うつわ知新
うつわと料理は無二の親友のよう。いままでも、そしてこれからも。新しく始まるこのコンテンツでは、うつわと季節との関りやうつわの種類・特徴、色柄についてなどを、「梶古美術」の梶高明さんにレクチャーしていただきます。
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BLOGうつわ知新
2020.09.30
備前焼
梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。備前焼備前の焼き物について語る前に、この備前と言う名前がどこから来たのかということについてお話をしなければなりません備前はご存知のように備中・備後、つまり備に対して全中後という言葉が加わったものです。備州あるいは吉備国と呼ばれた名が基になっていることを知っておく必要があります。この吉備国はたいそう繁栄した地域で文化度も高かったようです。良質な砂鉄を産し、それを加工するための燃料である赤松にも恵まれた地域であり、なおかつ瀬戸内を通じて全国に届ける海運が発達していました。鉄器文化が他の地方より随分と進んでいたことにより、火を扱って加工する設備や窯などの知識にもたけていたことから、備前焼が誕生する前の寒風焼と呼ばれる白い陶器(須恵器)が作られ、平安時代の都の貴族達にももてはやされていました。もともと備前周辺は、鉄器つまり刀剣類と白い須恵器の生産地として、ともに平安の頃に大変栄えた2大産業の地域であったということです。備前焼は、日本の六古窯の一つに数えられます。六古窯というのは、平安時代に端を発する古い陶器の産地を指します。備前を筆頭に、丹波 信楽 伊賀 越前 常滑 瀬戸 があります。瀬戸を除いたすべての窯は、焼き締めと呼ばれる釉薬を使わない陶磁器を生産しておりましたが、その中でも特に多くの作品が残されていて、現在も盛んな窯は備前ではないでしょうか。備前焼は、伊部という地域で作られていたので伊部焼と呼ばれていたようで、それが長い年月の間に備前という名前に変わってしまい、現在では、備前焼がこの地域の焼き物の総称となりました。その中でも、 鉄分を多く含む泥を塗って焼いたスタイルを伊部と呼んで区別するようになっています。古美術を扱っていますといろいろ分かるのですが、古い時代の備前焼で見受けられるのは、甕、種壷、陶板、すり鉢といった鑑賞を目的としていない雑器のようなものが多数でした。それが桃山期の茶の湯の流行とともに花生、茶入、建水、灰器、水指、手鉢など多くの茶道具を生産するようになります。その茶道具のほとんどが泥によって化粧された伊部の手であることが大変興味深いことです。古い時代に作られた備前焼きを数々見てまいりましたが、どういうわけか直接口に触れる茶盌や口のそばでつかわれる向付はほぼ存在しません。それは備前焼に限らず、 六古窯のうちの瀬戸を除く五つの焼締の窯のどの焼き物ついても言えることであります。土を成形して焼いてみただけの焼き締めは、本来、下手で不潔なものという風に考えられていたのでしょう。この伊部という鉄分を多く含んだ泥を塗ってまるで釉薬をかけたがごとくに化粧をする方法で茶道具が生み出されていたことを考察すると化粧を施すことで釉薬をかけたようにみせかける目的があったのであろうと思われます。料理店で備前にかかわらず、焼き締めの器を使う時はたっぷりと水にさらして濡らした状態で使うということがお約束です。濡らす理由は、料理から出る水分をうつわが吸収し料理の臭いや出汁の色を付着させないように、先にたっぷりと水を吸わせておこうとするからだと料理人たちの間では伝えられていますが、私はそれを違っていると思います。 土を焼き固めただけの下手なうつわは、使用前に清める必要があり、お客様に強くアピールする必要があったのだと思いますそしてこの備前は特に濡らしてやると乾燥したように見えていた肌がしっとりと濡れて、僅かに赤みを差した肌も鮮やかな赤や青が浮かび素晴らしく美しくなります。 さらに、予期しなかった結果として料理の水分や臭いや、汚れを付着させないという結果が後で分かったというのが本当のところではないでしょうか。備前は、伊部という手の他にも、焼きあがった景色によっていくつかに分類されます。 最上のものは灰が被って、それが焼き物の表面に付着し、さらに高温でその灰が溶けて黄色いゴマを振ったかのような景色、あるいはそれが大量にかかって溶け流れた景色を生み出す「ごまだれ」です。窯の中で炎が強く当たる部分、少し影になった部分、つまり炎の通り道によって生じる温度差が表面に異なる発色をもたらす窯変、降り積もった灰や燃えカスが器の側面、あるいは全体を覆い隠してくすぶって焼きあがった灰色あるいは青色にも近い景色を棧切と言います。窯の中で意図的に品物を積み重ねて起こった景色を「ぼたもち」と言います。窯に火を入れる前に焼物に巻き付けた藁などによって表面を赤く筋模様の変化を生み出す火襷など様々な種類が存在します。この水指は、円筒形に轆轤で引き上げ、口の部分を内側に折り返した「矢筈(やはず)」と言われる形で、桃山時代の古備前の茶道具では定番の、化粧土を塗った伊部手で作られています。 大きな垂れ耳をくっつけて形を歪ませ、その上にヘラ目を引っ掻いたような縦筋が入り、腰分にも線を一周回すことで、強い作為が表現されています。轆轤目の上に軽く飛んだゴマの、黄色い自然釉も、そこに更なる味わいを与えています。利休好みの静かさとは異なる積極的な造形に、織部好みの時代の反映が感じられます。続いてご紹介するのは、牡丹餅と呼ばれる景色が現れているまな板皿です。牡丹餅というのは、窯の中で焼く際に、板の上に他の作品を乗せて焼成したことで現れる景色ですが、このまな板は本来うつわとして作られたものではなく、作品を乗せるための窯道具だったようです。そのせいか、裏面にも下敷き板として使われた際にできたと思われる景色が残っています。たっぷりと濡らして使うことが、焼き締めのうつわのお約束ですが、備前は濡らすことで生まれ変わりをように赤が浮き立ち、表面に光を遊ばせるように反射して、カサついた表情が生まれ変わったようになります。幾度も焼成され歪みや窯切れが出来ていますが、そこがさらに見どころにもなってる、面白いうつわです。 写真左の花生は、赤く襷(たすき)掛けをしたように見えることから、緋襷と呼ばれています。緋襷というのは、作品を焼く際、意図的に窯の中で灰を被らないように鞘(さや)と呼ばれる陶器の容器に入れて作られます。その際、巻き付けられた藁紐(わらひも)が一緒に焼けて、藁に含まれるカリウムと素地の鉄分とが反応して発色すると言われています。この藁紐は、窯の中で横に並べる作品同士が触れ合わないように巻いたとも、窯場までの運搬に用いたとも言われています。いまではガスや電気の窯で焼かれることも多いと聞きます。 写真右側のつる首は、江戸の前期に作られ、献上徳利と呼ばれています。瀬戸内の海運の要の地であった鞆の浦の辺りで、現在でも保命酒と呼ばれるお酒が作られていますが、そのお酒を献上する際に使われたものだと言われています。これも伊部手の作品となっています。身分の高い人への献上品ですから、釉薬をかけたような風情に見せたかったのでしょうね。薄く轆轤引きされた端正な姿は、存在感ある荒々しい桃山期の古備前から、時代に求められるセンスが変わって来た証にも思えます。 写真中央は瓢箪型をした耳付きの水指です。古い時代に作られた茶道具の大半は伊部手だったということから考えれば、伊部手と異なるこの作品は、少し時代の下がった生まれだと思われます。それを裏付けるかのように、特徴ある形をしていながらも、備前特有の力強さや荒々しい表現が弱くなっているように感じられます。全体的に青、あるいは灰色っぽく見えるのは、窯に投入された薪の燃えカスや、降り積もった灰に全体が埋もれてしまい、くすぶった状態で焼き上がったからだ考えられます。この景色は棧切りと呼ばれています。写真中央と左の作品は、北大路魯山人の手によるものです。どちらも一品物なので、数物の皿ではなく、「鉢」と箱に記されています。 