うつわ知新
うつわと料理は無二の親友のよう。いままでも、そしてこれからも。新しく始まるこのコンテンツでは、うつわと季節との関りやうつわの種類・特徴、色柄についてなどを、「梶古美術」の梶高明さんにレクチャーしていただきます。
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2021.06.15
義山(ギヤマン)3
今月のテーマは「義山(ギヤマン)」です。西洋文化とともに日本にもたらされた義山について梶さんに解説いただきました。1回目は義山の歴史や種類について。2回目はそれぞれのうつわの見方や解説です。そして、3回目は、野菜をメインにしたフレンチレストラン「青いけ」の青池啓行シェフとのコラボレーションです。青池シェフが輝く義山のうつわに彩美しい料理を盛り付けてくださいます。「義山の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。義山(ギヤマン)3 これこそが「義山」呼ぶにふさわしい蓋茶碗です。多くのガラスのうつわには、刻印などが刻まれていないため、産地や年代の判定が困難です。「バカラ」も1940年以前の作品には、紙製のシールが残されているのを稀に見かけますが、「Baccarat 」の刻印が刻まれているのが常ではありません。日本人がバカラ社に自らのオリジナル設計で発注をするのが 1901年以降でありますから、1940年までの間に刻印のない品物が輸入されていたことが想像されます。料理屋では「義山」をさらに美しく輝かせて見せるため、うつわの下に南鐐のうつわを敷いてお使いになる事も多く見かけます。義山2より目板鰈のカルパッチョ うすいエンドウ豆のピュレとマイクロハーブ「蓋つきの美しいうつわなので、まずは蓋をしたままでお客様のもとへ。 この料理は、コースの最初にでるアミューズといったかんじでしょうか。 蓋を開けたときに、わあ~っと声をあげていただければと思い、6月らしく若葉のような清々しさや瑞々しさのある料理にしました。 薄く切った目板鰈にうすいエンドウ豆の青々しい香り、マイクロハーブの香味を添えています。この時期から脂がのっておいしくなる目板鰈を爽やかな風味で味わっていただけます。 素晴らしいガラス器なので、今回はうつわを主役にしたいと思っていました。料理の色目は少なく、クリスタルの輝きを静かに受け止めるようなものです。 義山のカットの美しさや金縁の豪華さを、下に敷いたシルバーのうつわがより輝かせてくれる組み合わせ。まずは、うつわの美しさをご堪能ください。」青池啓行シェフ 写真では伝わりにくいのですが、たっぷりしたサイズの鉢です。恐らく1800年代後半のバカラのものでしょう。日本人の注文品ではなく、西洋で平たいボウルとして使われていたものを、日本人が持ち帰ったのではないでしょうか。端午の節句に粽をのせて、あるいは清涼感ある夏の菓子をのせて茶会で使いたいものです。義山2より農園野菜15種類のプレッセ 葉野菜のブーケと玉ねぎソースを添えて「当店のスペシャリテといえる一皿です。 京都北山近郊の農園でつくられた新鮮野菜を使っています。 生が美味しいものは生で、茹でたり蒸したりと火入れしたほうがいいものは、控えめな火入れで、それそれの野菜の持ち味を引き出し、プレッセにしました。 甘みのある玉ねぎのソースで召し上がっていただきます。 この料理もさきほどのアミューズと同じく、主役はうつわです。 クリスタルの美しさを見ていただくために、お皿一杯に料理を盛るのではなく、余白をたっぷりと残しました。 料理と義山の組み合わせで、初夏の風や涼味を感じていただければ幸いです」青池啓行シェフ青池啓行(あおいけ ひろゆき)1975年、京都府生まれ。京都ホテルで修業を開始。現【レストラン スポンタネ】(※1日4組限定のフレンチレストラン)の谷岡シェフに師事する。その後、26歳でヘッドハンティングされて市内のカウンターフレンチ【パリの朝市】のオープンに参画。これを含め、フランス料理店5軒で立ち上げに関わる。39歳で京町屋を改装し、【Restaurant 青いけ】を開業。現在に至る。青いけ青池啓行さんが、2014年京都・御所南に開いたフランス料理店。中村外二工務店設計の端正な店内で味わえるのは、野菜の持ち味を存分に生かした季節のコースです。コースには30~50種もの野菜が使われるのが特徴で、女性はもちろん健康を気遣うヘルシー志向の食通にも評判。1階では、シェフの調理や盛り付けを間近に見られ、カウンター席の醍醐味を満喫できます。■青いけ住所:京都市中京区竹屋町通高倉西入塀之内町631電話:075-204-3970営業時間:12時~13時30分(L.O) 、18時~19時30分(L.O)定休日:日曜、不定休あり
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2021.05.29
義山(ギヤマン)2
今月のテーマは「義山(ギヤマン)」です。西洋文化とともに日本にもたらされた義山について梶さんに解説いただきました。1回目は義山の歴史や種類について。2回目はそれぞれのうつわの見方や解説です。そして、3回目は、野菜をメインにしたフレンチレストラン「青いけ」の青池啓行シェフとのコラボレーションです。青池シェフが輝く義山のうつわに彩美しい料理を盛り付けてくださいます。「義山の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。義山(ギヤマン)2 これこそが「義山」呼ぶにふさわしい2種の蓋茶碗と四方向付です。と言いたいところですが、四方向付は恐らく「バカラ」を写した「江戸切子」ではないかと私は思っています。また千筋の蓋茶碗も欧州の産地不明なものですが、日本人の特別な注文品でしょう。このように多くのガラスのうつわには、刻印などが刻まれていないため、産地や年代の判定が困難です。「バカラ」も1940年以前の作品には、紙製のシールが残されているのを稀に見かけますが、「Baccarat 」の刻印が刻まれているのが常ではありません。日本人がバカラ社に自らのオリジナル設計で発注をするのが 1901年以降でありますから、1940年までの間に刻印のない品物が輸入されていたことが想像されます。