外国人料理人奮闘記
世界中の料理人が「食の発想」を求めて訪れる美食の街・京都。なぜ京都なのか?彼らが京都で得るものは何なのか?外国人料理人の苦労や成功体験を通して見える「京都の食とは」を探ります。
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2020.03.20
インド人料理人シェイク・ヌルールさんの「とてもおいしかった」
インドからドバイ、そして東京へ出身はインド北東部のコルカタです。実家は農家ですが、僕は子どもの頃から料理が好きで、ずっと料理人になりたいと思っていました。レストランで料理長をしていた兄から手ほどきを受け、料理の世界に入ったのが17歳のとき。ホテルなどで経験を積み、20歳の頃にドバイで働かないかと誘いを受けて、当時の勤務先の店長と一緒にドバイに行くことになりました。それが1999年の12月だったかな。それから5年くらいドバイでコックとして働きました。転機が訪れたのは2005年、親戚が東京で働いていて「東京に来ない?」と誘われたんです。まだ若くていろいろ経験してみたかったし、ドバイの上司も「何か問題があったら、すぐに帰ってきたらいいから」と言ってくれたので、思い切って東京へ行くことに。日本のことは何ひとつ知らなかったけれど、2005年の3月に来日し、東京のインド料理店で働き始めました。店長は「いつでも帰ってきたらいい」と言ってくれましたが、特に問題もなく(笑)、日本で順調にキャリアを積むうちに、とあるパーティーで今の奥さんと出会いました。その頃、彼女は京都でシェフをしていて「いつか自分の店を持ちたい」という夢を持っていたんですね。僕も将来は日本で独立したいと思っていたので、同じ夢を共有しながら、京都と東京でしばらく遠距離恋愛を続けました。京都・北野白梅町に念願のお店をオープンその後、結婚をし、開業に向けて物件探しを始めました。舞鶴、滋賀......いろんな土地を見てまわりましたが、最終的に北野白梅町で「ヌーラーニ」をオープンしました。最初はとても不安でしたね。あの頃はインド料理店も少なくて、インド料理自体の知名度が低かったこともあり、具体的なビジョンが持てませんでした。でも口コミでどんどんお客さんが増えていって......学生時代から社会人になってもずっと通い続けてくれる常連さんや、今ではすっかり友だちみたいになったお客さんもいて、お店も3軒まで増やすことができました。旬の味覚が楽しめる黒板メニュー僕は今、烏丸北大路の姉妹店にいることが多いです。どの店もメニューはとても多いのですが、グランドメニューに載ってない「黒板メニュー」が食べられるのは、僕のいるお店だけ。「黒板メニュー」には、その時々の季節の野菜や魚を使ったアラカルトを載せています。特に京都に来てからは、日本の旬の食材をたくさん扱うようになって、その時季のスペシャリテを味わってもらっています。仕入れの日は朝4時に起きて、奥さんと一緒に中央市場まで出かけます。日本の食材をどんな風にインドのスパイスやソースと合わせるか、今も日々勉強ですね。お客さんの中には昼、夜と続けて来てくれる常連さんや、週に何度も足を運んでくれる人がいます。そういうお客さんに毎回同じものは出せません。顔を見ながら少しずつ味付けを変えたり、食材に変化を持たせたりして、その時に一番おいしいと思ってもらえるものを出すようにしています。キッチンをオープンスタイルにしているのも、そのためです。これは黒板メニューから、菜の花を使った肉料理。煮込んだ牛肉をトマトベースのソースといろんなスパイスで調理しています。辛さはもちろん、お客さんと話をしながら、スパイスの使い方を変えることも。そういうアレンジは僕以外のコックさんには(言葉の問題もあって)難しいので、季節のアラカルトが食べたい方は、ぜひ僕の入っているお店(※)にいらしてください。※確認はお電話でこれも黒板メニューから、「寒ぶりサーグ」です。サーグというのは緑色の葉野菜のこと。今日はほうれん草のペーストで脂の乗った寒ぶりを煮込みました。お客さんが口に運ぶタイミングで一番おいしくなるように、ぶりは半生ぐらいに仕上げています。インド料理は何種類ものソースの組み合わせによって、いろんなバリエーションが出せるんです。僕の料理は基本的に日本向けのアレンジはしていません。辛さは調節しますが、それ以外の味付けや使っているスパイスは基本的に現地仕様。出身の北インドだけでなく、インド全土のお料理をまんべんなくお出ししています。お客さんの言葉を励みに好きな言葉? お客さんの「とてもおいしかった」かな。その言葉を聞くのが何より幸せ。揉めごとやケンカもなくて、日本は本当に暮らしやすい国だと思います。北野白梅町のこのあたりもとても住みやすくて、近くに家を建てました。店から歩いて10分くらいかな? 年を取っても近くなら通いやすいでしょう? オープン以来の常連さんもたくさんいるし、健康でなるべく長く、「とてもおいしかった」と言われる料理を作り続けたいですね。写真 鈴木誠一 取材・文 鈴木敦子■ヌーラーニ本店京都市北区大将軍川端町21 ルミエール白梅1F075-464-058611:00~15:00 17:00~23:00不定休
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2020.02.19
イタリア人料理人トルメナ・エディさんの「しょうがない」
