うつわ知新
うつわと料理は無二の親友のよう。いままでも、そしてこれからも。新しく始まるこのコンテンツでは、うつわと季節との関りやうつわの種類・特徴、色柄についてなどを、「梶古美術」の梶高明さんにレクチャーしていただきます。
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2021.08.28
漆器2
今月のテーマは「漆器」です。日本料理にとって欠かすことのできない「漆器」について、その特徴を梶さんに解説いただきました。1回目は日本の漆器と使い方について。2回目は料理に用いるうつわの見方や解説です。そして3回目は、中華料理を新しい解釈で再構築するイノベーティブ中華の雄「ベルロオジエ」の岩崎シェフとのコラボレーション。 中国と日本の季節感を織り交ぜた岩崎シェフの美しい料理と漆器との稀なる融合です。「漆器の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。漆器2菊水蒔絵煮物椀 今から思えば撮影現場へは、もっと華やかな蒔絵のお椀も数多く持参していたはずなのに、なぜかこの静かな椀の写真しか撮影していなかったので、ここから話を始めましょう。 この菊水模様は南北朝時代に後醍醐天皇の下に馳せ参じて、足利勢と戦った楠木正成の旗印の紋として知られますが、流水に菊の花びらが半分浮かび上がった模様は「浮かび上がる」という縁起の良さで、延命長寿のめでたい柄と考えられていたようです。菊の花は重陽の節句の象徴的な花ですから、このお椀は秋に向いている図柄です。ところが同時に、菊は長寿を表すことから、特に季節を問わずに使われる傾向にあります。 このようにお椀の図柄で使う季節が限定されると生真面目に考えてしまう人も多いことでしょうが、模様の持つ意味についてもう少し深く学ぶと、使える機会を広げることが出来るでしょう。人によっては、どんな季節でも使える図柄を求める方もおいでになりますが、一年中同じ椀を使い続けることはうつわを楽しむ観点から言えば面白くありません。あの学生服でさえ夏物冬物があるくらいです。四季の移ろいやハレとケは私たち日本人にとって大切な感性です。それをうつわの中でも楽しまないと損なのではありませんか。左:四君子蒔絵大徳寺盆 右:高台寺蒔絵大徳寺盆 業界用語というわけではないのでしょうが、大徳寺盆と呼ばれる写真のような丸盆が存在します。きっと大徳寺で使われていた古い盆があって、それを写したものを大徳寺盆と呼ぶのであろうと思っていました。ところが調べても、これがオリジナルだと言える古い大徳寺盆が見つかりません。 この2種類の盆もおおまかにサイズは同じなのですが、塗も蒔絵の模様も異なります。茶道の大本山的な存在の大徳寺の名前がつけられているのだから、茶道具として活躍する決められた場所があるのだろうと思っていたら、そうでもない。「どう使うのですか?」と私も尋ねられて困ることがよくあるのです。 しかもこのお盆はコンディションも良いものがたくさん残されているので、良い品の割に安価なのです。そんなことから私はお料理を提供する時に、気軽にこのお盆を使わせてもらっています。肉の赤身や、野菜の濃い緑がよく映えます。漆器のうつわといえばお椀しかないと思わず、また和食使いと決めつけず、もっと漆器を知ってください。使えるものがたくさんあると思いますよ。手前:音丸耕堂造 高麗盆 奥:日の丸盆 ほとんどの懐石料理店で使われるのは黒塗か蝋色・塗溜塗の黒系の四方の折敷です。朱色や丸形の折敷をお求めになる方はとても少ないのです。それはダイレクトに価格に反映されるので、品質の割にそれらは安価に手に入れるチャンスも多いようです。 折敷もうつわのひとつと気遣いをされるなら、季節で向付を替えるように、折敷もお洒落にお取替えになってはいかがかと、日頃から思うのです。 左は昭和30年に人間国宝に指定された音丸耕堂作の高麗盆です。高麗盆と言うからにはそのオリジナルが朝鮮半島の品の中にあるのかと探して見ましたが探しあてることができませんでした。朝鮮半島では、足付きのお膳で食事をする習慣があるので、足のない折敷は音丸耕堂のオリジナル色の強いものだろうと思います。アジアで広く作られていた独楽盆に意匠を得たのかもしれません。京都の老舗懐石料理店で音丸耕堂作の高麗盆お使いになっておられるのを見たことがありましたが、お料理を引き立てるのに折敷の役目も大切なのだとはっきり教えられるほど、素晴らしい存在感を放っていました。 