はあっさりと打ち砕かれてしまいます。私たちはうつわとしての本当の「美」を間違って理解していたのです。私がうつわを評価していた基準は、作家の人気度や、うつわの陶磁器としての完成度といった観点で、「美」を扱う人間でありながら、その実、日本人的な目でしか見ていない狭い価値観で測っていたことを思い知らされました。シェフたちは初めて目にする日本のうつわに感激しながらも、ことごとく私たちが自信を持っていたうつわを選ばなかったのです。 いまになって思えば当然のことです。海外から来た彼らにとって、作者の名前は聞いたこともないから知名度など意味があるはずもなく、焼物の産地も、聞いたこともない地名だし、うつわの形の由来などにもまったく興味なく、作品としての質の高さも私たちの基準とは異なっていたわけです。彼らは目の前のうつわを自分の料理の入れ物だとのみ考えて、食材を選ぶ時のように自由度の高い目線で眺めていたわけです。しかも欧米人の習慣では、陶器と呼んでいる、いわゆる土物のうつわは、盛り鉢としては使用されますが、そこから直接口へ運ぶうつわとしては、あまり使用しないのです。ですから、欧米のうつわ、つまり洋食器は磁器製だという大原則に気付かされたのです。 このようにして私は、日本の現代陶芸の素晴らしさと可能性を知ると同時に、日本の陶芸が乗り越えなければならない課題も見つけることができたのです。 近年の和食文化の世界的な広がりは、「UMAMI(うまみ)」や「WAGYU(和牛)」などを海外のメニューで見かけるようになっただけでなく、料理のジャンルを問わず、日本の食材が海外で使われるようになったことからも明らかです。それと同じく、私たちの扱っていた現代陶芸のうつわもパリやニューヨークの超有名店から注文をいただくようになりました。まさに和食文化の輸出は、日本文化の輸出の絶好の機会なのです。 そこで、足元の現代陶芸の置かれている環境を改めて見てみると、売れっ子の陶芸家ですら、急速に縮小している茶道市場に向けた作品展開がまだまだ主流になっているように見られ、最も市場規模の大きいはずの食のうつわへの取り組みは、どうも格下の仕事のように軽んじられているようなのです。うつわを多く発表し続けている陶芸家も、その販売先をうつわ好きの一般主婦に置いているかのような売り方をしているように見えます。和食が世界に広がっていくこの機会に、その波に乗っかっていけば、日本のうつわの文化は世界に向けて輸出されていく可能性を秘めていると思うのですが、もったいないなと思うのです。 日本の皆様には、食べること、調理することが、服を着ておしゃれを楽しむようなファッショナブルなことだと気づいて欲しいと思います。そしてうつわの存在は日本人が世界に向けて提案できる文化なのだと知って欲しいのです。ハンバーガーはうつわさえも使わず、包み紙で食べます。京都の錦市場や大阪の黒門市場での食べ歩きや、簡易なイートインなどは、楽しくはあっても、日本文化から考えればいかがなものかと思えます。 現代のAIやITで日本が遅れをとっていても、美しい文化の中で暮らす国民性は捨ててはならないと思います。どうか、世界の最先端にあるうつわの存在に気付いて、現代陶芸を応援して育てていくために、あなたの食器棚の棚卸をして、美しいうつわで満たしてみませんか。「日本の現代陶芸は世界の宝なのです。」現代陶芸2につづく
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2021.03.01
魯山人と志野3
今回は「志野」のなかでも魯山人の器に特化して梶さんにレクチャーいただき、京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんに料理をおつくりいただきました。「魯山人の志野」の解説については、魯山人と志野1「魯山人と志野について」魯山人と志野2「作品解説」の2回に分けて配信いたします。また3回目には、佐々木浩さんによる魯山人のうつわとのコラボレーション料理をご紹介します。魯山人がつくる「志野焼」の魅力をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。魯山人の志野3 「古典に学ぶが、古典に媚びず、新しいを盛り込んで、新しさに溺れない」、「個性を前面に出した作品にせず、道具(うつわ)であることを忘れない」、「職人の眼で作らず、料理人の発想も備えつつ、数寄者の喜ぶうつわを目指す」。 魯山人の作品からはこんな思いが聞こえてくるようです。志野四方鉢 29cm角 魯山人の志野としては大作と言っても良い、堂々とした仕上がりと大きさのうつわです。魯山人は赤味のよく出た仕上がりを好んだために、彼は信楽産の土を採用したと伝わっていますが、さらに強い赤を出すために、鬼板と呼ばれる、鉄分を多く含む化粧泥で表面を覆いました。そして、その化粧土を掻き落として絵や模様を描き、白い長石釉を掛けて焼き上げ、赤と白が激しく交じり合う表情を生み出しています。 まるで焦げたかのようにカリカリに焼きあがった鬼板の化粧土の上に、こびりついたかの如くに見える白い長石釉が荒々しい表情を見せています。作品としては大作だと誇れるものだと私は思うのですが、うつわとしては主張が強すぎるとも考えます。魯山人の志野2よりひな祭りを寿ぐ八寸「威風堂々としたこの四方鉢は、作品としての圧倒的な力強さがあります。 3月の料理ということで、その力強さに包まれる様子をイメージした「桃の節句のお料理」を調えました。 菜の花や鯛の子といった春が旬の食材の他、焼き蛤、お寿司など節句を寿ぐお料理を、彩りよく盛り付けています。 鯛の子の旨煮、菜の花のおひたし、スモークサーモンと胡瓜の手綱寿し、焼き蛤、車エビ、ふわふわ玉子、スナップエンドウとわけぎのてっぱいという品々です。 百合根の花びらを散らして華やかな春を表現しました。 召し上がる方が、見て味わって心をうきたててくださればという想いを込めた料理。 魯山人のうつわに料理を盛れることは、料理人としての喜びでもあります。」佐々木浩さん秋草彫の手平鉢(あきぐさ ほりのて ひらばち) 直径23.5cm 5客組の数物でありますが、「皿」と箱書きに書かれていないのは、魯山人が呼び名にこだわったからで、呼び名で作品の品格が変わると思っていたようなのです。 ぽってりと肉厚に作られ、帽子の鍔(土星の環のようでもありますが)のように縁を平らにして、中央の見込み部分を緩やかに凹ませた「鍔型(つばがた)」という、魯山人の十八番の形をしています。裏面に高台や足は付けずに、削りで整えたきれいな平面を出すような仕上げもしていませんから、形的に几帳面な印象ではなく、やわらかな印象を受けます。裏面中央部分は窯に入れる前に、釉薬を拭き取って、胎土に含まれる鉄分が赤く発色する景色を意図的に見せています。 