料理屋では「義山」をさらに美しく輝かせて見せるため、うつわの下に南鐐のうつわを敷いてお使いになる事も多く見かけます。 左側の大きな蓋物は1800年代後半のバカラです。恐らくはキャンディーケースだったのでしょう。日本のうつわとしては使い勝手の悪いもののように見えます。ところが、蓋・身・皿と個別に見れば、蓋はともかく、身と皿は素晴らしい「義山」の鉢として楽しめるのです。右側のコンポートも1800年代後半のバカラなのだそうです。ただしバカラといっても必ず切子とは限らず、質の高くない鉛ガラスも存在していて、これは型にはめてプレス成形されたものです。また透明度も低く弾いても澄んだ音がしないことから、鉛の含有率も低いことが見て取れます。しかし、日本のうつわにはないデザインなので、夏のお菓子を盛ってみたいと手に入れたものです。このように「義山」も切子風に見せたプレス成型のものもありますので、注意して見てください。 写真では伝わりにくいのですが、たっぷりしたサイズの鉢です。恐らく1800年代後半のバカラのものでしょう。日本人の注文品ではなく、西洋で平たいボウルとして使われていたものを、日本人が持ち帰ったのではないでしょうか。端午の節句に粽をのせて、あるいは清涼感ある夏の菓子をのせて茶会で使いたいものです。 左は肉厚なボディにシンプルで深く大胆なカットが施されています。女性は茶室で取り廻すことを嫌がるだろうと思うほど重たい鉢なので、それを思うと日本人の注文品ではないでしょう。入れられたカットがシンプルなので、ガラスを透して料理がハッキリ見える面白さがあります。これはバカラではなく他社製品かもしれません。実はバカラ社は経営問題で、同じフランスのサンルイ社 (Saint-Louis)と1816年~1829年の間、統合されていたのです。ですから統合期間後もサンルイとバカラの製品はとても見分けが難しいのです。これはそのような品ではないかと思っています。 現在、バカラ社には中国の資本が大量に入り、中国企業のような様相を呈しています。一方、バカラより歴史が古いサンルイ社は、現在エルメスグループの企業になっています。そんなことで、日本人の多くはバカラを高く評価してきましたが、今後その見方に変化があるかもしれませんね。 右側の瑠璃色の鉢は英国のブリストルグラス(Bristol)です。以前から稀にオークションで見かけることはあったのですが、手に入れるまでの気持ちにはならなかったのですが、ついにある日、魔がさして落札したのです。ところが落札の時点では、このガラスの正体がわからなかったのです。オークションの出品主に尋ねても、インターネットで様々な言葉で検索してみても、何の手がかりも見つけられませんでした。 ある日、私のアシスタントのひとりが白洲正子さんの本で類似品の写真を見たことがあると、手がかりを示してくれました。その本にはフランス製と思われるガラスと記されていました。これで一件落着と思ったら、ある日、弊店のお客様のひとりが「ブリストルかな?」と呟いて、後日、その資料をご持参くださいました。その資料にはこの作品と同じデザインのうつわが数種類紹介されていました。そして解説には、1921年に東京の島津邸に於いて島津斉彬侯の偉業を称えた「薩摩切子陳列会」が開催され、そこにこの「ブリストルグラス」が「薩摩切子」として出品されていたというエピソードが紹介されていました。上流階級の名士の所有物だった品々に紛れていたため、誰もがその真贋に疑いの目を向けず、「薩摩切子」と誤解され陳列されていたのだそうです。 このことは後日、訂正されたようですが、18世紀後半から1920年まで生産されていたこの「ブリストルグラス」も、欧州から押し寄せた文明開化もののひとつとして「義山」の仲間にいれてやりたいものです。私は、5年ほど前にイギリスを訪問しロンドンから電車で2時間弱のブリストルの街近くまで足を延ばしましたが、出会った人でブリストルグラスを知る人は誰もいませんでした。案外日本の数寄者たちの所有物だったからこそ、綺麗に保存されているのかもしれません。2009年にサントリー美術館で開催された「一瞬のきらめき まぼろしの薩摩切子」展にもブリストルグラスは参考出品されていたそうです。義山3につづく
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2021.05.28
義山(ギヤマン)1
今月のテーマは「義山(ギヤマン)」です。西洋文化とともに日本にもたらされた義山について梶さんに解説いただきました。1回目は義山の歴史や種類について。2回目はそれぞれのうつわの見方や解説です。そして、3回目は、野菜をメインにしたフレンチレストラン「青いけ」の青池啓行シェフとのコラボレーションです。青池シェフが輝く義山のうつわに彩美しい料理を盛り付けてくださいます。「義山の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。義山(ギヤマン) 今月は「義山(ギヤマン)」についてお話をさせていただきます。そういえば以前にも、「義山」を取り上げた記憶がありましたので、さかのぼってアーカイブを探してみました。すると、ちょうど一年前に「水無月のうつわ」として取り上げており、そこでおおよそのことについてお話をしておりますので、今回は少し切り口を変えてお話をさせていただきたいと思います。 わが国でも平安時代まではガラスが作られていましたが、それが途絶えたため、ガラス製品といえばどこか輸入品のイメージを私たちは持ってしまいます。 初めて日本にガラスがもたらされたのは1543年の鉄砲伝来と同じころだったと考えられています。鉄砲をもたらしたポルトガル人は、彼らの言葉でガラスを意味する「ビードロ(vidro)」を日本にもたらしました。 しかし、「ビードロ」は薄手の吹きガラスのことですから、厚いガラスにカットを施した「義山」とは異なる種類です。 鉄砲が伝来した時代は大航海時代と呼ばれ、ポルトガルやスペインを中心に、新しい交易国や植民地の開拓が盛んに行われていました。キリスト教の布教を先行させて、まるで人々を正しい宗教に導くかのように見せかけて行われる巧妙な植民地化政策や、交易される品目は物品に留まらず、奴隷売買がその主な事業に含まれていて、日本人もその対象であったことは教科書では教えられていません。