右は二月堂練行衆盤(にがつどうれんぎょうしゅうばん)または日の丸盆と呼ばれ、東大寺二月堂で行われる修二会(しゅにえ お水取)の際,練行衆(篭りの僧侶)が食堂で飯椀・汁椀・菜椀・木皿などの食器類をのせるために使用する盆を写しています。 本歌の裏面にも、写真の盆にも「二月堂練行衆盤二十六枚内永仁四年十月日漆工連仏」と記されています。本歌は重要文化財に指定され11枚現存しています。ただの丸い盆でありながら私個人はこの盆に強く惹かれるところがあります。ただシンプルに轆轤で引いているだけですが、一尺四寸強(約42㎝)のたっぷりの寸法の朱色の表面に、わずかに顔をのぞかせる黒。裏面も含め、全体に下地塗りされた黒が折敷の印象を引き締めています。本歌は長年の使用で、朱漆が薄れて下地の黒が浮かび上がって趣のある歴史観を漂わせています。 調理することも食すことも修行と考える禅の教えの中で育まれた懐石料理が、このような宗教色の強いうつわたちとの相性が悪いはずはないと思うので、根来塗のうつわなども含めて、ぜひ使っていただきたいと思います。朽木盆 朽木盆は滋賀県の北西部、若狭と京都を結ぶ鯖街道に沿って発達した山間の集落で、豊富な森林資源を背景に作られた漆器の盆です。 室町時代末期には足利幕府も弱体化し、12代将軍足利義晴・13代将軍足利義輝が京からこの地に難を逃れて滞在するなど、歴史の舞台に度々登場することから、単なる山間の閉ざされた集落ではなかったのでしょう。この朽木盆は領主の朽木氏が奨励して生産させ、上質なものは参勤交代の折に献上品として、数多く江戸へ持参され、広く名前を知られるようになりました。 写真の朽木盆は、江戸に運ばれた上質な盆とは異なり、分厚い丈夫な作りで、低い足をつけて食事の折敷としても、給仕する側の扱い易さも考慮した実用性に富んだ盆です。民芸色が強いので、一般の懐石料理店でこれをお使いになっているのは見かけませんが、摘み草料理で名を知られている美山荘では、この盆をお使いになり、お料理の趣をさらに高めておられるようです。北大路魯山人造 日月椀 多くの人が憧れる北大路魯山人の漆器の代表作、日月椀です。このお椀は漆器の産地である温泉で有名な加賀地方の山中の辻石斎という職人が手がけました。私も様々な勉強をするうちに、魯山人と辻石斎が作り始めた当初の日月椀は、今の姿とはずいぶんと異なるものであったことを知りました。金銀の装飾部分は、金色の代わりに朱色、銀色の代わりに灰色を用いたのです。しかも、椀の外側表面の漆の下地に和紙を用いた艶の少ない一閑張(いっかんばり)も、最初は光沢のある一般的な椀の仕上げでした。 時間の経過とともに試行錯誤と改良を加えられた日月椀は、やがて一閑張が採用され、装飾では、金色の下に赤、銀色の下に灰色が隠されたお椀になっていきます(金銀の下なので見えませんが...)。 ただし魯山人はある時、辻石斎に対して絶縁状を送りつけて縁を切っておりますので、その後京都で作らせたものなのか、やはり山中の誰かに作らせたものなのか、詳細が分からなくなっています。この日月椀を眺めているうちに私は気づいたのですが、椀の胴にかすかなくびれがあります。このような形はお椀には見たことがありません。唯一心当たりがあるのは、樂家の作る樂茶碗に見かける特徴です。 魯山人がお椀に一閑張を採用したこと、微かに胴を締めた姿にしたことは、茶道具の形を熟知した数寄者からの助言に強いひらめきを得たのではないかと思っています。写真の右側の日月椀の金銀彩の下にはどちらにも朱色が隠されているのが見て取れます。下地の色が最終的に朱色と灰色になるまでには試行錯誤があったことが想像できます。 30年くらい前には、大きなサイズの煮物椀を好む料理人の方が多くいましたが、いまは小さめのサイズが好まれるようになりました。 しかし、この日月椀の人気はそんなサイズがどうこうという問題など、まったく関係ないようです。漆器3へつづく
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2021.08.28
漆器1