また、釉薬を完全に削り取ってしまうのではなく、拭き取ることにこだわって、わずかに残った釉薬成分や胎土に含まれる鉄分が酸化した時、より強い赤に発色することを狙っていたようです。白い長石釉のかかった釉下は、胎土の白い色が透けて見えています。また「鬼板(おにいた)」と呼ばれる鉄分を多く含む泥で草を描いています。魯山人の志野2より「先ほどの四方鉢に華やかな料理を盛っておだしする。と、同時に銘々皿(取り皿)として平鉢をお出しする。 目のまえに出されたこの平鉢を、しばし眺めていただきたいからです。 四方鉢もそうですが、この平鉢もうつわ自体が完成されている。作風はもちろんのこと、色合いやかたちなど、それだけで美しい。 ほんとうなら、料理を盛らず、南天の実をふた粒だけそっと置きたい。そんな想いがわくうつわです。 魯山人の作家としての技量だけでなく、人としての懐の深さを感じさせられる作品です。」佐々木浩さん祇園 さゝ木味はもちろんこと空間や劇場型のもてなしまですべてが「ほかにはない」と評され人気を博す京都を代表する料理店。店主の佐々木浩さんは、客を驚かせ喜ばせる達人で常に新しい料理を模索して作り上げる。その日仕入れた筍や鮑をピッツアの石窯で焼き上げ、洋テイストの味わいに仕上げるなど、従来の和食の範疇を超える料理も多い。客前で生きた蟹をさばく、鮨を握って手渡すなど躍動感ある演出もこの店の魅力。グループ店に割烹形式で一品料理を味わえる『祇園 楽味』、さゝ木の料理と鮨の両方を味わえる『鮨 楽味』、洋食など酒に合う料理で飲める『食ばあー楽味』がある。■祇園 さゝ木京都市東山区八坂通り小松町566-27電話:075-551-5000営業時間:12:00~14:00、18:30~いずれも一斉スタート土曜 17:00~、19:30~一斉スタート定休日:日曜日、第2・第4月曜日、不定休あり■祇園 楽味京都市東山区祇園町南側570-206電話:075-531-3773営業時間:終日2部制第1部17:30~20:20(最終入店18:30)、第2部20:30~23:00(最終入店21:30)定休日:日曜日、第2・第4月曜日、不定休あり■鮨 楽味電話:050-5597-8015営業時間:第1部17:00~、第2部19:30~ 一斉スタート定休日:日曜、第2・4月曜
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2021.02.27
魯山人と志野2
今回は「志野」のなかでも魯山人の器に特化して梶さんにレクチャーいただき、京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理をおつくりいただきました。「魯山人の志野」の解説については、魯山人と志野1「魯山人と志野について」魯山人と志野2「作品解説」の2回に分けて配信いたします。また3回目には、佐々木浩さんによる魯山人のうつわとのコラボレーション料理をご紹介します。魯山人がつくる「志野焼」の魅力をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。魯山人と志野2 「古典に学ぶが、古典に媚びず、新しいを盛り込んで、新しさに溺れない」、「個性を前面に出した作品にせず、道具(うつわ)であることを忘れない」、「職人の眼で作らず、料理人の発想も備えつつ、数寄者の喜ぶうつわを目指す」。 魯山人の作品からはこんな思いが聞こえてくるようです。秋草彫の手平鉢(あきぐさ ほりのて ひらばち) 直径23.5cm志野草平向(しの くさ ひらむこう) 直径16cm この2種類の作品は写真では伝わりませんが、実はサイズが大きく異なっています。名前も、平鉢と平向(ひらむこう)で分けられています。どちらも5客組の数物でありますが、「皿」と箱書きに書かれていないのは、魯山人が呼び名にこだわったからだと、作品を多く扱った私の経験から思えるのです。つまり、魯山人は呼び名で作品の品格が変わると思っていたようなのです。 大きい方は銘々の皿としても使えるのですが、ゆったりとした豊かさが感じられる作品なので、一客だけで鉢として用いるに足りると思ったのでしょう。鉢と呼ばせると、茶室の中で皆さんが取り廻すうつわとしても用いることが出来ます。これを皿と呼んでいたなら、サイズが大きいから、これ幸いと無理やり鉢に転用したのかと、まるで背伸びして鉢に格上げしているような印象を与えてしまいそうですから、最初から鉢と箱に記したのでしょうね。 小さい方も皿とは呼ばず、平向(ひらむこう)と箱書きしています。向付が茶室の中で皿よりも重い役目を担ううつわであることをわかっていたからでしょう。彼の作品でも「皿」「沙羅」と名付けられているものもありますが、皿を平向と強く意識して使い分けている作家は、私の知る限りでは魯山人以外ほぼ皆無です。 育ちが良かったわけではない魯山人が、豊かな暮らしの数寄者や知識人の中で学び取った感性が、こんなところに現れているのでしょうね。 このふたつのうつわは、ぽってりと肉厚に作られ、帽子の鍔(土星の環のようでもありますが)のように縁を平らにして、中央の見込み部分を緩やかに凹ませた「鍔型(つばがた)」という、魯山人の十八番の形をしています。裏面に高台や足は付けずに、削りで整えたきれいな平面を出すような仕上げもしていませんから、形的に几帳面な印象ではなく、やわらかな印象を受けます。裏面中央部分は窯に入れる前に、釉薬を拭き取って、胎土に含まれる鉄分が赤く発色する景色を意図的に見せています。 また、釉薬を完全に削り取ってしまうのではなく、拭き取ることにこだわって、わずかに残った釉薬成分や胎土に含まれる鉄分が酸化した時、より強い赤に発色することを狙っていたようです。白い長石釉のかかった釉下は、胎土の白い色が透けて見えています。また「鬼板(おにいた)」と呼ばれる鉄分を多く含む泥で草を描いています。 志野四方鉢 29cm角 魯山人の志野としては大作と言っても良い、堂々とした仕上がりと大きさのうつわです。魯山人が志野を焼き始めたころは、美濃から産出するもぐさ土も使っていたようですが、もぐさ土は粘りがなくパサパサしていて、細かな作業や薄造りの作品の製作には不向きでした。また、魯山人は赤味のよく出た仕上がりを好んだために、彼は信楽産の土を採用したと伝わっていますが、さらに強い赤を出すために、鬼板と呼ばれる、鉄分を多く含む化粧泥で表面を覆いました。そして、その化粧土を掻き落として絵や模様を描き、白い長石釉を掛けて焼き上げ、赤と白が激しく交じり合う表情を生み出しています。 当時の美濃では、釉薬を作るための良質な長石の確保が困難だったため、京都の実業家で魯山人の大パトロンであった内貴清兵衛の力添えを得て若狭から取り寄せたと言われています。