魯山人の作品は作為に溢れていて、古備前とは異なり一筋縄では理解できないこともよくあります。左の円形の鉢は表面に灰が軽く被った景色をしていますが、裏面は塗り土を施した光沢がある伊部手になっています。中央の角鉢は伊部手でありながら、その上に灰が被るように焼かれており、それが上手く溶けて「ゴマ」と呼ばれる景色を見せています。ところがこのゴマの景色は裏面にも出ているので、恐らく両面に灰が被るように、窯の中で立てて焼かれたのではないかと想像されます。その証拠に四方の一辺がややひしゃげたように変形しています。 写真右側の皿は現代作家の澁田寿昭氏の手によるものです。この作品は平皿の上に、何か別のものを伏せて焼くことで牡丹餅の景色を表現していますが、それだけに留まらず伏せた物の中に藁を入れて緋襷模様も浮かび上がらせています。複数の土の配合によって生み出された、やや乾燥したような地肌に、かすかに灰がかぶったのか周辺には艶が見られます。うつわを濡らすと、乾燥気味の肌があずき色につやつやと輝き、やや中央をずらして浮き出てた牡丹餅の景色がなんともいえない魅力を振りまいています。このうつわは、本来茶席の炉の中を整えるために灰を盛っておく灰器、または焙烙(ほうろく)と呼ばれる道具です。灰器に食べ物を盛るなど言語道断とおっしゃる方もお見えになるかもしれませんが、古い時代の灰器は素晴らしい味わいを持っているものが多いのです。そのため、こうしてうつわに転用されたものも少なくありません。手前の口縁に近い部分は、少し轆轤が乱れたような表情が見え、さらにその部分に窯の中で灰が被って、景色に変化が出るように計算されていたのでしょう。見事に激しい景色に焼きあがっています。これもやはり茶道具ですから、お約束通りの伊部の手です。ちなみにお料理は、私が世界一美味しいと思う洋食おがたのハヤシライスです。大好物なので忖度をしてくれたのでしょう、シェフがうつわに盛ってくださいました。笑文章と写真によって、すべてのうつわの表情を説明しつくすことは叶いませんが炎の芸術として、あたかも偶然が生み出したかのようにみえる多くの景色は長い年月の陶芸家の経験や巧みな作戦によって表現されているということをこれをきっかけに読み解き食事と共にたのしんでいただく一路をしていただければ幸いです。皆様にその味わい深さをご説明することは、とてもとてもかないませんが、すべての古い陶器、そして現在も焼き続けられている様々な手法によって色んな工夫をされている。そのことを器の中から読み取ることができます。備前焼は歴史の長い 途中で途絶えることなく続けられた焼き物であるだけに見どころもたくさんあります。ぜひ備前焼をもう一度見直し あるいは現地に出かけて。深く鑑賞していただきたいものだと思います。※備前2回目では、上記の器から2点に実際に緒方シェフに料理を盛っていただきご紹介します。
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2020.08.25
重陽 ―菊の節句―
梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。重陽 ―菊の節句―この世には「陰」と「陽」の気があり、その組み合わせによって調和がはかられているという考え方が2000年以上前の春秋時代の中国に興りました。数字にも「陰陽」が存在し、偶数を「陰」、奇数を「陽」として扱ってきました。9月9日の重陽の節句はその文字が示す通り、1から9までの数のうちで一番大きい「陽」の数である9が重なる日です。そのため、「陽」の気が高まり過ぎることから不吉とされ、それを祓うための節句の儀式が執り行われていました。それがまるで祝い事であるかのように扱いが変わって、現代に至っているのです。ちょうど旧暦の9月9日は、菊が咲く季節でありますから、「重陽の節句」は「菊の節句」とも呼ばれるようになり、古くから菊の花びらを散らした酒を飲んだり、菊にきせ綿をして露を含ませ、その綿で顔や体をぬぐって、長寿や不老を願ったりもしました。今も、9月の「重陽の節句」の頃には、料理屋さんでもお客様の健康長寿を願って、菊を模したうつわを用いておられます。千家十職の樂家や永樂家の懐石のうつわだけでなく、菊の意匠は焼き物の中でも最もポピュラーなものと言ってよいでしょう。織部 キク平鉢北大路魯山人もまた、菊の意匠を用いたうつわを多数残しています。「織部 キク平鉢」は、魯山人が盛んに用いたつば型で菊の意匠を施した鉢です。つば型とはうつわの外周部分に帽子のつばのように平らな部分を有しているものをこう呼ぶのです。織部は本来、美濃地方の焼物でありますから、美濃地方特有の「もぐさ土」が用いられているのですが、魯山人は美濃の陶器を作る際、焼き上がった土味の中に赤みが浮かぶ信楽の土を用いることが多く、古典的なものと異なる味わいを演出しています。この鉢はたっぷりとしたサイズに作られていますが、つばがある分、料理を盛る面積に制限があり、縁ギリギリまで盛り付けることはできませんが、料理を盛り付けた後でもうつわの存在感を強く表しているように思います。また、中央部に菊の意匠があしらわれていますが、この菊もわずかにうつわの中心から外れた部分に置かれ、さらにうつわ自体にもわずかな歪みをもたせてあります。このことが私たちの印象に持たらす効果を、魯山人はよく理解していたらしく、彼の作品によく見受けられる手法です。織部釉も若干のムラを持たせるように掛けてあり、ここにも魯山人の企みが潜んでいるようです。織部釉 菊割文平向付同じ菊の意匠のうつわ「織部釉 菊割文平向付」からも、魯山人の企みを読み解くことが出来ます。全体に釉薬をかけた後、中心部分の釉を軽くふき取ってあります。釉薬を拭っても、陶器の表面には釉薬の成分(恐らくはアルカリ分)がわずかに残り、それが地肌を赤く発色させることを、彼は知っていて狙ったのでしょう。縁の花びらの部分にも、中心に近いところに釉薬が溜まり、緑の濃淡が面白い効果を演出しているようです。このように魯山人のうつわには、なぞかけのように彼の「企み」が散りばめられています。しかし、私たちはそれが彼の意図がはたらいたものではなく、自然にそのような景色が現れたのだと思い込み、数々の「企み」を気づかずに素通りして、それらのうつわを使ってしまいます。魯山人はうつわが作品であるとは考えていなかったのではないでしょうか。料理を盛ることによって完成される美しさや楽しさをいつも頭に描いていた人だったようです。ですから魯山人を陶芸家としてだけ評価するのでは不十分なのかもしれません。「立花図」大岡春卜最後に江戸中期の狩野派、「大岡春卜」(おおおかしゅんぼく・1680-1763)が描いた一双屏風をご紹介いたします。菊を様々な花生に生けた「立花図」と呼ばれる屏風です。この屏風はおそらく単純に絵を楽しむという目的だけで描かれたものではなく、様々な花生について、さらにその活け方について教えるための教科書でもあったのではないでしょうか。当時は、今のように画家が自分の好みの題材で作品を発表し、その中から私たちが選んで求めるのではなく、絵の依頼主が「客をもてなすため」「自分の権威を示すため」「祝い事に華を添えるため」「人に教えるための教材にするため」というような目的をもって製作依頼をしていたようです。ですからこの屏風はおそらく教育的な目的で描かれたものだと推測します。合戦図や物語図も同様の目的で描かれていたものが少なからずあると考えられます。当初はうつわ知新と銘をうって、月ごとに、うつわについてのお話を展開するようにご依頼を受け原稿を書き始めました。ところが書き進めるうちに、食事を楽しむ要素は食材やうつわだけではなく、食事をいただく部屋の設えや装飾までもがうつわと考えられるのではないかという結論に至り、文化全体をひらたくお話をさせていただきました。そのため話が多岐にわたり、文章量も多くなってしまいましたし、もしかすると、うつわ好きの人には、余計な話が多すぎるというご不満もあったかもしれません。日ごろから私の所蔵いたします品々を用いて茶会・食事会・勉強会など、様々な企画で皆さんと遊ばせていただいているため、この場においてもついつい同じようなスタイルで話を進めてしまいました。こうして12回、1年間の連載の仕事を終えたと思っておりましたところ、次は季節感でうつわを捉えるのではなく、やきものの種類ごとの話を連載して欲しいとお話をいただきました。この1年間の投稿をお読みくださった皆様や、連載にお力添えを賜った皆様へのご挨拶の文章を書き終えてからのオファーでした。締めくくりの文章をこのように書き直しながら、コロナ禍で、まだしばらく続く自粛生活のなか、皆様の暮らしに潤いをもたらすようなお話が続けられるよう、もう一度気持ちを新たにして努めてまいります。もう一年お付き合いをいただけますようお願いいたします。
