うつわ知新
うつわと料理は無二の親友のよう。いままでも、そしてこれからも。新しく始まるこのコンテンツでは、うつわと季節との関りやうつわの種類・特徴、色柄についてなどを、「梶古美術」の梶高明さんにレクチャーしていただきます。
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2020.12.28
永楽2
今回は「永楽」の器について梶さんにレクチャーいただき、京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理をおつくりいただきました。「永楽」の解説については、永楽1「歴史」永楽2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。「永楽」の世界観をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。永楽16代 永楽即全造 仁清写双鶴向付この向付は、向鶴(むかいづる)或いは、菱鶴(ひしづる)向付とも呼ばれていて、表千家7世如心斎(じょしんさい)の「好(このみ)」となっています。「好」というのは、それぞれ茶人の創意工夫によってデザインされ、職人に作らせたものを言い、この「好」として過去に作られた作品を16代永楽即全の解釈で再構築したものと言えるでしょう。大概のうつわは「めでたさ」を表現しているのですが、このうつわは赤を用いることで強くそれを印象付けています。また赤が艶消しの釉薬になっていて、とても洒落た演出になっています。 裏面は三つの足がついていて、その形状は桃山時代の織部や明の古染付向付に習っているようです。16代の永楽即全の作品ですので、絵付けも整っており、ある意味機械で生産したような几帳面さのあるうつわです。それは私たち現代人が、個々の異なる魅力より、均一に整っていることが高い品質だと思い、それを求めた結果だと思っています。私はこの均一であることの「そろいの美」は、15代正全と16代即全のこだわりであり魅力でもあると同時に、面白くない部分でもあると思っています。14代 永楽妙全造 赤絵福字中皿この作品は赤・緑・青の3色の色絵で表現されています。 見慣れた呉須赤絵図柄でもありますから、このうつわだけを見ていてもなんら特別な印象はありませんが、いざ料理を盛ってみると、華やぎを与える素晴らしいうつわです。 明時代の漳州窯(しょうしゅうよう)の本歌の御須赤絵は、この写真の作品よりもっと筆が走っているために、やや雑な印象を与える絵付けですが、そこがこのうつわの面白さでもあります。 永楽妙全の作品の多くも、少し筆の暴れや金彩がかすれていく、うつわ個々の風情を楽しませようとする狙いが隠されているようです。このやや乱暴とも言えるような個々の面白さ、言うなれば「不揃いの美」のような感性を、この妙全の頃までは、積極的にうつわの中に盛り込んでいるようです。10客組の向付で、ひとつひとつ出来が異なっていて、それをもしバラ売りすれば、出来の良いものから売れていきます。しかし出来が良いからと言って、機械生産したようなまったく同じ向付の10客揃いが面白いかと言えば、それは違うかもしれません。ここに「揃いの美」が好きか「不揃いの美」が好きかの好みの分岐点がありそうです。14代 永楽妙全造 染付飛鶴絵重 塗り蓋宗哲 私がこの重箱を扱うのはこれで3度目ですが、この重箱が今の時代に残されている数を考えると、極めて異例の多さだと思います。同素材で作られた共蓋の他に、特別に中村宗哲作の塗り蓋が添えられ、その塗り蓋には表千家12世惺斎の花押(かおう)が入れられていることは、この重箱がお家元の好(このみ)に近い形で、極めて限定的に作られたものだったと言うことを示いると思うからです。 この表千家12世惺斎は14代永楽妙全と15代正全の活動を支えたようで、彼らの作品に度々箱書きを行っています。左)15代 永楽正全造 仁清松竹梅小皿 右)11代 永楽保全造 安南焼 沓鉢 対照的な二つの作品を一枚の写真に収めてもらいました。 乱れのない繊細な筆遣いと豪華な金彩の絵付けを見どころにした、15代正全の小皿。歪んだうつわに仕上げ、上薬には全体に細かな貫入が入り、呉須の絵付けもややぼやけさせて、高台の畳付も意識的に荒く削り、高台内のベンガラの塗りにもムラ感を出す等、うつわ全体にわざと粗雑さを強調して、それを見どころに変えようとしている11代保全の安南焼沓鉢(あんなんやき くつばち)です。 保全は顧客の家で目にした焼物を忠実に写すことを心がけた結果、大変質の高いうつしものを残すことに成功していますが、それがこの鉢にも表現されています。ところがその傾向は世代を重ねるごとに薄れて、特に15代正全以降は忠実に写すことよりも、永楽家として本歌をどう解釈をして、どう永楽流の京焼に作り変えるか、ということに焦点を移して、作品作り進化させてしまっているように思います。その結果、乱れなく整った形と絵付けの綺麗さ(「揃いの美」)は、本歌の仁清を上回る緻密で整った絵付けとなり、それが永楽の魅力だと思わせる結果に至ったのだと思います。左)11代 永楽保全(善一郎)造 染付手塩皿 右)12代 永楽和全造 染付松皮菱小鉢 染付網目ニ魚の皿は、保全が近江の膳所(ぜぜ)の窯で焼いたものだということが、高台内の「於湖南永楽造」の銘からうかがうことができます。また、この作品の箱には永楽善一郎と記されてもいます。つまり息子と仲違いした保全が、京都を離れて膳所の窯で善一郎を立ち上げてから焼いた作品です。細やかな網目の絵付けを施しながら、なぜかその筆遣いで印判手(版を用いて転写する技法)の皿に見えるような技です。 もう一方は息子の和全の作品で、馬と鹿を交互に描き、縁には幾何学模様を施しています。この馬鹿の図柄は中国の故事に由来しており、紀元前200年頃、秦の始皇帝に使えた宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が権力を握っていく過程で、自らの力を試した逸話が残されています。側近一同の面前で皇帝に鹿を献上し、それを馬だと言い放って異議を唱える者を処罰したのです。この話が馬鹿の起源になったということです。そんな故事を江戸明治期の日本人は好んでいたのですね。どちらのうつわも白さの際立った素地に瑠璃色に近い発色の呉須で描かれて、幾何学門文を配していることから、祥瑞風のうつわの注文に応えたものでしょう。本歌に忠実に作ろうとしている姿が見えます。12代 永楽和全造 仁清翁様作写 茶碗 黒ノ七宝 「仁清翁様作写 茶碗 黒ノ七宝」と14代永楽得全が箱表に作品名を記しています。また箱裏にも「家父耳聾軒和全作次郎相違無之証、父在世之時仁清翁様作ナル黒おか禾本造之別而苦心之一種也」と記されております。 「永楽家の父 耳聾軒和全(じろうけんわぜん)の作に間違いありません その証は父が生前に仁清翁様(にんせいおきなさま)の黒をだすために 禾本(イネ科の植物)の大鋸屑(おがくず)を用いて苦労していたからです。」と言うような内容が書かれて12代和全の作品であることを極めています。 この文章から、12代和全は晩年聴力を失っていたこと、そのことから自らを「耳聾軒和全」称していたこと、仁清の窯跡の上に自分の窯を築いたことを縁と感じて仁清の作品の写しに精力を注ぎ込んでいたこと、「仁清翁様」と呼んで、家をあげてとても敬っていたことなどが読み取れます。私は、この茶碗をしばらく所有して、茶碗との対話をしてみました。 和全の真剣な取り組みがにじみ出たようなこの茶碗を、過去扱った永楽の茶碗の中で、最上の出来栄えだと思っています。この永楽和全より前の時代に、青木木米(1767年~1833年)という京都の名工がいました。彼も聴力を失い、自らを「聾米(ろうべい)」と称していました。このころの陶芸家は、耳を近付けて窯の温度を測っていたために耳を傷めたのです。※「永楽」料理回につづく
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2020.12.27
永楽1
