BLOGうつわ知新2021.04.30

呉須と呉須赤絵2

備前や織部、古染付といった焼物ごとにうつわをご紹介。京都・新門前にて古美術商を営む、梶古美術7代目当主の梶高明さんに解説いただきます。 さらに、京都の著名料理人にそれぞれの器に添う料理を誂えていただき、料理はもちろん器との相性やデザインなどについてお話しいただきます。

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梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

今月のテーマは「呉須と呉須赤絵」です。
400年以上も前に中国で生み出された歴史あるうつわについて、梶さんに解説いただきました。1回目は呉須と呉須赤絵の歴史やなりたち。そして2回目はそれぞれの器の見方や解説。
そして、3回目は、イルギオットーネの笹島保弘シェフとのコラボレーションです。
笹島シェフが歴史あるこの中国のうつわに現代的なイタリアンを盛り付けてくださいます。

「呉須と呉須赤絵の世界」をお楽しみください。

呉須と呉須赤絵2

 景徳鎮でも漳州窯でも焼成の際は窯の床に砂を撒いています。高台部分の釉薬が垂れて窯の床面にうつわが固着するのを防ぐのが目的です。しかし、高台部分に釉薬がたっぷりかかっていたら、焼き上がったうつわの底部には大量の砂が付着してしまいます。そこで景徳鎮は「畳付き(たたみつき)」と呼ばれる高台が畳や床とじかに触れる部分の釉薬を拭き取るなどして、砂の付着を最小限にする工夫をしています。その反面、漳州窯では高台も含め全体にたっぷり釉薬をかけないと、白くない素地が顔をだして、うつわの雰囲気を損ねてしまいます。景徳鎮製品との市場争いをしていて、よほど素地の色合いにコンプレックスがあったのか、砂の付着は顧みず、たっぷりと釉薬をかけています。このような高台部分の景色が漳州窯のうつわに粗雑な印象を強調して与えているようにも思います。
 こうしてお話しして参りますと、漳州窯の「呉須赤絵」は景徳鎮の色絵磁器に比べて、高台周りに砂が多く付着し、素地は黒ずみ、釉薬は白濁して透明感がない、ぽってりした生地も野暮ったいと、まるで完全に劣っているかのような印象を受けます。

 ところが日本人の美意識はきっちり整って張り詰めるような隙の無いうつわより、やや崩れておおらかなものを好む傾向があるのかもしれません。
 それはもしかすると日本人は、陶磁器を鑑賞する対象よりも、使用する道具として育んできたからではないでしょうか。呉須赤絵のうつわも、実際に菓子や料理を盛り付けてみると、予想していたよりはるかに美しく見えることに私はいつも驚かされます。「呉須赤絵」の内部に貯められていたエネルギーが、菓子や料理に向かって注がれているかのようです。

 料理や茶会に「呉須赤絵」のうつわを使うと言うと、あまりにも定番すぎて、ワクワクしてもらえないようでありますが、しかしこれほどに盛られた料理を美しく見せるうつわは他にはないなぁと、毎度の様に感動してしまいます。やっぱり昔の数寄者は目が高かった。
 明朝末期、景徳鎮の焼物は世界中に運ばれて行きましたが、漳州窯の呉須赤絵の大半は日本に来ていると言われています。そして現代でも作家たちの手によって作り続けられているわけです。
 皆さんのお家の食器棚にも呉須赤絵のうつわがあるのではないでしょうか。是非そのうつわにお料理を盛ってみてください。これを読んだ後なら、定番の呉須赤絵がいつもより輝いて見えるかもしれませんよ。

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 これが「呉須または呉須手」と呼ばれる漳州窯の染付です、写真が美しく撮られていて上手く相違点が伝わらないのですが、景徳鎮の古染付に比べて厚手にできています。色素に含まれる鉄分が多いのか染付の色は沈んだ青が特徴です。またこの「呉須または呉須手」は沈んだ濃い青色こそがその特徴です。沈んだ青のおかげでうつわに重厚感が生まれているようです。
 「呉須または呉須手」は白磁の白部分もややくすんだ白色なのです。ここでうつわの裏面の写真があるのでご覧ください。

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 写真の奥がこの染付の鉢です。全体に厚ぼったく釉薬がかけられているので、素地の色を見ることはかないません。しかしかすかに黒ずんだ素地が、釉薬を通してまだら模様に見えています。染付の絵はきれいに見えていますから、釉薬は白濁せずに透明なのだと理解できます。とすれば、くすんだ素地を白化粧して、その上に染付で絵を描いて、透明釉をかけて焼きあがっていることが推測されます。
 さらにこの鉢は高台と高台内に大量の砂を付着させています。これだけの砂を付着させてでも、美しくない素地を隠したかったのか、高台周辺の釉薬を剥ぎ取る手間を省きたかったのかも知れません。