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BLOGうつわ知新
2020.07.31
旧暦七夕と盂蘭盆会
梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。北大路魯山人作糸巻向付数ある魯山人の作品の中でも、とりわけ目を引くこの糸巻向付を8月のうつわとして紹介させていただきたいと思います。五色の糸巻きで七夕を連想させることから、一般的には6月後半から7月7日頃に使われるうつわです。何故そのうつわを8月のものとして紹介したのか、その理由をお話しさせていただきましょう。ひとつ目のお話は、中国の神話が関係します。牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)の恋の話はよくご存じのことでしょう。天空を支配する天帝には機織りに秀でた娘がおりました。ある時、川の東岸に住む娘と、西岸に住む働き者の牛飼いが恋に落ち、やがて夫婦になります。しかし、夫婦になって以降、ふたりとも自らの職分を忘れ、織物も織らず、牛の世話もしなくなったので、天帝の怒りを買ってしまいます。天帝はふたりを天の川を隔てて別々に住まわせ、自由に行き来できないようにし、七夕の夜にだけカササギが天の川に橋をかけ、逢瀬が叶うようにしたのです。これが夏の夜空に輝く、わし座のアルタイルとこと座のベガにまつわるお話です。ふたつ目のお話も、やはり中国から伝わった乞巧奠(きっこうでん)と呼ばれる儀式に関係があります。7月7日に女性たちは棚を設えて酒や供物を供え、五色の糸で飾りつけ、手芸や裁縫の上達を願ったと言われています。また角盥(つのたらい)に水をはって星を映し、願いを記した梶の葉を浮かべて願をかけたようです。このように牽牛・織女の神話と、技術上達を願う乞巧奠の儀式が合わさって、「七夕(しちせき)」の節句を、機(はた)を織る意味の「棚機(たなばた)」という言葉に読み替えて「七夕(たなばた)」と呼ぶようになったのです。ところが、明治6年以降、日本では太陽暦を新しく採用しました。その結果、旧暦に合致していた季節行事に、カレンダー上のずれが生じるようになります。年に一度だけ許された牽牛星と織女星の七夕の逢瀬は、梅雨明け後の晴れ渡った夏の夜空で叶えられるはずが、新暦のもとでは梅雨の真っ只中に変わってしまい、天空のデートは10年に一度実現するかどうかという難しいものになってしまいました。そんなことで、この5色の糸巻向付は梅雨が明けた後の八月初旬に使うことが似合ううつわだと思うわけです。少し話は脱線しますが、手芸や織物は主に農閑期の仕事として昔は行われていましたから、その理由からすれば、この糸巻向付は収穫後から冬の間のうつわだろうと言う人がいてもおかしくありません。結局、うつわの選定は客をもてなす亭主の考えを反映させて、「亭主の勝手にしなさい」と言うことなのでしょう。こうしてうつわについて深く学んでみると、食事のときに話が盛り上がり、うつわもご馳走のひとつになっていくわけです。古染付蓮華文平鉢俳句や歌を詠む際、季節を盛り込むために用いる言葉を季語と言います。そして晩夏を表す季語に「蓮」があります。「古染付蓮華文平鉢」はそういった意味で、7月から8月にかけて使いたいうつわです。「蓮」は極楽浄土に咲く花として慈しまれたことから仏教的なイメージがつきまといますが、うつわの模様はどれもおおむね吉祥紋、つまりおめでたい図柄が用いられています。この「蓮」も、極楽浄土の花というだけにとどまることなく、インドの神話においては梵天(ブラマン/ブラフマー)が蓮の花の中から生まれ出て世界を創造したことから、万物は蓮の花から生ずるがごとくに考えられていました。また多くの仏像は蓮台の上に設置されていますし、蓮の花から半身をのぞかせ、仏が蓮の花から生まれる瞬間の姿を表現した仏像まで存在します。そのように蓮の花は吉祥紋どころかエネルギーの源のようにさえ考えられていたのです。また中国では、宋代の学者の周茂叔(しゅう もしゅく)のエピソードと共に蓮の花が愛されていました。蓮が泥の中より生えているにも関わらず、泥に汚れることなく清浄で可憐な花を咲かせているのを見て、国の政治が腐敗し、社会に不安が渦巻いても、泥の中から蓮が立派な花を咲かせるごとく、どんな境遇でも乱れた世に希望をもたらす人物は必ず現れると唱えたのです。橋の欄干や船端に寄りかかって、蓮を眺める周茂叔の姿は日本の画家たちによっても描かれ、陶芸家によっては盛んにうつわに絵付されてきました。この「古染付蓮華文平鉢」が作られた17世紀初めの明朝末期は、未だ陶磁器を素焼きする技術はなかったため、このような蓮弁の繰り返し模様でさえも、下書をせず、いきなり呉須を筆に含ませて、一気に描いていたと言われます。細やかな筆運びを行いながら、全体のバランスにも配慮できる力が絵付け師に求められたのです。裏面の高台の内側には「大明成化年製」と記されています。高台内に描かれた文字や図形から製作された場所や作者が特定できるのかと尋ねられますが、製作年代や様式を探るための手掛かりになることもありますが、大半の場合は特に意味を持たせず習慣的に描かれたものだったようです。この鉢に描かれた「大明成化年製」は明国の成化年間(1465~1487)に作ったという意味です。しかしこの言葉は、後世の日本の多くの伊万里のうつわにも描かれるほどで、この古染付の製作年代とも異なることから、とりたててこれに意味を求めることは無理なようです。天啓赤絵鮑形鉢次に、やはり明朝の同時期に作られた「天啓赤絵鮑形鉢」をご紹介します。天啓赤絵は明朝末期の天啓年間(1621年 ~1627年)に製造された色絵磁器を意味するのですが、その区別が困難なことから、染付を伴わないか染付に重きを置かない絵付けの色絵を「天啓赤絵」と呼ぶ傾向にあるようです。貝の形はそれを女性器に見立てることから、雛祭りのころに用いることもありますが、魚や海老が描かれ海の匂いも感じられることから8月のうつわとして紹介させていただきます。鮑は神様へのお供えものである新撰(しんせん)として用いられてきた縁起ものです。ところで、「古染付蓮華文平鉢」と「天啓赤絵鮑形鉢」を皿や向付ではなく、鉢と呼ぶのはどうしてだろうか、と疑問に思ったことが以前ありました。単純に、サイズの大小での呼び分けでも正解なのですが、それだけでは充分な区別にはならないようです。鉢はそのサイズ、さらに希少性や品格によって、皿や向付より上位に位置付けられているようです。ですから、場合によっては数物として生まれたにも関わらず、多くが失われてしまった結果、鉢として扱われるようになっているものもあるように思います。浮田一蕙筆「盂蘭盆会(うらぼんえ)」浮田一蕙筆「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と「盆踊り」の二本を8月の掛軸としてご紹介いたします。「盂蘭盆会(うらぼんえ)」は、地獄の責め苦から救う意味、或いは逆さ吊り刑を意味する「ウラバンナ」が語源だといわれています。お釈迦様の16人の弟子のひとりが、亡くなった自分の母が飢餓道に堕ち、一切のものを口に入れることが出来ずに苦しんでいることを知ります。その原因は、母が自分を養うために他人への施しを拒んだことによると解り、彼は悩み苦しみます。そしてお釈迦様に自分の心情を訴え、お盆の日に母に代わって人々に施しを行うことを勧められます。その結果、施しは母にも届き、母は地獄を抜け出すことも叶ったのです。従って、この絵も吊り灯篭の下、人々がお供えを運ぶ姿が描かれています。浮田一蕙筆「盆踊り」もう一方もお盆の情景が描かれています。盆踊りをする人々の中に顔を隠して踊る女性がいます。お盆には亡くなった先祖が現世に戻ってくると信じられていますので、顔を隠し、供養する人の着物を着て、その人に扮して踊っているのです。どちらの絵も、多くを描かずにさらりとした表現で、情緒やその風情を伝えています。今月もいくつかのものを紹介しましたが、それらを鑑賞することは勿論ですが、それらを理解するための私たちの教養が必要だということにもお気づきいただけたでしょうか。日々何気なく通り過ぎているものに、深いストーリーが隠されています。ぜひ、立ち止まって調べる楽しみを発見してください。