今回は「永楽」の器について梶さんにレクチャーいただき、京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理をおつくりいただきました。「永楽」の解説については、永楽1「歴史」永楽2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。「永楽」の世界観をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。永楽 その歴史茶道具を中心に作品を生み出す陶芸家たちを茶陶(ちゃとう)の作家などと呼んでいますが、その茶陶の代表格といえば樂家と永楽家の両家と言えるでしょう。今回は、その一つの永楽家についてお話していきます。永楽家は本来の姓を「西村」と言い、代々の当主は「善五郎」を名乗り、その初代は室町時代の終わりに奈良の西ノ京に住まいしていました。永楽と名乗り始めるのはずっと後の幕末のころになってからで、春日社の供御器(くごき)と呼ばれる、神事に用いるうつわを作る職人であったようです。やがて二代目の頃、茶の湯が広く流行し、侘び茶(わびちゃ)を主導した武野紹鴎(たけのじょうおう)などから土風炉の注文を受けるようになると、堺に移り住みます。三代目の頃には千家からの注文も受け賜るようになり、住まいを京都へ移し、下京の六条東洞院(ろくじょう ひがしのとういん)に居を構え、さらに室町下立売(むろまち しもだちうり)に移り住んだと言われています。 その後も土風炉師の西村家は代を重ねますが、9代目の西村善五郎は技の継承もできぬまま、9歳の幼い少年(後の10代西村善五郎・了全)を遺して早逝してしまいます。この時の西村家は土風炉師であり、まだ様々な焼物を作っていたわけではありませんでした。この9歳の少年がその後の数年間をどのように暮らしていたのかを記した資料を見いだすことが出来なかったため、お話しできないのですが、彼が18歳になった天明8年(1788年)、京都を天明の大火が襲います。京都五花街のひとつで、鴨川のすぐ東にある宮川町辺り(南座の南辺り)から出火し、風に煽られた炎は鴨川の西対岸へ飛び火し、やがて京都全体を焼き尽くしたのです。この大火によって、西村家は家屋のみならず、歴代の資料や仕事道具の全てを失ってしまいます。 そんな西村家の窮地に、表千家8世啐啄斎(そったくさい)とその子の了々斎(りょうりょうさい/後の表千家9世)が手を差しのべます。 その結果、西村家は9代樂吉左衛門(了入)の世話になり、このことが、西村家を土風炉だけでなく焼物を生産する道へと導いていくのです。 天明の大火は京都の大半を焼き尽くしたため、当然、表千家や樂家も焼け出されてしまいました。しかしこの未曾有の大災害の下、京都の人々は力を結集して互いに助け合ったことが表千家・樂家・西村家のお話の中にも見て取れますね。 天明の大火の約18年後、西村家は次代を担う男子(後の保全)を大徳寺の大綱和尚の仲介で養子に迎えます。このことからも、西村家の仕事が安定してきたことがうかがえます。さらに、西村家は土風炉の製作だけに留まらず、金彩で装飾した灰器や火入れなども手掛け始めます。その後、樂家との交流が強く、さらに千家からの仕事の依頼が多かったためでしょうか、西村家は樂家の至近に転居します。これが文化12年(1815年)の頃といわれています。さらにその2年後の文化14年(1817年)、10代西村善五郎(了全)は隠居し、その養子(保全)に11代善五郎を託し、自らは隠居名の了全を名乗ることになります。 土風炉師の仕事に加えて、西村善五郎(了全)が、いつから他の焼物を焼き始めたのか明確にわかりませんが、文政7年(1824年)には表千家からの注文に対して、青磁花生や交趾焼香合の見積書を提出した記録が残されていますので、この頃にはある程度の数もこなせて、多様な焼物を焼くノウハウも蓄積されていたことが伺われます。 文政10年(1827年)、表千家9世了々斎が、西村了全の作った紫交趾のうつわを紀州徳川家の治宝(はるとみ)侯の茶会に持参したところ、治宝侯は、このうつわを大層気に入ったそうです。 時はちょうど、治宝侯が西浜御殿(にしはまのごてん)を造営し偕楽園(かいらくえん)という庭を整備している時でした。すぐさま治宝侯は、息子の西村善五郎(後の保全)を呼び寄せ、この偕楽園のお庭焼として、交趾の焼物を焼かせます。その出来栄えは素晴らしく、治宝侯はそれを労い、「永楽」と「河濱支流」の陶印を授けるのです。 このことを契機に西村善五郎(後の保全)は永楽善五郎と名乗り始めることになったのです。また了全も天保12年(1841年)に71歳で亡くなるまでの13年間は永楽を名乗り、磁器以外の様々な作品を残します。 天保14年(1843年)、11代善五郎(保全)はその長男(後の和全)に12代目善五郎を譲ると、隠居名の保全を名乗るのではなく、「永楽善一郎(ぜんいちろう)」と名乗り、焼物師に特化した仕事を始めるようになります。西村家の本業である土風炉師の仕事は長男(後の和全)に譲って、土風炉師と焼物師の線引きをしようと言う狙いがあったのかもしれません。 弘化四年(1847年)、永楽善一郎(後の保全)は塗師の佐野長寛の次男(後の宗三郎)を客分として養い始め、やがて焼物師として名乗り始めた「善一郎」をこの宗三郎に譲り、「焼物師」の家を建てようとします。しかし、この行為は長男の12代永楽善五郎(和全)には受け入れられず、これを原因に、以降この親子は不仲になったと言われています。またこの頃に一旦は「善一郎」と名乗っていたところを「永楽保全」という隠居名を名乗り、作品にもその名を刻むようになります。 嘉永元年(1848年)、永楽保全は関係が悪化した息子のいる京都を離れ、琵琶湖畔の膳所(ぜぜ)に窯を築き、河濱焼(かひんやき)を興し「於湖南永楽造(おいて こなん えいらくつくる)」と作品に記すようになります。この転居や彼の陶磁器研究(七宝に興味を持ったとも言われる)にかける熱意が、彼を経済的に追い込み、嘉永3年(1850年)には金策のために江戸へ出向くことになります。 保全はこの4年後の安政元年(1854年)に60歳の生涯を閉じることになりますが、それまでのわずかな間も精力的に動き、嘉永4年(1851年)には客分として預かっていた、前述の宗三郎を養子として迎え入れます。また、嘉永5年(1852年)に摂津高槻城主の永井直輝(ながいなおてる)侯の招きで城内に窯を築き高槻焼を興し、さらに安政元年(1854年)には大津の三井寺(みいでら)の円満院門跡(えんまんいんもんぜき)の御濱御殿(みはまごてん)内で覚諄法親王(かくじゅん ほっしんのう)の御用窯として三井御濱焼を興します。 この事は傍目には保全が人気者で引く手あまたとも見えますが、実はこうしてあちらこちらの要望に応える以外、彼が収入を得る有効な手立てがなかったのかもしれません。 一方、同時期の12代永楽善五郎(和全)は、嘉永2年(1849年)に義弟の宗三郎を自らの跡継ぎにと考えた時期もあったようです。しかし、宗三郎は分をわきまえて後年、西村宗三郎として自ら分家を興しはしますが、明治9年(1876年)に急逝するまで、永楽家を支えることに専念するのです。 嘉永5年(1852年)、和全は宗三郎が所有する御室にある仁和寺の門前の土地に、新しい窯を築きます。 その工事の際、仁清印の陶片が多く出土したことにより、新しく築いた窯の場所は仁清の窯跡であったことが判明したのです。この出来事は、永楽家が仁清や乾山を研究し、自分たちの作品は、その技を引き継いでいかねばならないと強く意識させることにつながっていったようです。実際、私の手元に永楽和全が作った仁清写し七宝繋ぎ黒茶碗がありますが、それを作った和全が試行錯誤を繰り返した様子を、息子の14代永楽善五郎(得全)が箱に記しています。 そして翌年の嘉永6年(1853年)から、この御室窯において生産が始まります。これまで京都の市中で小規模な工房で生産を続けていた状況とは違い、生産体制が整ったことで、和全はその才能を存分に発揮し、完成度の高い色絵や金襴手を量産し始めます。それを陰で支えた存在として、熟練した技術を持った義弟の宗三郎(後の13代永楽回全)と共に轆轤師の西山藤助(後の13代永楽曲全)を忘れてはならないでしょう。 この年にペリーが来航し、和全には長男が誕生し、この子が後の14代永楽善五郎(得全)になります。翌、安政元年(1854年)に保全が多額の借金を残して60歳の生涯を閉じます。この借金を背負って、幕末明治維新の動乱期を12代永楽善五郎(和全)は懸命に作陶を続け、その名を世に広めていきます。 慶応2年(1866年)、12代永楽善五郎(和全)は加賀大聖寺藩に招聘され、九谷焼の職人たちに明治3年までの約5年間技術指導を行います。