実際には、多くの日本人が奴隷として世界で取引されたようです。このような状況を当時の権力者の織田信長や豊臣秀吉はどれくらい把握していたのでしょうか。 九州を平定した豊臣秀吉は長崎の地がイエズス会の直轄領として勝手に寄進され、日本の所有でなくなっていたことを知らされます。またこの頃、日本人奴隷が家畜のごとくの扱いを受けていることをハッキリ認知するに至ったようです。これらのことに激怒した秀吉は1587年にバテレン(宣教師)追放令を発令し、その後、キリスト教を禁じる方向へと進んでいきます。 時は流れて関ヶ原の戦いがあった1600年、ポルトガル人が種子島に現れた57年後、オランダのリーフデ(慈愛)号が現大分県臼杵市の黒島沖に漂着します。多くの乗組員は豊臣秀吉亡き後の権力者になった徳川家康の庇護を受けて帰化し、多くの情報をもたらします。やがて幕府が開かれ、秀吉同様にキリシタン勢力の台頭に頭を悩ませていた家康は、キリスト教の布教を伴わない交易を約束したオランダを優遇し、同時に鎖国政策を進めるなかで、交易を明国とオランダに絞るようになります。 そしてそのオランダとの交易でもたらされたのが、吹きガラスの「ビードロ」ではなく、厚手のガラスにカットを施した、オランダ語でダイヤモンド(diamant) を意味する「切子ガラス」、つまり「義山(ぎやまん)」だったと言われているのです。 当時の欧州の「切子ガラス」はチェコの「ボヘミアグラス」か、イタリアの「ベネチアングラス」がその主たるものだったので、日本に渡ってきた「義山」もそれだったのではないかと言われています。フランスのバカラは1764年にようやく設立されていますので、オランダとの交易でもたらされたものではありません。ちなみに日本語の「ガラス」の語源もオランダ語の「GLAS」に由来するのではないかと言われていて、ガラスの原料になる「硝石(しょうせき)」を元に、当て字で「ガラス」を「硝子」と表すようになったと考えられているのだそうです。 話を本題に戻しますが、「義山」が厚手のカットガラス、つまり「切子ガラス」を意味する言葉であることをお解かりいただけたと思いますが、装飾的なカットを行う以前に、厚手のガラスを作ることに技術が必要だったため、ポルトガル人が「ビードロガラス(吹きガラス)」とその製造技術を伝えた後も、日本人は厚手のガラスに装飾を加えた「切子ガラス」を生み出すまでには長い時間を要しました。それは主に厚く成形したガラスを冷やす「徐冷(じょれい)」の技術を持っていなかったため、割れてしまっていたようです。 欧州から日本に伝えられたガラスはいずれも、鉛を含む「鉛ガラス」の製造技術でありました。手吹きでそれを製造し続けた結果、鉛による健康被害で職人たちの寿命は極めて短く、技術を習得し一人前になるまでに長い時間を要することもあり、ガラス産業の発展は職人たちが命を削ってきた歴史と言ってもよいのです。 「義山」は「切子ガラス」を意味し、それは鉛を含んだガラスです。この「鉛ガラス(lead glass レッドグラス)」を、日常、私たちはクリスタルガラスと呼んでいます。それは鉛が健康に害を及ぼすイメージを回避するために使われているようです。ガラスに鉛が含まれると、硬くなり、光の屈曲性が高まり、透明度も上がります。つまり装飾的なカットをされたガラスがさらにダイヤモンドのように煌めくようになるのです。また弾くと澄んだ金属的な音を響かせます。しかし硬度が増せばカットを施す作業が困難になるだけでなく、もろく欠けやすくもなるため、加工には高い技術も必要となります。そのような結果からも「義山」は希少で高価なものとして、数寄者たちの好むものとなっていったわけです。 私たちが今日「義山」と呼んでいるのは、和製の「切子ガラス」ではなく、概ね舶来の「切子ガラス」を指しています。そして古い時代の舶来ガラスの現存数が少ないこともあって、その主たるものは、1901年(明治34年)に大阪の宝石商、安田源三郎氏によって持ち帰られ、それをきっかけに日本の複数の商売人によって注文輸入されたフランスのバカラ社のものです。その中の代表が、大阪の茶道具商の春海商店の発注によるものとして、「春海バカラ」と呼ばれるのです。春海商店には当時の設計図が残されていると、現在の当主からお聞きしたことがありますが、それが書籍などとして公開されているわけではないため、私たちは「春海バカラ」か、他のものかの区別を、箱に押された春海商店の刻印や貼り紙を手掛かりにする以外にはありません。 「義山」の出現はオランダとの交易に始まるとお話をしましたが、現実にはその時代のものは市場に流通していません。ですから「義山」として私たちが取り扱い、皆様がお使いになっている「義山」も大体はこの「春海バカラ」か、同時期に輸入された同等の舶来の「切子ガラス」のことで、懐石道具や茶道具として明治以降に発注輸入された、日本向けの「うつわ」なのです。 ガラスは本体に刻印がない限り、その作られた場所の特定が難しく、「義山」と呼ばれながらも、実は日本の「江戸切子」などであることも少なからずあります。普通、国産のものは「江戸切子」「薩摩切子」あるいは単に「切子」として呼んで舶来の「義山」と曖昧な区別がされています。 このように「義山」は明治後期に日本人が設計発注したバカラ製の茶道具としてのうつわを表すことが多いわけです。それではなぜそのバカラ社のうつわが高い評価を得たのでしょう。それはうつわの重量に対して30%以上の鉛を含んだ「フルレッドグラス(full lead glass)」と呼ばれる品質だったからと思われます。鉛の含有率が24%以上30%未満の通常の「レッドグラス(lead glass)」に比べて透明感と輝きが異なることが大きな原因です。 幕末の頃、日本でも鉛を多く含んだ「切子ガラス」が江戸や薩摩で生産されていました。しかし日本の茶人たちが欧州に「義山」を発注したのは一体どういう理由だったのでしょう。私ども古美術商のオークションの中でも滅多にお目にかかることはないですが、超高額で取引される「薩摩切子」は1851年に島津斉彬(なりあきら)の手によって研究が進められ、その製造に成功しました。ところがわずかに7年後、斉彬の急死により工場は閉鎖され、1863年の薩英戦争でイギリスの艦砲射撃を受けてその施設を焼失させてしまったと言われています(異説もあります)。「江戸切子」も同じく幕末の動乱期に安定した生産ができず、結局は日本の茶人たちの欲求を満たすことはできなかったのでしょうね。 さらに明治維新にかけて西洋から大量に押し寄せた文明開化物の目新しさに日本国中が踊らされてしまい、国産品より舶来品の方が飛びつきやすかったのでしょうね。義山2につづく