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2020.06.30
祇園祭
梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。祇園祭 京都に住まう者にとって、7月といえばやはり祇園祭の月でしょう。祇園祭においては、17日と24日の山鉾巡行はもちろん、実は7月初旬からほぼ一カ月の期間の中で様々な行事が執り行われています。つまり、祇園祭は7月をまるまる使った、とても盛大なお祭りなのです。 祇園祭といえば京都独特の祭りと思われがちですが、日本各地にも同様の鉾や山車(だし)を曳く祭りが残っていますし、以前、ネパールを旅していてこの祇園祭とそっくりの鉾が曳かれるのを見たこともあります。 祇園祭の山鉾が世界中から取り寄せられた工芸品や宝物で飾られることからも、国内だけでなく、やはり広く世界中からの影響を受けているものと思われます。 さて、今回ご紹介する二つの染付の鉢は、どちらも同じ図柄を有しており、その図柄はまさに、祇園祭のシンボル的なお飾りの「祇園守(ぎおんまもり)」のような紋様です。ですから私は7月にこの鉢をよく使わせてもらいます。 ひとつは古染付(こそめつけ)とよばれるもので、約400年前の明朝末期に中国の景徳鎮(けいとくちん)で作られた「古染付祇園守図兜鉢(こそめつけぎおんまもりずかぶとばち)」です。 もうひとつは、ほぼ同時代に景徳鎮より400㎞ほど南下した場所にある漳州窯(しょうしゅうよう)で焼かれ、別名、汕頭焼(すわとうやき)と呼ばれる「呉須祇園守図兜鉢(ごすぎおんまもりずかぶとばち)」です。この漳州窯で焼かれた品を呉須・呉州・昂子と表記し、いずれも「ごす」と読ませています。染付の染料の「呉須」とまぎらわしいので注意してください。 いずれにせよ、古染付と漳州窯の呉須の二種類の焼物は、海を渡った明の国に日本人が発注し、1620年から1640年頃にもたらされたものと考えられています。景徳鎮は現在においても焼き物の一大産地です。時をさかのぼり、明の時代においては、国家が管理する官窯(かんよう)として発達を遂げていました。しかし、政治体制の乱れにより、労働に見合った保護が受けられなくなった職人たちは、同じ時期に発生した、貨幣を使って物を売買する経済習慣に乗り切れず、国家からの仕事だけでは暮らしが立ち行かなくっていきます。やがて、職人たちは官窯を離れ、自分達で国の政策に反した陶磁器を生産して、独自のルートで流通をさせていくことになります。 このことは、国家によって認可されていない交易を発展させ、景徳鎮の人たちに貨幣的な富をもたらしました。それと同時に、多くの陶磁器を、東インド会社を通じて西洋へ、そして日本へももたらしました。そして、その中で形や文様を指定しての発注が行われた結果、この祇園守に似たの図柄が出来上がったのだろうと想像します。こうして説明してしまうと、産地も違うのに絵柄が揃っているということは、まるで祇園祭に馴染みがある京都の人のための限定的なうつわのように思えてきますが、そうではなく、この紋様は数ある吉祥紋のひとつと考えるべきでしょう。このめでたい図柄がたまたま産地の異なる漳州窯へも発注され、産地の異なる同じ図柄の鉢が祇園祭に適したものとして、ここに揃ったものだと思います。 この二つを比較すると、それぞれの焼物の特徴が箇条書きできるくらいにはっきりしています。古染付は薄手で、絵の描かれていない余白部分が白く、呉須(コバルト)の発色も明るい。縁には虫喰いと呼ばれる、欠けたようにも見える釉薬の剥がれが見受けられます。高台の畳付(たたみつき)部分には釉薬が掛からず、そこから見える土色は白く、高台周辺には少量の砂の付着が見られます。高台内には高台を削り出すときに放射線状に残った鉋 (かんな)跡が残されていることが多いのも特徴と言えるでしょう。 一方の漳州窯は厚手で、白い余白部分も曇天の空のようにくすんだ色をしており、呉須の色は黒く沈んでいます。虫喰いはないものの、裏面の高台内外にはべっとりと多くの砂が付着しており、釉薬の切れ目から覗く生地は白とは程遠い濁った色をしていますの見える部分から見える粗雑なうつわの印象が強く感じられます。呉須は生地の色が美しくないことを隠す目的なのか、分厚く釉薬がかけられていて、古染付の高台内に見られた鉋跡は見ることができません。 景徳鎮と漳州窯は、400年前の明ではライバル的な産地でありながら、景徳鎮の方が高い評価を得ていたのか、染付、色絵、青磁に関わらずより広く世界に輸出をされていたようです。 それに対して、なんとか巻き返しを図るべく、漳州窯でもこの二つの鉢の対比にみられるような、景徳鎮をまねた形や図柄を生産して世に送り出したようです。しかし、景徳鎮ほどの評価を得ることはなく、特に西洋社会においては下手な焼物と評価されていたようです。日本においては逆にその粗削りな表現が面白いと呉須赤絵(ごすあかえ)は特に好まれました。 この二つにみられるような兜形の器形は、見込みの部分が平らで広く確保できているために、たっぷりの料理やお菓子も盛りやすく、それでいて狭い茶席でも取り回しが容易です。そんな絶妙なサイズ感が、日本の茶人たちに重宝されたようです。 本来、利休の趣向の侘茶では、地味な土ものの茶器が好まれ、白や藍さらには色絵磁器のような華やかなうつわは用いられることはありませんでした。しかし利休のあとを引き継いだ古田織部をはじめとする大名茶人たちは、利休の美意識から一歩踏み出して、新たな道具も取り込んで自分たちの世界を表現しようとしました。つまり茶の湯の世界でも大名であることの権力を誇示し、自分の美意識を鮮烈にアピールしたい欲求が、明からもたらされたうつわなども広く取り込む結果を導いたのだろうと思うのです。 祇園祭のイメージで使えるうつわは他にもあります。ご紹介するのは「棗(なつめ)」と呼ばれる抹茶を入れておくための漆のうつわで、「時代片輪車図蒔絵平棗(じだいかたわくるまずまきえひらなつめ)」です。「時代」という表現は作者が不詳の古作に対して使う表現です。「片輪車」は現在では誤解を招きやすい表現のため好まれず、「波車(なみぐるま)」あるいは「車洗(くるまあらい)」と置き換えられているものも多く見られます。 棗の蓋裏には祇園祭を執り行う八坂神社の紋の一つである、三つ巴の紋が散りばめられています。祇園祭のために作られた棗というわけではないと思われますが、表面に施された車輪が祇園祭の鉾を連想させると共に、三つ巴紋が八坂神社にご縁がある物として、この時期に用いたものです。 さて、ここで一つ知っておいていただきたいことがあります。お茶会の道具建てを考えるときには「なぜ今回これを用いたのか」という理由を明確にしておかなければなりません。お茶会の中でその理由を参加者に披露し、それをご馳走として楽しむ習慣があるからです。食事の中で旬の食材を用いて、その産地にまで話がおよび、食事のシーンを盛り上げるのとよく似ています。うつわにおいても、なぜ今日このうつわを使ったのかという理由は、食事のご馳走のひとつになり得るものだと思います。