BLOGうつわ知新2022.03.31

伊万里焼と古九谷焼7

2019年に始まった「うつわ知新」は、初心者の方にもわかりやすい焼き物やうつわ解説でした。
2020年~2021年8月までは和洋中の料理人とのコラボレーション。
そして、2021年9月からは、「伊万里焼と古九谷焼」について深く、焦点をしぼった見方をご紹介してきました。

7回目となる最終回は、柿右衛門様式と鍋島様式について解説いただきます。

「伊万里焼と古九谷焼」の物語をお楽しみください。

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梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

伊万里焼と古九谷焼7

さて、前回は古九谷が辿った顛末についてお話しましたので、今月は、柿右衛門と鍋島についてお話したいと思います。

まずは柿右衛門からお話しを始めましょう。

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 古九谷様式の後、1670年代に確立したのが柿右衛門様式です。柿右衛門様式
とは、古九谷様式で培った技術を基に、特に西欧への輸出を意識して製作に力を入れた、極上の焼物です。
 柿右衛門様式が西洋への販売に漕ぎ出した原因は、1644年の明国の滅亡にあります。
 明国の滅亡後、満州族が清国を建国し、国の監督下で統制できなくなっていた中国陶磁器の生産・輸出を停止させる政策がとられます。するとその代わりの需要に応えるため、伊万里が世界中から注目されるようになるのです。

 伊万里は日本国内においても中国陶磁器の代替役として注目されながら、さらに日本人好みの意匠を追い求めた結果、古九谷様式を発展させたわけですが、市場規模を世界に広げた結果、さらに繊細で高級感漂う柿右衛門様式の焼物を誕生させることになったのです。

 1650年から伊万里との取引を始めたオランダは、従来の中国製陶磁器をはるかに超える、品格ある柿右衛門様式の登場に驚いたことでしょう。高い意匠、余白を生かした上品な構図、そして柿右衛門最大の魅力と言ってよい「濁し手」と呼ばれる際立った乳白色の素地は、17世紀後半に欧州で大流行したシノワズリと呼ばれる東洋趣味の大流行の中、欧州の貴族たちをその虜にします。

 当時、磁器を焼く技術のなかった欧州の貴族たちは、柿右衛門を争って買い求めると同時に、その白い黄金とも言える宝を、自らの手で生産しようと財力を注ぎ込むのです。そうしてついに1710年にマイセンが磁器の焼成に成功し、やがてマイセンで柿右衛門の写しが盛んに焼かれるようになっていきます。
 しかし、それより早く中国の清朝は1684年に陶磁器の輸出を再開し、価格や生産量で勝る中国製陶磁器は瞬く間に柿右衛門の市場を奪い始めるのです。
 そうして、販路の軸足を輸出に置いていた柿右衛門の絶頂期は終わりを迎えます。やがて柿右衛門様式は姿を消してしまうのですが、その時期を明確に記した資料はなく、曖昧に「江戸後期」として語られているようです。しかし、残されている作品の数の少なさから考えると、もっと早期に生産は止めっていたように私は感じています。

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【藍柿右衛門手 裏表】

 今回残念ながら、象徴的な柿右衛門である濁手(にごしで)を所有していないためご紹介が出来ません。柿右衛門様式には濁手(にごしで)・錦手(にしきで)・藍柿右衛門(あいかきえもん)があり、濁手は透明感のない柔らかな乳白色をした色絵磁器です。
 錦手も藍柿右衛門は厳選された白い胎土が用いられ、やや青味がかった透明釉が掛けられた磁器です。錦手は濁手同様の色絵磁器で、藍柿右衛門は染付磁器です。染付磁器しか生産していなかった伊万里に赤い色をもたらしたのが初代柿右衛門だとも言われ、この赤い色を引き立たせるために、白い胎土や美しい釉薬の研究が進んだのだと思われます。
 それ故、写真の染付は藍の発色も美しく、その濃淡だけで豊かな表現を実現させています。高台内に残ったトチン跡も極めて小さくし、目立たないよう配慮がされています。また現代の柿右衛門にも記されている「渦福(うずふく)」が残されています。ただしこの「渦福」柿右衛門だけの窯印だと言うことは出来ませんので、ご注意ください。
 ともかく、この美しい肌合いから、柿右衛門様式や鍋島様式が細心の注意を払って焼かれたかを窺い知ることが出来ます。

