BLOGうつわ知新2021.05.28

義山(ギヤマン)1

備前や織部、古染付といった焼物ごとにうつわをご紹介。京都・新門前にて古美術商を営む、梶古美術7代目当主の梶高明さんに解説いただきます。 さらに、京都の著名料理人にそれぞれの器に添う料理を誂えていただき、料理はもちろん うつわとの相性やデザインなどについてお話しいただきます。

今月のテーマは「義山(ギヤマン)」です。
西洋文化とともに日本にもたらされた義山について梶さんに解説いただきました。
1回目は義山の歴史や種類について。2回目はそれぞれのうつわの見方や解説です。
そして、3回目は、野菜をメインにしたフレンチレストラン「青いけ」の青池啓行シェフとのコラボレーションです。
青池シェフが輝く義山のうつわに彩美しい料理を盛り付けてくださいます。

「義山の世界」をお楽しみください。

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梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

義山(ギヤマン)

 今月は「義山(ギヤマン)」についてお話をさせていただきます。そういえば以前にも、「義山」を取り上げた記憶がありましたので、さかのぼってアーカイブを探してみました。すると、ちょうど一年前に「水無月のうつわ」として取り上げており、そこでおおよそのことについてお話をしておりますので、今回は少し切り口を変えてお話をさせていただきたいと思います。
 わが国でも平安時代まではガラスが作られていましたが、それが途絶えたため、ガラス製品といえばどこか輸入品のイメージを私たちは持ってしまいます。
 初めて日本にガラスがもたらされたのは1543年の鉄砲伝来と同じころだったと考えられています。
鉄砲をもたらしたポルトガル人は、彼らの言葉でガラスを意味する「ビードロ(vidro)」を日本にもたらしました。
 しかし、「ビードロ」は薄手の吹きガラスのことですから、厚いガラスにカットを施した「義山」とは異なる種類です。
 鉄砲が伝来した時代は大航海時代と呼ばれ、ポルトガルやスペインを中心に、新しい交易国や植民地の開拓が盛んに行われていました。キリスト教の布教を先行させて、まるで人々を正しい宗教に導くかのように見せかけて行われる巧妙な植民地化政策や、交易される品目は物品に留まらず、奴隷売買がその主な事業に含まれていて、日本人もその対象であったことは教科書では教えられていません。実際には、多くの日本人が奴隷として世界で取引されたようです。このような状況を当時の権力者の織田信長や豊臣秀吉はどれくらい把握していたのでしょうか。
 九州を平定した豊臣秀吉は長崎の地がイエズス会の直轄領として勝手に寄進され、日本の所有でなくなっていたことを知らされます。またこの頃、日本人奴隷が家畜のごとくの扱いを受けていることをハッキリ認知するに至ったようです。これらのことに激怒した秀吉は1587年にバテレン(宣教師)追放令を発令し、その後、キリスト教を禁じる方向へと進んでいきます。
 時は流れて関ヶ原の戦いがあった1600年、ポルトガル人が種子島に現れた57年後、オランダのリーフデ(慈愛)号が現大分県臼杵市の黒島沖に漂着します。多くの乗組員は豊臣秀吉亡き後の権力者になった徳川家康の庇護を受けて帰化し、多くの情報をもたらします。やがて幕府が開かれ、秀吉同様にキリシタン勢力の台頭に頭を悩ませていた家康は、キリスト教の布教を伴わない交易を約束したオランダを優遇し、同時に鎖国政策を進めるなかで、交易を明国とオランダに絞るようになります。

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 そしてそのオランダとの交易でもたらされたのが、吹きガラスの「ビードロ」ではなく、厚手のガラスにカットを施した、オランダ語でダイヤモンド(diamant) を意味する「切子ガラス」、つまり「義山(ぎやまん)」だったと言われているのです。
 当時の欧州の「切子ガラス」はチェコの「ボヘミアグラス」か、イタリアの「ベネチアングラス」がその主たるものだったので、日本に渡ってきた「義山」もそれだったのではないかと言われています。フランスのバカラは1764年にようやく設立されていますので、オランダとの交易でもたらされたものではありません。ちなみに日本語の「ガラス」の語源もオランダ語の「GLAS」に由来するのではないかと言われていて、ガラスの原料になる「硝石(しょうせき)」を元に、当て字で「ガラス」を「硝子」と表すようになったと考えられているのだそうです。
 話を本題に戻しますが、「義山」が厚手のカットガラス、つまり「切子ガラス」を意味する言葉であることをお解かりいただけたと思いますが、装飾的なカットを行う以前に、厚手のガラスを作ることに技術が必要だったため、ポルトガル人が「ビードロガラス(吹きガラス)」とその製造技術を伝えた後も、日本人は厚手のガラスに装飾を加えた「切子ガラス」を生み出すまでには長い時間を要しました。それは主に厚く成形したガラスを冷やす「徐冷(じょれい)」の技術を持っていなかったため、割れてしまっていたようです。
 欧州から日本に伝えられたガラスはいずれも、鉛を含む「鉛ガラス」の製造技術でありました。手吹きでそれを製造し続けた結果、鉛による健康被害で職人たちの寿命は極めて短く、技術を習得し一人前になるまでに長い時間を要することもあり、ガラス産業の発展は職人たちが命を削ってきた歴史と言ってもよいのです。