はじまりはオーストラリア僕は21歳のときに故郷であるイタリアのヴェネト州を出て、オーストラリアで暮らし始めました。オーストラリアではサラリーマンをしていたのですが、その時に今の妻、広美と出会いました。その後、それぞれの国に戻って5年くらい遠距離恋愛を続け、再び二人の思い出の地・オーストラリアへ。現地で結婚し、当初はガイドなどで生計を立てていましたが、そのうち何か新しいことに挑戦したくなって......。そのとき、新たなチャレンジの場として選んだのが日本でした。妻の母国である日本へは、それまでも旅行や帰省で何度か訪れていましたが「日本でジェラテリアを開く」と決めて本格的に移住したのは、今から15年くらい前になります。最初は京都でなく、沖縄で店を開く予定でした。ところが物件探しが難航し、一度は「もうオーストラリアに帰ろうか?」と諦めかけたほど。でもやっぱりオーストラリアに戻りたくない、日本でお店をしたい!という思いが強く、京都でお店を出すことにしたんです。地元の人に愛されるお店を目指してなぜ京都かって? 僕はイタリアでもカントリーサイドの出身で、東京や大阪のような大都会は苦手なんです。その点、京都は高層ビルもないし、こじんまりとした街のサイズ感がちょうどよかった。外国人にも好意的で、関東出身の妻も京都のことは昔から気に入っていたので、二つ返事で賛成してくれました。人が集まる観光地でなく西院に店を構えたのは、地元の人に長く通ってもらえるお店にしたかったから。実際オープン当初からのお客さんで、当時まだ5歳だった子が、20歳になった今も通ってくれています。その頃の京都ではジェラートの認知度もまだまだ低く、一から商品の説明をしなきゃいけなかった。アイスクリームと同じなのに"水っぽくてシャリシャリとしたもの"と誤解している人が多くて、お店に入ってきても「ジェラート」と聞いて、買わずに帰っていく人もいましたね。でも近くの外大(京都外国語大学)の学生さんや先生たちは、新しいものが好きだったり、英語やイタリア語を学んでいたりということもあって、オープン当初からよく来てくれました。今でも大勢の外大生が通ってくれています。イタリアの味を京都で再現イタリアでスイーツといえばジェラート。イタリア人は夏は毎日ジェラートを食べます。逆にジェラート以外のスイーツは食べません。それぐらいジェラート一筋。人によってそれぞれお気に入りのジェラテリアがあって、お店によって味も全然違いますね。日本のラーメン屋さんも店によって味が違うでしょ? それと同じ。使う材料やレシピによって、出来上がりがまったく違うんです。僕も子どものころから通っているお気に入りのお店があって、ここを開く前に修業させてもらいました。僕のジェラートはイタリアのジェラートそのままの味。日本向けの特別なアレンジはしていません。日本では「甘さ控えめ」が人気だけれど、イタリアで食べられているそのままの味を再現したかった。だから最初は「甘すぎる」という声もありましたが、今では「カフェラッテの味」として、受け入れもらえたと思います。作りたてのおいしさは格別今は冬なのでちょっと種類が少ないけど、夏の週末は16種類ぐらいのフレーバーを用意しています。旬のフレッシュなフルーツを使うので、フレーバーは時期によっていろいろ。冬はいちごやピスタチオ、マカデミアナッツがおすすめ。夏は桃、スイカ、メロン、マンゴー、ヨーグルトなど、さっぱりとしたフルーツ系が人気です。ジェラートはやっぱり作りたてが一番おいしい。日が経つにつれて味が落ちていくので、うちでは夏場で2日、冬でも3日で廃棄してしまいます。特にナッツ系は、できたてとそうでないものの違いが歴然で、作りたては香りが全然違います。長期保存が可能な大手メーカー品との違いを、ぜひ味わってほしいですね。This is "HOME".好きな言葉は「しょうがない」です。なぜ? どうして? と深く追求せず、大抵のことは「しょうがない」と流してくれる、日本人のそういうところが好きですね。イタリア人って文句ばっかり言ってるでしょ?(笑) 議論好きで、白黒はっきりつけないと気が済まない。それに比べて日本では、いい意味で無関心というか、他人に対して無遠慮に踏み込まない。僕は昔から議論するのが好きではないし、他人にあまり干渉しない日本の絶妙な距離感が心地いいと感じます。京都の好きなところは古いお寺や建物がたくさんあるところ。今でもシーズンごとにお気に入りのお寺に出かけます。祭りも好きで、祇園祭も必ず見に行きますね。21歳でイタリアを出て約30年。実はこの14年、一度も里帰りをしていません。ホームシックになることもありませんね。今ではここ、京都がホーム。京都に骨を埋めるつもりで、これからも「おいしい、幸せ!」というお客さんの声が聞けるように、おいしいジェラートを作り続けていきたいと思います。写真 ハリー中西 取材・文 鈴木敦子■caffellatte(カフェラッテ)京都市右京区乾町70‐1 ジェミニビル1F075-322-276613:00~20:00(土・日曜12:00~21:00)休 月曜※2020年2月1日~3月15日の期間は土・日曜のみ営業
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2020.01.25
韓国人料理人チェ・ユンジョンの「いただきます」
人生を変えた出汁との出会い出身は釜山です。もともと和食が好きで、地元の日本食レストランをよく利用していました。ところが観光で日本を訪れた際、とある和食店で「お椀」を食べた時に、今まで味わったことのない出汁の味にとてつもない衝撃を受けたんです。「なんの出汁だろう? どうやって作るんだろう?」と、いろいろ調べてみましたが、言葉の問題もあってよくわからない。そこで、まずは日本語を覚えようと、来日して日本語学校に通い始めました。日本語学校に一年通い、その後、調理師学校に入って料理の基本を学びました。そこで、ようやく出汁の疑問が解けたんです。出汁の取り方の授業の時に「あ、これだ!」って。「先生、私はこれが知りたくてここに来たんです!」って(笑)、ものすごく興奮したのを覚えています。