この時、九谷山代へは宗三郎と長男(後の14代得全)を伴って出かけていますので、この間の京都での生産活動は止まったに等しい状態だったと考えられます。 九谷では良質な金沢の金箔を用いて金襴手の作品も多く製作しました。また九谷滞在中に元号が明治に改まり、その際の「戸籍法制定」を契機に、戸籍名も西村から永楽へ変更登録しました。 明治3年(1870年)に加賀山代から京都へ引き上げた12代永楽善五郎(和全)は、翌年(1871年)、長男(後の得全)に14代目善五郎を譲ります。隠居後の短期間は永楽善一郎を名乗りましたが、やがて隠居名の永楽和全を名乗り始めます。ところが、京都へ引き上げてみると欧州からの文化が押し寄せており、伝統日本文化は軒並み存亡の危機に瀕していきます。当然、経済的にも追い込まれ、何とか活路を見出すべく、明治5年(1872年)、永楽和全は裏千家11世家元の玄々斎(げんげんさい)の高弟の鈴木利蔵の招聘に応じて、愛知県岡崎甲山(かぶとやま)の地に出向き、赤絵や染付を量産するための新たな窯を築きます。 この岡崎で生産された作品は、やや質の劣る量産品だったために手荒く扱われたのか、はたまた運営が上手く出来なかったからか、それとも作品数が少なかったのか、どんな理由があったのかはわかりませんが、いまでは市場で見かけることがほとんどありません。 その運営の不首尾を裏付けるように、永楽和全は明治10年(1877年)には甲山の窯に見切りをつけて京都に戻っています。岡崎滞在中の明治6年(1873年)、和全は東京へ出向き、作品を定期的に購入してもらうための頒布会組織の発足を三井家に相談していますが、不調に終わっています。このことからも当時の永楽家の窮状が見て取れます。 残念ながら、詳細な資料を見つけることは出来ませんでしたが、和全が京都に戻ったときの永楽家の窮状は相当なものであったようで、中断に追い込まれた作陶の再開を裁判所に願い出て、ようやく家業再興の承認を受けた記録が残されています。財産を差し押さえられていたのかもしれません。 明治15年(1882年)、永楽和全は油小路一条(あぶらのこうじ いちじょう)の自宅を売却し、高台寺下河原(こうだいじ しもがわら)に菊谷窯(きくたにがま)を開きます。そこでは、やや粗雑な生地を使いながらも、味わいある絵付けを施すことで、数寄者好みの趣ある作品を生み出していたと思います。先の岡崎甲山では、質の悪い生地に、粗さの目立つ絵付けの作品を生産して失敗した反省がこの菊谷窯では生かされていたのでしょう。 菊谷窯での作品には、「永楽」印ではなく、三井高福(みついたかよし)の筆による「菊谷」の印が押され、乾山風の作品を多く製作しています。 さて一方、14代永楽善五郎(得全)は明治3年の継承以降、父の和全と共に多くの作品を生み出します。特に呉須赤絵の作品は評価が高く、その力強くスピード感溢れる筆致が彼の特徴と言われています。 彼は歴代の永楽の家系を整理し、実際には善五郎を名乗ることがなかった西村宗三郎と、轆轤師の西山藤助らの死後、その貢献度を評価して、両名を共に13代目に迎え入れました。彼は妻の悠(14代妙全)との間に子供をもうけることができなかったためか、得全の甥の治三郎(後の15代正全)にその技を伝えるよう努め、その甲斐もあって、得全が明治42年(1909年)に57歳で亡くなった後、治三郎は悠が亡くなる昭和2年(1929年)まで彼女を支え、やがて15代永楽善五郎(正全)を襲名します。 悠は女性ながらも、夫亡き後の家業を懸命に守る姿が評価され、大正2年(1914年)に三井高保(たかやす)より「悠」の印を受け、以降その手掛けた作品の箱に「悠」の朱印を押し始めますが、その後三井高棟(たかみね)より、「妙全」の号を賜り、悠(74歳)の亡き後、妙全の名で、夫の得全に添って、共に永楽家14代に名を連ねることになります。 15代目永楽善五郎(正全)は、襲名から5年後の昭和7年(1932年)に53歳の生涯を閉じますから、その間のわずかな期間に世に出た作品しか彼の仕事は見ることが出来ません。家業は昭和10年(1935年)に息子の16代永楽善五郎(即全)に引き継がれていきます。 このように永楽家は、土風炉師を生業として繋いできたところ、10代目の了全によって焼物師として新たな事業を興しました。しかしそれ以降、永楽家の歩んだ道のりは平坦なものではなく、家庭内においても経済面においても、苦難の連続であったと言えるでしょう。 歴代の永楽が茶陶の道を歩まんとしたにもかかわらず、茶道具だけではなく数多くのうつわをこの世に残していることは、茶道具だけではとても生活が成り立たなかったことを物語っているのかもしれないと私は考えています。しかし同時に、その苦労のおかげで京都のみならず、日本の懐石料理の発展にどれだけ寄与したかと言うのは今だからこそわかることで、これは永楽家の誇れる歴史だと思います。ここでひとつ、料理人として、あるいは陶芸家として日々研鑽を積まれている皆さんにお伝えしたいことがあります。それは、この永楽家や樂家のうつわは懐石料理のバイブルと言っても良いものだということです。それらが表現する季節感、サイズや形が教え導いてくれる料理の盛り方、間合いの取り方などしっかり学んでください。 例えば、うつわのサイズだけをとっても、茶室の広さや、折敷の大きさ、料理の品を良く見せることを考慮して作り続けられてきているのです。この長い歴史の中で作り上げてこられた懐石の標準スタイルを、これらのうつわの中から、まず学んでみてください。各々の家庭の食器棚から学ばず、日本文化の中から一度は基本を学んで見ることをおすすめします。※2回目作品解説につづく
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2020.12.12
古染付3
古染付も、1、2回目同様「洋食おがた」の緒方博行シェフに器と料理のコラボレーションに挑戦していただきました。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。古染付と洋食今回は、料理人だけでなく茶人にも人気のある「古染付」のなか、型物の菓子鉢と、「祥瑞」の大皿に洋食をもるという挑戦です。それぞれのうつわが持つ風合いやデザインに「洋食おがた」緒方シェフがどんな料理を盛りつけるのか。料理とのマリアージュでさらに魅力的になるうつわの美しさをお楽しみください。 このうつわの木箱には「古染付菊菓子鉢」と墨で記されています。轆轤(ろくろ)で円形に引いたものを、更に型にはめて成形しています。直径17 cm ですから、6寸にも満たない大きさですが、鉢なのです。同時に数物ではなく一品物です。先に紹介した数物の型物向付より希少性が高く、轆轤成形の薄手の皿類よりも、型にはめる手間が掛かっていることから、上級作の鉢と扱われて来たようです。 表面は染付で菊の花弁が描かれていますが裏面に模様は無く、白磁の状態で、型で立体的に成形したな菊の花弁が大胆に表現されています。足ではなく大変分厚い円形の高台がつけられていて、そこにはやはり砂の付着も見られます。 (古染付2より)「菓子鉢とされるこのうつわは、少し高さがあります。それに合わせて料理も厚みというか高さのあるものをと考えました。美しいうつわの色に添うよう、少し赤身のあるアジフライを合わせてみました。葱と茗荷で彩と味のふくらみを添えました。 このアジは、織部焼回の鰆と同じく、静岡サスエ前田さんから届けていただいている上質で新鮮なものです。生のままでも召し上がっていただけるので、ごくごく薄い衣をつけて、さっとレアに仕上げました。 サクッとした衣の食感と新鮮なアジの旨味が同時に口に広がります。葱と茗荷の香味がアクセントになってアジの美味しさを引き立てます。うちの鮮魚料理のなかでも、何度でも食べたいと言っていただけるファンの多い料理だと自負しています」 緒方シェフ 次は「祥瑞大鉢」です。 私の店には海外からのお客様も沢山お見えになり、中国の方もおいでになります。彼らの多くは、かつて日本に渡った中国の美術品を探しに来るのですが、「古染付」や「祥瑞」という焼物にまったく興味を示しません。彼らはこれらを日本の「伊万里」だと考えているからです。その理由は歴史の中に隠されています。 