 「義山」は「切子ガラス」を意味し、それは鉛を含んだガラスです。この「鉛ガラス(lead glass レッドグラス)」を、日常、私たちはクリスタルガラスと呼んでいます。それは鉛が健康に害を及ぼすイメージを回避するために使われているようです。ガラスに鉛が含まれると、硬くなり、光の屈曲性が高まり、透明度も上がります。つまり装飾的なカットをされたガラスがさらにダイヤモンドのように煌めくようになるのです。また弾くと澄んだ金属的な音を響かせます。しかし硬度が増せばカットを施す作業が困難になるだけでなく、もろく欠けやすくもなるため、加工には高い技術も必要となります。そのような結果からも「義山」は希少で高価なものとして、数寄者たちの好むものとなっていったわけです。

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 私たちが今日「義山」と呼んでいるのは、和製の「切子ガラス」ではなく、概ね舶来の「切子ガラス」を指しています。そして古い時代の舶来ガラスの現存数が少ないこともあって、その主たるものは、1901年(明治34年)に大阪の宝石商、安田源三郎氏によって持ち帰られ、それをきっかけに日本の複数の商売人によって注文輸入されたフランスのバカラ社のものです。その中の代表が、大阪の茶道具商の春海商店の発注によるものとして、「春海バカラ」と呼ばれるのです。春海商店には当時の設計図が残されていると、現在の当主からお聞きしたことがありますが、それが書籍などとして公開されているわけではないため、私たちは「春海バカラ」か、他のものかの区別を、箱に押された春海商店の刻印や貼り紙を手掛かりにする以外にはありません。

 「義山」の出現はオランダとの交易に始まるとお話をしましたが、現実にはその時代のものは市場に流通していません。ですから「義山」として私たちが取り扱い、皆様がお使いになっている「義山」も大体はこの「春海バカラ」か、同時期に輸入された同等の舶来の「切子ガラス」のことで、懐石道具や茶道具として明治以降に発注輸入された、日本向けの「うつわ」なのです。

 ガラスは本体に刻印がない限り、その作られた場所の特定が難しく、「義山」と呼ばれながらも、実は日本の「江戸切子」などであることも少なからずあります。普通、国産のものは「江戸切子」「薩摩切子」あるいは単に「切子」として呼んで舶来の「義山」と曖昧な区別がされています。
 このように「義山」は明治後期に日本人が設計発注したバカラ製の茶道具としてのうつわを表すことが多いわけです。それではなぜそのバカラ社のうつわが高い評価を得たのでしょう。それはうつわの重量に対して30%以上の鉛を含んだ「フルレッドグラス(full lead glass)」と呼ばれる品質だったからと思われます。鉛の含有率が24%以上30%未満の通常の「レッドグラス(lead glass)」に比べて透明感と輝きが異なることが大きな原因です。

 幕末の頃、日本でも鉛を多く含んだ「切子ガラス」が江戸や薩摩で生産されていました。しかし日本の茶人たちが欧州に「義山」を発注したのは一体どういう理由だったのでしょう。私ども古美術商のオークションの中でも滅多にお目にかかることはないですが、超高額で取引される「薩摩切子」は1851年に島津斉彬(なりあきら)の手によって研究が進められ、その製造に成功しました。ところがわずかに7年後、斉彬の急死により工場は閉鎖され、1863年の薩英戦争でイギリスの艦砲射撃を受けてその施設を焼失させてしまったと言われています(異説もあります)。「江戸切子」も同じく幕末の動乱期に安定した生産ができず、結局は日本の茶人たちの欲求を満たすことはできなかったのでしょうね。
 さらに明治維新にかけて西洋から大量に押し寄せた文明開化物の目新しさに日本国中が踊らされてしまい、国産品より舶来品の方が飛びつきやすかったのでしょうね。

義山2につづく