農林水産省のプログラムに参加一年後、基礎コースの卒業を控え、さらに専門的な勉強をするにはどうしたらいいかと考えていた時に、農林水産省の「日本料理海外普及人材育成事業」を知りました。早速、調理師学校に相談し、事業に参加していた浜名湖のホテルで働けることになりました。2年という期限付きでしたが、すばらしい料理長に出会い、盛り込み、前菜、焼き場、板場......と、すべてのポジションでメインを担当させてもらい、とても勉強になりました。でも日本料理を極めるには、2年じゃ全然足りないんですよ。旬の食材は出回る時期も短いので、たった2年ではほとんど何も学べません。今の技術のままでは、とても「日本料理店」の看板はあげられない。そこで再び、なにか方法はないかと調べてみたら、私の利用できそうな制度が京都にあると分かり、問い合わせてみることにしました。人生最後のチャンスに賭けてこれを逃したらもう韓国に帰るしかない。人生最後のチャンスだと思い、今までの実績として認めてもらえそうなものをすべて持って、京都の日本料理アカデミーを訪ねました。ビザの関係で一度韓国に帰国しましたが、アカデミーの担当者がとても親身になってくれて、韓国から「特定伝統料理海外普及事業」に応募。それから結果が分かるまでの長かったこと......もうダメかと思い、途中で何度も心が折れそうになりましたが、2017年12月下旬にようやく待ち望んだ連絡をもらうことができました。日本で修業を続けられると分かった瞬間、すぐに日本行きのチケットを取りました(笑)。憧れの調理場へ「菊乃井」には調理師学校時代に食事に来たこともありますし、大将の講演を聞いたこともあって、京都でも指折りの名店だと知っていました。そんな店で働けるなんて、本当に夢のようです。ホテルとは扱う食材も違うし、なにより既製品をほとんどといっていいほど使わず、調理場で一から手作りしているのに驚きました。最初は八寸場を担当し、この12月から板場に入っています。板場ではとにかく、「うまくできない自分」にいらいらしますね。自分の仕事に満足できず、歯がゆい日々です。今、調理場に女性は私一人。でもみんな私をオッサンと思っているみたいで(笑)、そのことでやりにくさを感じることはありません。勤務は朝10時からですが、修業中になんとしても「鱧と河豚」の扱い方をマスターしたくて、鱧の時期は8時に、河豚を扱う今の時期は9時に出勤しています。旬の食材を見られる期間は短いので、少しのチャンスも無駄にしたくないと思っています。公私ともに和食漬けの日々ここで5年の修行を終えた後は、まだ場所は分かりませんが、世界のどこかで自分の店を持ちたいですね。今はその目標に向かって、やるべきことをやるだけです。そのことしか考えられません。もちろん休日には京都の寺社を訪ねたり、浜松時代の友人を嵐山に案内したりと、京都の生活も楽しんでいます。京都の文化はすごいなぁと、あちこち行くたびに思いますね。「命をいただいている」という気づき調理師学校時代、屠畜場の見学に行った時に「いただきますの意味を知っていますか?」と聞かれて、その時初めて「いただきます」が「命をいただく」ことに対するお礼や感謝の気持ちを表す言葉だと知りました。動物はもちろん、植物にも命があって、それをいただいているんだ、と改めて気づき、日本語ってすごいなって。韓国にも「チャル モッケスムニダ」という「いただきます」にあたる言葉はありますが、直訳すると「よく食べます(食べるつもりです)」となり、日本語の「いただきます」が持つニュアンスはありません。それからは、いつも「命をいただいている」ことを意識して仕事をしています。店の入口に大日様の祠があるんですが、毎朝「おはようございます、今日も命をいただきます。よろしくお願いします」と心の中で唱え、手を合わせてから出勤しています。※日本料理アカデミー......若い日本料理人の育成や海外料理人の受け入れ事業など、日本料理の普及に取り組む特定非営利活動法人■菊乃井本店京都市東山区下河原通八坂鳥居前下ル下河原町459075-561-001512:00~12:30入店、17:00~19:30入店休 第1・3火曜
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2019.12.27
フランス人料理人 ウエ・フランクさんの「いただきます」
勉強嫌いの少年が14歳で料理の世界へ僕は勉強があまり好きじゃなくて、早くから料理の道へ進もうと決めていました。14歳になる直前に実家近くの「プレ・ポンテサージュ」という専門学校の準備クラスのようなところに入り、そこで料理の勉強を開始。学校に通いながらレストランで実習するという生活を2年間続け、16歳で「ポンテサージュ」(料理の専門学校)へ進みました。プレ・ポンテサージュからポンテサージュを卒業するまでの4年間、ロワールの「ル・ラブレ」というシーフードが有名な店で働いたのですが、そこでは料理はもちろん、話し方やマナー、掃除に数字......何も知らない14歳の僕は、一からすべてを叩き込まれました。卒業後は学校のあっせんでロンドンのレストランへ。経験豊富な厳しいフランス人シェフのもとで働いたあと、フランスやスイスのリゾートレストランなどで各地のスペシャリテを覚え、シェフとしての腕を磨きました。仕事ばかりのハードな日々に心が折れて日本に初めて来たのは2002年、21歳のとき。その少し前、南アジアを旅行中に、のちに結婚することになる日本人女性と知り合ったのがきっかけです。21歳で日本に住み始めた時、既に料理人として8年ほどの経験がありました。最初に働いたのは、当時四条烏丸にあったビストロ「パリの食堂」です。日本での仕事はハードだと聞いていましたが、思っていた以上に大変でした。毎日16時間働いて、休みは週に一日。もちろんバカンスなんてないし、プライベートな時間はほぼゼロ。その上、言葉の問題もあってコミュニケーションに一苦労......