まるで焦げたかのようにカリカリに焼きあがった鬼板の化粧土の上に、こびりついたかの如くに見える白い長石釉が荒々しい表情を見せています。作品としては大作だと誇れるものだと私は思うのですが、うつわとしては主張が強すぎるとも考えます。 皆様はどうお感じになるでしょう。鼠志野 中鉢 直径28cm 鼠志野は胎土の上を鬼板の化粧土で覆いながら、鬼板の色が透けて見える頃合いの厚みで長石釉をかけた焼物です。赤とも濃い茶色ともつかない鬼板の発色の上に白い膜がかかるので、見た目の色が鼠色やチョコレート色にみえるわけです。見込みには魯山人が良く好んで描いた「阿や免(あやめ)」が描かれています。 掻き落として描いた絵の部分には白い土で象嵌(掻き落とした窪みに白土を埋め込む)をしているようです。裏面には丸い高台を作っていますが、その内側に焦げてこびり付いたような輪を見る事ができます。これは土の重みで、焼成中、高台の内側が沈み込まないように粘土で支えを作った跡です。これも白い土を用いず、鼠志野の場合は茶色い鬼板で作るということが桃山の頃からの習わしです。 このような古陶磁器の約束事も、魯山人はパトロンだった数寄者たちに教わっていたのでしょうね。うつわには金で修理が施されていますが、これも魯山人が行ったものだと考えられます。集合写真、左手奥:志野茶埦 直径12cm×高さ9cm、 左手前:志野 さけのみ 直径4.5cm×高さ4.6cm 右:絵志野芒文四方平鉢 18cm角高台写真、手前:志野茶埦、奥:志野 さけのみ 「志野茶埦」「志野さけのみ」「絵志野芒文四方平鉢」を集合写真で見ると、ひとつひとつのうつわに施された魯山人の作為(さくい)というか、たくらみが手に取るようにみえてきます。茶碗は陶器で作ったものですから、土遍の「埦」の漢字を使い「茶埦」と箱書きしています。こんな所にも、魯山人のこだわりが見えます。 茶埦全体にほのかな赤い発色が見られながらも、土見せの高台を見ると赤くなり過ぎていません。土の配合で調整して狙ったのでしょうか。ごつごつして荒々しい表現をされがちの志野にあって、やさしい肌色で形も素直に丸い、碗なりに作られています。高台は太く安定ある形です。この太くおおらかな高台は、桃山期のうつわではあまり見かけませんが、魯山人は好んでいたのか、うつわの高台などでも度々見かけます。腰のあたりには長石釉に小さな穴を見ることが出来ます。柚肌(ゆずはだ)と呼ばれる景色で、胎土に含まれていた空気が抜け出た跡です。 打って変わって、「志野さけのみ」「絵志野芒文四方平鉢」はどちらも鬼板で化粧をして、強い赤色を出させています。「絵志野芒文四方平鉢」は表に厚く長石釉を掛けて純白の表情をさせていますが、よく見ると釉薬の薄い部分からは鼠志野的な表情も見つけることが出来ます。裏は真逆の激しい赤い土見せとしています。桃山期の志野にはよく小さな足が付けられているのですが、このうつわには足も高台もつけずに焼いています。裏の四方の角近くに焼成時の目跡(土で作った支えを用いた跡)を見ることが出来ます。 「志野さけのみ」は「絵志野芒文四方平鉢」の表面のように厚く均一に長石釉を掛けず、斑(むら)が出るような掛け方をしています。かといって鼠志野の仕上がりでなく、赤志野の仕上がりです。赤志野と鼠志野は作る手順は同じだそうですが焼き上がりの景色で呼び分けをするようです。 魯山人は、もっと長石釉が薄くかかり赤が強く出て、カリカリに焦げたように焼きあがった「紅志野(べにしの)さけのみ」も作っていますが、ちょうどこの「志野さけのみ」の底面のような色合いと風合いです。魯山人と志野3料理編につづく
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2021.02.26
魯山人と志野1
今回は「志野」のなかでも魯山人の器に特化して梶さんにレクチャーいただき、京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理をおつくりいただきました。「魯山人の志野」の解説については、魯山人と志野1「魯山人と志野について」魯山人と志野2「作品解説」の2回に分けて配信いたします。魯山人がつくる「志野焼」の魅力をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。魯山人の志野 白色の陶磁器は古来より人々の憧れの的でした。江戸初期の1614年に日本初の磁器が伊万里で生産されるまでは、それ以前の白い国産の陶磁器として唯一のものは、桃山時代に焼かれた志野でした。 毎月ならば、ここで志野についての様々な基本情報をお話しするところですが、そうすると情報量が多すぎて、お話の展開が複雑になり過ぎる心配があります。今回は北大路魯山人の志野に焦点を当てていますので、魯山人の人物に沿った形で志野のお話を進めさせていただくことにしました。 魯山人は歴史上、この志野という焼き物と最も縁の深い人物と言って良いのかもしれません。 幕末から明治維新の動乱期を過ぎ、近代化が進む日本の中で、次第に時代の牽引役は武士に代わって経済人たちが引き受けるようになります。それと同時に、彼らは数寄者としての側面でも、没落する大名家や武士階級から引き継ぐように、茶の湯や美術の世界に再び明かりを灯します。このことは人々の古陶磁器への鑑賞熱を高める役目を果たします。 昭和2年、魯山人は陶磁器研究家の案内で瀬戸地方にあった30を超える窯跡の試掘を行い、古陶磁器の研究に取り組みます。しかし、その試掘ではめぼしい陶片を発見できず、彼が望んだような成果は得られませんでした。 「瀬戸黒」や「黄瀬戸」という名前が指し示すように、それらは昭和2年の時点では瀬戸で焼かれたものと考えられていました。それ故、本当は美濃で焼かれていた志野や織部も、「瀬戸黒」や「黄瀬戸」に続いて瀬戸で焼かれたものだと思い違いされていたので、魯山人が行った試掘でこれらの陶磁器に関わる発見が見つかるはずはなかったのです。 そして昭和5年のことです。魯山人は共に仕事をしていた荒川豊蔵(後の人間国宝)を伴って、名古屋で開催した「星岡(ほしがおか)窯主作陶展」へ出向きます。そして名古屋滞在中、この地の名家の関戸家から、「玉川」という筍の描かれた志野茶碗の名品を借り受けて、鑑賞する機会を得ます。当時この二人は志野焼に心を強く惹かれており、魯山人は「古伊賀・古志野は、日本が生んだ純日本的作風を有することが、第一の権威に値する」と高く評価し、「室町・足利時代の絵画や彫刻に匹敵するほど、ゆるゆるした良い気持ちで見ることができる」とも述べています。また、朝鮮の茶碗に比べても遜色なく、光悦の作品に先駆けるものだと恋い焦がれるようでもありました。 そのような状態でありましたから、魯山人と豊蔵は借り受けた志野焼を目の前にして、時の経つのも忘れて語り合ったそうです。