ですので、うつわ選びにも、茶会の道具立て同様、細心の注意を払えればより楽しい演出ができるかな、と思います。 最後に、私が祇園祭の頃にぜひ使ってみたい菓子器をご紹介します。京都で銀製品を製造する老舗、竹影堂の銀の菓子器です。銀を使って笹の皮を表現したものですが、その形状から粽(ちまき)などの長物にちょうど使いやすいものになっています。 祇園祭の時期、粽は好んで食べられるのですが、粽の起源は中国の紀元前の楚(そ)の時代の故事に由来すると言われます。楚の国の懐王(かいおう)に仕えた重鎮に屈原(くつげん)という者がいました。楚は常に大国・秦からの侵略に怯える立場にありましたが、ある時、秦の調略によって、和平協定を結ぶ話が持ち上がりました。多くの家臣はそれに賛成をしたのですが、屈原はひとり秦の策略を見抜き、断固としてそれに反対をしました。そのため、屈原は地方に左遷されてしまい、都落ちして赴任先に赴く途中、楚の都の陥落を耳にします。これを悲観した屈原は入水自殺を図り、湖の底に沈んでしまいました。民衆からの信望も厚かった屈原に対して、人々は魚に食い荒らされる屈原の屍を救いたいという願いから、湖に食べ物を投げ入れます。 しかし、直に投げ入れたのでは湖面にいる魚にばかり食べられてしまい、湖の底に眠る屈原のところまで届かないことに気が付き、笹にくるんで投げ入れる習慣が始まった。それが粽の始まりと言われています。 また、応仁の乱により一面の焼け野原と化した京の都において、天皇家は困窮を極めた時期があったと言われます。その窮状を見かねた吉野の葛族(くずぞく)が自分たちの主食としている葛を献上しました。その葛の調製を承ったのが、川端道喜(かわばたどうき)でした。 以降、川端道喜の水仙粽は明治初年まで皇室に献上され続け、現在の日本の粽の形を作りました。粽は笹でくるまれていますが、本来は茅(ちがや)を用いた時代もあり、「夏越の祓(なごしのはらえ)」の頃には、神前に茅で編んだ大きな輪「茅の輪(ちのわ)」が設置され、人々はそれをくぐることによって、半年の穢れを祓い、夏の疫病や災厄などから免れることを祈願しています。 このような様々なストーリーを経て、笹や茅を使ったものは夏や祇園祭を表す象徴的なものへと考えられるようになりました。 祇園祭においても、鉾町でお守りとしての粽が売られたり、鉾の上から粽が撒かれたり、また祇園祭に近い時期の茶会には粽をいただく習慣が出来たのです。 しめくくりとして。 このように京都では祇園祭と言う一大行事が茶会の道具に、食事のうつわや食材にまで影響を及ぼし、また私たちもそれぞれに趣向を凝らすことによって楽しみ、梅雨から盛夏にかけての厳しい気候を乗り切ってきたわけです。
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BLOGうつわ知新
2020.05.29
水無月
梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。水無月6月といえばいよいよ夏。同時に雨の季節ですが、それとは裏腹に、水無月(みなづき)とも呼ばれ、文字の上では水の無い月と表されます。その理由は諸説ありますが、田に水を引き込むため、川の水位が下がってしまうので、水無月と呼ぶのだという説や、「水の月(みずのつき)」という意味を「水な月(みずなつき)」と呼んでいたのが水無月に変化したとも言われています。さて、一般に「天気が悪い」と聞かされると「雨だな」と日本人の誰もが思うことでしょう。しかし、出張先のタイで、「きょうは雨降って、涼しくていい天気だね。」と友人から思わぬ言葉を聞かされたことがあります。友人によると「タイには春・夏・雨季と3シーズンがあるが、雨季こそが実りをもたらす大切な季節だ。だから雨季に入ると嬉しい。」のだそうです。「雨が嬉しい。」「雨が良い天気。」そう聞かされると、雨や蒸し暑ささえ、考えようによっては楽しむ方法があるかもしれないと思えてきます。京焼 編笠向付さて、今月最初にご紹介するうつわは、京焼の「編笠(あみがさ)向付」です。現代では使われることの少ない編笠ですが、昔はどのような使われ方をしていたのでしょうか。今でも雨天のお茶会では露地笠と呼ばれる編み笠を用意して、茶室までの道のりを案内しますし、お祭りでも行列の中の装束として編笠を見かけるもありますが、せいぜいこれくらいのことでしょう。「笠地蔵」の昔話では雪の中でも登場しますが、「編笠」は夏の季語として使われるので、やはり冬のものと言うより、夏場の日除け•雨具の意味が強いようです。そんな編笠をうつわの意匠に用いようとした思いは、雨や強い陽ざしを、単に悪天候とは捉えず、緑が深まり、実りに至るまでの植物の大切な成長の季節として扱った様子の表れではないでしょうか。次に京焼についてお話をさせていただきます。京焼はその名前の通り、京都で生産された焼き物を指しますが、千利休の求めに応じて生み出された楽焼だけは京焼に含めないとされます。さらに掘り下げると、美術愛好家たちが「京焼」と言う場合は、磁器質の清水焼を指さず、粟田焼・仁清焼・乾山焼などの施釉陶器を指すのに使っているようです。この京焼の一番の特徴は、描かれた絵の巧みさにあると思います。筆数の多い少ないにかかわらず、その施された絵の品の良さ、デザイン力の高さは、これを焼かせた発注主、つまり数寄者の文化度の高さを示すようですが、絵付けだけでなく、轆轤や細工の巧みさもうつわの品格を高めていると言えるでしょう。耐久性・実用性に背を向けてまで、壊れていく危うさ、はかなさも含めて、数寄者の感性を満たしたうつわが京焼です。読者の皆様の中には、本当にそれほど数寄者の求めを反映したうつわなのかどうか、疑問に思う方もあるでしょうから、もう少し詳しく解説してみましょう。この「編笠向付」は、轆轤で真円に引き上げた碗を、両手で左右から押して変形させ、そうしてできた狭い先端部の形をわずかに尖らせて整えています。それだけでなく、縁に高さの変化をつけて、うつわに前後の方向を与え、また、編み上げた風情や表現を強調するために口縁部に細かな刻みを入れてあるのが見て取れます。裏面の高台は低めに抑え、絵付けも錆絵にわずかに染付を添える程度に抑えて、わびた肌色の地色が編笠を品よく綺麗に見せるように、よく考えられています。まさに綺麗さびという完成です。こうしてうつわを眺めるだけでなく、読み解くむ感覚で見ていくと、いままで気づかなかったうつわの本当の姿が見えてくるかもしれません。春海バカラの鉢3種夏のかおりが漂い始め、水辺が恋しくなると、ガラスのうつわが活躍する季節です。ガラスは、ビードロ・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・義山(ぎやまん)と、製法や歴史的背景によって呼称は数々あります。瑠璃と玻璃はそれぞれ、インドから渡ってくる仏像・仏具に嵌められていた石を意味します。瑠璃は青みがかった透明感のある宝石から、玻璃は水晶から生じたガラスの異称に由来するようです。ビードロは1543年に種子島に鉄砲が伝来して以降、ポルトガルとの交易が盛んになり、そこで伝えられたガラスを称する和製ポルトガル語です。しかしこの頃は薄い吹きガラスしか造る技術がなかったため、現代でもビードロは吹きガラスを意味する傾向があります。さて、義山(ぎやまん)ですが、島原の乱をきっかけに、キリスト教布教を伴う西洋諸国との交易は国政を危うくすると徳川幕府は考えました。そこで、布教をせず交易のみ行うと約束したオランダ船のみ、出島への入港を許可しました。このオランダ船によってもたらされたのが、厚いガラスにカットを施した切子(きりこ)ガラスであったとされています。これをオランダ語ではダイヤモンドを意味するディアマントと呼び、それを日本人が義山(ぎやまん)と呼ぶようになった訳です。かつて平安時代までは日本でもガラス造りは行われていたようですが、それ以降、技術は忘れられ、ガラスは舶来の貴重なものという感覚が私たちに宿るようになりました。 さて、現代の私たちが義山(ぎやまん)と呼んでいるうつわはどんなものか、ちょっと見てみましょう。