実家の母が「仕事なんてやめて早くフランスに帰ってきなさい!」って激怒するぐらい痩せ細ってしまいました。毎日、ただ職場と家を往復するだけの生活。そうこうするうちに結婚も破綻し、一度生活を立て直すためにフランスに戻ることにしました。でも「2年後には日本に戻ってくる」と決めていて、実際ヨーロッパで2年働いた後、再び京都に戻ってきました。なぜかって? 確かに仕事は大変だったけど、日本のことは好きでしたから。年配の人を敬うところや同僚へのリスペクト、治安の良さ......今度は仕事だけじゃなく、プライベートも充実させて、日本のことをもっとちゃんと知りたいと思ったんです。2006年、京都で再スタート2006年に再び来日した時、手を差し伸べてくれたのはシェフ仲間でした。「パリの食堂」で苦楽を共にした「エピス」の井尻シェフ、「アルザス」の道坂シェフ、そして新町通にあった「ガスパール」の内野シェフ。最初は住むところもありませんでしたが、ガスパールの上に住まわせてもらい、彼らの店で働き始めました。友人と食事に行ったり、クラブに出かけたりする余裕もできて、今の奥さんと出会ったのもちょうどこの頃。いつか自分の店を持ちたいと思いはじめ、そのための準備も少しずつ始めました。レストランで働く傍ら、意外な才能を発揮店を始めるには資金が必要だと思い、副業として始めたのが牧師です。関西だけじゃなく、名古屋とか四国とか、いろんな土地の式場に行って、たくさんのウェディングに立ち会いました。結婚式って一生に一度のものだし、「絶対に失敗できない」というプレッシャーがあって、最初はすごく緊張しました。前日は禁酒を守り、ベストの状態で臨めるよう体調を調えて......でも、仕事自体はとても楽しかったな。今でも思い出すのが、大阪の茶屋町にある、とあるホテルのチャペルでのこと。ある朝、大阪市内を見下ろす高層階のチャペルで、たまたま聖歌隊のリハーサルを見た時、とても感動したんです。静謐な空間に、聖歌隊のほかは僕一人きりで。結婚式の牧師業って「愛を渡す」という素晴らしい仕事。もしお店が潰れたら、また牧師に戻りたいな(笑)。2012年、オープンへ向けて動き出すそんな生活を6年ほど続けて、転機が訪れたのが2012年。当時、仲良くしていた長谷川琢馬くん(現「くまのワインハウス」オーナー)と彼のお姉さんの店に食事に行った時、琢馬くんのお義兄さんから「2人で一緒にお店をやれば?」と言われたのがきっかけです。琢馬くんはその頃、一時的に料理の世界から離れていたんだけど、「2年後に2人でお店を始める」という具体的な目標が決まり、それぞれ動き始めました。資金繰りや物件探し、お店のイメージを話し合ったりと大変でしたが、ボロボロの町家を大工さんたちと少しずつリノベーションして、目標だった2014年になんとかお店をオープン。料理は僕、ワインとサービスは琢馬くんが担当して、最初は二人だけでスタートしました。だけどオープン前、毎日店の工事に立ち会ってるうちに、近所の人ともすっかり打ち解けて......彼らがしょっちゅう来てくれたので、オープン直後からすぐに忙しくなりました。これは、タイムとローズマリーで風味付けをした「うめ鶏のロースト」。直前に熱々のオリーブオイルをかけるので、立ち上がってくるいい香りがなんとも言えません。身はとても柔らかいのに外側の皮はパリッとしていて、お気に入りの一品です。 トマトベースのソースとクリーミーなアイオリソース、ふたつの味が楽しめる「サーモンとエビのブレゼ」。これ目当てのお客さんも多い、ランチの人気メニューです。大ぶりのサーモンはとても食べ応えがありますよ。今ではすっかり日本がホームに初めて来日した時、日本という国にすごく重苦しさを感じました。ルールが厳格なところとか、堅苦しい感じがするところとか。でも、今ではすっかり日本に馴染んでしまって、逆にフランスに帰ると「ここには住みたくないな」と感じるほど。日本人の仕事に対する真摯な姿勢や他人への心配り、そういうフランス人とはまったく違うフィロソフィーが、自分にとっての当たり前になってしまったんですね。好きな日本語は「いただきます」です。どうしてフランス語には「いただきます」にあたる言葉がないんだろう? 不思議ですね。「こちそうさま」や「おつかれさま」もそう。人に感謝を伝えたり、さりげなくねぎらったりする言葉って、いいなぁと思います。撮影 鈴木誠一 取材・文 鈴木敦子■LES DEUX GARCONS(レ・ドゥ・ギャルソン)京都市左京区下鴨上川原町3075-708-750011:30~14:00(L.O.)18:00~22:00(L.O.)休 木曜
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2019.11.21
中国人料理人 黄忠治さんの「コツコツ」と積み上げた先に
今回ご紹介する外国人料理人は、香港出身の黄忠治(ウォン・チーチュン)さん。「食べる辣油」ブームの火付け役であり、京都を訪れる役者たちが足しげく通う名店「菜館wong」の主は、なぜ京都・帷子ノ辻(かたびらのつじ)に根を下ろしたのか。"ご縁"に導かれた半生をお聞きしました。香港から日本へ。そして人生を決定づけた"出逢い"初めて来日したのは26歳の時です。16歳で料理の世界に入り、香港でコックをしていましたが、同僚に「日本で腕を振るってみないか」と誘われて、岡山で働き始めました。しばらくして岡山から京都の店に移り、一度香港に戻って2年間修業をし、再び友人に誘われて東京へ。東京では4年半働きました。その後、京都で仕事を見つけて再び舞い戻り、それからずっと京都です。なぜ京都かって? 実は岡山時代に出会った今の家内が京都で働いていたからです。付き合い始めた当初、彼女は職場の学生アルバイトで......職場恋愛ですね(照)。