1511年、東福寺の高僧侶の「了庵桂悟(りょうあんけいご1425~1514)」は遣明使として海をわたり、その際の随行員に伊勢の商人、伊藤五郎太夫(伊藤五郎大夫)というものがいました。「伊藤五郎太夫(いとうごろうだゆう)」は明国に渡り、焼物の魅力にとりつかれ、景徳鎮へ赴き磁器製造法について学んだそうです。そして2年後、日本に帰国して有田に入り作り上げたものが「祥瑞」である、と中国人は考えているらしいのです。それを裏付ける証拠が、「祥瑞」のいくつかのうつわの高台内に記されている「五良大甫呉祥瑞造(ごろうだゆうごしょんずいぞう)」の銘だと言われています。 この銘が一体何を意味しているのかは、諸説あって未だに解明はされていませんが、「伊万里」は日本初の磁器であり、1616年から生産が始まったとされています。仮に、そこから100年もさかのぼった時代に「伊藤五郎太夫」が「祥瑞」という磁器の生産に伊万里の地で成功していたとすれば、その技術をその後の日本人はきれいさっぱり忘れてしまったことになります。中国人が思う日本人は、ずいぶんお気楽な民族のようですね。古染付2より「直径50cmほどもある大皿で、複雑で美しい幾何学文様を一目見たときから惹かれました。この大皿なら赤い牛肉を盛りたいと閃いたんです。 赤い肉の断面とクレソンの緑、辛子の黄色をアクセントにしました。ヒレカツをただ一列に並べるだけでなく、ひとつだけ外して青の上に盛る。そのポイントで料理とは違う、アート的な表現もしたかった。 洋食おがたでは、ハンバーグやカレーは尾崎さんの牛肉ですが、ヒレカツは、京都丹波牧場の平井牛を使わせていただいています。平井牛はきめが細かく、口に入れた途端に溶け出します。天然の水や良質の草や穀物を食べ、ストレスフリーな状態で育てられているそうです。 こちらも衣はごく薄く。噛むと同時に肉のうまみを感じられるよう、レアに仕上げています。何もつけなくても十分美味しい肉ですが、辛子を少しつけると風味が添えられ、また違った美味しさを味わえます」 緒方シェフ緒方博行(おがたひろゆき)熊本県出身。熊本のニュースカイホテル、長崎ハウステンボス内のホテルヨーロッパなどを経て、肉料理で名高い京都の「ビストロ セプト」の料理長をオープンから6年間務める。2015年に独立、「洋食おがた」を開き、ハンバーグやエビフライなどの本格的な洋食に、和のテイストを加えたメニューなどを、カウンターの"洋食割烹"スタイルで提供する。尾崎牛や平井牛、焼津の「サスエ前田魚店」から取り寄せる魚、鹿児島県の「ふくとめ小牧場」の幸福豚など、全国各地の厳選した素材で「大人の洋食」をつくり上げる。■洋食おがた京都府京都市中京区柳馬場押小路上ル等持寺32-1075-223-223011:30~13:30(L.O.)、17:30~21:30(L.O,)休 火曜、月1回不定休
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2020.11.30
古染付2
今回は「古染付」について梶さんにレクチャーいただき、「洋食おがた」の緒方博行シェフに、器と料のコラボレーションに挑戦していただきました。「古染付」の解説については、こちらも古染付1「古染付の歴史」古染付2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。「古染付」の世界をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。古染付2 写真は10時方向から時計回りに「古染付重菊(かさねきく)向付」、2時方向に「古染付鳳(おおとり)向付」、6時方向に「古染付半開扇(はんかいせん)向付」が並べられております。 このような、型にはめて成形した向付は、桃山時代に作られた志野や織部がお手本となったうつわです。裏面につけられた足の具合にも類似性が認められることから、日本の数寄者たちの強い要望によって発注されたものと考えられています。 これら型物の向付は、丸形の皿類とは異なり分厚い生地でできています。それゆえ虫喰い(むしくい)がはっきりと出ています。虫喰いというのはこの景徳鎮で焼かれた「古染付」の最大の特徴と言っても良いものです。古書などの紙を、シミと呼ばれる虫が食べて、紙に穴が開いた景色と似ていることから、この名がつきました。地胎を覆う、ガラス状の釉薬が、口縁部分などの部分で、欠け落ちたように見える景色のことを言います。 前回「古染付1」でもお話ししましたように、明時代の末期には皇帝から相当な無理難題が景徳鎮の官窯の職人たちに課せられました。その負担は陶器職人だけにおさまらず陶土を採集する労働者にまで及び、献上品を生産するための良質な陶土は枯渇し、より地中深い場所での危険な陶土採集作業が課せられました。 ところが民間が運営する窯で製造された古染付は、採集の容易な、やや粗悪な陶土を使用したため、窯で焼き上げた際、地胎と釉薬の収縮率に大きな差が生じ、釉薬より地胎の方が大きく縮んでしまいます。そのためガラス状の釉薬と地胎の間に、わずかな空間が生じ、その部分が欠落した結果、虫喰いと呼ばれる景色が誕生するのです。これは製品としては明らかな欠点ではありましたが、日本の数寄者たちは侘び(わび)の感性からなのか、この欠点がむしろ趣があると喜んで受け入れたのです。それでも、やはりあまりに激しい虫喰いは低い評価をされているようです。 このように、「古染付」は従来の官窯とは異なり、原料土や染料の呉須の品質を落とした陶磁器ではありましたが、その粗さが、重圧から解き放たれた職人たちの晴々とした心情を映したようで面白いのです。12時方向より時計回りに、古染付更紗文鉢、古染付放馬図中皿、古染付桃絵皿、古染付芙蓉手中皿、古染付唐花図七寸皿、古染付深向付(中央) こちらの写真で紹介した円形のうつわたちは、先に紹介した、型にはめて成形したものとは異なり、轆轤(ろくろ)によって生み出された薄手のうつわたちです。 景徳鎮の民窯で焼かれた磁器ですので、当然虫喰いの景色は見られます。裏面の丸い高台部分には砂粒が付着しています。これはうつわを置いた時、畳付き(畳と接する高台の先端部)の釉薬をしっかり拭き取らずに焼成したため、窯の中で釉薬が垂れててしまい、窯の床面に撒いた砂が付着したものです。この砂は、うつわと窯の床面が釉薬によって接着してしまうことを防止し、焼成中のうつわの収縮運動を妨げないためのものです。 高台の内側には、高台を鉋(かんな)で削り出した時についた、鉋跡(かんなあと)が放射状に残されているものが多くあります。高台内には文字や記号が記されていることもありますが、「古染付」の場合、これは作者や窯名を表すものではありません。作品によっては製作年代を示す場合もあるのですが、単なるデザイン的な意味しか持たないようです。やがてこの文字や記号はわが国の「伊万里」の高台内にも記されるようになります。「古染付」の最大の特徴は虫喰いにあり、と先に申し述べていますが、私は実はもうふたつ大きな特徴があると思っています。ひとつめは写真を見て感じていただけるかもしれませんが、少し青みがかりながらも透明感溢れる白です。例えて言うならば、厳寒時の夜空にくっきりと凍るように浮かんだ月の色のような、日本のどの高級磁器も及ばない光沢がひとつめの特徴です。ただしこれは見慣れるまでは、なかなかそのことに気がつかないかもしれません。 もうひとつは「生掛け(なまがけ)」と呼ばれる素焼きをしない技法です。このころは素焼の発想がなかったため、成形後に自然乾燥を行い、絵付けして釉薬をかけて、そしていきなりの本焼きとなります。素焼きをしていない状態の絵付けは、生地にどうしても水分が残ってしまい、筆に取った染料の呉須が生地に吸い込まれにくく、結果、筆が走るのだそうです。それ故、描線にスピード感があり、闊達な絵付けになるのです。 このうつわの木箱には「古染付菊菓子鉢」と墨で記されています。轆轤(ろくろ)で円形に引いたものを、更に型にはめて成形しています。直径17 cm ですから、6寸にも満たない大きさですが、鉢なのです。同時に数物ではなく一品物です。先に紹介した数物の型物向付より希少性が高く、轆轤成形の薄手の皿類よりも、型にはめる手間が掛かっていることから、上級作の鉢と扱われて来たようです。 表面は染付で菊の花弁が描かれていますが裏面に模様は無く、白磁の状態で、型で立体的に成形したな菊の花弁が大胆に表現されています。足ではなく大変分厚い円形の高台がつけられていて、そこにはやはり砂の付着も見られます。 