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 次は呉須赤絵の鉢です。染付の「呉須」の鉢に盛られた料理に比べて、「呉須赤絵」に盛られた料理はずっと華やかに見えると思いませんか。
 やはり暖色系の色合いのうつわの方がお祝い気分を盛り上げるというのでしょうか、料理を引き立てているようです。この鉢は骨董品や美術品としてとしては全く評価が低いのですが、強い筆使いも、やや黄色みがかった白磁の部分も逆に料理を引き立てているように思えるほどです。やはりうつわの良し悪しは、鑑賞品としての評価とは別物なのだと気付かされます。

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 写真の手前側がこの呉須赤絵の鉢の裏面です。高台内は素地が露出していて、その色が土壁の色(ベージュ色)のようです。そこに釉薬がかかり、薄くかかった部分は土壁に水を含ませたような色(黄土色)になり、厚くかかった部分は白濁した釉薬で白くなっています。うつわ全体がやや黄ばんで見えるのは、白濁した釉薬のかかりが薄かったことで素地の色が透けて見えているようです。釉薬のかかりが薄かった高台周辺には砂の付着も少量であります。

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 奥によく似た呉須赤絵の鉢が左右に並んでいます。図柄などに違いがありますが、評価に関わる大きな違いがあります。皆さんにはその違いが分かりますでしょうか。
 実は使われている色の数が違うのです。双方ともに赤と緑は使われているのですが、青は左の鉢にしか使われていません。そのことで視覚的な華やかさを添えているように私には思えます。ただ残念なことに青の色が少し煮えています。煮えているというのは、各色の釉薬が溶ける適温が異なっていて、窯の温度が青に対してわずかに高く上がりすぎて、釉薬が沸騰してしまったと言うことです。
 白い釉薬のかかりは左の鉢の方がうまくいったためか、白が際立っているように見えます。このように、色の数と白の美しさで左側の鉢に高い評価を与えたいと思います。
このふたつ鉢は兜形と呼ばれ、縁の部分に鍔を持っています。お椀形の鉢が一般的ですが、料理を盛る見込みの部分が平らで広く使いやすいので、私はこの形を好んでいます。

 手前にある木瓜型(もっこがた)の染付の鉢は、もしかすると景徳鎮製のうつわかもしれません。それは素地が白すぎることからそう思っています。しかしやや沈んだ染付の青で描かれたざっくりした絵、厚ぼったい生地から漳州窯の「呉須または呉須手」だと判断しています。これが漳州窯の作品だとすれば、白い素地を厳選して作った特別なものなのだと考えています。

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「青呉須赤壁賦鉢(あおごすせきへきふはち)」または、「呉須青赤壁賦鉢(ごすあおせきへきふはち)」、さらに単に「赤壁賦鉢(せきへきふはち)」と呼ばれているうつわです。先に「呉須」の様々な表記については今回お話ししないと言っておりました。それはここでもわかりますように、うつわは同じでも、人によって使う名称が異なっていることに振り回されたくなかったからなのです。

 ご覧の鉢は、鮮やかな水色と赤の釉薬によって描かれています。図柄は、三人の人物が船に乗っている様子を描いた、強い中華様式のものです。
 元々私はこの鉢が嫌いでした。でもある時呉須赤絵の仲間だと言う理由で、美術レクチャーの中でお話しする題材にしようと手に入れたのです。そしてこの鉢に描かれている歌と絵について調べてみました。
 北宋時代の1082(元豊5)年、政治家の蘇軾(そしょく、別名 蘇東坡[そとうば])が失脚し流刑になります。その流刑地の近くに長江が流れ、皆様も映画の「Red Cliff」ご覧になった有名な赤壁の大古戦場があったのです。
 220~280年、「華北の魏・江南の呉・四川の蜀」の三国が分立し争った時代、そのクライマックスとも言われる赤壁の戦いがあった地の話です。長江に小舟を浮かべ、訪ねてきた友人と酒を酌み交わし、自分の置かれた状況に感傷的になり蘇軾(そしょく)は詩をよむのです。ふと気づけば舟は流れるままに歴史上誰もが知る大古戦場に差し掛かります。
 しかし世に名をとどろかせた大英雄たちもいまなく、ただ月が照り、川風が川面にさざ波を作るに過ぎません。人にはあがなうことが出来ない悠久の時の流れや、自然の移ろいのなかで、自らのはかなさと同時に、自分もこの世の万物と共にあることを感じて、朗々と読み上げた歌は時代と国を超えてこの鉢に絵と文字で刻まれているのです。
 私はその物語を知ってからこの鉢に対しての見方が大きく変わり、同時に好きにもなりました。

 そうです美術は視覚に頼って鑑賞するものではなかったのです。美術は頭や心で鑑賞するものでもあるということをこの鉢は私に教えてくれたのです。
 先にもお話ししましたが呉須や呉須赤絵の焼物の大半は日本に渡ってきていますし、中国製本土には皆無と言ってよいほど残っていません。つまり昔の日本人はこの物語のことをよく知っていて、それを好んだからうつわにして発注していたのだということです。

呉須と呉須赤絵3につづく