ところが卒業後、彼女は京都で就職することになり、僕も一緒に付いていくことにしました。それが京都との最初のご縁です。しかし今度は僕が香港や東京で仕事をするようになり、なかなか行き来もままならない遠距離恋愛状態に。お互い忙しかったので会えるのはせいぜい月に1~2回。そこで、家内と結婚するため京都に職を求め、太秦に新居を構えました。本場の味を地元で気軽にそれから11年、京都のいろんなお店で働きました。日本人のコックさんは、総じてまじめで勉強熱心。妥協をせず、技術を高めていく姿勢にとても刺激を受けました。でも人の下ではなかなか自分の作りたいものに挑戦できない。そんなジレンマを抱えて仕事をするうちに「日本のチーフたちから学んだ姿勢と、香港で培った本場の技術。このふたつを合わせたらイケるんちゃう?」と思い始めたんです。自分の思うような料理に挑戦したい、という気持ちのほかに、地元に貢献したい、恩を返したいという思いもありました。わざわざ祇園や河原町まで出かけなくても、地元で本格的な香港の料理が楽しめる。そんな店を作りたいな、と。そうして今から13年前に、帷子ノ辻駅のすぐ近くに「菜館wong」を開きました。店をオープンしてすぐに、(松竹京都)撮影所のスタッフたちが贔屓にしてくれるようになりました。当時から今まで、ずーっと通ってくれています。撮影所の廊下にはうちのメニューが貼ってあるとか(笑)。スタッフからの口コミで役者さんたちも来てくれますし、本当にいろんなご縁があって、今の自分があると思います。香港時代の思い出が詰まった料理たちこれは僕が赤ちゃんの頃から食べている香港粥。棒鱈とピーナッツが入ってます。香港粥はお母さんが作る家庭料理であり、下町の屋台料理でもある。このお粥には香港で生活していたころの思い出がいっぱい詰まっていて、いつもお母さんのことを思い出しながら作っています。よく間違われるんですが、ダシは一切使っていません。棒鱈とピーナッツから出るうまみだけ。それだけで、こんなに深い味わいになるんです。日本ではこの棒鱈が手に入らないので、年に2~3回、香港に里帰りするときに仕入れています。お粥だけのために。この「棒鱈とピーナッツ」っていう組み合わせは、お米に一番合うんですよ。生米を真水から火にかけて、じっくり4~5時間。昔の中国の料理人が発見した偉大な組み合わせです。香港でコックの見習いをしていた頃、このエビのガーリック蒸しがすごく流行ったことがあったんです。味付けは塩とガーリックだけ。すごくシンプルな料理なのに、びっくりするほどおいしい。春雨が蒸したエビのうまみを吸って、これ格別。初めて食べたときは衝撃的でした。この料理も、香港時代の思い出を蘇らせてくれる一品です。「食べる辣油(ラー油)」の火付け役に辣油の販売は2007年頃から。うちは醤(ジャン)も辣油もすべて手づくりなんですが、常連の撮影所スタッフたちが辣油を気に入っちゃって「ぜひ売ってほしい」と。その後、仲間由紀恵さんや西村和彦さんがテレビで紹介してくれて、ちょっとしたブームになりました。いろんなお店やメーカーが一斉に「食べる辣油」を商品化して、お祭りみたいで楽しかったなぁ。餃子はもちろん、鍋のスープやお粥、ごはん......何にでも合いますよ。仕込みから完成まで一週間くらいかかるんですが、やはり作りたてが一番おいしいので、あまり大量に作らず、常時少しずつ仕込んでいます。卓上の辣油は食べ放題なので、みなさん「おいしい、おいしい」と、たくさん召し上がりますね(笑)。流れに身を任せてたどりついた「今」なにかに導かれるようにたまたま日本に来て、家内と出会って、長い遠距離恋愛の末に京都で店を持って......本当に全部「たまたま」。もしあの時、日本に来なかったら全然違う人生だったでしょうね。今は朝7時過ぎには店に来て、帰るのは23時くらい。立ちっぱなしで腰も痛いけど、みんなが「おいしい」って言ってくれるのがうれしくて苦にならない。仕事も結婚も大満足。あとは健康に気をつけて、この場所でできるだけ長くお店を続けていきたいですね。健康のために最近、サイクリングを始めました。休みの日には友人と梅田あたりまで走りにいくこともあります。帰りはさすがに電車ですけど(笑)。コツコツと積み上げることの大切さ好きな言葉は「コツコツ」。特に自分の店を持ってからはなおさら意識するようになりました。仕事も遊びも人付き合いもコツコツ。商売を続けていくためにも、いろんなものを「コツコツ」積み上げていきたいですね。撮影 鈴木誠一 取材・文 鈴木敦子■菜館wong京都市右京区太秦堀ヶ内町32‐2075-872-521611:30~14:00 18:00~20:30(L.O.)休 月曜、第3日曜
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2019.10.23
スペイン人料理人 ホルヘ・ユークさんの心を奪った平仮名の「の」
7人目の外国人料理人は、流ちょうな関西弁を話すスペインバル「tato」オーナー、ホルヘ・ユークさん。ひょんなことから日本に興味を抱いた少年が、京都で夢を叶えるまでの道のりをご紹介します。運命的な日本語との出会い日本を知ったのは家族でフロリダのディズニーワールドを訪れた7歳の時。日本語で書かれたディズニーワールドのパンフレットを見て「めっちゃかっこいいな、これ!」と手に取ったのが最初の出会い。数ある外国語のパンフレットの中で、なぜか日本語だけが特別格好よく見えて......ホテルに持ち帰って、意味も分からず文字を書き写したりして(笑)。その時「いつか必ず日本で日本語を習得するぞ!」って決めたんだ。カナダの大学を卒業した一週間後には、カナダで知り合った友人を頼って大阪へ。友人の実家に転がり込んで、子どもの英会話教室で働きながら、日本語の先生を探して語学のレッスンを開始。