次は「祥瑞大鉢」です。 私の店には海外からのお客様も沢山お見えになり、中国の方もおいでになります。彼らの多くは、かつて日本に渡った中国の美術品を探しに来るのですが、「古染付」や「祥瑞」という焼物にまったく興味を示しません。彼らはこれらを日本の「伊万里」だと考えているからです。その理由は歴史の中に隠されています。 1511年、東福寺の高僧侶の「了庵桂悟(りょうあんけいご1425~1514)」は遣明使として海をわたり、その際の随行員に伊勢の商人、伊藤五郎太夫(伊藤五郎大夫)というものがいました。「伊藤五郎太夫(いとうごろうだゆう)」は明国に渡り、焼物の魅力にとりつかれ、景徳鎮へ赴き磁器製造法について学んだそうです。そして2年後、日本に帰国して有田に入り作り上げたものが「祥瑞」である、と中国人は考えているらしいのです。それを裏付ける証拠が、「祥瑞」のいくつかのうつわの高台内に記されている「五良大甫呉祥瑞造(ごろうだゆうごしょんずいぞう)」の銘だと言われています。 この銘が一体何を意味しているのかは、諸説あって未だに解明はされていませんが、「伊万里」は日本初の磁器であり、1616年から生産が始まったとされています。仮に、そこから100年もさかのぼった時代に「伊藤五郎太夫」が「祥瑞」という磁器の生産に伊万里の地で成功していたとすれば、その技術をその後の日本人はきれいさっぱり忘れてしまったことになります。中国人が思う日本人は、ずいぶんお気楽な民族のようですね。 未だにはっきりしないこともあるものの、古田織部の死後、茶の湯を牽引した小堀遠州の時代になると、形の大きく歪んだ、織部風の存在感の強いひょうげたものは一気に姿を消し、「きれい寂び(さび)」と呼ばれるスタイルが流行り始めます。ちょうどその頃を契機に、型物「古染付」の発注の流行が落ち着きを見せ、「祥瑞」スタイルが景徳鎮への発注の主流になっていったと言われているため、「祥瑞」は明国滅亡寸前に発注された小堀遠州好みの焼物であった、というのが日本側の見解です。 さて、今回も焼物の解説をしたのか、歴史話をしたのかわからなくなってしまいました。けれども私は、焼物だけをいくら見つめても、見えるものは表面の浅い部分でしかないと思います。 もっと大きな視野で、焼物や美術品を見ることが出来れば、どれだけ多くの人に愛され、手から手へと受け継がれてきたかが理解できるだろう思います。 そして、いま自分の手元に存在する奇跡に感動できるはずだと思うのです。
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BLOGうつわ知新
2020.11.27
古染付1
今回は「古染付」について梶さんにレクチャーいただき、「洋食おがた」の緒方博行シェフに、器と料のコラボレーションに挑戦していただきました。「古染付」の解説については、古染付1「古染付の歴史」古染付2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。「古染付」の世界をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。古染付1 今月は、料理人だけでなく茶人にも人気のある「古染付(こそめつけ)」についてお話しいたしましょう。 近年、茶会を催す人々が減少してきたおかげで、随分と金銭的評価が下がってきたものもある古染付ですが、かえって手に入れやすくなったとも言えるのかもしれません。近頃では料理人の皆さんのように、商いを目的とした方がお求めになる機会が増えているように感じます。 さて、古い染付けと書くわけですから、呉須と呼ばれる青い染料を使った、古い時代の磁器であることはお分かりいただけることと思います。 しかし、例えば日本で作られた「古伊万里」は、単純に古い時代の「伊万里」を指すのに反して、この「古染付」の「古」は単に古いということではなく、「古渡り(こわたり)」の染付を意味しています。「古渡り」というのは、古い時代の一時期に日本に輸入された、中国製の焼物などを指す言葉です。 そして「古染付」と言うと、景徳鎮(けいとくちん江西省東北部)で製造された染付磁器を指す言葉で、明時代(1368~1644年)の末期のものを意味し、それより古いものでも、新しいものでもないのです。 私たちが染付と呼ぶ磁器は、中国では青花と呼ばれます。「釉裏青(ゆうりせい)」、つまりガラス状の透明な釉薬の下に、青い染料で絵を描いた磁器を示す言葉です。中国の染付磁器の生産が本格化したのは元の時代になってからと言われています。ご存知のように元(1271~1368年)はモンゴル帝国のことで、イスラム圏や東欧にまでその勢力を拡大し、その中でコバルトの顔料を使った焼物の絵付け技術と、その材料を獲得したと言われています。 さて、お話を景徳鎮に戻します。 景徳鎮は磁器を生産するための良質な陶土と燃料の松、さらに製品を運び出すための水運にも恵まれた土地でありました。北宋(960~1127年)の皇帝が景徳という年号(1004年)を制定し、その名をこの土地に与えたほど、この地の陶磁器は重要な産業として扱われていたということでしょう。元の時代になって盛んに製造されるようになった景徳鎮製の染付磁器は、「元染(げんそめ)」と呼ばれ古染付とは区別されています。景徳鎮と地名に名付がされた1004年以降の陶磁器産業は、国策上、大変重要であったがために、宋・元・明の歴代の国家は直接その窯の経営に携わり、いわゆる官窯としての運用がなされていました。そのため、生産された陶磁器はすべて皇帝のために使用されたわけですが、いくら皇帝の権力が絶大とは言っても、ひとりで大量の陶磁器を使うことは不可能です。多くの場合、それは周辺諸国からの貢物への返礼品として、皇帝貿易の政略として使われていたようです。 時代が進み、明の末期になると、国力が低下し、景徳鎮の産業の統括は中央の管理がゆるみはじめ、やがてその手を離れ、地方の出先機関やさらにその先の組織に委ねられるようになっていきます。それとは反対に皇帝からの注文は、陶磁器で生産できる限界を超えた、屛風や碁盤などにまで及び、難題化していきます。そんな横暴に耐えかねた景徳鎮の職人たちは、命をかけて抵抗するのですが、さらなる国力の低下によって、皇帝からの注文さえも途絶えるようになっていきます。 明国は当初海外との交易を禁じ、同時に貨幣経済を拒む政策を敷いていましたが、国力の低下とともにそれもコントロールできなくなってしまいます。ここ景徳鎮においても、国家からの統制が緩んだ隙に、本来は許されない民窯(民間運営の窯)での陶磁器生産が始まり、貨幣収入を求めて人々はその売り先を探し求めました。折しも世界は大航海時代も成熟期を迎え、オランダ東インド会社も設立され、ヨーロッパの有力諸国は、グローバルな交易を求め世界を駆け巡っていました。彼らにとって景徳鎮で生産された磁器は、自国では生産できない品物であり、格好の標的になったのです。 一方日本は、1500年代後半に興った茶の湯の大ブーム、秀吉の朝鮮出兵、関ヶ原の合戦と続く大きな時代のうねりを経て、江戸幕府によって世情が安定し始めたころでした。それらの激動の時代の裏で日本経済を支えていたのは石見銀山の開発でありました。当時世界で流通した銀の1/3を石見が支えていたと言われるほどですから、権力者たちは戦を繰り返すその裏で、石見を支配下に収めることを実行しました。世界経済を動かすほどの石見の銀は金余り状態を生み出し、権力者たちは世界の珍しいものを求めて、やがて景徳鎮の陶磁器にまで興味を持つようになっていくのです。 茶の湯の世界ではわび茶を目指した利休の時代が終わりを告げ、その後の古田織部・小堀遠州といった大名茶人が牽引する時代が到来します。侘びを極めた茶の湯も、新しいタイプの茶人たちの趣向が大きく反映され、その結果が景徳鎮陶磁器の大量輸入へとつながって行くのです。 長々と歴史の流れについてお話をしてきましたが、古染付は、明朝末期に景徳鎮の官窯の管理体制が崩れ、民窯がそれに代わって奔放な作品を生み出したことで誕生した焼物なのです。つまり明国の末期から、清国に変わるまでの短い時代に生み出された染付磁器の名前だということです。大きさも形も多種多様な古染付が日本に輸入されましたが、おそらく初期の段階においては、日本からの注文と言うよりは、明国の人々が生活の中で多用したであろう五寸程度の薄手の丸皿がその大半であったと思われます。