今月のテーマは「漆器」です。日本料理にとって欠かすことのできない「漆器」について、その特徴を梶さんに解説いただきました。1回目は日本の漆器と使い方について。2回目は料理に用いるうつわの見方や解説です。そして3回目は、中華料理を新しい解釈で再構築するイノベーティブ中華の雄「ベルロオジエ」の岩崎シェフとのコラボレーション。中国と日本の季節感を織り交ぜた岩崎シェフの美しい料理と漆器との稀なる融合です。「漆器の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。漆器1 今月のうつわ知新では漆器についてお話をさせていただこうと思います。ここの読者にはプロの料理人さんも少なからずおいでになると思います。その方々は、漆器が欠かすことのできないうつわだとよくご理解されていることでしょう。吸物椀・煮物椀・小吸物椀・折敷などはお料理の流れの中で必ず必要とされる漆器ですし、懐石料理の中では煮物椀がメインディッシュである以上、漆器の出番こそが一番気の抜けない料理の見せ場なのかもしれません。ところが一般のご家庭を見てみると、煮物椀をお作りになる機会はほとんどなく、お吸物やお味噌汁をお料理に添えられるだけで、季節感のあふれたお椀を、幾種類も持って使い分けておられる方は少ないことでしょう。 私も多くの漆器を扱っておりますが、茶道人口が激減しているこの頃、料理人以外の方が漆器のお椀のみならず、折敷などをお求めになる事はほぼありません。漆器のうつわから一般の人々の心がどうして遠のいてしまったかの理由を考察しても面白くないので、漆器のうつわの興味深いところに焦点を当ててお話をしていきたいと思います。 漆器は英語でlacquerware(ラッカーウエァー)といいます。またJapan(ジャパン)も日本の国を意味する英語である以外に漆器という意味を持っていると文章では読んだことがあります。しかし、Japanを漆器という意味で使っている外国人に出会ったことはありません。漆器は私の知る限りアジア各地で生産されていますが、Japanという英語に漆器という意味があるのなら、きっと日本の漆器は他国と比べて出来栄えが素晴らしいと評価された結果なのでしょうね。 以前、ミャンマーの漆器のお店で経験した話です。当時の私は喫煙者でしたので、店内で喫煙の可否を尋ねました。すると、すかさず灰皿を用意してくれたのですが、それが漆器の灰皿だったのです。ご存じの通り漆器は熱いみそ汁を注ぐと黒い漆は茶色に変色してしまいます。これを漆が焼けると言うのですが、当然私はそのことを知っていたので、漆の灰皿は使うことが出来ないから、金属かガラス製の灰皿に交換してくれるようにお願いしました。ところが店員さんは笑って応じず、そのまま使うように勧めるので、タバコを吸い、そしてタバコを押し付けて火を消しました。すると店員さんは漆が変色していないことを私に見せて「ミャンマーの漆は強い」と自慢げに言いました。確かにタイやミャンマーで見かける漆器は、日本の漆器には見られないエナメル素材のような光沢の強い黒色で熱に強い。それならば、古染付など中国のうつわが日本でもてはやされたように、日本人はどうして煮物椀や吸物椀のような熱い汁物を注ぐうつわにタイやミャンマーの漆器を採用せず、香合・煙草壺・煙草盆などの道具類のみを輸入したのでしょう。 懇意にしている塗師の方に尋ねたところ、漆科の植物でも日本の漆と東南アジアの漆では種類が違うため、その性質が大きく異なるのだそうです。漆は乾燥させることによって固まるのではなく、適度な湿気と温度で、漆の中に含まれている「ラッカーゼ」という成分が水分と酵素反応を起こし、漆の主成分である「ウルシオール」という物質の硬化を促進させるのです。この「硬化する」ことを便宜上「漆が乾く」と言っているだけなのです。日本の漆は非常に硬く固まるのに比べて、東南アジアの漆には若干の変形にも耐える柔軟性が残ります。その特徴を生かして、タイ・ミャンマーには弾力性のある籃胎 (極薄の竹で編んだ籠地)に漆を塗布した蒟醤(きんま)製品が発達したようです。 漆器は高い熱によって変色してしまうのに、なぜ日本ではお椀に使われているのでしょうか。じつは漆器は単純に熱に弱いというのは正しい理解ではないようです。紫外線の当たる環境下(直射日光の当たる場所や強い蛍光灯の光のもと)に長く放置すると、漆表面の退色と共に劣化が進みます。その劣化した状態に、いきなり熱湯を注ぐことで黒い漆が変色する問題があるのだそうです。 また長時間、紫外線の下に放置したわけでなくとも、涼しい環境に置かれていた漆器に熱いものを突然に注ぐような、急激な温度変化にさらすことも変色の原因になります。つまり使用前にぬるま湯にさらすなどの準備運動をさせてやる余裕が必要なのだそうです。このように急激な変化(特に温度変化)を与えなければ、椀も変色せず、折敷や机に輪ジミ(湯呑やコップを置いた跡)がつくことも防ぐことができます。 