春海バカラの向付と酒杯明治34年(1901年)大阪の時計宝飾商の安田源三郎が欧州から帰国した際に持ち帰ったバカラ製のクリスタルガラスを、古美術商の春海商店店主、春海藤次郎に見せたことによって、バカラ社に茶懐石の道具として発注されたのが所謂「春海バカラ」と呼ばれるものです。このうつわたちの美しさは当時の数寄者を虜にし、春海商店以外からもバカラ社にうつわが発注され、平安以降再起した日本のガラス産業にも大きな影響を与え、茶の湯の道具から懐石のうつわへと、義山の流行が広がっていったのです。カットを施したこの分厚いガラスをクリスタルガラスと呼びますが、英語ではlead glass(レッドグラス)と言い、つまり鉛ガラスを意味します。ガラスの成分に30%近くの鉛成分を含ませることで、硬さと透明感が生まれ、カットを施すことでダイヤモンドのごとくの強烈な輝きを放ちます。ただでさえ他のうつわでは代用できない、特別な輝きと透明感を持った鉢に、さらに色ガラスを被せてカットしたものも存在するので、そちらも併せてご紹介します。これらを手に入れた明治時代の数寄者の喜びがいまでも伝わるような美しさではないでしょうか。やがて数寄者たちは、菓子鉢に留まらず日本独特の蓋向付や、酒盃までも発注するようになっていきます。いまでは夏の定番のようになった義山のうつわたちにもこんな歴史があることを覚えておいてください。最後に、今月も掛軸を一本ご紹介させていただきます。まるで子供の落書きのようなこの絵は、日本を代表する画家の一人、熊谷守一の手によるものです。彼は裕福な家庭に生まれながらも、「画壇の仙人」とも呼ばれるほどの極貧生活を送り、また彼の住まいから、長い年月外へ出かけることなく、その家の庭で日々起こる些細な出来事を見つめ続ける暮らしを送った人です。この絵は雨だれを描いたもので、家の樋(とゆ)から雫が落ちて、水たまりに跳ねる様子を描いています。水の跳ねる姿が彼の興味をそそっただけなのでしょうか。私は、もう少し違うように感じました。 描かれている跳ねた水滴は、まるで仏様が座っているような姿にも見えます。もしかすると、こんな些細な日々の出来事の中にも、彼は仏が宿っていることを感じていたのかもしれません。コロナウイルスの問題で、自宅待機を強いられているこんな時期。私たちは家に留まって、 熊谷守一の生き方から学ぶものがあるのかもしれません。撮影:竹中稔彦
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BLOGうつわ知新
2020.04.30
皐月 端午の節句
梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。皐月 端午の節句5月の時節を代表する花と言えば「あやめ」「しょうぶ」「かきつばた」が思い浮かびます。これらの花は、詳しい人でなければ区別がなかなかつかないらしく、「あやめ」と「しょうぶ」はいずれも漢字表記では「菖蒲」と表すほどに近しい花です。これらの花はうつわやお軸の図柄としてもたびたび登場いたしますので、今回はこれらの植物と美について少しお話をさせていただきます。陶芸家の北大路魯山人は「あやめ」を「あや免」と箱書きに記し、あやめを題材にした多くの作品を残しています。その中からまずは、「あや免鼠志野鉢」を紹介いたします。この作品は、縁の2箇所に「窯裂(カマギレ)」、つまり焼成中の歪みによって、縁の部分が裂けてしまったものを金継ぎ(金を用いて補修すること)してあります。私たちの業界では、うつわが完成した後に、人の過失によって破損した場合は「キズモノ」と呼ばれても仕方ないのですが、窯の中で発生したことは、自然のものとして、ありのまま受け入れようとする考え方があり、金を用いて修理した景色も、アクセントのひとつとして、面白いなぁ、と私は思うのですが、人によってはこれを「キズモノ」同様に嫌う方もおいでになります。さて、この「窯裂(カマギレ)」について、魯山人はある逸話を残しています。業界の大先輩にお聞きしたことがありましたので、皆様にもお伝えしておきましょう。魯山人 鼠志野鉢「あやめ」魯山人は昭和30年頃から、祇園の新門前通にあります京都美術倶楽部を会場に、作品の発表と販売を幾度か行っていましたが、それより少し以前に、京都女子大学近くの東山の山裾に佇む、裏千家の桐蔭席と呼ばれる茶室をお借りして作品を発表していたことがあったそうです。そこへ私どもの同業のご主人が訪れて、次回からは京都美術倶楽部で開催してはどうか、と提案されたことがあり、その際に、たまたま陳列会場の端に無造作に放置されていた「窯裂(カマギレ)」のある作品を目に留め、これも金継ぎ補修して販売されたら良い、とアドバイスをされたそうです。それ以来、魯山人は自ら金継ぎをして、作品を発表するようになったと言うことです。さて、このエピソードを聞いて、改めてこの「あや免鼠志野鉢」を見てみると、このうつわはまさにそういう経緯で生まれた品物だろうと思えてきます。ところで、魯山人はこの世に20万点以上の作品を残したと言われています。私が親しい陶芸家に、生涯に制作する点数を尋ねたところ、5万点くらいだろうと教えてくれました。彼は超人気作家で、決して作品数の少ない人ではありません。それを踏まえたうえで魯山人のことを考えると、その作品数の圧倒的な多さがおわかり頂けるかと思います。作品数が多いと、希少性が失われ、値打ちが下がるのでは、とお考えの方も、多くおいでになるかもしれません。しかしながら、作品数が多いからこそ、広く人の目に触れ、多くの人に所有され、市場を形成できたわけですから、作品のクオリティが保たれているのであれば、むしろ多作であることはその作家の評価を上げる効果につながると言えるでしょう。しかし魯山人がそれだけ多作であれば、同時に多くの破損した作品や失敗作、「窯裂(カマギレ)」を起こしたものも多数生み出されたことはご想像いただけるかと思います。私もいままでに、そういった作品をたくさん扱ってまいりましたが、それらはどれも「完品(かんぴん)」とは呼ばれなくとも、充分すぎる魅力をたたえた作品でした。一方で、魯山人が多くの作品を残せた理由は、それは本人が作らず、職人に作らせたからだと言う人がいます。しかし、私が以前読んだ書籍の中に、魯山人の作品は、全て本人が作った作品である、と明言している文章がありました。そしてそれはおそらく真実でしょう。というのも、彼が言わんとする「作る」という行為は、単に轆轤をひくということではなく、絵付を施すということでもない、つまりは自分は直接手を下していなくとも、土を選び、その配合割合を決め、釉薬の調整を指示し、形や造形にも関わっていく、それらを総合的に自分はコントロールしているのだ、ということなのだと思います。料理屋のご主人が、野菜を作り、魚を釣り、お出汁をひき、料理を盛り付け、といったすべてをひとりで行わず、時には誰かに委ねはするものの、最終的に自分の責任において吟味しつくし、自らの料理と呼ぶにふさわしい水準に引き上げてお客様に提供するのと同じことではないでしょうか。魯山人の作品は全て、魯山人自らの責任の下で完成をさせて世に送り出したもの、ということであって、自分が全ての工程を、誰の手も借りず行ったという意味ではないのです。自分で責任をもって作品を完結させているからこそ、魯山人の作品は、彼のこだわりが大変強く反映されていますし、それゆえ多くの作品が陳列されているオークション会場においても、彼の作品は一目で見分けることができるのでしょう。織部釉『あやめ十字皿』先にお話ししたように、魯山人は大変多作なアーティストでしたから、おそらくは傷物として世に発表されなかった作品も多く存在したことでしょう。私も何点かそういったものを持っていて、ここに紹介する「織部釉菖蒲十字皿」はまさにそれに当たると思います。素焼きの段階で対角線上に割れてしまっていますが、織部釉をうまく裂け目に沿って掛け、裂け目を塞いでいます。このうつわが私の手元にやってきた時は、織部釉の表面が曇っているようで、まるですりガラスのような、光沢のないうつわでした。