やがて日本の数寄者たちは自分の好みに合った形状のものを発注するようになり、その結果、志野や主に織部に見られるような、型を用いて成形した、肉厚の、葉型、扇型、動物型、魚型、富士山型など多様な形の向付や鉢が生み出されていきます。後の時代に「伊万里」で大量に生産されたような大皿や大鉢は、桃山、江戸初期の茶の湯の趣向には合わなかったためか、当時の景徳鎮から日本に輸入された作品の数は限定的で、多くはオランダ東インド会社を通じて、中東そしてヨーロッパへもたらされたようです。 古田織部没後、日本から景徳鎮に出された注文に、小堀遠州の影響が色濃く見えるようになると、「古染付」の輸入も最後の時期に入ります。それまでの奔放で奇抜な形の向付類を喜んだ風潮から、鮮やかな瑠璃色の染付色を持ち、洗練された幾何学文で装飾された意匠の「祥瑞」と呼ばれる磁器が流行し、次第に「古染付」の一大ブームはフィナーレを迎えます。 「古染付」は、もともと明国では禁輸令の下、それに逆らった形で交易が行われたため、そこには多くの「倭寇」と呼ばれる非公式な交易を生業とする人々の活躍があったものと思われます。「国姓爺合戦(こくせんやかっせん)」という浄瑠璃や歌舞伎の演目でも知られる鄭芝龍(ていしりゅう)、鄭成功(せいこう)父子などがその人たちです。 彼らは明国籍とも日本国籍とも判別できない人員構成の集団で、交易をくり返し、明国の締め付けが厳しくなると日本へ雲隠れし、また交易の機会を伺うというような行動をとっていたようです。 年を経るごとに彼らは富を蓄え、やがては軍事力を手にして、明国政府には手に負えない存在にまで勢力を拡大していきますが、清国が明国に侵攻を開始する頃になると、清国に抵抗勢力として、明国を擁護する姿勢へと変化していきます。しかし、抵抗むなしく、やがて漢民族の明国が滅亡し、満州族の清国が成立します。清国樹立後しばらくの期間をおいて、再び景徳鎮から染付の磁器が日本にもたらされるようになりますが、それは古染付とは趣向が微妙に異なるものでした。そのため、新しく渡ってきたものという意味で、「新渡(しんと)染付」と呼ばれて区別されるようになり、「古染付」の時代が終わるのです。古染付2につづく
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BLOGうつわ知新
2020.11.17
織部焼2
織部焼2回目も、1回目同様「洋食おがた」の緒方博行シェフに器と料理のコラボレーションに挑戦していただきました。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。織部焼と洋食今回は、典型的な桃山時代の織部焼の「向付」と北大路魯山人作「 織部釉 十字皿」に洋食を盛ったらどうなるかというテーマで、「洋食おがた」の緒方シェフに料理制作に挑んでいただきました。それぞれのうつわが持つ風合いやデザインから緒方シェフが受けるインスピレーションとは。料理を盛ることでさらに魅力的になるうつわの美しさをお楽しみください。織部焼向付「典型的な桃山織部の鋳型に入れて製造した変形の向付です。 花籠に梅鉢模様をあしらっているものが4客、わらびに梅鉢をあしらったものが1客で一組となっています。これは、古いうつわに時々見受けられる取り合わせですが、1客だけ手の違うものを混ぜ込むことによって、陰と陽のバランスをとったものです。つまり、験担ぎ(げんかつぎ)です。外側に木賊などの模様を描き、緑の織部釉が流れ落ちる様を景色のアクセントにしています。 温かい肌色がうつわの柔らかさを感じさせますが、実は織部焼は往々にして、高温で焼き上げて硬く締まっていることが多いです。絵の具として使われた錆色(さびいろ)のものは、鬼板(おにいた)と呼ばれる鉄分を多く含む地層から採取した泥です。」織部焼1より洋食おがたの前菜盛り合わせ「5客揃いの向付を拝見し、小鉢風に使わせていただくことにしました。ひとつの鉢に多くを盛り付けないと決め、前菜を分けて盛り付けることを思いつきました。 冷たい料理は冷たく、揚げ物などは熱々でおだしできるうえ、ソースなどが混ざり合うこともない。そういう意味では多種の料理を一度に出すのにちょうどいい組み合わせができます。人参のサラダ(キャロットラペ)、青菜のおひたし、てっぱいといった和洋の野菜料理は、このうつわに盛ると和食そのものの雰囲気を醸します。揚げたての太刀魚とイカのフリットは揚げたてを一切れずつ。 一番苦労したのが、清水牧場のフレッシュチーズです。多すぎず少なすぎず、ミルキーなチーズの美味しさを堪能いただける量はどれくらいかと迷いました。いずれも、わずかではあっても料理の下から絵柄がのぞくようほぼ中央に盛付け、うつわの上品さを損なわない彩を心掛けました。」緒方シェフ北大路魯山人造 織部釉 十字皿「魯山人は美濃の土と共に、信楽の土を混ぜて土味を面白くしたといわれています。 二つの異なる土を混ぜる場合、その収縮率が異なるために、このように窯の中で割れてしまうことがあります。このうつわは、どうやらもう一度窯に入れて焼き直しをしたのか、裂け目に釉薬が入ってくっついています。魯山人もある時から、自らこのような修復を手掛けるようになったと聞いています。裂け目が大変面白いアクセントとなって、表面を斑に流れた釉薬の景色が魅力を高めています。 流れやすい灰釉に銅の成分を混ぜることによって作られるこの織部釉は、釉薬の流れも一つの見どころと言えます。」織部焼1より鰆のフライ「緑のうつわは難しい。いろいろな色を置くとゴチャゴチャしてしまう。特にこの魯山人の器は中央に割れ目があり、それをどう生かすかで悩みました。最終的にできるだけシンプルで色の少ない料理にしようと思い、レアに揚げた鰆のフライを盛ってみました。 この鰆は、静岡のサスエ前田魚店さんに届けていただいているもので、生でも食べられる鮮度も状態も良いものです。薄く衣をつけて、ミディアムレアに揚げました。 シンプルにお塩と辛子だけで召し上がっていただくと、鰆の上質さを感じていただけるでしょう。意図していたわけではありませんが、うつわに盛り付けて真上から見ると、蝶が樹木に止まって羽を広げているように見え、驚きました。魯山人のうつわは、それ自体が存在感抜群ですが、料理を美味しく見せる力があると、改めて感じました」緒方シェフ緒方博行(おがたひろゆき)熊本県出身。熊本のニュースカイホテル、長崎ハウステンボス内のホテルヨーロッパなどを経て、肉料理で名高い京都の「ビストロ セプト」の料理長をオープンから6年間務める。2015年に独立、「洋食おがた」を開き、ハンバーグやエビフライなどの本格的な洋食に、和のテイストを加えたメニューなどを、カウンターの"洋食割烹"スタイルで提供する。尾崎牛や平井牛、焼津の「サスエ前田魚店」から取り寄せる魚、鹿児島県の「ふくとめ小牧場」の幸福豚など、全国各地の厳選した素材で「大人の洋食」をつくり上げる。■洋食おがた京都府京都市中京区柳馬場押小路上ル等持寺32-1075-223-223011:30~13:30(L.O.)、17:30~21:30(L.O,)休 火曜、月1回不定休
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BLOGうつわ知新
2020.10.22
織部焼
梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。織部焼「象の足跡の化石が見つかった。」どこか外国の話かと思ったら、日本の美濃地方の話でした。象が生息していたくらいの大昔の美濃地方では、地形も現在とはずいぶん異なっていたそうです。岐阜県と長野県の県境にある、お馴染みの木曽の御嶽山(おんたけさん)は、富士山より高く、激しく噴火を繰り返し、火山灰を撒き散らす活火山だったそうです。その火山灰が堆積した一部の地域が、広く陥没して東海湖と呼ばれる大きな湖となりました。象の足跡の化石は、ちょうどその東海湖の水辺にあたるところから発見されたそうです。美濃地方は桃山の頃より、日本でも有数の焼物の産地でした。それを支えたのは東海湖の底に沈んでいた火山灰の地層です。この火山灰は水中で堆積していたため、長い年月強い風化にはさらされず、その結果、粘り気が少ない砂混じりの「もぐさ土」と呼ばれる粘土へと変化します。「もぐさ土」というのはお灸に使うもぐさのような風合いであることからつけられた名前です。焼きあがるとやや荒く、カサつくような表情を見せ、釉薬と生地の境目にはほのかな赤色を呈します。柔らかく軽い風合いが人々に愛され、黄瀬戸や志野をはじめ、今回お話する織部などの美濃の焼物は、この「もぐさ土」を基本に用いて作られました。織部焼の名前はご存知の通り桃山時代の武将、古田織部に由来します。織部焼のことをお話するためには、織部の人物像や時代背景を含めた周辺の環境をお話しておかなければなりません。古田織部重然(ふるた おりべ しげなり)は1543年、美濃の守護であった土岐氏(ときし)に仕える家柄に生まれます。ところが美濃に生まれ育ち、父親も茶の湯に熱心であった環境にありながら、しばらくは茶の湯にも焼物にも興味を示しませんでした。戦国の時代の渦に巻き込まれ、土岐氏から斎藤道三、その後は美濃侵攻時の織田信長に従います。信長の死後は豊臣秀吉に仕え始め、千利休と深く関わることによって、ようやく茶の湯に目覚めたのが40歳の頃でした。その後、この世を去る72歳までの約30年間に織部が焼物にどんな影響をもたらしたかを知るには、彼の茶人としての人生を知っていただく必要があるのではないかと思います。織部同様、信長に仕えていた千利休は、本能寺の変で信長が世を去った直後、その弔い合戦である「山崎の合戦」の際、秀吉の陣に馳せ参じ、今は国宝にも指定されている茶室「待庵(たいあん)」を山崎の地に建築します。新しい天下人は秀吉だと瞬時に見切った素早い行動です。利休はこれ以降、秀吉のそばで大きな存在感を示すようになりますが、同時に、織部との関係も深まって行きます。茶の湯を単なる教養や作法ではなく、社交術として利用し、利休が天下人の側近に昇りつめていく様が、戦でのし上がって行く武将たちの姿よりも刺激的で、大いに織部には学ぶことがあったのでしょう。やがて織部は利休七哲と呼ばれるほど重要な利休の弟子として知られるようになります。信長の時代には、まだまだ室町時代の美意識が強く残っていて、茶の湯の世界でも唐物の陶磁器がもてはやされていましたが、利休がもたらした侘茶の成熟とともに、流行の中心は素朴な高麗物へと移っていきます。その裏では、茶道具の国産化も確実に進められていきます。そんな時代の流れに乗って、利休も自身のプロデュースによる国産の茶碗制作を手掛けていきます。ここでみなさんが思い浮かべるのはきっと楽茶碗でしょう。しかし、最近私は利休が最初に手掛けたのは信長からの依頼による美濃焼の瀬戸黒茶碗であったのではないかと考えています。楽茶碗が先か、瀬戸黒茶碗が先かの議論は、今後の研究が解き明かしてくれるでしょう。ともかく利休は茶碗を完成させることに成功します。茶人の腕の見せ所は、それまでは渡来品の中から茶道具を見立てて、その美しさを探し当てることでした。しかし、利休は自ら茶道具を制作したことにより、国産の茶道具をデザイン監修して、そのセンスを広く世に問う、という茶人としての新しい存在意義を示したのです。お洒落好きに過ぎなかった人が、ついに自分でデザインした洋服を売り出したのと同じことですから、織部も利休の新たな事業展開に驚いたのでないでしょうか。また同時に、やがて自らが陶磁器の制作指揮をするお手本としても多くを学んだことでしょう。その後利休は茶人としても、秀吉の顧問としても頂点を極めていきますが、それは同時に、茶頭としては度を超えたものとして妬みを買い、疎んじられ、やがては利休自身の命を奪う原因にもなってしまいます。天下人豊臣秀吉の傍に仕え、茶人として大輪の花を咲かせた千利休の姿は、織部にとって将来目指すべき目標に見えていたことでしょう。それ故に、やがて訪れた利休の失脚は、受け入れがたいほどの失望を織部に与えたことは想像に難くありません。しかし、自分が仕えた主家が織田家のように滅亡し、何も持たない秀吉がのし上がって天下を獲ることを当たり前のように見てきた乱世を生きた人間にとっては、利休の死は大きな夕日が没したのと同じで、ひとときの闇夜を過ごせば、明日にはまた日は昇ると誰もがわかっていたのではないでしょうか。この時、織部は武将として成り上がることが、世の中の中心に近づく唯一の方法ではないことを学び、利休の担っていた役割を獲る、下克上的野望を叶えようとしたのだと思えます。そして織部は豊臣家の茶の指南役筆頭となり、茶の湯を通じて大きな影響を持つ存在へとなって行くのです。利休は、わび茶を完成させたと言われているように、質素で慎ましく、精神性を追求するために不要なものをそぎ落として行きました。それに対し織部は、利休の遺志を継承しつつも、武家流の茶とわかりやすさを導入したのではないかと思います。具体的には、狭く暗い空間で目を凝らして道具を鑑賞していた茶室に、窓を設けて明かりを入れ、招かれた正客に付き添った者にも、同じ室内に留まりながら控えておくための相伴席(しょうばんせき)を設け、茶席を広げました。あえて茶室の中で身分の上下を明確にしたのです。茶道具においては、国産の茶器をプロデュースしながらも、新しい感覚で舶来ものの登用も積極的に進め、華やかな中国の青華(染付磁器)や色絵磁器も採用しています。また同時に「へうげもの」と表現されるような、窯の中の焼成過程で破れ歪(ゆが)んだ陶器を面白がって採用することに始まり、やがては人の手で積極的に歪みや変形を作り出すまでに芸術性の高いものとして昇華させます。こうして織部の手掛けたことを取り上げて並べてみると、利休のわび茶からは大きく方向を変えていることがわかります。以前、裏千家の名誉業躰の先生が「やはり古田織部や小堀遠州は大名の身分だから、どうしても華やかさを好む傾向がある。」とお話になっていたことが忘れられません。たしかに織部が作らせた焼物、選別した舶来ものの焼物、これらは利休時代の焼物に比べ明らかに色彩的に鮮やかなものが多い事に気が付きます。見た目の存在感の強さも特徴的です。深い味わいを持った内面から湧き出るような主張ではなく、単純にサイズが大きい、ゴツゴツと角張っている、大きく歪められているなどの、目を凝らさずとも理解できる造形です。そう考えれば、織部の表現は素人目にもわかり易いものだと言えるでしょう。利休の時代は、茶の湯の中に厳格なまでの精神性を求めていましたが、織部が豊臣家の茶の湯の指導的な立場になると、武家たちの社交や楽しみのような華やかさも加わり、変化していったのだろうと推測されます。やがて秀吉が没し徳川家が台頭してくると、織部は関ヶ原で徳川方に付き、徳川家の中でも茶の湯の指導的立場に付きます。徳川の政治は士農工商の身分制度を明確にしていきますので、織部の打ち出した武家好みの茶が主流となり、町人が武家を指導していた利休時代の茶の湯から遠ざかっていきました。また、織部焼の生産が始まった頃の美濃地方では、登り窯の導入という大きな技術革新が起こり、生産量が飛躍的にあがります。きっと織部の手掛けた焼物が、大量に世の中に流れ出し、彼の名前を広める追い風になったのではないでしょうか。利休が大きな力を持っていった経緯は、織部同様に家康もよく知っていたことでしょう。大きな武力を持つわけではない織部でしたが、茶の湯の指導と、茶道具をプロデュースして得た商業的な影響力は相当なものがあったと考えられます。名声が上がることは、やはり織部の運命を大きく動かすことになります。それが事実であったか否かは定かでないものの、織部は大坂夏の陣と冬の陣においての豊臣方への内通と、家康への反逆の嫌疑で処分されてしまいます。徳川の世を安泰なものにするためには、織部の持つ影響力は決して油断のならないレベルに成長していたことの証左とも言えるでしょう、織部が生み出した品々や美意識は嵐が吹き荒れたように、即座にこの世から抹殺されてしまいます。京都の中京(なかぎょう)には唐物屋と呼ばれた陶器商が軒を連ねていたようですが、その辺りに一時期大量に織部の手がけた陶磁器が廃棄された形跡があることが、発掘調査で明らかになりました。元々主張の強い織部の焼き物は、時代の中で飽きられたのではないかという意見も聞いたことがありますが、やはり織部のすべては家康の指示の下で抹殺されたのだと私は思っています。天下人に見放されて廃棄された織部のうつわたちは、今は京都の西陣の京都市考古資料館に保存されていますので是非お出かけになってはいかがでしょうか。いつものように長々と綴ってしまい、もっと簡単にご説明をした方が良いことは重々承知なのですが、織部焼については単に焼物のみを解説しても、その本当の姿を見抜くことはできないのです。