荒川豊蔵は、それから寝床に入った後も眠りに落ちることができずにいました。そして数年前に美濃の窯跡を調べ歩いた時に、たまたま拾った織部の陶片のことを思い出し、いてもたってもいられなくなり、翌朝、魯山人にそのことを話し、早速美濃に出かけることにしました。 この時、普段は金銭的に渋い魯山人も珍しく調査費用を持たせてくれたそうです。美濃では、付近の村人たちに窯跡を尋ね歩き、草むらに分け入って陶片を探したそうです。そしてついに黄瀬戸と鼠志野、そして偶然にも前夜に魯山人と眺めた関戸家の「玉川」と同様の絵付けをされた、志野の向付の陶片を探し当てました。この大発見に豊蔵はしばらく呆然として動くことすらできなかったそうです。そして電報で魯山人に報告し、付近の農家に一週間ほど泊まり込んで捜索を続けました。 この大発見と共に持ち帰った陶片は、魯山人を狂喜させました。改めて魯山人と豊蔵は、人手を揃えて計画的な発掘を行うため美濃へ出向きます。そして、さらに多くの陶片を発掘し、すかさず鎌倉に魯山人が開いた星岡窯に人々を招き、これらの陶片を披露します。 さらに魯山人が営む東京の料亭の星岡茶寮においても、その成果を披露するための会を大々的に開催することとなります。この時になると、この大発見はすっかり魯山人の手柄であるかのように広告されるようになり、魯山人はより詳しい発掘調査にも乗り出し、その成果を文章でも発表するようになります。自分こそが功労者だという自負がある荒川豊蔵は、これらのことに強く抗議をしたようです。しかし、このことを魯山人はアメリカ大陸発見に例えて、「コロンブスは俺で、豊蔵は水夫だ」と語った記録が残されています。 志野という焼物に取りつかれ、その正体を明らかにした最大の功労者が、魯山人であるのか、荒川豊蔵であるのかは一旦脇に置いて、この先、活動を分かつ二人ではありますが、両名とも志野が自らの代表作と呼んでいいほどに極め、数々の名品を世に送り出すことになるのです。 魯山人の志野の作品は、一見、桃山時代の古陶への回帰を思わせる出来栄えです。しかし、実際には彼独自の新しい試みが随所に見られ、そのことが他の陶芸家の模倣を許しません。魯山人は彼の陶芸家としての活動の中で、特に長きに渡って志野を焼き続けています。 当初は当たり前に鉄分の含有量も少なく、白い美濃のもぐさ土をなんの疑いもなく使っていましたが、より鉄分を含み、火色が赤く出やすい信楽の土を用いるようになっていきます。信楽の土は、そのきめ細やかさから強い粘り気を持ち、成形しやすかったのです。もぐさ土を用いた桃山時代の志野は、ほんのりと桜の花のごとく赤味がにじむ程度ですが、魯山人の志野は、信楽の土を用いて研究を重ねるにしたがって、強く赤い鉄錆色を効果的に用いるようになります。 現代の志野焼の陶芸家の多くは、強い赤や鉄錆色と長石の純白との色の対比を、その表現の主軸に置いています。いまになって振り返ると、魯山人はこの表現の先駆者であったように思えます。しかしそこには、彼の厳格な決まり事や節度があったように思えてなりません。 現代の志野の作品は、赤と白が強烈に対峙しあい、色に加えて造形的にも主張が強すぎるため、道具やうつわではなく、鑑賞目的のオブジェであるかのようになっていると感じるのは私だけでしょうか。「うつわは料理の着物」と語っているように、あくまで主人公は料理であることを忘れないよう、魯山人は桃山時代の志野を自身の手で進化させていたようです。魯山人と志野2につづく
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2021.02.01
信楽焼3
今回は「信楽焼」の器について梶さんにレクチャーいただき、京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんに料理をおつくりいただきました。佐々木さんの出身地滋賀の焼き物「信楽焼」に、どんな料理を盛りつけるか。上品でありつつも躍動感のある佐々木さんの美しい料理をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。信楽焼と日本料理杉本貞光氏作の信楽長方鉢信楽焼のなかでも、茶席で使いたくなる品格ある作風の人もいます。杉本貞光氏がそうです。自然釉がかかっていない部分は明るいオレンジ色が出ています。これを信楽では火色と呼ぶそうです。このオレンジ色の部分がこげ茶色に発色することもあるようですが、それは粘土に含まれる鉄分の加減と陶芸家の窯の操作によって生み出されるようです。信楽焼の自然釉は、緑色を帯びたガラス状に結晶するため、ガラスを意味するポルトガル語のビードロと呼ばれます。 信楽焼2より風干し鰯の炙りと鯛の奉書巻「信楽焼は、私の出身地滋賀県の焼き物です。今回、どんな器に料理を盛らせていただくかと考えたとき、まず信楽焼をと思いました。 この器は梶さんの解説にもあるように上品な作風です。一年の最初を祝う、節分のお料理を盛るのに最適だと感じました。 節分といえば、鰯と大豆。鬼は鰯の匂いを嫌うことから、鬼を追い払うために、節分の日には鰯を焼き、頭は柊の枝に刺して、戸口にかけておくという風習があります。 今回は風干しした鰯を炙ったものと鯛の子の奉書巻を用意しました。豆まきに用いる福豆を散らし、この器の美しさを引き立てる柊の実を飾りました。」佐々木さんこれは辻清明作氏の信楽窯変盤です。彼の活動拠点は信楽ではなく東京であったため、信楽に住み、信楽の空気を吸っている陶芸家の作品とは異なる趣を持っています。中央に真紅の火色を出すことに成功していますし、そこから横方向に引っ掻いたような激しい線で中央が爆発しているように演出された、エネルギッシュな作品になっています。側面に刻まれた波模様も現代的なセンス溢れる作品です。風炉の敷板にも使えそうな大きな盤だけに、うつわとして使うと迫力があります。信楽焼2よりまながつおの味噌漬け 大根と蕪、胡瓜の酢の物 「この変盤を最初に見た時、中央の深紅の火色がポイントだと思いました。 ですから、中央には何も盛らず、皿として見た時にも作品の迫力を伝えることができればと思いました。 器自体がそれだけで絵画のように美しい。赤の部分をできるだけ残して、その赤色に添うような、黄色の料理を盛りつけると決めました。 手前にはまながつをの味噌漬け。奥には、味噌漬けを食べた後に、口の中をさっぱりとさせてくれる、大根と蕪の酢の物。黄味酢を散らして彩を添えるとともに、躍動感を表現しました。」佐々木さんこちらは北大路魯山人の信楽の茶碗です。茶碗に料理を盛るなどけしからん、と叱られそうですが、桃山時代の古信楽には、複数の人で取り廻す盛り鉢はあっても、ひとりの人が直接口をつける様な茶碗や向付はほとんど存在しません。