当時日本語は「トヨタ、サムライ、スシ」ぐらいしか知らなかったけど、スパルタンな先生にみっちりしごかれて、4年でかなり上達したね。その後、スペイン、京都、カナダと数年おきに転居を繰り返しながら、再び京都へ。せっかく日本に住むんだから「一番日本文化が濃いところに住まなくちゃ」と思って。着物、町家、寺社仏閣、歴史的な景観......京都の文化は濃厚で興味深い。まあ、仕事場は滋賀やったけど(笑)。滋賀で種を蒔き、満を持して京都へまずは滋賀で英語とスペイン語の塾を始めて、数年後には大学時代からの夢だったバルを膳所にオープン。高校や大学の非常勤講師もしてたから、めちゃめちゃハードだった。でも将来京都で店をやりたいっていう次の目標のために、料理もゼロからがんばったよ。実はそれまで料理をしたことがなくて、不動産屋さんから店の鍵をもらった日にスペインのお母さんに電話して「これとこれとこれのレシピ教えてください~」って。お母さんのレシピと舌の記憶、それだけを頼りに奮闘したけど、最初は当然失敗ばかり。「いつか京都で」と思いながら、滋賀でたくさん練習させてもらった。滋賀は練習(笑)。結局滋賀では10年塾をやって、そのうち4年は店との掛け持ち。その後、念願叶って京都に移転してからも、膳所時代の常連さんが支えてくれて心強かったね。京都のド真ん中で盛り上げ役に徹する今ここはもともと、塾の生徒さんの生家だったところ。つくづく不思議なご縁やね。当時彼女は80歳くらいだったかな。残念ながら数年前に亡くなってしまったけど、ここで産まれた彼女の息子たちは今も時々来てくれるから、その時はもちろん「おかえり!」って迎えるよ。営業中はもっぱら表で接客を担当。盛り上げ担当やね。店頭の立看板も自分で書く。ほら「ハイテンションスペイン人」って書いとかないと、知らないで入ってきた人がびっくりするやろ? 書いてても驚かれるけど(笑)。「何か妙なものでも飲んでる?」ってお客さんにしょっちゅう聞かれるよ。ミルクティーしか飲んでないのに! ぺらぺらぺらぺらしゃべりながら、お客さんを楽しませて、世界中のいろんなお酒を飲んでもらうのが僕の喜び。セクシー足はついに140本超え!今切ってるこのセクシーな生ハムは、膳所時代の第1号から数えてちょうど140代目と141代目。赤いラベルがついてる140代目はイベリコ・ベジョータといって、ちょっとスペシャルなグレードのもの。いつもあるわけじゃないけど、これ目当てに来る人もいるくらいの上物。これと一緒に赤ワインを口に含むと、ワインがぐっとおいしくなる。時期にもよるけど、1本消費するのにひと月はかからないね。今までで一番早かったのは祇園祭の時。新しくおろした生ハムが1日で骨になっちゃった。その日は一日中スライスしていた気がする(夢にも出てきたし......)。ぜひ出来立てを味わって!歴代スタッフの得意料理が加わって、メニューの数もずいぶん増えた。営業中、僕に代わって厨房を切り盛りする杉本拓くん(冒頭の写真右)自慢のスパニッシュオムレツは、いわゆるスペインのおふくろの味。スペインでは玉ねぎを入れる派と入れない派があって、うちは入れる派。焼きたてのオムレツはもう最高。毎回焼きあがったら、香りがたつようにお皿をくるくるまわしながら各テーブルをまわっちゃう。お客さんの鼻の下でいつもめちゃまわしてるよ!地図の余白を埋め続けていきたい7歳の時、初めて見た日本語の中で、特に気になったのがひらがなの「の」。丸っこい見た目が可愛くて、「なんやこれ?」って。文法的にも「の」は大事やろ? 勉強してみて分かったけど「の」を使わないと会話も成り立たない。スペイン語と日本語はものすごく遠い言葉だけど、その国の文化を理解するにはやっぱり言葉を知らないとね。外国で暮らして、その国の言葉を学ばないのはとてももったいないと思うよ。次にやりたいこと? 常に考えてはいるけど、リタイアするまでは日本で仕事をしていきたい。日本はとても仕事がしやすい国。というのも、例えば業者さんにしても、みんな時間はきっちり守るし、注文は間違えないし本当に感心する。これがスペインだったら、毎回違う商品が届くよ。しかも違う店に! 行政の手続きも早くてミスがないしね。たまに一週間ぐらい帰国すると「おっそいねん、もう~!」ってめちゃめちゃイライラする。日本のペースが当たり前になっちゃったから、もうほかの国では働けないかもね。この日本地図と世界地図は、今まで店に来てくれたお客さんの出身地が一目で分かる地図。「どこから来たの?」って聞いて、マチ針を刺してもらうんだ。昨日は新たにニューカレドニアに針が立った。この地図が、年を重ねるごとにマチ針だらけになっていくのが楽しみやね。■Tato京都市中京区蛸屋町151075-211-909017:30~23:30閉店休 日曜(祝日の場合は営業、翌月曜休)
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2019.09.24
イタリア人料理人 フランチェスコ・ビアンキさんの「駅」と「七転び八起」