日本の漆は東南アジアの漆とは違って、年月と共にどんどん硬化して、変色にも衝撃にも強くなり、数千年の年月にも耐えうるものだと言われます。この耐久性の他にも、耐水性、抗菌性、防腐作用もあり、酸(酢)にも強いことが、うつわに必要な条件を満たし、さらに仏像などに至っても漆を施すことで長い年月に耐えることが出来るわけです。 陶磁器に比べてはるかに古い歴史を持つ漆のうつわ。磁器のうつわのみで組み立てられる西洋料理にあって、ガラスは飲み物、金属はカトラリーと、ほぼきっちり区別されています。ところが日本では、陶器・磁器・ガラス・竹、そして漆器も料理を盛るためのうつわとして当然のように使われています。様々な種類のうつわを混ぜて使って食事を組み立てるこの習慣を、当たり前のように日本人の意識に植え付ける先駆的な役目を果たしたのが、漆器のうつわなのではないでしょうか。また漆器を用いるために、金属製の箸・ナイフ・フォークを使って食さない。そのことでうつわにダメージを与えず、ひいてはうつわを長く大切に使う日本人の意識に繋がっているように思います。 いま、現代人の暮らしの中、漆器のうつわとの距離が遠のいてきているようです。改めて漆器について学んでみると、その歴史の古さや、奥深い美しさを再発見することができるでしょう。ぜひ漆器のうつわを見直してください。 日頃から漆のことについてご教授くださる漆芸家の土井宏友氏に今回もお世話になりました。感謝申し上げます。漆器2へつづく
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2021.08.18
楽焼3
今月のテーマは「楽焼」です。400年の歴史を経てなお、一作品ごとの作風や個性を生み出す「楽焼」について、その歴史と魅力を梶さんに解説いただきました。1回目は楽焼と楽茶碗について。2回目は料理に用いるうつわの見方や解説です。そして3回目は、中華料理を新しい解釈で再構築するイノベーティブ中華の雄「ベルロオジエ」の岩崎シェフとのコラボレーションです。中国と日本の季節感を織り交ぜた岩崎シェフの料理と楽焼との融合は稀少。「楽焼の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。10代 樂旦入造 宗全好 柚味噌皿 柚子は冬至の頃に収穫の最盛期を迎えます。柚子と白味噌を和えて作られる柚子味噌のお料理は同じ時期に収穫期を迎える大根と合わせて田楽として人々に愛されて来ました。このうつわは千家三代目宗旦の求めに応じて樂家四代の一入が作ったのがその起こりなのだそうです。大根を炊いて、熱々を食べるのには、熱を伝え難い樂のうつわはたいそう勝手が良かったのでしょう。幾代もの樂家の当主の手によって焼かれています。世代によって色や形がわずかに異なりますが、焼かれた数が多かったのか、よく見かけるうつわです。楽家の作ったうつわは季節感を反映したものが多いと思います。厳密にいえばこのうつわは初冬のものなのでしょう。でも、そのことに意識はしても囚われすぎず、現代の皆様の感性で自由に使いこなす器用さも大切だと思います。 楽焼2よりとうもろこしのブランマンジュと焼とうもろこしのアイス「今回このお話をいただいたとき、すごく嬉しかった。ですが一方で、改めて考えてみると、うつわについてはそれほど勉強してこなかったこともあって、僕に美術品ともいえるうつわを使いこなせるだろうかというちょっとした不安もありました。 けれど、梶さんのお店にうかがってうつわを拝見した途端、その存在感と美しさに心を捕まれました。 梶さんから季節感やそもそもの用途は考えなくてもいいと言っていただき、第一印象でうつわを選ばせていただきました。 この柚味噌皿は、表情のある色目といい質感といい、非常にキレイで、夏の野菜・とうもろこしとの組み合わせが頭に浮かびました。本来は冬に用いるうつわだそうですが、わがままな感性で使わせていただくことにしました。 豊かな収穫をイメージして、獲れたてのとうもろこしも添え、御敷に合わせることに挑戦しました。 柚味噌皿には、とうもろこしのブランマンジュと焼とうもろこしのアイスを盛り、ウニや焼ソーセージ、コーンスプラウト、プチセロリなどを添えています。混ぜて食べると旨味の幅が広がるとともに、とうもろこしの深い甘みを感じていただけます。 器の縁にかけたのは、三日月をイメージしたとうもろこしのサブレです。上には黄色みの強いゴールドラッシュと色白のピュアホワイトの2種類を散らしています。 