信楽焼の特徴を「自然釉を使った焼物」と考えるならば、釉薬の掛かっている方向は正面のみのはずですが、この茶碗は45度斜め方向からも釉薬の痕跡が見受けられます。その不自然さから、魯山人自らが作為として釉薬を掛けて景色を演出したことがわかります。高台を低く小さく削り出し、高台脇を水平に整えた、手のひらに収まりの良い円筒形の茶碗です。魯山人の茶碗は、食器に比べると気のないような作品も多く見られるのですが、この茶碗は気持ちの入った作品に仕上がっていると思います。 信楽焼2よりお碗代わりの温菜(クエの葛うち、胡麻豆腐、金時人参、うぐいす菜、黄柚子)「贅沢にも魯山人作の茶碗を使わせていただきました。深みがあるので、お碗に見立て、クエや胡麻豆腐とともに冬の京野菜、金時人参やうぐいす菜を盛り込みました。 覗き込んだときに、上品な色彩が目に入ってくるよう、白、緑、赤、黄色をバランスよく盛り込んでいます。 寒さ厳しい2月に味わっていただく雪中仕立て。温かさがじんわりと体に染みわたるお料理です。」佐々木さん祇園 さゝ木味はもちろんこと空間や劇場型のもてなしまですべてが「ほかにはない」と評され人気を博す京都を代表する料理店。店主の佐々木浩さんは、客を驚かせ喜ばせる達人で常に新しい料理を模索して作り上げる。その日仕入れた筍や鮑をピッツアの石窯で焼き上げ、洋テイストの味わいに仕上げるなど、従来の和食の範疇を超える料理も多い。客前で生きた蟹をさばく、鮨を握って手渡すなど躍動感ある演出もこの店の魅力。グループ店に割烹形式で一品料理を味わえる『祇園 楽味』、さゝ木の料理と鮨の両方を味わえる『鮨 楽味』、洋食など酒に合う料理で飲める『食ばあー楽味』がある。■祇園 さゝ木京都市東山区八坂通り小松町566-27電話:075-551-5000営業時間:12:00~14:00、18:30~いずれも一斉スタート土曜 17:00~、19:30~一斉スタート定休日:日曜日、第2・第4月曜日、不定休あり■祇園 楽味京都市東山区祇園町南側570-206電話:075-531-3773営業時間:終日2部制第1部17:30~20:20(最終入店18:30)、第2部20:30~23:00(最終入店21:30)定休日:日曜日、第2・第4月曜日、不定休あり■鮨 楽味電話:050-5597-8015営業時間:第1部17:00~、第2部19:30~ 一斉スタート定休日:日曜、第2・4月曜
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BLOGうつわ知新
2021.01.31
信楽焼2
今回は「信楽焼」の器について梶さんにレクチャーいただき、京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理をおつくりいただきました。「信楽焼」の解説については、信楽焼その1「歴史」信楽焼その2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。「信楽焼」の歴史や世界観をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。 まずご紹介するのは、杉本貞光氏作の信楽長方鉢です。 信楽焼は本来焼き締めの陶器ですから、野趣あふれる姿がその見どころと思われがちです。ところが陶芸家によっては、荒々しい野趣が際立つ作風の人もあれば、茶席で使いたくなる品格ある作風の人もいます。その違いを、陶芸家はどのようにして作り分けられるのか、私はまだ見出せていませんが、この杉本貞光氏は後者の人です。 自然釉がかかっていない部分は明るいオレンジ色が出ています。これを信楽では火色と呼ぶそうです。このオレンジ色の部分がこげ茶色に発色することもあるようですが、それは粘土に含まれる鉄分の加減と陶芸家の窯の操作によって生み出されるようです。 信楽焼の自然釉は、緑色を帯びたガラス状に結晶するため、ガラスを意味するポルトガル語のビードロと呼ばれます。 これは辻清明作氏の信楽窯変盤です。彼の活動拠点は信楽ではなく東京であったため、信楽に住み、信楽の空気を吸っている陶芸家の作品とは異なる趣を持っています。中央に真紅の火色を出すことに成功していますし、そこから横方向に引っ掻いたような激しい線で中央が爆発しているように演出された、エネルギッシュな作品になっています。 側面に刻まれた波模様も現代的なセンス溢れる作品です。風炉の敷板にも使えそうな大きな盤だけに、うつわとして使うと迫力があります。 続いてご紹介するのは、北大路魯山人の信楽の茶碗です。茶碗に料理を盛るなどけしからん、と叱られそうですが、桃山時代の古信楽には、複数の人で取り廻す盛り鉢はあっても、ひとりの人が直接口をつける様な茶碗や向付はほとんど存在しません。 信楽焼の特徴を「自然釉を使った焼物」と考えるならば、釉薬の掛かっている方向は正面のみのはずですが、この茶碗は45度斜め方向からも釉薬の痕跡が見受けられます。 その不自然さから、魯山人自らが作為として釉薬を掛けて景色を演出したことがわかります。高台を低く小さく削り出し、高台脇を水平に整えた、手のひらに収まりの良い円筒形の茶碗です。魯山人の茶碗は、食器に比べると気のないような作品も多く見られるのですが、この茶碗は気持ちの入った作品に仕上がっていると思います。 何度も申し上げているように、桃山時代に作られた焼き締めの茶碗はほとんど存在しません。それ故に、もし、古い信楽の茶碗に出会えたなら絶対購入しようと、いつもアンテナを張っていましたし、幾度か手に入れてみたこともありました。 しかしそれらの茶碗を自分の所有物として眺めているうちに、メッキが剝がれるように時代の若さが見えて来て、ガッカリさせられてばかりでした。 この茶碗は1800年代半ばに活躍した表千家10世家元の吸江斎が「信楽新焼茶碗」と最初から箱に記して「山猿」の銘を与えています。つまり自ら、桃山以降の茶碗だと名乗っている茶碗です。とても固く焼きしまっていますので相当な熱量をかけたことが想像されます。自然釉の景色は見られませんが、備前の火襷の景色のように、赤い火色が複雑に絡みついたような焼き上がりです。高台は低く広く、荒々しく削り出してあり、畳にどっしりと座る姿をしています。山猿として野山を駆け回って暮らしている躍動感と筋肉感に溢れた作品です。その魅力を作り手の作為として訴えてくるところが桃山時代の作品らしくないところです。 美を積極的に創り出すことに成功していることが、まさに新しい時代の感性なのだと思います。「作品なのか」「道具なのか」、そういう観点でいうならば、桃山の作品は、作品である前にまず道具であると言えるでしょう。 作品としての作者の作為は、その道具の後ろに息をひそめて隠れているものだと思っていますが、新しい時代のものであるが故、この茶碗は作者の作為が隠れきれず、激しい削りの姿になって見えているのです。