いつだったか、私が陶芸家たちと一緒に開催している勉強会の中で、うつわの表面をサンポールで拭き取ると、酸が作用してくすんだうつわの表面の透明感が増す、という話が出たことがあります。そこで、うつわをひと晩サンポールに浸しておいたところ、写真のような美しいかがやきが蘇りました。魯山人は割れたうつわをゲモノとして扱わず、割れた部分さえ見どころにしてしまおうと目論んだ、そんな魯山人独特の考えの証がこのうつわだと思っています。永楽十四代得全造『光琳絵様 色紙皿』次にご紹介するうつわは「永楽十四代得全作光琳絵様色紙皿」です。このうつわは20客絵替わりで揃っており、それぞれに季節の草花が描かれています。その中に、この時期に使ううつわとして、杜若(かきつばた)を描いた「八ツ橋図」があります。杜若が咲いている湿地の上に、簡単な足場としての板が渡してある風景が描かれているのですが、この風景は古くから日本人に愛されてきた伊勢物語の中の有名なエピソードを表しています。平安時代、在原業平が京の都に住まうことが難しい状況になり、お供を伴って東国へ下っていく情景が伊勢物語の中で語られています。そして、ちょうど三河の国辺りを通りがかったところで、このうつわに描かれた「八ッ橋」の風景に出くわしたそうです。大変美しい景色であったのでしょう、「か・き・つ・ば・た」という言葉を、節の先頭の音に絡めて「唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」と歌を詠み「着慣れた唐ころものように気心の知れた妻を都に残してはるばるこんなところまで来てしまった」と、未練を込めて残した歌や心情を絵に置き換えて、幾度となく描かれてきたのがこの「八ツ橋図」なのです。 うつわを通して、日本の古典文学や和歌に触れられることの一例です。樂六代左入作の「柏皿」次は柏の葉の形をした向付をご紹介いたします。端午の節句に、みなさんは柏餅をいただかれることと思いますが、柏の葉はお正月のゆずり葉と同じ意味を持っていて、柏の葉は枯葉となっても木から落ちず、新しく葉が出てくれば古い葉が落ちて入れ替わる。つまり、「子が育つまで親は息災である」「家系が途絶え事がない」など、神様に見守られた世代交代を暗示する植物なのです。また柏(かしわ)は、米を炊(かしぐ)ときに柏葉を下に敷いたことからその名があると言われているので、男の子の成長を祝う端午の節句に、赤飯を炊き、餅を包むのに柏の葉を使ったことから、この時期の使われる向付になったのでしょう。今月も最後にお時候の掛軸をご紹介いたします。江戸の後期に活躍した三村晴山の手による「菖蒲甲虫図幅」です。何気なく見ているだけでは青葉の根元に甲虫が休んでいるだけの構図ですが、描かれているものの意味を読み解くと、また違った姿が見えてくるのです。このお軸の中では、菖蒲の葉は刀を、甲虫は兜を表しています。菖蒲は尚武(しょうぶ)、つまりは武道や武勇を重んじる精神を意味しており、まさに端午の節句にふさわしい植物なのです。 5月の掛軸に武者絵などを用いたり、甲冑を飾ったりもいたしますが、それに比べると、なんと和やかで洒落た表現なのだろう、と感心します。さて、ここまで5月の季節を様々な作品を通してお話しさせていただきましたが、感性だけで季節を楽しむのではなくて、知識や教養が、より深い美の世界を見せてくれることを感じ取っていただけたでしょうか。是非皆さんも、暮らしの中にそんな美を探してみてください。
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BLOGうつわ知新
2020.03.23
卯月 -桜-
梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。卯月 -桜-「願わくば 花のしたにて 春死なむ その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ」これは「2月(如月)の満月のころに花の下で死にたい」と、西行法師が桜への思いを歌たったものです。如月(2月)と読まれていることから、これを梅花を見ながら死にたいと願った歌ではないだろうかと疑問を持つ方もあるのではないでしょうか。ところが、辞書を引いてみると、「単に『花』と表現されている場合は『桜』のことを表す。」と解説がされています。私も古美術を商う以前、「花」は植物全般の「花」を表すものとしか理解していませんでしたから、このことを知って驚かされました。それ以来、和歌の意味を調べる際に、「花」=「桜」と解釈しておりますが、不都合を生じることはまずありません。日本国花のひとつでもあり、場所取りまでしてお花見に出かける一大イベントを巻き起こし、「花」=「桜」と解釈されるくらいの存在であるにもかかわらず、「桜」は「松竹梅」「四君子(梅・竹・蘭・菊)」...などのような吉祥を表す植物に含まれていません。それよりも桜花の下で気がふれるような物語が作られ、短命な「はかなさ」の象徴とされ、根元には屍が埋められているとまで噂され、人々に強烈に愛されながらもネガティブな印象もあわせ持つ不思議な存在が「桜」なのです。西行の歌の2月15日(如月の望月のころ)はさておき、私の日ごろの暮らしの中で「桜」は4月のイメージです。過去のデータを調べれば、例年4月上旬に桜は満開になっていますから、桜の季節は4月と思っている方も多いでしょう。ですから4月に向けて、桜をあしらった帯を締め、雲錦模様(桜と紅葉をあしらった図柄)のうつわが使われるわけです。「時代本間六曲犬追図屏風」江戸時代 作者不明桜は屏風画の世界でも春を表現する重要な題材として描かれてきました。今月はそんな桜を描いた屏風画をご紹介させていただきます。最初にご紹介する屏風は約400年前、桃山~江戸初期に描かれた「時代本間六曲犬追物(いぬおうもの)図屏風」です。犬追物は、武家たちの鍛錬を目的として行われた競技会です。サッカーコートより少し小さめの敷地に犬を放ち、犬を傷つけないように配慮した矢を用いて武芸を競いました。鎌倉から室町時代にかけて随分と流行した犬追物ですが、江戸時代に入って、弓矢に代わって鉄砲が重要視され、五代将軍徳川綱吉が生類憐れみの令を制定したことにより、開かれなくなっていきました。満開の桜の下に様々な階層の人たちが集い、その華やかな時候に合わせて開催されたのであろう犬追物、双方を楽しんだ様子をうかがうことが出来だけでなく、当時の着物や髪型の流行までも興味深く見せてくれます。またこの屏風の所有者のことを推察すれば、犬追物を大変愛し、きっとこの屏風をしつらえて、人を招き会食なども楽しんだことでしょう。そういった意味ではそれも、うつわと呼ぶことはできなくとも、食事等を楽しむための道具のひとつだったと考えることができるのではないでしょうか。さらに今回は屏風をもう一つご紹介いたします。「時代本間源氏物語図屏風一双」です。名前にある、「時代」というのは古い時代物であることを意味し、「本間(ほんけん)」というのは、座敷の鴨居の下までの高さを示し、おおよそ170 cm強の高さを表しています。「一双」というのは一対と同義語で、多くの場合、一対の左側が春から夏を、右側が秋から冬を描いています。この屏風は源氏物語54帖の内の異なる帖を左右に分けてひとつづ描いています。残念なことに左側はどの帖を描いたのかを断定することができないのですが、桜満開の宇治橋とその周辺を描いたものだろうと思われます。「時代本間源氏物語署図屏風一双」 江戸時代 作者不明右側は、「野分(のわけ)」の帖を描いており、秋の強風(台風)によって屏風が倒れそうになり、女房たちの慌てている仕草が描かれています。屏風は折り曲げて飾ることにより、奥行きを演出するのだと言われていますが、完全に伸ばしきった状態で鑑賞しても、遠近を感じられる工夫がされていて、遠近法が未発達な中においても、絵師たちが知恵を絞って描いたことをうかがうことができます。屏風の中には、所有者の権力を誇示す目的で描かれたものや、物語を語り聞かせるための教育的な絵本のような役目を果たすものもある中、ご紹介したニ種の屏風は、人をもてなすために描かれたのであろうとうかがい知ることができます。