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2021.05.06
呉須と呉須赤絵3
梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。今月のテーマは「呉須と呉須赤絵」です。400年以上も前に中国で生み出された歴史あるうつわについて、梶さんに解説いただきました。1回目は呉須と呉須赤絵の歴史やなりたち。そして2回目はそれぞれの器の見方や解説。そして、3回目は、イル・ギオットーネの笹島保弘シェフとのコラボレーションです。笹島シェフが歴史あるこの中国のうつわに現代的なイタリアンを盛り付けてくださいます。「呉須と呉須赤絵の世界」をお楽しみください。呉須&呉須赤絵とイタリアン これが「呉須または呉須手」と呼ばれる漳州窯の染付です、写真が美しく撮られていて上手く相違点が伝わらないのですが、景徳鎮の古染付に比べて厚手にできています。色素に含まれる鉄分が多いのか染付の色は沈んだ青が特徴です。またこの「呉須または呉須手」は沈んだ濃い青色こそがその特徴です。沈んだ青のおかげでうつわに重厚感が生まれているようです。 「呉須または呉須手」は白磁の白部分もややくすんだ白色なのです。ここでうつわの裏面の写真があるのでご覧ください。呉須と呉須赤絵2よりウニとそら豆 そら豆型パスタを添えて「美しい染付のうつわにインスピレーションを得て、初夏の自然を表現しました。 耳たぶのような形をしたオレキエッテというパスタを、よりそら豆に寄せ、そら豆とともにウニのソースで和えています。 日本ではパスタというとスパゲティのようなロングパスタが好まれますが、イタリアではこのオレキエッテのようなショートパスタも日常的に食べられています。凹凸があって、ソースがよく絡むのです。 今回は緑が映えるオレンジのソース、初夏の芽吹きを感じていただける料理にしました。 自然体で心のおもむくままに盛り付けてみました。」笹島シェフ 呉須赤絵の鉢です。染付の「呉須」の鉢に盛られた料理に比べて、「呉須赤絵」に盛られた料理はずっと華やかに見えると思いませんか。 やはり暖色系の色合いのうつわの方がお祝い気分を盛り上げるというのでしょうか、料理を引き立てているようです。この鉢は骨董品や美術品としてとしては全く評価が低いのですが、強い筆使いも、やや黄色みがかった白磁の部分も逆に料理を引き立てているように思えるほどです。やはりうつわの良し悪しは、鑑賞品としての評価とは別物なのだと気付かされます。呉須と呉須赤絵2よりオマールと紫蘇のカプレーゼ「この鉢を見たときに、同じような赤い色の料理を盛ろうと思いました。 赤絵の鉢にすっと添うような料理です。 オマール海老は、脱皮前の5月6月が、身がしまって美味しいと言われます。火を入れ過ぎず、旬の旨味を味わっていただきます。 オマール海老の下には、こちらも初夏から美味しくなる茄子を潜ませています。赤紫蘇のジュースをジュレにしてソースにしました。オマール海老には赤紫蘇と青紫蘇のマイクロリーフ、ブラッターチーズにはキャビアを添えて食感や風味も楽しんでいただく一皿です。」笹島シェフ笹島保弘ローマへ渡伊後、京都「ラヴィータ」、「イル・パッパラルド」両店でシェフを務め、2002年に独立し、「イル・ギオットーネ」をオープン。東京丸の内店や大阪グランフロント店のほか、ワインやイタリア食材のショップ「オフィチーナ イル・ギオットーネ」も展開。テレビ、雑誌などメディアでも活躍している。イル・ギオットーネ関西イタリアンの名店として人気を誇るレストラン。笹島保弘シェフは、京都の素材を活かした京イタリアンの先駆者としても知られる存在。上賀茂の農家でとれた伝統の京野菜や鱧など、厳選した食材を巧みに融合させたイタリア料理は、これまでにない素材の組み合わせの妙を存分に楽しめる。■イル・ギオットーネ京都本店京都市東山区下河原町塔ノ前下ル八坂上町388-1電話:075-532-2550営業時間:12時~14時、17時~19時半(いずれもL.O.)定休日:火曜、水曜
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2021.04.30
呉須と呉須赤絵2
梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。今月のテーマは「呉須と呉須赤絵」です。400年以上も前に中国で生み出された歴史あるうつわについて、梶さんに解説いただきました。1回目は呉須と呉須赤絵の歴史やなりたち。そして2回目はそれぞれの器の見方や解説。そして、3回目は、イルギオットーネの笹島保弘シェフとのコラボレーションです。笹島シェフが歴史あるこの中国のうつわに現代的なイタリアンを盛り付けてくださいます。「呉須と呉須赤絵の世界」をお楽しみください。呉須と呉須赤絵2 景徳鎮でも漳州窯でも焼成の際は窯の床に砂を撒いています。高台部分の釉薬が垂れて窯の床面にうつわが固着するのを防ぐのが目的です。しかし、高台部分に釉薬がたっぷりかかっていたら、焼き上がったうつわの底部には大量の砂が付着してしまいます。そこで景徳鎮は「畳付き(たたみつき)」と呼ばれる高台が畳や床とじかに触れる部分の釉薬を拭き取るなどして、砂の付着を最小限にする工夫をしています。その反面、漳州窯では高台も含め全体にたっぷり釉薬をかけないと、白くない素地が顔をだして、うつわの雰囲気を損ねてしまいます。景徳鎮製品との市場争いをしていて、よほど素地の色合いにコンプレックスがあったのか、砂の付着は顧みず、たっぷりと釉薬をかけています。このような高台部分の景色が漳州窯のうつわに粗雑な印象を強調して与えているようにも思います。 