難しい話をしましたが、それでも唸るほどに魅力ある茶碗です。左)杉本貞光作 蹲花生、 左手前)信楽新茶碗 銘山猿、右手前・奥)北大路魯山人作 信楽徳利、右)信楽水指 写真の左手前は、すでに解説をさせていただいた信楽新焼茶碗「山猿」です。その右隣と奥にある徳利は北大路魯山人の作品です。 この徳利は未使用であるためか、まだ糊のきいた白いワイシャツのようで柔らかさがありません。いつの日かお酒好きの誰かが、たっぷりお酒を吸った肌に仕上げてくれるのを期待しています。 魯山人は信楽焼の作品を作るときに限らず、好んで信楽の陶土を用いていることは以前にお話をしたと思います。私は信楽に足を運んで陶芸家とお会いする度に、魯山人の足跡を尋ねるのですが、いまだにそのことをご存じの方に出会うことがありません。 相当な量の信楽の土を使い、作品も数多く残っていることから、誰かが焼き方を指導したり、土の手配をしたりしていたはずです。たかだか60年ほど前にはこの世に暮らしていた人物です。ぜひ信楽での彼の足跡を探し当ててもらいたいと思います。 写真右端は信楽の細水指です。赤みのさした素直な景色がいかにも信楽的ですが、これが伊賀であったなら、複雑に厚くビードロをかぶり、どうだ!と言わんばかりの主張があるでしょう。下部が黒くなっていますが、これはこの部分が灰に埋もれた状態で焼きあがったことで生まれた景色です。 写真左端は杉本貞光氏作で、蹲(うずくまる)と呼ばれる花生です。人がうずくまったような形に見えることからその名があります。肩のところに施された桧垣(ひがき)模様が信楽独特のものです。桧垣模様は古典作からずっと見られる文様です。信楽は肌が明るい色なので、花を生けるととても華やぎます。詫びていながらも華やいだ空気感を出せるのも信楽の特徴だと思います。信楽焼3につづく今月の記事を書き上げるのに際して、信楽の上田直方ご夫妻には沢山のご指導を賜りました。この場をお借りして感謝申し上げます。
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2021.01.30
信楽焼1
今回は「信楽焼」の器について梶さんにレクチャーいただき、京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理をおつくりいただきました。「信楽焼」の解説については、信楽焼1「歴史」信楽焼2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。「信楽焼」の歴史や特徴など世界観をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。信楽焼1 大学を卒業後、サラリーマン生活をスタートさせた私の最初の担当地域は、信楽を含む滋賀県の甲賀地域でした。そのお陰で、数えきれないくらい信楽へは通わせていただきました。 お出かけになった方もおいでになるでしょうが、信楽は山間部に開けた高原盆地で、いまでこそ高速道路が開通し便利になりましたが、以前は宇治、草津、伊賀、水口(みなくち)など四方に隣接するどの町からでも、山道をクネクネと車で30分以上登らなければなりませんでしたから、信楽が営業担当地域に入っているだけで、仕事上では随分と負担になったものです。 社会人駆け出しの私は、与えられた仕事をどうにかこなすことに精いっぱいで、信楽の町の事に興味を持って、学ぶ余裕もありませんでした。ですから、奈良時代に紫香楽宮(しがらきのみや)が造営され、甲賀寺(こうがでら)という古代寺院が存在したことについて調べようと思ったこともなければ、その遺跡の横を幾度通り過ぎても、車を停めて眺める余裕すら持ち合わせていませんでした。 いまさらながら、山間の盆地に都を造営しようと試みた理由を信楽の人たちがどう考えているのか尋ねてみたところ、奈良へ行くにも京都へ出るにも、あるいは伊勢方面や名古屋へ向けて行くにも、それぞれの方向へ山を下っていけば、同じくらいの時間で到達できる要の位置にあるのが信楽なので便利だったのだろうと言うことでした。 ずいぶん昔に読んだ本の中に、信楽焼の起源について記されたものがありました。信楽から山を下った琵琶湖の南部、水口(みなくち)地区や甲南(こうなん)地区に須恵器の窯が存在し、それらの職人が更なる陶土や窯の燃料を求めて、信楽の山を登り、移って来たのではないかと記載されていました。そして、そのやきものを用いて紫香楽宮や甲賀寺の屋根瓦なども製造し、そこからの技術発達が現在の信楽焼に続いているのだと解説されていました。 ところが、近年の第二名神高速道路の建設に先駆けて行われた建設予定地周辺の発掘調査の結果、古信楽焼の窯跡から見つかったのは古常滑焼の影響を強く受けた陶片だったのです。つまり奈良時代に焼かれていた須恵器が発達して、現在の信楽焼に繋がったのではなく、平安後期の12世紀頃、誰かが計画的にこの信楽に焼物産業を立ち上げる目的で、常滑からの技術を導入したのだということが明らかになってきたのです。その際、信楽の地が選ばれた理由は、先にもお話した上質な陶土を産出し、豊富な燃料を確保でき、各方面の消費地へのアクセスが容易な街道の要に位置していると言うことだったと考えられているのです。 火山列島の日本は、陶土の原料となる花崗岩(かこうがん)に恵まれています。花崗岩は地下深いところで溶岩がゆっくりと凝固したもので、長石(ちょうせき)・珪石(けいせき)・雲母(うんも)などの小さな結晶体が集って出来た岩石です。これが風化して、微細な砂となり、地殻変動によって地表近くに現れて来ます。それが雨に流されて古代の琵琶湖の底に堆積し、動植物の死骸などの有機物と混じり合いました。やがてその地層が隆起し、その上に生えた苔や植物、朽ちた木々などとも混ざり合って、気の遠くなるような時間を経て、焼物に適した粘り気やコシのある信楽の土になったのです。 信楽焼を語るとき、ひとつ紛らわしい存在があります。それは信楽から峠ひとつ隔てた土地で生産された伊賀焼です。私も信楽焼と伊賀焼の見分けがつくような気になるまで、随分時間を要しましたが、それでも自分の見解が正しいかどうか怪しいと思っています。しかし、信楽焼を語るうえで、この違いを語ることは避けて通れないことなので、私の考えをお伝えしようと思います。正しいかどうかということよりも、ひとつの考え方として参考にしていただければ幸いです。 今月の解説を書き始める前に、実際に信楽に赴いて学び直す必要があると感じた私は、信楽焼茶陶の第一任者の6代目上田直方氏を訪ねることにしました。氏とは知り合って30年近くなりますが、その変わらないフレンドリーな人柄に甘えて、奥様も交えて多くのお話をお聞かせいただきました。