コロンと丸い揚げ物は、ライウーゴ―という芋のコロッケ。今回は大和芋を使っています。 瑞々しいとうもろこしと端正な楽焼の組み合わせをお楽しみください。」 岩崎シェフ 樂の向付けに折敷(おしき)を合わせてみました。折敷も立派なうつわのひとつなので別の回にお話しさせていただこうと考えています。写真の折敷は我谷盆(わがたぼん)と言い、私が思いを伝えて彫っていただいているものです。本来、お盆はお料理を運搬するために使う道具の名称で、うつわの下に敷く折敷とは用途が異なります。それを知っていてお盆に折敷の役目をさせたのかをお話いたします。我谷盆は石川県の山中温泉近くに存在した我谷村の村民たちが、付近に多く自生していた栗の木を用いてコツコツ彫り上げた農閑期の手仕事のお盆なのです。我谷村は昭和33年にダムの底に沈んでしまいましたが、残された我谷盆の魅力に魅せられた木工作家の黒田辰秋氏が好んだことで、世に知られるようになりました。私は京都生まれの京都育ちですが、梶古美術のルーツは我谷村から近い、石川県加賀市にあります。なかなか古い我谷盆は見つからないのですが、干菓子盆に使える良い寸法のものを所有しております。自分たちで使うために作られた生活民具ですが、その素朴で美しい手仕事は民芸の域を超える魅力あるものです。 梶高明さん11代 樂慶入造 舟形向付 舟形の向付で主に夏に好んで使われます。向付の中ではやや大きいので、使い勝手が良いのか、私の店では人気があります。樂家には舟形と呼ばれる向付が幾種類もあります。また、桃山時代の織部にも見られることから、焼物の種類を問わず人気のある姿のうつわです。写真の向付は香炉釉と呼ばれる白い釉薬が使われ、緑の織部釉で縁取られています。この白い釉薬は樂家二代常慶が香炉を作るのに好んだ釉薬だから、香炉釉と呼ばれるのだそうです。釉薬の表面には貫入(かんにゅう)と呼ばれるヒビが黒く縦横に入っています。この黒い貫入は、焼成後に表面を墨で黒く塗って拭き取って生み出します。 楽焼2より鮎尽くしのひとさら「舟形のうつわには、鮎料理を盛りつけました。 鮎の焼きもの、揚げ物、春巻き、骨せんべいと、鮎の美味しさをさまざまに楽しめる一皿です。 胡瓜やズッキーニ、オクラ、枝豆、シャンツアイなど緑の夏野菜を合わせ、香りや食感を添えています。 塩焼きで味わう鮎とは違った鮎の魅力を発見していただくとともに、水辺に想いを馳せていただければと思います。」 岩崎シェフベルロオジエ2019年12月に苦楽園から四条河原町GOOD NATURE STATION2Fに移転して開業。ベースは中国料理だが、モダンスパニッシュにも通じるアート感覚にあふれた料理が評判。大阪のホテルで広東料理を、京都のホテルで四川料理を身に付けた岩崎祐司さんが、独学でフレンチなどガストロノミーを学び個性あふれるチャイニーズ・イノベーションを創り上げた。餃子や酢豚を再構築して旨味を積み重ね、デザイナブルな料理に仕上げる。温前菜からデザートまでのおよそ10~14品のコースは、驚きと感動の連続。ゆったりと楽しみながらも、時間があっという間に過ぎていく。■ ベルロオジエ京都市下京区河原町通四条下ル2丁目稲荷町318番6 GOOD NATURE STATION 2F075-744-698412:00~15:00(※12:30最終入店)、18:30~22:30(※19:00最終入店)休 水曜日(不定休あり)
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2021.07.31
楽焼2
今月のテーマは「楽焼」です。400年の歴史を経てなお、一作品ごとの作風や個性を生み出す「楽焼」について、その歴史と魅力を梶さんに解説いただきました。1回目は楽焼と楽茶碗について。2回目は料理に用いるうつわの見方や解説です。そして3回目は、中華料理を新しい解釈で再構築するイノベーティブ中華の雄「ベルロオジエ」の岩崎シェフとのコラボレーションです。中国と日本の季節感を織り交ぜた岩崎シェフの料理と楽焼との融合は稀少。「楽焼の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。楽焼210代 樂旦入造 宗全好 柚味噌皿 柚子は冬至の頃に収穫の最盛期を迎えます。柚子と白味噌を和えて作られる柚子味噌のお料理は同じ時期に収穫期を迎える大根と合わせて田楽として人々に愛されて来ました。 このうつわは千家三代目宗旦の求めに応じて樂家四代の一入が作ったのがその起こりなのだそうです。