焼物を語るより織部人物や歴史の流れを知った上で、ぜひ今一度、織部の焼物をしみじみと眺めてみてください。織部焼向付 典型的な桃山織部の鋳型に入れて製造した変形の向付です。花籠に梅鉢模様をあしらっているものが4客、わらびに梅鉢をあしらったものが1客で一組となっています。これは、古いうつわに時々見受けられる取り合わせですが、1客だけ手の違うものを混ぜ込むことによって、陰と陽のバランスをとったものです。つまり、験担ぎ(げんかつぎ)です。外側に木賊などの模様を描き、緑の織部釉が流れ落ちる様を景色のアクセントにしています。温かい肌色がうつわの柔らかさを感じさせますが、実は織部焼は往々にして、高温で焼き上げて硬く締まっていることが多いです。絵の具として使われた錆色(さびいろ)のものは、鬼板(おにいた)と呼ばれる鉄分を多く含む地層から採取した泥です。北大路魯山人造 織部釉 十字皿魯山人は美濃の土と共に、信楽の土を混ぜて土味を面白くしたといわれています。二つの異なる土を混ぜる場合、その収縮率が異なるために、このように窯の中で割れてしまうことがあります。このうつわは、どうやらもう一度窯に入れて焼き直しをしたのか、裂け目に釉薬が入ってくっついています。魯山人もある時から、自らこのような修復を手掛けるようになったと聞いています。裂け目が大変面白いアクセントとなって、表面を斑に流れた釉薬の景色が魅力を高めています。流れやすい灰釉に銅の成分を混ぜることによって作られるこの織部釉は、釉薬の流れも一つの見どころと言えます。左手奥、弥七田織部千筋文茶碗。歪んでゴツゴツしている形状が織部らしい表現だと本文中に書きましたが、このうつわはずいぶん薄造りで、端正な形をしています。これは織部が世を去ってしばらくしてから製造されたもので、織部の名前を付けられているものの、織部好みの意匠ではありません。むしろ、京焼に近いような意匠だと思っています。織部の死後、美濃の陶工たちは織部の意匠を作品から消すことにずいぶんと苦労したことでしょう。その結果としてこのような、ガラスのデザートボールのような形にたどりついたのでしょう。本来の織部の焼物とは真逆の軽やかさが楽しい焼物です。次に織部黒沓茶碗。本文中に信長の依頼によって利休が瀬戸黒茶碗をデザインしたようなことを書いておりましたが、まさにその瀬戸黒のサイズを大きくして、さらに沓形に歪めているのがこの茶碗です。歪めて大振りで存在感の強い、これがまさに織部の好んだ典型的なスタイルで、武家風だと思います。緑の織部釉は一切使われていないものの、これと似たような沓茶碗は唐津などでも見受けられ、これも織部の指導による意匠だと言われています。弥七田織部塁座細向付。使い勝手の悪い向付ですが、客にとっては何が入っているのだろうと覗き込むことが楽しみなうつわでもあるので、「のぞき」とも呼ばれています。一般の家庭では湯呑として使うくらいのことでしょうが、当時の人たちはどんな料理をこのうつわで提供しようかと、頭をひねることが創造力を掻き立てる面白いうつわだったのでしょう。また、火入れとしても茶会に登場することから、案外多くの数が現代に伝わっています。塁座(るいざ)と言われる捻子や釘の頭の意匠を胴体に施し、幾何学紋を鬼板で描いています。これも織部と呼ばれるものの、織部の死後に作られた作のひとつでしょう。手前は、はじき織部香合が2点。赤みがかった香合と、白肌の香合がありますが、美濃のもぐさ土には紅白の色があり、白は緑の織部釉に透明感を与えます。赤い土は赤織部と言われ、写真のように白い化粧土と鬼板の絵付けによって、興味深い意匠が施されているものが多くあります。私はこの赤織部の意匠が大好きです。どちらも「はじき」と呼ばれる摘みのついた香合で、弾いてあそぶ玩具からこの名がつけられているとのことです。両方ともしっかり高温で焼き締められ硬く出来上がっています。織部焼はこのように、茶碗から向付、香合に至るまで他の美濃の焼物とは比べ物にならないほどの多品種の焼物が焼かれていることから、織部の力の入れようが伺えるように思えます。
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BLOGうつわ知新
2020.10.02
備前焼2
備前焼2回目の今回は「洋食おがた」の緒方博行シェフに料理とのコラボレーションに挑戦していただき、ご紹介します。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。備前焼と洋食今回は、本来食器ではない備前焼の「まな板皿」と「灰器」に料理を盛ったらというテーマで、「洋食おがた」の緒方シェフに料理制作に挑んでいただきました。それぞれのうつわの存在感やデザインから緒方シェフが受けるインスピレーションとは。うつわ単体の魅力と料理を盛ってさらに映えるうつわの美しさをお楽しみください。牡丹餅と呼ばれる景色が現れているまな板皿です。牡丹餅というのは、窯の中で焼く際に、板の上に他の作品を乗せて焼成したことで現れる景色ですが、このまな板は本来うつわとして作られたものではなく、作品を乗せるための窯道具だったようです。(備前焼1より)骨付きサドルバックロースのトンカツ「お皿自体が力強く、最初に見た瞬間、骨付きサドルバックが頭に浮かびました。このお皿に負けないような力強さで料理を盛りたい。お皿に浮かび上がる丸い景色を活かしながらも、料理気が際立たせるにはどうしたらいいか。そう考えたときに、骨がガンとつきでるような盛り方にしようと決めました。この「骨付サドルバックロースのトンカツ」は、鹿児島県の「ふくどめ小牧場」で大切に育てられたイギリス原産のサドルバック種の豚を使っています。サドルバック種は古来からある品種ですが、イギリスでは絶滅し、アメリカに6頭だけ残っていたものを牧場主の福留さんが譲り受け、改良しながら育てています。放し飼いでのんびりと育てられた「サドルバック」は、週に1~2頭しか出荷されない希少な豚肉としても知られています。人肌で溶ける脂身の柔らかさが特徴ですが、ただ柔らかいだけでなく、サシが入って弾力もある昔ながらの豚肉の美味しさを味わえます。手をかけ過ぎず、シンプルに骨付きのままトンカツにしました。米油で揚げて肉汁をとじこめてしっとり仕上げる。器に負けないインパクトのある料理になっていると思います。」緒方シェフ茶席の炉の中を整えるために灰を盛っておく灰器、または焙烙(ほうろく)と呼ばれる道具です。灰器に食べ物を盛るなど言語道断とおっしゃる方もお見えになるかもしれませんが、古い時代の灰器は素晴らしい味わいを持っているものが多いのです。(備前焼1より)特製デミグラスソースで仕上げたハヤシライス「本来は食器ではないということでしたが、食器にもちょうどよい大きさと深みがあります。この灰器も、最初に見た時から茶色の料理を合わせて、備前の世界観を活かそうと思いました。でもカレーではなくハヤシライス。肉や具材のゴツゴツしたルーと少しのご飯を盛って、まわりに余白を残す。どちらかというとシックな盛り付けかもしれません。ハヤシライスはじっくり煮込んだ特製のデミグラスソースを使ったものです。ソースは濃厚だけれども、肉や玉ねぎなど食材の食感や味わいをしっかり残して、ご飯との相性を愉しんでいただくよう作っています。おがたはカレーというイメージですが、このハヤシライスもおすすめの1品。どこか懐かしさも感じていただける味わいになっていると思います。」 緒方シェフ緒方博行(おがたひろゆき)熊本県出身。熊本のニュースカイホテル、長崎ハウステンボス内のホテルヨーロッパなどを経て、肉料理で名高い京都の「ビストロ セプト」の料理長をオープンから6年間務める。2015年に独立、「洋食おがた」を開き、ハンバーグやエビフライなどの本格的な洋食に、和のテイストを加えたメニューなどを、カウンターの"洋食割烹"スタイルで提供する。尾崎牛や平井牛、焼津の「サスエ前田魚店」から取り寄せる魚、鹿児島県の「ふくとめ小牧場」の幸福豚など、全国各地の厳選した素材で「大人の洋食」をつくり上げる。■洋食おがた京都府京都市中京区柳馬場押小路上ル等持寺32-1075-223-223011:30~13:30(L.O.)、17:30~21:30(L.O,)休 火曜、月1回不定休
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