6回目に登場いただくのは、「木乃婦」で板前修業をするイタリア人のフランチェスコ・ビアンキさんです。京都市が日本料理の海外への普及を目的に「就労しながら日本料理を学ぶ」外国人を募集。その審査に合格して2019年4月に来日、日本料理を学ぶ日々を過ごしています。日本料理の淡麗で素直な味わいが好きみなさん、こんにちは。イタリアから来たフランチェスコ・ビアンキです。4月から京都の日本料理店「木乃婦」で修業をしています。もともと日本の文化や歴史が好きで、中学生の頃から日本語を勉強していました。イタリアでも和食をはじめ、天ぷらやラーメンなど日本の料理を食べたことがあって、日本料理にも興味をもっていました。学校を卒業してからは、料理人を目指してイタリア料理店で働いていましたが、その頃から、いつかは日本料理も学んでみたいと思っていました。イタリア料理と同様に、日本料理は素材の味はもちろん食感や香りなどそれぞれが持つ個性を大切にします。凝ったソースを使うわけではないのに、味わい深い日本料理は、私にとって神秘であり、その流儀や作法を知りたいと思っていました。京都市の募集に応募して念願の京都修業へそんななか、ロンドンで料理人修業をしている友人が、京都で日本料理を学びながら働けるプログラムがあると教えてくれました。2年半ほど前だと思います。ぜひ参加したいと思って申し込み、審査に通ることができました。本当にラッキー! 夢がかないました。今は八寸場で仕込みのお手伝い9月で京都に来て5カ月になります。木乃婦で働くほかの板前さんたちと一緒に寮で暮らしています。造り場、焼き場、炊き場、八寸場などいろいろな持ち場があるのですが、2ヶ月ごとに違う持ち場で働く仕組みで、今は八寸場で仕込みなどを手伝っています。朝は9時から板場に入って、細かな調理を教えていただきながら働きます。料理ごとに先輩方が包丁など道具の使い方から、調理法、レシピなどを教えてくださいます。今、直接指導してくださるのは、4年生の勝部さんです。厚焼き玉子の作り方や鯖寿司の巻き方など、何度も質問するわたしに面倒がらず丁寧に教えてくださいます。ほんとうに感謝しています。日本料理は、レシピがあっても、それだけで作れる料理ではありません。一つひとつの繊細な技術を繰り返して体にたたきこみ、自分のものにしなければいけないからです。すべてを身に付けるには、気の遠くなるような時間を要するでしょう。味覚だけでなく、食材などの感触や匂い、調理の音など五感を駆使して学ぶことを、ここに来て教えられました。休憩時間に「桂むき」が日課です午後には2時間ほどの休憩時間がありますが、その時間も自主的に「桂むき」の練習など、ひとりでできることを繰り返します。桂むきだけでも、上手くできるようになるには1年くらいはかかるのではないでしょうか。けれど少しずつ何かができるようになっていく。その達成感が今はモチベーションです。休憩後は夜の料理の仕込み。仕事を終わって寮に帰るのは8時頃でしょうか。そういう意味では長時間ですが、今のわたしにとっては、あっという間なんです。慶応大学の先生に取材を受けましたところで、先日、慶応大学で外国人の就労について研究されているグレッグ先生の取材を受けました。今後は外国人労働者が増えてくることから、どのように料理法や技術を伝えるか、どうすれば外国人が日本の料理店に上手くなじんで働けるかなどを研究されているそうです。習慣も言葉も違う国の料理を教え、教えられることはほんとうに大変。私たちの意見が、これから日本に来る人のために少しでも役にたてばうれしいですね。将来も大切だけれど、今が大事休みは週に1,2回。初めてのお給料で買ったピアノの練習をしていることもあれば、ボルダリングをするために外出することもあります。お寺や神社も訪れたいのですが。それは、これから先の楽しみです。今はまだ、あまり深く将来のことは考えていません。ただ、もっと料理を学びたい。ここでの研修が3年になるか5年になるかはわかりませんが、その後も、できることなら日本にいて天ぷら店や鮨店でも学んでみたい。イタリアに帰ったら以前とは違うイタリア料理も身に付けたい。まだしばらくは、将来のためにさまざまな料理を学ぶ時期だと思っています。好きな漢字は「駅」、好きな言葉は「七転び八起」漢字はほんとうに面白い。たとえば「駅」という漢字には「馬」という文字が入っていますが、それは、街道の宿場など人が集まる場所で馬を乗り換えたからだそうです。列車が走るようになっても、その場所は「駅」と呼ばれたんですね。アルファベットとは違って、文字一つひとつにも意味がある。ほんとうに興味深い。好きな言葉は「七転び八起」。この言葉には力強さを感じます。どんな辛いことがあってもへこたれない心身を養うことが大切だと気づかされます。魚の三枚おろしが上手くできなかったときなど、私はしばらく落ち込みます。けれど、いつまでも落ち込んでいては、前に進めません。気持ちを入れ替えてまた新たに挑みます。そういうことを繰り返し経験していくうちに、自分に力がついていくのだと信じています。■木乃婦京都市下京区新町通り仏光寺下ル岩戸山町416075-352-000112:00~14:30(L.O.13:00)、18:00~21:30(L.O.19:00)休 水曜
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BLOG外国人料理人奮闘記
2019.08.26
スペイン人料理人 ラウル・ナバロさんの「自分のしてほしいことを人にもする」
5回目に登場いただくのは、「フォーシーズンズホテル京都」のバーテンダーでありビバレッジマネージャーでもあるラウル・ナバロさんです。日本の文化に感動し、来日してから7年。「フォーシーズンズホテル京都」に欠かせないバーの顔になりました。四季のある京都の文化に引き寄せられてスペインのバルセロナで生まれ育ち、「世界どこにでも行ける時代に生まれたんだから、自分の国以外も見なきゃもったいない」と思っていました。ディズニーランドやUSJなどアミューズメントパークが大好きということもあって、8年前に日本を訪れたんです。東京も面白いけれど、日本と言えばやっぱり京都。京都に行かずして日本文化は語れないと思い、足をのばしました。それが京都との運命の出合いになろうとは...。季節はちょうど秋でした。嵐山など観光名所をめぐって感じたのは、どこもかもが美しいということ。お寺の庭に散る紅葉も古い町並みもほんとうに綺麗でした。そのうえ、京都の人はみんな優しい。だからこの街をもっと知りたいと思ったんです。京都の文化や人を知るには日本語を身に付けることが必要でしょう。