こうしてお話しして参りますと、漳州窯の「呉須赤絵」は景徳鎮の色絵磁器に比べて、高台周りに砂が多く付着し、素地は黒ずみ、釉薬は白濁して透明感がない、ぽってりした生地も野暮ったいと、まるで完全に劣っているかのような印象を受けます。 ところが日本人の美意識はきっちり整って張り詰めるような隙の無いうつわより、やや崩れておおらかなものを好む傾向があるのかもしれません。 それはもしかすると日本人は、陶磁器を鑑賞する対象よりも、使用する道具として育んできたからではないでしょうか。呉須赤絵のうつわも、実際に菓子や料理を盛り付けてみると、予想していたよりはるかに美しく見えることに私はいつも驚かされます。「呉須赤絵」の内部に貯められていたエネルギーが、菓子や料理に向かって注がれているかのようです。 料理や茶会に「呉須赤絵」のうつわを使うと言うと、あまりにも定番すぎて、ワクワクしてもらえないようでありますが、しかしこれほどに盛られた料理を美しく見せるうつわは他にはないなぁと、毎度の様に感動してしまいます。やっぱり昔の数寄者は目が高かった。 明朝末期、景徳鎮の焼物は世界中に運ばれて行きましたが、漳州窯の呉須赤絵の大半は日本に来ていると言われています。そして現代でも作家たちの手によって作り続けられているわけです。 皆さんのお家の食器棚にも呉須赤絵のうつわがあるのではないでしょうか。是非そのうつわにお料理を盛ってみてください。これを読んだ後なら、定番の呉須赤絵がいつもより輝いて見えるかもしれませんよ。 これが「呉須または呉須手」と呼ばれる漳州窯の染付です、写真が美しく撮られていて上手く相違点が伝わらないのですが、景徳鎮の古染付に比べて厚手にできています。色素に含まれる鉄分が多いのか染付の色は沈んだ青が特徴です。またこの「呉須または呉須手」は沈んだ濃い青色こそがその特徴です。沈んだ青のおかげでうつわに重厚感が生まれているようです。 「呉須または呉須手」は白磁の白部分もややくすんだ白色なのです。ここでうつわの裏面の写真があるのでご覧ください。 写真の奥がこの染付の鉢です。全体に厚ぼったく釉薬がかけられているので、素地の色を見ることはかないません。しかしかすかに黒ずんだ素地が、釉薬を通してまだら模様に見えています。染付の絵はきれいに見えていますから、釉薬は白濁せずに透明なのだと理解できます。とすれば、くすんだ素地を白化粧して、その上に染付で絵を描いて、透明釉をかけて焼きあがっていることが推測されます。 さらにこの鉢は高台と高台内に大量の砂を付着させています。これだけの砂を付着させてでも、美しくない素地を隠したかったのか、高台周辺の釉薬を剥ぎ取る手間を省きたかったのかも知れません。 次は呉須赤絵の鉢です。染付の「呉須」の鉢に盛られた料理に比べて、「呉須赤絵」に盛られた料理はずっと華やかに見えると思いませんか。 やはり暖色系の色合いのうつわの方がお祝い気分を盛り上げるというのでしょうか、料理を引き立てているようです。この鉢は骨董品や美術品としてとしては全く評価が低いのですが、強い筆使いも、やや黄色みがかった白磁の部分も逆に料理を引き立てているように思えるほどです。やはりうつわの良し悪しは、鑑賞品としての評価とは別物なのだと気付かされます。 写真の手前側がこの呉須赤絵の鉢の裏面です。高台内は素地が露出していて、その色が土壁の色(ベージュ色)のようです。そこに釉薬がかかり、薄くかかった部分は土壁に水を含ませたような色(黄土色)になり、厚くかかった部分は白濁した釉薬で白くなっています。うつわ全体がやや黄ばんで見えるのは、白濁した釉薬のかかりが薄かったことで素地の色が透けて見えているようです。釉薬のかかりが薄かった高台周辺には砂の付着も少量であります。 奥によく似た呉須赤絵の鉢が左右に並んでいます。図柄などに違いがありますが、評価に関わる大きな違いがあります。皆さんにはその違いが分かりますでしょうか。 実は使われている色の数が違うのです。双方ともに赤と緑は使われているのですが、青は左の鉢にしか使われていません。そのことで視覚的な華やかさを添えているように私には思えます。ただ残念なことに青の色が少し煮えています。煮えているというのは、各色の釉薬が溶ける適温が異なっていて、窯の温度が青に対してわずかに高く上がりすぎて、釉薬が沸騰してしまったと言うことです。 白い釉薬のかかりは左の鉢の方がうまくいったためか、白が際立っているように見えます。このように、色の数と白の美しさで左側の鉢に高い評価を与えたいと思います。このふたつ鉢は兜形と呼ばれ、縁の部分に鍔を持っています。お椀形の鉢が一般的ですが、料理を盛る見込みの部分が平らで広く使いやすいので、私はこの形を好んでいます。 手前にある木瓜型(もっこがた)の染付の鉢は、もしかすると景徳鎮製のうつわかもしれません。それは素地が白すぎることからそう思っています。しかしやや沈んだ染付の青で描かれたざっくりした絵、厚ぼったい生地から漳州窯の「呉須または呉須手」だと判断しています。これが漳州窯の作品だとすれば、白い素地を厳選して作った特別なものなのだと考えています。「青呉須赤壁賦鉢(あおごすせきへきふはち)」または、「呉須青赤壁賦鉢(ごすあおせきへきふはち)」、さらに単に「赤壁賦鉢(せきへきふはち)」と呼ばれているうつわです。先に「呉須」の様々な表記については今回お話ししないと言っておりました。それはここでもわかりますように、うつわは同じでも、人によって使う名称が異なっていることに振り回されたくなかったからなのです。 ご覧の鉢は、鮮やかな水色と赤の釉薬によって描かれています。図柄は、三人の人物が船に乗っている様子を描いた、強い中華様式のものです。 元々私はこの鉢が嫌いでした。でもある時呉須赤絵の仲間だと言う理由で、美術レクチャーの中でお話しする題材にしようと手に入れたのです。そしてこの鉢に描かれている歌と絵について調べてみました。 北宋時代の1082(元豊5)年、政治家の蘇軾(そしょく、別名 蘇東坡[そとうば])が失脚し流刑になります。その流刑地の近くに長江が流れ、皆様も映画の「Red Cliff」ご覧になった有名な赤壁の大古戦場があったのです。 220~280年、「華北の魏・江南の呉・四川の蜀」の三国が分立し争った時代、そのクライマックスとも言われる赤壁の戦いがあった地の話です。長江に小舟を浮かべ、訪ねてきた友人と酒を酌み交わし、自分の置かれた状況に感傷的になり蘇軾(そしょく)は詩をよむのです。