わざわざ足を運んで、経験を通して学ぶことの大切さを改めて感じる時間でした。 まず、古信楽焼と古伊賀焼の土は違うのだろうかと言う問題から始めましょう。私は以前、このことを調べたとき「両者は土が違うのだ」として、細かく研究されている文献に出会いました。その詳細な調査資料から、私は「両者は土が違うのだ」説を支持してきました。 しかしそれ以降、展覧会や茶会、オークションで出会った古信楽と古伊賀から「なるほど両者は土が違う」と感じたことはありませんでした。このことを上田直方氏にぶつけたところ「両者の土が異なっていると言うより、採取した場所や深さが少し違えば、土は異なるのです。また、粘土として使える状態にするまでに、石や不純物を取り除いたり、異なる土とブレンドしたり大変な労力が必要なのです。」と教えていただきました。 どこの産地でも当たり前のことですが、採集後に土は陶芸家のイマジネーションを以て粘土へと作り上げられているのです。作品に込められる作家の作為(さくい)は、この土を掘って、粘土へと整える段階から始まっていることに改めて気付かされました。 信楽焼は焼きあがった表面に多数の長石の石粒を見ることが出来ますが、これは作家が粘土を作るときに調節して混ぜているのだと思っていましたが、その逆で沢山の石粒を取り除いていることを教えていただきました。そしてこんな根気のいる作業は、奥様が担当されているともお話しいただきました。また石だけでなく枯葉や枝などの木屑などが適度に取り除かれていなければ、作品を破損させ、水漏れの原因にもなるのだそうです。そういった石や不純物は、焼き物の景色になるので、歓迎されるものだと思い込んでいましたが、何事も頃合いが大事なのですね。 このように粘土が、人の手によって調節されていることと、採取する場所の加減で土は容易に表情を変えるものだとすれば、同じ山の峠を挟んで異なる斜面から採取されたことだけで信楽焼と伊賀焼を区別できるのだと思い込むことはナンセンスですね。 ちなみに水をつかって粘土の粒子を整える水簸(すいひ)と呼ばれる作業を信楽では行わないのだそうです。粘土の粒子が細かく整うと、信楽焼の野趣が消えてしまうというのが理由だそうです。 次に窯の話ですが、信楽焼は一度の焼成、伊賀焼は複数回焼成されることで区別するという話です。私は、これが信楽焼と伊賀焼の決定的な違いだと思っていました。一度焼きの信楽焼は、表面に付着している長石の石粒も、焼成後も石粒としての原型を留めているし、窯の中で舞い上がった灰が表面に付着して流れ現れる自然釉の景色にも複雑さが見られません。 片や伊賀焼では表面の長石の石粒は度重なる焼成のため溶けているし、自然釉も幾度も被ることで厚く複雑な景色を見せて、時には炭化した燃料が付着して黒く焦げたような部分まで見受けられる。これをもって両者を区別することが、私を含め多くの皆さんの考え方だと思っていました。 ところが、そのことを区別する決定打だと思うのも違うのではないか、と上田氏は教えてくださいました。信楽焼でも複数回焼成するケースもあるのだそうです。 氏がそのあと続けてお話になった「伊賀は信楽に比べ、執念深く数寄者の意向を反映させた焼物ではありませんか」という言葉は、両者の違いスッキリさせてくれる表現だと思いました。確かに信楽焼は茶道具だけではなく、様々な日用品を手掛けてきた歴史があるので、土味で魅せる以上のことに執着が少ない。ところが伊賀焼は茶道具専用の窯のような出発点なので、数寄者のこだわりが執念のように、その複雑な形や景色に表現されている。これは感性の違いを両者の国境線としたお話なので、焼物を長く見てきた人にしか伝わらないかもしれませんが、このことをお伝えきることが今回の収穫だと思います。 よく「花生で耳の無いのが信楽焼で、伊賀焼には耳がある。」と言われていますが、これは傾向としては正しくても、実際に特徴として確かとは私には思えません。それよりも、数寄者のこだわりで区別することの方が私は納得できるように思えます。 現在において、信楽も伊賀も堂々たる焼き物の産地でありますが、実は伊賀焼は、開窯の時期もはっきりとはわかっていません。 恐らく1580年頃から茶会に登場するようになり、1630年頃にはその活動を終えたのではないかと考えられており、そして100年強の時を経て、1750年頃に再興されたことになっています。そして再興された伊賀焼は、焼き締めの窯ではなく釉薬を掛けて焼いた施釉陶をその主流として現在に至っているのです。 茶の湯の道具に軸足を置いて、信楽と伊賀を見た場合、どちらも釉薬を掛けず焼成する焼き締めと言われる焼物だと思ってしまいます。 ところが上田直方氏の奥様が奇妙なお話を聞かせてくださいました。上田家は信楽の職人の中では変わり者で、焼き締めの茶陶の作品を作り続けている家は、以前は2軒くらいしかなく、多くの窯元は「信楽の土は良質なので、どんなものでも作れる」と言うアドバンテージを利用して、火鉢・植木鉢・風呂釜・狸の置物などを作って日本の市場を席巻したそうです。この陶磁器産業とも言うべきものが信楽を潤したため、茶陶の仕事は決して信楽の代表的な焼物とは言えないのだそうです。その結果、ここ信楽においても伊賀と同じで、焼締めではなく施釉の陶器が主流となってしまっているのです。 私は古美術商という職業柄、信楽焼も伊賀焼も等しく釉薬を掛けない焼き締めの陶器だと思っていますし、ほぼそれしか取り扱っていません。そして以前にもお話ししましたが、古い時代に作られた焼き締めの陶器は、直接口をつけるようなうつわ類である、茶碗・向付・飯碗・銘々皿等はほとんど存在しません。そんなことから、今回もうつわとしてご紹介出来た信楽焼は現代陶の杉本貞光氏の作品だけでした。 しかし、いまの信楽は、陶磁器の制作環境が整っていることから、国内だけでなく世界中からアーティストが集まる町になっています。そして伝統的な美しい茶陶の作品に留まらず、モダンアートと呼んで良いような良質な作品までもが、バランスよく生み出される町だと言えます。MIHOミュージアムや陶芸の森美術館などにも立ち寄れば、浸るように美術と接することができるでしょう。素晴らしい信楽焼に出会いにお出かけください。信楽焼2につづく今月の記事を書き上げるのに際して、信楽の上田直方ご夫妻には沢山のご指導を賜りました。この場をお借りして感謝申し上げます。
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BLOGうつわ知新
2020.12.30
永楽3