 先の柿右衛門様式とは逆に、伊万里の窯を運営する鍋島藩が、国内向け献上品として、特に徳川将軍家を意識した極上の焼物として誕生させたのが、鍋島様式です。極上の焼物を生産するために近辺から特に腕の立つ職人を集めて、技術が漏洩しないように厳格に管理して完成させた焼物は、元禄年間(1688年~1704年)にその絶頂期を迎えましたが、その栄華は長くは続かなかったようです。
 鍋島焼の特徴としては、柿右衛門に見られた「濁し手」の白とは異なり、ほんのり青味がかった地肌、そして櫛目模様の施された高い高台などが挙げられるでしょう。染付の絵付けに加え、赤・青・緑の上釉で精緻な模様に仕上げられた色鍋島を主力に、青みがかった地肌や、くし高台、裏文様に特徴があります。また、染付の濃淡だけを駆使して、かくも美しい焼物が作れるのかというほどの藍鍋島や、他の青磁とは一括りにしたくないほど澄んだ青翠色の鍋島青磁があります。
 これほどの焼物を生み出しておきながらも、絶頂期が短く生産量が少なかった理由は何だったのでしょうか。それは芸術的な焼物を誕生させた成功とは裏腹の経営的な失敗だったのではないかと私は考えています。
 販売でなく、献上することを目的として、上質な品を少量生産していたのでは運営は当然厳しくなるでしょう。逆に大量に生産したのでは献上品としての希少性を失ってしまうジレンマがあったのでしょう。
 鍋島様式は一旦活動を停止し、1700年代の後半になってまた少し生産を再開するものの、初期のような緊張感のある作品ではなくなってしまいました。初期のものは現存数も限られていて、現代においても大変高価な焼物です。

 私は柿右衛門様式と鍋島様式の衰退理由を歌謡曲の世界と同じだと思います。歌唱力の高い歌手が一番の売れっ子になるのではなく、むしろ歌唱力と個性が絶妙に折り合った歌手に人気が集まる。乱れなく美しい焼物が一番に好まれるとは限らないのですね。

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【伊万里八角大鉢】

 古伊万里様式のうつわをお見せしたかったのですが、これも元禄年間(1688年~1704年)を中心に焼かれた、絶頂期の品質の伊万里を指すため、気安く手に入れることが出来ません。写真の大鉢は半世紀近く後の時代の伊万里ですが、町人の富裕層が客をもてなすため用いた、目出度い意匠や豪華さを引き継いだ風情が古伊万里様式に似ていたので、参考までにご紹介しました。
 祝いの宴のために注文されたようなおめでた尽くしの意匠に金彩を施し、裏面にも花の絵を描き、高台内も小さく目立たないサイズのトチンを使って上手のうつわであることが窺えます。サイズも数物としては大変希少な一尺弱(約30㎝)の大鉢です。

 戦に明け暮れた戦国の世から、江戸時代の太平の世を迎え、文化芸術への関心が高まり、その円熟期とも言われる元禄年間へと時代は向かって行きます。
 伊万里も発展し、主に輸出を目指した柿右衛門様式、将軍家や諸侯への献上品としてのこだわりを見せた鍋島様式、そして、富裕町人層向けの艶やかさを追求した古伊万里様式と言うように、顧客に合わせた製品の展開を行いながら、最高品質の伊万里が焼かれたとされる元禄年間を迎えるのです。
 ところが、絶頂の陰では、欧州でのマイセン窯の始動や、清朝陶磁器の躍進が始まり、伊万里を取り巻く環境は決して長く安泰していたとは言えなかったようです。福岡の黒田藩の御用商人の伊藤小左衛門の記録によれば、元禄期には伊万里の海外への貿易は減少に転じ、国内の販売先を開拓して全国に伊万里を販売するようになったとあります。

 そうは言っても、国内において徳川幕府の財政は開幕以来、常に倹約令を出すほどで、江戸時代を通して決して経済的な余裕はありませんでした。それでも元禄年間に文化芸術の花が咲くような経済的なバブル期が発生したのは、貨幣の改鋳によるものと考えられます。金の含有率を下げた貨幣鋳造を行い、貨幣の流通量を増やすことで景気を刺激する政策が功を奏したわけです。一時的に紙幣を刷りまくって景気回復を狙うようなものですね。