ふと気づけば舟は流れるままに歴史上誰もが知る大古戦場に差し掛かります。 しかし世に名をとどろかせた大英雄たちもいまなく、ただ月が照り、川風が川面にさざ波を作るに過ぎません。人にはあがなうことが出来ない悠久の時の流れや、自然の移ろいのなかで、自らのはかなさと同時に、自分もこの世の万物と共にあることを感じて、朗々と読み上げた歌は時代と国を超えてこの鉢に絵と文字で刻まれているのです。 私はその物語を知ってからこの鉢に対しての見方が大きく変わり、同時に好きにもなりました。 そうです美術は視覚に頼って鑑賞するものではなかったのです。美術は頭や心で鑑賞するものでもあるということをこの鉢は私に教えてくれたのです。 先にもお話ししましたが呉須や呉須赤絵の焼物の大半は日本に渡ってきていますし、中国製本土には皆無と言ってよいほど残っていません。つまり昔の日本人はこの物語のことをよく知っていて、それを好んだからうつわにして発注していたのだということです。呉須と呉須赤絵3につづく
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BLOGうつわ知新
2021.04.29
呉須と呉須赤絵1
今月のテーマは「呉須と呉須赤絵」です。400年以上も前に中国で生み出された歴史あるうつわについて、梶さんに解説いただきました。1回目は呉須と呉須赤絵の歴史やなりたち。そして2回目はそれぞれの器の見方や解説。そして、3回目は、イルギオットーネの笹島保弘シェフとのコラボレーションです。笹島シェフが歴史あるこの中国のうつわに現代的なイタリアンを盛り付けてくださいます。「呉須と呉須赤絵の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。呉須と呉須赤絵中国の陶磁器の一大産地の景徳鎮(けいとくちん)については皆様も話をお聞きになったことがあるでしょう。今月はそこから400 km くらい南へ下ったところの漳州窯(しょうしゅうよう)という別の産地をご案内いたします。景徳鎮で生産された古染付についてはすでにお話をいたしましたが、それと同時代の約400年前の中国の明末期に生産された焼物のお話です。ここ漳州窯製品は、刺繍のハンカチで有名な汕頭(スワトウ)の港から出荷されたことから、別名スワトウウェアとも呼ばれました。様々な種類の焼物が生産されましたが、その主な輸出先は日本でした。桃山時代末期から江戸初期に我が国に到来した漳州窯陶磁器の中で、染付の絵付けの製品は「呉須(ごす)または呉須手(ごすで)」と呼ばれ、色絵のものは「呉須赤絵(ごすあかえ)」と呼ばれています。名前だけではイメージが湧いてこない人も、実物を見れば、「なんだ。これか。」というくらいに見慣れたうつわだ思います。私たち日本人の日常にすっかり溶け込んでいて、日本人によって今でも作り続けられているうつわです。そのため、特に「呉須赤絵」のうつわは「有田焼じゃないのか。」「清水焼でしょ。」と思い違いをされていても仕方ないようなうつわです。また「呉須または呉須手」のうつわは、他の染付磁器と混ざり合っていて、骨董好きの方でなければ明確に区別もできず、単に「染付」と理解されているのが現状でしょうか。まず「呉須赤絵」の名前を「呉須」と「赤絵」に分解して、その意味からお話を始めて参ります。「赤絵」というのは、赤い色だけを使って描いた陶磁器ではなく、一般的には赤・青・黄色・緑・紫などの色釉(いろぐすり)を用いて「上絵(うわえ)」を描いた陶磁器を意味します。つまり「赤絵」は「色絵」と同じ意味なのです。漳州窯の陶磁器も他の多くの陶磁器と同じく「うわぐすり」と呼ばれる透明、または不透明の釉薬をかけて、窯で焼成されます。そうすると素地の表面をガラス状の皮膜で覆った、ホテルで使われる白いお皿と同じような姿に焼きあがります。「上絵」とはその表面上に色釉で描いた絵のことです。染付のようにガラス被膜の下に描かれた絵とは別のものと理解しておいてください。さて次に「呉須」と言う言葉ですが、これには2つの意味があります。一番多く使われる意味の「呉須」は、染付の絵を描くのに用いる染料(酸化コバルトまたはその鉱物)のことを指します。陶磁器の釉薬(ガラス状の皮膜)の下に描かれている青色の絵付け材料(染付)です。他方、漳州窯で生産された染付のうつわのことも「呉須または呉須手」と呼ぶのです。ひとつの言葉で染付の絵付け材料と、同時に、染付製品のことも指しているので実に紛らわしいことです。さらに、「呉須」という言葉の表記が「呉州(ごす)」や「昴子(ごす)」等もあるために生じる混乱をスッキリさせましょう。一番目は、「呉州(ごす)」という表現です。「呉須と呉須赤絵」の作られた漳州窯が、昔、中国南方に存在した「呉」と言う国と関係があるから「呉州」と書くのだと言われています。二番目は、「昴子(ごす)」という表現です。京都で代々続く永楽家では、江戸後期〜大正期の頃は、「昴子(ごす)赤絵」と多くの作品に記していました。この「昴子」と言うのは、中国元代の文人画家の「趙子昴(ちょうすごう)」に由来するのではないかと言われています。高名な「趙子昴」は達者な絵を描いたのですが、「呉須」の絵付けは幼稚なので、「子昴(すごう)」の名前の文字順を逆にして、「昴子(ごす)」と呼んでからかったのだと言うのです。もしかすると、永楽家は自ら手がけた作品の出来栄えを、へりくだった意味で「昴子赤絵」と記していたのかも知れません。ここまで「呉須」についてお話させていただきましたが、不器用な私はこの言葉の解釈にずいぶん混乱させられた経験があるので、皆様が同じ罠に落ちないように解説をさせていただきました。漳州窯の陶磁器には、「呉須」「呉須赤絵」だけでなく、「赤呉須」「青呉須」「胆礬(たんぱん)呉須」「呉須青」などの表現が用いられる製品もありますが、混乱する恐れがあるので、いまはお話を控えさせていただきます。漳州窯の「呉須と呉須赤絵」は景徳鎮で焼かれた磁器とは様子が異なります。ぽってりと肉厚で、窯の中で多少変形していても気にせず出荷されていたおおらかさが見受けられます。絵付けは早く、強い筆致が面白いのですが、ここが理解できないと、単に乱雑な絵付けのうつわと言う印象を持たれるかもしれません。