つまり、食事の時のうつわの役割に似た目的で使われたものだと言えるかもしれません。器に込められた桜への憧憬つぎは桜を描いたうつわをご紹介いたします。最初に白井半七の作品で「模乾山寄向付(けんざんうつしよせむこうづけ)」10客のうちより、貝合(左)、桜狩(右)を選んでみました。白井半七造 模乾山寄向付より、貝合(左)と桜狩(右)貝合(かいあわせ)は2枚貝の形のうつわに、桜と芽柳(めやなぎ)が描かれています。貝はその内側に絵を描いて、絵合わせの遊びに用いられました。それは男女の和合のようであり、この世で一組しかぴたりと合わさるものがない、つまり一組の男女が一生添い遂げるという意味を持たせているのです。このことから雛祭りに貝の形をしたうつわを用い、蛤のお料理をいただいたく習慣が生まれたのです。貝の形に桜と芽柳を描くことで、3月の桃の節句へと向かうまだ寒い時期から使い始め、お花見の時期を経て、桜が散って柳の新芽がまぶしい初夏の頃までの長い季節を楽しめるように工夫がされているのです。それとは逆に桜狩のうつわは短い季節を的確にとらえて楽しませてくれるうつわになっています。名前は桜狩と書かれていますが、野山も描かれていることから、「吉野山」と命名されてもよいうつわだと思います。十六代永樂即全造 乾山写絵替 細向付より、雲錦(左)と吉野山(右)次のうつわは筒状の形をしていますが、これを深向付(ふかむこうづけ)または筒向付(つつむこうづけ)と呼び、16代永楽即全によって作られたものです。先ほどの白井半七のうつわと同じく尾形乾山のうつわの意匠より作られたものなので「乾山写絵替細向付(けんざんうつしえがわりほそむこうづけ)」となっています。左側は雲錦模様、右側は吉野山を描いています。万葉の時代から桜は吉野、紅葉は龍田川という名前が当て嵌められてきましたが、その両方の桜と紅葉を描くことで春にも秋にも使えるよう雲錦模様(うんきんもよう)というものが考案されたのでしょう。最後に黒い椀に朱でさくらを描いた吉野椀をご紹介いたします。吉野は桜で有所でありながら、修験道の実践の場として、大変重要な地でもありました。ですからこの椀は、豪華な蒔絵を施したものとは違い、むしろお寺の什器(備え付けのうつわ)として生まれ、きらびやかな装飾は控えた椀になっています。吉野椀 作者不明屋外は桜が満開、料理にも華やかな春の食材が並び、その中で、あえて華美な装飾を抑えて存在感を表している椀です。華やかさと地味さ、甘さと辛さや苦さ、相反するもの料理の中でうまく表現されているのが日本の料理だと思います。この吉野椀が愛される理由はその控えめな存在感なのでしょう。今月はうつわの枠を大きく外れ、屏風にまで話が及びました。ひと昔前の日本人は茶の湯を通じて、物の扱い方、鑑賞法を学んでいたわけですが、茶道が堅苦しく、窮屈で儀式的なものと捉えられがちな今日。食事を楽しむ中で、使われるうつわや道具に目を向けて、教養を高めていく楽しさが、見直されているように感じるのは私だけでしょうか。
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BLOGうつわ知新
2020.02.28
三月雛祭り
梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。三月雛祭り 三月と言えば雛祭りを思い浮かべます。平安の頃、「雛(ひな)」は「ひひな」「ひいな」と言われ、小さいものを指す言葉だったようです。今でも「ヒナ」と言えば、「ヒヨコ」など、誕生間もない小鳥を指しますが、そのことから、小さな人形などで遊ぶ「おままごと」を「ひいなあそび」と呼んでいたようです。 やがて江戸時代になり、3月の初めの巳(み)の日に、人々が水辺に出て、祓(はらえ)や禊(みそぎ)行う習慣が行事として根付くようになり、この日を「上巳(じょうし)」の節句と呼ぶようになります。それが3月3日に固定され、婦女子の祝いの日として、「ひいなあそび」から「雛祭り」へと季節を彩る催事へと変わっていったと考えられます。布志名焼 黄釉菱皿 華やかな黄色の器は「布志名焼 黄釉菱皿」です。布志名焼は18世紀後半に興りました。茶人としてよく知られる松平不昧公の指導のもとで、ここ布志名では茶道具などの製作が盛んに行われ、やがて日常使いの民芸風のやきものの製作へとその方向を変えて、今日に至っています。 この菱形の皿は布志名焼の特徴的な黄釉(黄色い釉薬)をかけて焼かれています。懐石の向付のように茶人好みの薄造りで品よく、現在の布志名焼のように耐久実用性に重きを置いた民芸調の作風とは異なる雅味のある出来栄えです。 菱型は植物の菱に由来し、その繁殖力の強さから「子孫繁栄」を意味するものとされ、ひな人形に菱餅を供えることからも、3月に好んで使われる形です。九代 樂了入 作 桃香合 また、上巳(じょうし)の節句」は「雛祭り」のことであり、さらに桃の花が咲く時期に当たることから「桃の節句」とも呼ばれます。桃は長寿のシンボルですから、貝形だけでなく、桃形の器や香合なども用いると楽しいでしょう。ころんと丸みをおびて艶やかな深い緑釉の香合は、九代 了入の作品で、この季節にふさわしい香合です。十一代 樂慶入作 簾貝向付 雛道具の「貝合わせ」には、蛤が材料に用いられています。蛤はもともと一対だったもの同士でしか組み合わせることができない特性を持っているからです。このことは「貞節」や「男女和合」のシンボルとしても好まれるようになります。雛祭りの料理として、蛤のお椀をいただくようにもなりました。 やがて蛤だけでなく、写真の簾貝(すだれがい)や唄貝(ばいがい)、栄螺(さざえ)など他の貝形の向付も用いるようになっていきます。 中には蛤の形にしただけでなく、サイズも小さく作られているうつわがあります。これはサイズを小さくして「ひいなあそび」らしく、お料理も小さな盛り付けにして、「おままごと」としての遊び心を際立たせる趣向なのです。 ここで樂家歴代の器をご紹介いたします。樂家は千利休の求めで樂茶碗をつくって以来、現在に至るまで千家とは強い縁で結ばれている「ちゃわん師」の家柄です。 今回は、江戸後期の樂家 九代了入(りょうにゅう)、十代旦入(たんにゅう)、そして明治の十一代慶入(けいにゅう)の作品を紹介させていただきましょう。「ちゃわん師」でありながら、樂家は、どうして向付などのうつわをつくったのでしょう。九代以前の樂家でも、茶碗だけでなく、うつわもつくっていましたが、その量は多くありませんでした。ところが九代了入の時代、つまり江戸後期以降から、昭和年間の十四代覚入(かくにゅう)に至るまでは、盛んにうつわも手掛けています。 樂家以外に目を向けてみると、やはり九州の伊万里でも、明らかに江戸後期から大量生産化が進んでいます。これは庶民文化に花が開き、食文化を楽しむ豊かな人々が武士階級以外の中にも生まれてきた証だといえるでしょう。九代 樂了入作 蛤向付(左)と十代 樂旦入作 螺皿(右) 樂家も茶碗以外の需要に応えることで、由緒ある「ちゃわん師」の家柄を途絶えさせることなく、繋いできたのです。幕府が倒れ、武家社会が終焉を迎えても、西洋文化が押し寄せて日本の伝統産業が忘れられそうになっても、また戦争によって人心が乱れ、戦禍に日本が沈んでも、樂家はこのように粛々と器をつくり、波乱の時代を乗り切ってきたのです。 こんな風に器を眺めてみれば、器を通して日本の時代の流れ、文化の移ろいを感じ取ることができるように思いませんか。まさに器は日本の歴史文化そのものなのです。 春を身近に感じるこの季節、雛祭りにふさわしい樂家の作品を愛でながら、伝統を守り繋いでいくということ、その大変さと大切さ、伝統を真摯に受け継いでいく代々の姿勢に思いを馳せてみるのも良いでしょう。■ 梶古美術京都市東山区新門前通東大路西入梅本町260075-561-4114営10時~18時年中無休(年末年始を除く)
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