大根を炊いて、熱々を食べるのには、熱を伝え難い樂のうつわはたいそう勝手が良かったのでしょう。幾代もの樂家の当主の手によって焼かれています。世代によって色や形がわずかに異なりますが、焼かれた数が多かったのか、よく見かけるうつわです。 楽家の作ったうつわは季節感を反映したものが多いと思います。厳密にいえばこのうつわは初冬のものなのでしょう。でも、そのことに意識はしても囚われすぎず、現代の皆様の感性で自由に使いこなす器用さも大切だと思います。11代 樂慶入造 舟形向付 舟形の向付で主に夏に好んで使われます。向付の中ではやや大きいので、使い勝手が良いのか、私の店では人気があります。樂家には舟形と呼ばれる向付が幾種類もあります。また、桃山時代の織部にも見られることから、焼物の種類を問わず人気のある姿のうつわです。 写真の向付は香炉釉と呼ばれる白い釉薬が使われ、緑の織部釉で縁取られています。この白い釉薬は樂家二代常慶が香炉を作るのに好んだ釉薬だから、香炉釉と呼ばれるのだそうです。釉薬の表面には貫入(かんにゅう)と呼ばれるヒビが黒く縦横に入っています。この黒い貫入は、焼成後に表面を墨で黒く塗って拭き取って生み出します。11代 樂慶入造 織部薬鶴菱平皿 舟形向付と同じ香炉釉と織部釉を用いた大きな鉢です。菱鶴(ひしづる)・双鶴(そうかく)或いは、向鶴(むかいづる)とも呼ばれるお目出たい形です。この鉢をそのまま小さくした向付も作られていて、人気があります。鶴は実際20~30年の寿命にもかかわらず千年の長寿と言われていますがどうしてなのでしょう。誰も教えてくれないので、私の経験でお話します。 秦(しん)の始皇帝(しこうてい 紀元前259年~紀元前210年)がそこには不老不死の妙薬があると信じて家来の徐福(じょふく)に探させた蓬莱山。古くから詩歌に読まれてきた現中国の湖南省にある名高い霊山の祝融峯(しゅくゆうほう)。それらには樹齢千年とも万年とも言われる松がそびえ立っていて、その上空を鶴が舞い飛んでいるお決まりのイメージが昔の人の頭にはあったようです。 そして私はそのおめでたい掛軸を数えきれないほど目にしてきました。松竹梅がめでたい取り合わせなのだと皆様の心に刻まれてしまっているように、昔の人には鶴に千年や万年といったイメージがしみ込んでいて、それが現代にまで伝わっているのでしょうね。さらに、2羽の鶴が形取られているは、ご存じのように鶴のつがいが生涯添い遂げることを好んだ意匠なのでしょう。また菱形は菱という植物の繁殖力から子孫繁栄に結び付けているようです。 ここまで聞かされると季節感で用いるのではなく、慶事に用いるうつわだと言うことが良くお解りになったかと思います。参考年代1560年代前半 織田信長、尾張を平定し、東美濃へ領土を拡大。元亀4年(1573) 利休と信長の出会い。天正2年(1574) 長次郎が獅子像を作る。天正7年(1579)頃 長次郎、茶碗を作る?天正10年(1582) 本能寺の変天正13年(1585) 聚楽第建築始まる天正14年(1586) 茶会記に「今焼茶碗・宗易形」の登場。
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2021.07.31
楽焼1
今月のテーマは「楽焼」です。400年の歴史を経てなお、一作品ごとの作風や個性を生み出す「楽焼」について、その歴史と魅力を梶さんに解説いただきました。1回目は楽焼と楽茶碗について。2回目は料理に用いるうつわの見方や解説です。そして3回目は、中華料理を新しい解釈で再構築するイノベーティブ中華の雄「ベルロオジエ」の岩崎シェフとのコラボレーションです。中国と日本の季節感を織り交ぜた岩崎シェフの料理と楽焼との融合は稀少。「楽焼の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。楽焼 毎月皆様にうつわについてお話をさせていただいておりますが、「うつわの種類など無数にあるのだから、この先もネタは尽きることないだろう。」と皆様はお考えかもしれません。ところが私は投稿を始めて以来、皆様の予想とは逆に、この場でお話しできるうつわの種類が少ないことに苦しんでいます。それは食事を楽しむためのうつわの歴史が、案外浅かったことに原因があります。 焼物は桃山時代より古い時代へと時間をさかのぼっても存在するのですが、すり鉢や水瓶・種壺と言った道具としての焼物が存在するに過ぎません。