染付の呉須は暗い色合が多いです。万年筆のブルーブラックの色合いですね。景徳鎮のうつわの素地は白くて上質、呉須赤絵の素地は異なり、例れえば、白い雑巾をそこそこ使い込んで汚れたような色をしています。「呉須赤絵」はそれを白いうつわするため、透明度の低い白濁した釉薬を用いて、本来の素地の色を覆い隠して白く見せています。もし素地の色に強いクスミがあった場合や、白濁した釉薬のかかり方が薄かった場合は、素地の色が表面に透けて見えて、うつわ全体が黒みを帯びた白色になります。そのことは、釉薬の上に重ねて焼き付けられる色絵の色鮮やかさを失わせてしまいます。そうなると、せっかくのうつわも、高い評価を得ることがでず、つまり「あがりが悪い」と言われるのです。呉須赤絵の白濁した釉薬は例えるなら、イチゴにかけるコンデンスミルクのような感じで、薄くかけるとイチゴの色が透けて見え、濃くかけると完全にイチゴの赤を覆い隠して白くなるのと同じ理屈です。「呉須または呉須手」では、ガラス質の釉薬の下に染付の絵が描かれています。染付の絵の上に、「呉須赤絵」同じような白濁した釉薬をかけたのでは絵が隠れてしまいます。しかし透明度の高い釉薬を使うと、薄黒い素地の色が表面に出てしまいます。ですから、「呉須または呉須手」を焼く場合はなるだけ白い素地を用いているようですし、時には素地に白化粧を施している場合もあるようにも見られます。最後に、景徳鎮の焼き物と漳州窯の焼き物の大きな違いをひとつお話ししましょう。それは釉薬と生地の収縮率の違いによって生じる、虫喰いという景色が、景徳鎮の焼物には普通に見られますが、漳州窯には基本的には見られないということです。たまに勉強を不足の陶芸家が、漳州窯の写しにも虫喰いを発生させて、写しを台無しにしてしまっているものを見かけることがあります。この点一つ押さえておきたい知識ですね。呉須と呉須赤絵2につづく
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BLOGうつわ知新
2021.04.02
現代陶芸3
今回のテーマは「現代陶芸」です。第1回では現代陶芸の魅力について、2回目には今回使用したものをふくめ、代表的な現代陶芸について解説いただきます。そして、3回目は、京都を代表するイタリアン・イルギオットーネの笹島保弘シェフとのコラボレーションです。笹島シェフがうつわを選び、渾身の料理を盛りつけます。知っているようで知らなかった「現代陶芸の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。現代陶芸3この器は丹波焼の市野雅彦氏の作品です。丹波焼は本来、釉薬を掛けずに自然な灰被りに身を委ね焼き上げる、所謂「焼き締め」が基本です。この作品は赤黒い焼き上がりの作品も多い中、際立って鮮やかで艶のあるオレンジ色に焼き上がった秀作だと思います。取り立てて奇抜な意匠を施したわけではありませんが、たっぷりとした大きさと存在感ある厚みだけで他を圧倒する力を持っているようです。私はこの作品がこれ以上に見所を持っていたとしたら、料理より作品の主張が勝ってしまって、うつわとしての魅力を欠いたと思います。料理との調和を考えれば、作者の作為の止めどころが絶妙に良いのだと思います。仕事をやり過ぎないことも作者の力量だと評価しています。現代陶芸2より子羊のローストとキャベツいろいろ「うつわのことは、それほど詳しくないので、パッと見た時のインスピレーションでこのうつわを使わせていただくことにしました。 イタリア料理は色の組み合わせを大切にする料理です。たとえば、このうつわをみたときに閃いたのは、茶色のジャケットに緑のネクタイを合わせるというファッション的な盛付けでした。オレンジがかった茶色の皿色には、緑のアクセントが似合うと思ったんです。 仔羊のローストに、春に美味しくなるキャベツを添えた一皿。乾燥させて旨味を凝縮した緑のキャベツとプチヴェール、揚げた黒キャベツは、それぞれに味わいも食感も違います。春の苦味や清々しい香りを感じていただけます。菊芋のピュレと仔羊のだしを煮詰めたソースが仔羊の味わいをふくらませてくれます。春の味と彩をこのコラボから感じていただければうれしいですね。」笹島シェフこれは藤平寧氏の作品です。家庭での一般的な使いやすさを考えれば、もっと小さなサイズのうつわが良いのかもしれません。しかし家庭で使われるうつわは、そのサイズの割に盛られている料理の量が多いと思います。料理も見せながらうつわの表情も見せるならば、料理のサイズはもっともっと小さくて良いと思います。藤平氏は京都市立芸大名誉教授の藤平伸氏の血を受け継ぎ、うつわのフォルムも色もとても繊細で、どこか甘い感性を持っています。陶器では表現の難しい色や形への挑戦は、時には自己陶酔的と思えるほどで、いつも驚かされます。個性あふれる作品でありながら、その主張が他に強要するような圧もなく、料理との相性も難しくないのだと思います。現代陶芸2よりあわびと筍の一皿「春が旬の海のものと山のものを盛り合わせた一皿です。和食店などで出される若竹がイタリアンになったらという発想で、筍に揚げたわかめを添えました。 ニュアンスのある淡色のこの鉢を見たとき、ビビッドな色目の料理ではなく、自然の色を合わせたいと思いました。自然な海の色と山の色。春という季節を考え、あわびと筍にしようと決めました。 あわびの肝に青のりを加えたソース、黄の芽とわかめの濃い緑のグラデーションが、うつわに馴染みます。 中央のみに料理を盛らず、うつわの余白も使って、デザイン性のある盛付けを試みました。」笹島シェフ笹島保弘ローマへ渡伊後、京都「ラヴィータ」、「イル・パッパラルド」両店でシェフを務め、2002年に独立し、「イル・ギオットーネ」をオープン。東京丸の内店や大阪グランフロント店のほか、ワインやイタリア食材のショップ「オフィチーナ イル・ギオットーネ」も展開。テレビ、雑誌などメディアでも活躍している。イル・ギオットーネ関西イタリアンの名店として人気を誇るレストラン。笹島保弘シェフは、京都の素材を活かした京イタリアンの先駆者としても知られる存在。上賀茂の農家でとれた伝統の京野菜や鱧など、厳選した食材を巧みに融合させたイタリア料理は、これまでにない素材の組み合わせの妙を存分に楽しめる。■イル・ギオットーネ京都本店京都市東山区下河原町塔ノ前下ル八坂上町388-1電話:075-532-2550営業時間:12時~14時、17時~19時半(いずれもL.O.)定休日:火曜、水曜