そこで意を決し、翌年日本に留学しました。そう、もちろん京都です。昼は日本語学校に通い、夜はスペイン料理店で働きました。 ZARAのショップ店員からホテルマンに日本語学校を卒業した後は、スペインの知識が役に立つ「ZARA」に就職。四条河原町で仕事をしていました。そんなとき、「フォーシーズンズホテル京都」が開業スタッフを募集していることを知りました。私は、人との触れ合いがとにかく好き。だから、できるだけいろいろな人と触れられる接客業につくのが理想でした。そういう意味でホテルマンなら、お客様のために働けると思ったんです。ドアマンが第一希望でしたが、面接をした総支配人が「君は人の話を聞くのが上手い。だからドアマンよりもっとお客様と話せるバーテンダーが絶対にむいている」と言ってくれました。バーテンダー経験はゼロでしたから迷いました。でも何事も挑戦と思いバーテンダーの職につくことを決めたんです。 学べば学ぶほど面白くなるバーテンダーの仕事「短期間のトレーニング」で経験ゼロの私がなぜバーテンダーになれたか。ひとつには、バーテンダーの仕事が面白い仕事だったからです。当初はシンガポールに行って、その頃フォーシーズンズの系列だったホテル内にあるアジアトップクラスのバー「マンハッタンバー」でOJTを受けました。そこで素晴らしい先輩バーテンダー達に出会いましたが、中でも感銘をうけたのはトム・ホーガンでした。彼は、「カクテルは同じレシピでつくっても、つくる人によって全く違う味になる」と言いました。面白いでしょう。結局はお酒も人がつくるものだということです。シェーカーにお米をいれてふったり、友達のバーテンダーにコツを聞いたり。失敗もしたし、どうしたらいいかわからないこともあった。でも、辞めようとは思わなかったですね。始めた限りは最後までやり遂げたいという想いもありました。今、私のとなりにいるロレンツォ・アンティノーリの影響も大きい。彼はアジア太平洋地区のフォーシーズンズホテルのバーを統括するアドバイザーでフォーシーズンズ独自のバートレーニングプログラムを構築した人でもあります。スマホやパソコンなど、どこででも見てレッスンできるプログラムをつくりあげました。私も、その育成プログラムの京都でのトレーナーとして、フォーシーズンズらしいサービスや体験をお届けできるバーテンダー育成に携わっています。新しい人材を育てることは、とてもやりがいのあることです。ロレンツォさんからラウルさんについてひとことカクテルはお客様をお乗せする車のようなもので、お客様をどんな風景のどんな場所にお連れするかというストーリーを考えるのがバーテンダーです。バーテンダーにとって技術は必要ですが、それ以上にキャラクターが大切。ラウルは仕事への情熱があって、カクテルの味を緻密に研究するなどスキルを身につけきた優秀なバーテンダーです。でもそれ以上に個性がある。自分の意志や熱い想い、キャラクターで、お客様を心から楽しませることができる人です。 お客様とのコミュニケーションがなによりの楽しみ今は、バーテンダーになって本当によかったと思っています。それというのも、お客様おひとりずつと、常に密なコミュニケーションをとれる仕事だからです。それは、僕の理想でもありましたからね。「今日は爽やかな味わいのカクテルが飲みたい。フルーツも使ってほしい」という言葉から要望をくみ取り、瞬時に頭の中の引き出しをあれこれ開けて、自由な発想でベストな一杯をつくる。お客様に「美味しい!」とか「この味好き!」とか言ってもらえたら、もうまいあがっちゃいます。ホテルが建つその地、たとえばここなら京都の特徴をだすことも、カクテルづくりに求められること。日本らしさや京都らしさ、旬、文化などをカクテルに盛り込むのもミッションのひとつなんですね。だから、日本文化や京都の歴史、伝統、風物詩なども勉強しなくちゃいけない。大変かどうか? いや楽しいに決まっています。勉強した成果を毎日発表できるんだから。このカクテルは「シークレットガーデン(2,800円)」というザ・ラウンジ&バーのシグニチャーカクテルです。国産ウイスキーに日本酒、エルダーフラワーリキュール、ローズマリー、みかんシロップ、自家製のダージリンティーとカモミールビターズが入っています。季節によって入れるものは少しずつ変わります。その名のとおり、お庭をイメージしたカクテルです。バーから見えるホテルの日本庭園「積翠園」を観察しなから、それぞれの季節の庭に咲く草木や自然にインスピレーションを得てつくったものです。こちらは「フォーシーズンズホテル京都75(2,800円)」。穂紫蘇を添えた姿も素敵でしょう。京都産の季の美ジン、澪、ゆずとパッションフルーツのシロップ、レモンジュースをシェイクし、すっきりした味わいに仕上げました。。ゆずの風味がジンとよく合う一杯。女性に人気のカクテルですね。僕の信念は「自分がしてほしいことを人にもする」で、小学校6年の時に尊敬する先生に言われてからずっと自分でもそれを実践してきました。ところが、ここに入って驚いたのは、フォーシーズンズのゴールデンルール(社訓)が、「私たちは常に自分が接して欲しいように相手に接します」だったんです。同じなんですよ。だからここでは、お客様に喜んでいただけるために何ができるかをマニュアル通りでなく自分で考え、心からのサービスをすることができる。バーテンダーは職人でありつつも、臨機応変な対応やクリエイティビティも求められる難しい仕事。一生をかけて勉強し、もっと実力あるバーテンダーになりたいですね。撮影:ハリー中西■フォーシーズンズホテル京都 ザ・ラウンジ & バー京都市東山区妙法院前側町445-3 075-541-828810:00~24:00(バーカウンター営業は18:00~)
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