 そんなバブル景気の恩恵もあって、元禄期の富裕町人層に向けて生産された古伊万里様式も頂点を極めた後、他の様式同様にその品質に陰りが見え始めます。しかし、陰りと言っても伊万里の商業的な価値が無くなってしまったわけではなく、販売戦略が変わっていったと言う方が良いかもしれません。具体的には、権力者や数寄者たちの厳しい注文に応える富裕層を相手にする路線から、一般大衆にも受け入れられる商品展開へ移行したと言うことです。
 それは、顧客の個別の要望に応えて生産するオーダーメイド方式ではなく、伊万里の生産者側で企画したうつわの見本や見本帳の中から選んでもらうカタログ販売的な商法への転換があったようなのです。現代では当たり前の販売方法ですが、当時としては、顧客は楽に注文でき、生産者は同一の定番商品を大量に生産して効率よく販売できる画期的な販売スタイルだったことでしょう。
 つまり「安かろう、悪かろう」とか「安物買いの銭失い」などと言って粗悪品を生産して儲けようとしたのではなく、受注と生産現場の効率化を図ることで産業としての拡大を図ったのが元禄時代以降の伊万里なのです。

 しかしそれは、茶道具やうつわをこの世に唯一のものとして愛蔵してきた数寄者や茶人の考え方とは真逆の方向でした。このことが、伊万里が茶の湯では使われなくなった決定的な原因だと考えています。伊万里は茶の湯に用いる懐石のうつわではなく、宴を伴う会席のうつわになっていったのです。

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【量産された伊万里】

 元禄期以降の伊万里は、受注・生産・運搬のどの面においても、よほど効率化された体制を築いたのでしょう。驚くほど多種多様のうつわを全国に販売しています。ただ上の蓋茶碗の写真に見られるように、サイズや形状は同じで、絵付けだけを変化させているような、よく考えた効率化をしているようです。

 積み上げてきた伊万里の高い品質や芸術性より、生産性や経営的な成功に重きを置いた方向への転換を残念に思う方も多くおられることでしょうが、1835年の記録では、伊万里港からの出荷数は、焼物を俵に梱包した状態で、年間31万俵が出荷された記録が残されています。仮に一俵に100客のうつわが入っていたとしたら、3100万客の伊万里が出荷されたことになります。
 つまり商売の方針を変更することにより、膨大な注文を獲得して、日本で最も多く存在する焼物として伊万里の地位を築いたのかもしれません。これを成功と言わずしてなんと言えばよいのでしょう。

 以前、英国から来られたお客様をお相手したときに「日本に来てまで伊万里を買う必要はないから、他の美術品を紹介してください」と言われたことがあります。それくらい世界の美術愛好家たちにも「IMARI」の名は広く知られていますし、欧州でも容易に目にすることができるうつわだと言うことなのです。

 現在でも伊万里は生産された地区によって有田焼・三河内焼・波佐美焼と呼び名を変えて存続し、国内だけでなく海外へも広く輸出されています。

 私は以前まで、1700年前後の元禄時代を中心に栄華を誇った伊万里焼とその文化は、その後すっかり大衆化し、衰退してしまったイメージを持っていました。でもそれは誤解で、伊万里は茶の湯以外の部分で日本人に高いうつわ文化をもたらし、その生産・運搬・販売など様々な関りを持った人々を400年に渡って養ってきたのです。これは窯業界で世界一の偉業と言ってもよいのではないでしょうか。
 400年に亘って作り続けられた新旧の伊万里が、いまも世界のどこかで取引され、美術業界や食文化を支えているのです。それって、すごい驚きだと思いませんか。


 2019年の秋からこのうつわ知新の連載を始め、ちょうど2年半が過ぎました。易しく読みやすい内容を心がけながらも、同時に知っている情報は出来るだけ出し惜しみせずお話したいと言う気持ちも抑えきれず、気楽な読物とは正反対の内容になってしまいました。いまさらながら、反省しなければならないと思っています。
 ところが、最近ネットを使って調べごとをしていると、かなり頻繁に私が書き残した文章に出くわすようになってきました。同じように、きっと多くの方も私の記事を目にして、日々いくらかずつでも人々の参考になっているかも知れないと感じています。
 確かに私の店を訪れる人々から、「記事を読んで訪ねて来ました」と言う声を聞くようにもなりました。
 2年半ではありましたが、投稿した記事はいまの私の知識をもって、しっかり書ききっています。
 それでも、まだまだと先輩諸氏からはお叱りをうけるかも知れませんが、うつわについての知識が必要なとき、さらに深く確かなご要望にお応えできるようこの後も精進してまいります。
 お読みいただきました皆様に感謝申し上げます。

2022年初春 
梶 古美術
梶 高明