今回は「永楽」の器について梶さんにレクチャーいただきました。今回は、それらの器に京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理を盛りつけていただきました。「永楽」の世界観と見事な料理のコラボレーションを堪能ください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。永楽に新春の料理を盛る2021年、最初のお料理は、「祇園 さゝ木」佐々木浩さんにお願いしました。食材の持ち味をとことん引き出す独創的な料理で知られる佐々木さんが、新春の料理を永楽に盛り付けたらどのような表現になるのか。誰もが見てみたいと願う「さゝ木の料理」を披露します。うつわの形や色柄などを見極め、盛り付けられた料理はアートのような美しさです。16代 永楽即全造 仁清写双鶴向付 この向付は、向鶴(むかいづる)或いは、菱鶴(ひしづる)向付とも呼ばれていて、表千家7世如心斎(じょしんさい)の「好(このみ)」となっています。大概のうつわは「めでたさ」を表現しているのですが、このうつわは赤を用いることで強くそれを印象付けています。また赤が艶消しの釉薬になっていて、とても洒落た演出になっています。 16代の永楽即全の作品ですので、絵付けも整っており、ある意味機械で生産したような几帳面さのあるうつわです。それは私たち現代人が、個々の異なる魅力より、均一に整っていることが高い品質だと思い、それを求めた結果だと思っています。私はこの均一であることの「そろいの美」は、15代正全と16代即全のこだわりであり魅力でもあると同時に、面白くない部分でもあると思っています。永楽2より新春の口取り「祇園さゝ木では、お正月料理はお客様におだししていません。それというのも、みなさんご自宅や他のお店で、十分にお正月のお料理を召し上がっていらっしゃるだろうと思うからです。 "そろそろ正月料理に飽きていたから、こんな料理が食べたかった"と言っていただくのが私の願いです。今回は由緒正しい永楽のうつわを1月にご紹介するとお聞きし、新春を寿ぐ料理にしたいと思いました。『祇園 さゝ木』、『祇園 楽味』、『鮨 楽味』3店の合作料理をご覧ください。 私が調えたのは、新春の「口取り肴」です。口取りは、新春のお祝いの席や饗膳などの最初に出す、いわゆる酒の肴。朱色の地に鶴が羽ばたくこの向付皿を拝見した時、上品な肴を盛るのにぴったりだと思いました。黒豆、サーモンの砧巻、金柑いくら、車エビ塩ゆで、ふくさ玉子、鯛竜皮巻、紅白ちょろぎを彩よく盛り付けています。料理を盛ることで、うつわの美しさや品格がさらに際立ちます。」『祇園 さゝ木』佐々木浩さん14代 永楽妙全造 赤絵福字中皿 見慣れた呉須赤絵図柄でもありますから、このうつわだけを見ていてもなんら特別な印象はありませんが、いざ料理を盛ってみると、華やぎを与える素晴らしいうつわです。 明時代の漳州窯(しょうしゅうよう)の本歌の御須赤絵は、この写真の作品よりもっと筆が走っているために、やや雑な印象を与える絵付けですが、そこがこのうつわの面白さでもあります。 永楽妙全の作品の多くも、少し筆の暴れや金彩がかすれていく、うつわ個々の風情を楽しませようとする狙いが隠されているようです。このやや乱暴とも言えるような個々の面白さ、言うなれば「不揃いの美」のような感性を、この妙全の頃までは、積極的にうつわの中に盛り込んでいるようです。ここに「揃いの美」が好きか「不揃いの美」が好きかの好みの分岐点がありそうです。永楽2より「赤絵の福字皿ということで、ふく(ふぐ)を盛らせていただきました。赤、緑、金という文様の色目に合わせ、白身のふく、緑のあさつき、琥珀色のぽん酢のジュレと決めました。繊細な絵柄を邪魔しない料理で、この皿の美しさを引き立てたいと思ったのです。 皿のなかほどにふぐを厚めに切ったふぐぶつを盛り付け、ポン酢のジュレをかけてあさつきを添えました。食べ進むと、白子やてっぴなども身の下に潜んでいます。 そして、最後のひときれを食べると、その下から福の文字が現れる。食べてふくの美味しさを感じ、観て華やかな気持ちになる。新春を祝う一品です。」 『祇園楽味』水野隆弘さん14代 永楽妙全造 染付飛鶴絵重 塗り蓋宗哲 私がこの重箱を扱うのはこれで3度目ですが、この重箱が今の時代に残されている数を考えると、極めて異例の多さだと思います。同素材で作られた共蓋の他に、特別に中村宗哲作の塗り蓋が添えられ、その塗り蓋には表千家12世惺斎の花押(かおう)が入れられていることは、この重箱がお家元の好(このみ)に近い形で、極めて限定的に作られたものだったと言うことを示いると思うからです。 この表千家12世惺斎は14代永楽妙全と15代正全の活動を支えたようで、彼らの作品に度々箱書きを行っています。永楽2よりにぎり鮨とちらし寿司「永楽妙全作ということに加え、表千家12世惺斎のお好みだとお聞きし、緊張感をもって臨みました。上段には、鮪、蟹、烏賊、こはだ、鯛、車海老、穴子、鯖きずしのにぎり。彩よく盛ることはもちろんですが、空間の美しさも生かしています。下の段には、普段、店ではおだししていないちらし寿司を盛り込みました。鮪、烏賊、サーモン、車海老、穴子、玉子、いくらという豪華なネタに加え、お正月らしい、黒豆や甘酢レンコン、赤と黄色のとびこなどを飾っています。たとえば、ご家族でこのお重を開いていただくとして、蓋をあけると豪華なにぎりが並んでいる、さらにその下には彩豊かなちらし寿司が盛り込まれている。見たとたんに心が華やぐ場面を思い浮かべ、作らせていただきました。」『鮨 楽味』野村一也さん祇園 さゝ木味はもちろんこと空間や劇場型のもてなしまですべてが「ほかにはない」と評され人気を博す京都を代表する料理店。店主の佐々木浩さんは、客を驚かせ喜ばせる達人で、常に新しい料理を模索して作り上げる。その日仕入れた筍や鮑をピッツアの石窯で焼き上げ、洋テイストの味わいに仕上げるなど、従来の和食の範疇を超える料理も多い。客前で生きた蟹をさばく、鮨を握って手渡すなど躍動感ある演出もこの店の魅力。グループ店に割烹形式で一品料理を味わえる『祇園 楽味』、さゝ木の料理と鮨の両方を味わえる『鮨 楽味』、洋食など酒に合う料理で飲める『食ばあー楽味』がある。■祇園 さゝ木京都市東山区八坂通り小松町566-27電話:075-551-5000営業時間:12:00~14:00、18:30~いずれも一斉スタート土曜 17:00~、19:30~一斉スタート定休日:日曜日、第2・第4月曜日、不定休あり■祇園 楽味京都市東山区祇園町南側570-206電話:075-531-3773営業時間:終日2部制第1部17:30~20:20(最終入店18:30)、第2部20:30~23:00(最終入店21:30)定休日:日曜日、第2・第4月曜日、不定休あり■鮨 楽味電話:050-5597-8015営業時間:第1部17:00~、第2部19:30~ 一斉スタート定休日:日曜、第2・4月曜
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