食事を楽しむためのうつわではなく、「入れもの」に近いものが大半なのです。しかし桃山時代になって茶の湯が流行すると、土間や台所に置かれていた水瓶・種壺などの道具であった焼物に、より上級の役目を求めるようになります。そして茶室や座敷への出入りを許された茶碗などの茶道具、そして向付や鉢などの食事を楽しむうつわへと進化していくのです。 紆余曲折を繰り返して道具から発達を遂げた多くの焼物とは違って、今回取り上げた「楽焼」は、初めて焼かれた時から茶室に出入りする許可を得ていた特別な焼物だと言うことが出来るでしょう。 では、なぜそんな特別な焼物になり得たのでしょうか。歴史を紐解くときには私はいつも感じることがあります。それは「何の前触れもなしに、突然に物事は起こらない」という法則のようなものです。その法則に従えば、「楽焼」も茶室に出入りさせてもらえるまでの前触れがあったと言うことになります。その前触れについてお話させていただきますが、これからお話しする内容には異論がある方もおいでになるかもしれません。しかしながら、学術論文ではないので、異論があることは承知の上で、あくまで私説としてお話しさせていただきたいと思います。左より15代 樂直入造 焼貫茶盌、11代 樂慶入造 黒茶盌、7代 樂長入造 黒茶盌、3代樂道入(のんかう) 赤茶盌世代による表現の違いは、個人のセンスだけでなく各時代が求めた表現が形として反映されているように感じます。 お話は軸足をうつわではなく、茶碗に置いて進めていきます。それは、おそらく「樂焼」のうつわが誕生するのは茶碗誕生のずいぶん後の話になるため、「樂焼」を知るには、「樂茶碗」の源流を見に行く必要があるからです。 時代は織田信長が尾張を平定し、陶器の産地として重要な意味を持つ東美濃(現在の多治見方面)へと領土を拡大した頃になります(1560年代前半)。信長は東美濃を自分の領地として再開発に着手する中で、尾張領内の瀬戸焼の職人たちを東美濃へ移住させます。当時は輸入品の唐物の茶道具が最上のものと珍重されていましたが、信長は領地内の産業振興に力を注ぎ、その結果、陶工やそれを商う商人たちを優遇します。窯業を育てる中で、国産茶道具の先駆けとして漆黒の筒状の「瀬戸黒茶碗」、別名「天正黒」が誕生します。これは信長の指示の下、千利休と今井宗及がプロデュースしたと言われています。 私は以前、「瀬戸黒茶碗」より先に「樂茶碗」が誕生し、それが好評であったために、量産化を目指した結果、「瀬戸黒茶碗」が誕生したと考えていました。 ところが最近は「瀬戸黒茶碗」をプロデュースした経験を生かして、千利休は「樂茶碗」を考案したのではないかと思っているのです。7代 樂長入造 黒茶盌アーティストとしてセンスを表現する前に、職人として茶を飲む道具を作る意識が強いのか、作り手の個性を強く押し出してはいない作品に感じます。 天正時代(1573〜1587年)についてもう少し詳しくお話させていただきます。千利休と織田信長の出会いは元号が天正に改元される直前の元亀4年(1573)でした。「瀬戸黒茶碗」の誕生は茶会記に記載され「天正黒」と呼ばれ、それは信長の指示があって美濃で焼かれたと言われていますので、天正10年(1582)の「本能寺の変」以前ということになります。一方、「楽焼」は樂家初代の長次郎作で天正2年(1574)の年号が入った獅子像が残されていますので、「樂茶碗」を作る以前から作陶をしていたことが考えられます。そして長次郎が茶碗を焼き始めた時期は天正7年(1579)頃という説もありますから、樂茶碗の原型となる茶碗はこのころに存在したのかもしれません。天正13年(1585)の秀吉の聚楽第(じゅらくだい)建築時に出てきた聚楽土(じゅらくつち)を用いたことから「聚楽焼」と呼ばれ、やがて秀吉から「樂」の陶印を授かることで「樂茶碗」と呼称が定まります。つまり、「樂茶碗」の誕生は聚楽第建築以降の誕生と言うことになります。実際「今焼茶碗(いまやきちゃわん)」とか「宗易形(そうえきがた)」として茶会記に出てきたのが、天正14年(1586)とされています。そして、これが利休の指導を受けた「樂茶碗」ではないかと言われ、聚楽第完成の頃の登場となるのです。11代 樂慶入造 黒茶盌腰の部分の深い削りや、内側に絞り込むような口づくりに、道具としての姿より、作者の表現が優先されてきているように思えます。 このようにコマ送りのように歴史の事実と、人物、茶会記などを照らし合わせて行くと、見えてくることがあると思いませんか。