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BLOGうつわ知新
2021.03.28
現代陶芸2
今回のテーマは「現代陶芸」です。第1回では現代陶芸の魅力について、2回目には今回使用したものをふくめ、代表的な現代陶芸について解説いただきます。そして、3回目は、京都を代表するイタリアン・イルギオットーネの笹島保弘シェフとのコラボレーションです。笹島シェフがうつわを選び、渾身の料理を盛りつけます。知っているようで知らなかった「現代陶芸の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。現代陶芸2 この器は丹波焼の市野雅彦氏の作品です。丹波焼は本来、釉薬を掛けずに自然な灰被りに身を委ね焼き上げる、所謂「焼き締め」が基本です。しかし備前のように土の粒子が細かくない丹波焼は、時には水漏れが発生します。それを予防するために、この作品のように、赤ドベと呼ばれる鉄分を多く含んだ泥に灰などを混ぜた、化粧土と釉薬の中間的なものを表面に塗ったのです。 しかしその赤い発色の面白さが人気になったため、水止めの用途というよりも、より装飾的な使われ方がされるようになったようです。この作品は赤黒い焼き上がりの作品も多い中、際立って鮮やかで艶のあるオレンジ色に焼き上がった秀作だと思います。取り立てて奇抜な意匠を施したわけではありませんが、たっぷりとした大きさと存在感ある厚みだけで他を圧倒する力を持っているようです。 私はこの作品がこれ以上に見所を持っていたとしたら、料理より作品の主張が勝ってしまって、うつわとしての魅力を欠いたと思います。料理との調和を考えれば、作者の作為の止めどころが絶妙に良いのだと思います。仕事をやり過ぎないことも作者の力量だと評価しています。 これは藤平寧氏の作品です。家庭での一般的な使いやすさを考えれば、もっと小さなサイズのうつわが良いのかもしれません。しかし家庭で使われるうつわは、そのサイズの割に盛られている料理の量が多いと思います。料理も見せながらうつわの表情も見せるならば、料理のサイズはもっともっと小さくて良いと思います。 藤平氏は京都市立芸大名誉教授の藤平伸氏の血を受け継ぎ、うつわのフォルムも色もとても繊細で、どこか甘い感性を持っています。陶器では表現の難しい色や形への挑戦は、時には自己陶酔的と思えるほどで、いつも驚かされます。個性あふれる作品でありながら、その主張が他に強要するような圧もなく、料理との相性も難しくないのだと思います。 12時方向のビビットな赤いうつわは山田晶の作品です。彼の父は走泥社の中心人物の山田光なので、作風にはどこかその力を受け継いでいます。金属やプラスティックで成形されたような無機質感が漂ううつわです。料理を盛り付ける役目を持たさなくても、置かれた空間に磁場を作る花のような存在感を持ったうつわです。形にも色にも料理に媚びない存在感があります。 このように一見、料理と相容れないように思われるうつわですが、実際に盛り付けてみると面白い化学反応が生まれます。明らかに洋食器的な見かけとは裏腹に和食器として用いる方が面白いと思う人が多いのか、和食の料理人からの支持も多くあります。 次に左下の細長い銀色の作品は先ほどご紹介した藤平寧氏の手によるものです。レンガが長くなったような形に銀で装飾を施し、陶磁器でありながら、一見無機質で冷たい表情を見せています。しかし陶磁器で直線的な造形物を作ろうとしても焼成時に形がゆるんで、緩やかな曲線になってしまいます。その変形が我々にやわらかなイメージを抱かせ、作品の見所となっていきます。誰もが「エッ!うつわ?」と尋ねたくなるのですが、使ってみるとなかなか愉快な表情を見せてくれます。 最後に右方向に見えるライムグリーンの佐々木彩子氏の作品です。彼女は先に紹介した藤平寧氏の奥様です。ご夫婦なので互いに影響し合っているのか、共通する香りもするのですが、ご主人のスイートさとは異なりシャープなイメージ作品も見受けられます。この作品は陶磁器にはなかった挑戦的な色使いです。このうつわに和食を盛るなら、和食はどのような変化が必要なのでしょうか。想像するだけでも楽しみですね。 市野雅彦氏は先にご紹介したうつわ以外にも、今回の取材に合わせてうつわを提供してくださいました。料理を乗せてみて、これらのうつわが美しいかどうかを見極めるためには、陶芸家も様々な料理を食べて学ぶ必要がありますし、料理人も、実際に盛り付けてその感想や好みを陶芸家にどんどん伝えていく必要があります。 日本の現代陶芸は、想像を絶する可能性を持っていると思います。どうぞ皆さんもこだわりを持ってうつわを買い求め、現代陶芸の大きな飛躍に、貢献してくださることをお願い致します。 2年前、私のお客様から「自分も人生の晩年を迎えつつあるので、その日々を楽しむご飯茶碗を作って欲しい。人生最後になっても良いご飯茶碗を。。。。」と依頼されました。そしてその茶碗を市野雅彦氏に依頼しました。彼は期待に応えて、実に素晴らしい茶碗を届けてくれました。私も、お客様に大きな顔をして納品させていただいたことを覚えています。 でもいま思い返すと、作品としては素晴らしいものだったけれど、日常のご飯茶碗としては過ぎたものだったと反省することもあるのです。 この上質でありながら、さりげない作品に仕上げるということは、市野雅彦氏の腕をもってしても簡単ではなかったのですが、そのあたりは私自身も今後勉強していかなければならないと思っています。上質な作品でありながら、料理よりも作品が目立ってしまわないこと。料理と共存できる「うつわ」としてのわきまえを持つこと。作品の個性が前面に主張され過ぎず、「うつわ」という道具の背後に作品の個性が隠れていること。このようなことを頭の中に置いて現代陶芸と料理の融合を目指したいと思っています。さらにその先のモダンアートな食卓を実現させてみたいものです。現代陶芸3につづく
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