大きな窯で一度にまとまった数を焼き上げられた「瀬戸黒茶碗」に対し、数寄者たちの更に細かな要望を聞き入れ、利休自らが深くかかわり、ひとつひとつ丁寧に作りこんで焼かせたオーダーメイド茶碗が「樂茶碗」なのだと言えるのではないでしょうか。このように茶会で使うことを前提に生まれた「樂茶碗」であり、また「樂」という焼物だからこそ、特別な扱いを受けていたのだと思うのです。 「樂焼」への発想は、利休が「瀬戸黒茶碗」を作った経験が元になっているのだろうとお話しました。それではその技術はどこからもたらされたのでしょう。もし利休が「瀬戸黒茶碗」と同じものを京都の地で焼こうと考えていただけなら、美濃から職人を呼び寄せれば容易いことだったでしょう。でも利休はそうはしなかったのは何故でしょうか。 それはきっと異なった焼物や人物との出会いによって、「瀬戸黒茶碗」を超える新しいイメージが頭に浮かんだからなのではと私は思っています。15代 樂直入造 焼貫茶盌茶を飲む道具である前に、アーティストの感性が釉薬のかかり具合や腰上部の強い削りに強く表現されています。道具である前に作品であろうとする主張が溢れているようです。 「樂焼」は中国の「華南三彩」の技術がその元になっていると言われています。それは当時、秀吉の命によって建築された聚楽第の瓦職人の中に、中国の三彩を焼く技術を持った渡来人がいたからだと考えられています。それが樂家初代の長次郎の父の阿米也(あめや)だったのではないかと言われています。 では「華南三彩」とはどんな焼き物なのでしょう。そもそも三彩とは二種類以上の色釉(色のついた釉薬)を掛けて低い温度で焼き上げた軟陶(高温で焼き締めていない軟らかい陶器)を言います。多くは緑・黄・褐色の色釉と透明釉が用いられ、その形式によっては交趾焼とも呼ばれる焼物で、「樂焼」が誕生した時代の数寄者たちに好まれていました。その原型は紀元前2世紀の前漢の頃にはすでに見られ、8世紀近くの唐時代には技術的な熟成を見たと言われています。日本でも、奈良から平安時代にかけて「奈良三彩」という類似品が焼かれていたことからも、このような焼物の技術を持った渡来人の往来が古くから存在したことがわかります。 そのような渡来人の持つ技術を瓦の生産に向けただけでなく、茶碗を焼かせる発想に至ったのは何故でしょう。そこには日本の統一を果たし、権力と財力を手中に収めた秀吉とその家臣たちが、ある意味、超好景気に近い状態に湧いていたからではないでしょうか。それ故、権力を示すための豪華な城や屋敷の建築、茶会や花見など華やかな行事の開催、南蛮始め世界中からもたらされた珍品や茶道具の収集に湯水のようにお金を使うことができたのでしょう。そんな世情の中で行われた聚楽第の建築工事。建築物の基礎を整える際の土木工事で聚楽土が発見されたのではないでしょうか。本来なら壁土に使うはずの聚楽土を、焼物の材料(粘土)として整え直して、茶碗を焼くところにまで持っていった遊び心にはただならぬエネルギーを感じます。右下赤茶碗より反時計回りで3代樂道入(のんかう) 赤茶盌、7代 樂長入造 黒茶盌、11代 樂慶入造 黒茶盌、15代 樂直入造 焼貫茶盌茶碗は高台側から見る方が、それぞれの個性が強く感じられるように思えます。高台中央の形状、畳付き、高台全体の形、高台脇の様子、釉薬のかかり具合、腰のから胴への立ち上がり、ヘラの削り跡等ひとつずつ比べてみてください。 この原稿を書くために四六時中楽焼について考えていて気づいたことがあります。それは「樂家」の作品からは量産化を目指して、効率を優先した気配を感じたことが無いと言うことです。400年強の長い時の流れの中では、職人の手を借りて、数量を作る発想も頭をよぎったことでしょう。歴代の「樂家」の当主が自らの手でひとつひとつ成形し、小さな窯で確かめながら焼成するスタイルを守り続けた結果、「樂家」の焼物は他家の楽焼のみならず、他の焼物と異なる風情を醸し出す存在になっていると思います。精神性が高いとでも言いましょうか、何か「凄味」のようなものが焼物の中に存在していると私は感じるのです。海外の知識人が好んで樂家の作品を買い求めるのは、彼らがそのことに反応しているからだと私は思っています。 「樂」はそんな特別なうつわであり焼物なのです。 今回のお題の「樂」は1度では到底書ききれない深い焼物です。私もこの原稿を書き始めてすぐに、一度にすべてを語ることは諦めました。そして勢いに任せて書いてみたら、「瀬戸黒」などを引っ張り出して、思っても見ない方向への話の展開になってしまいました。また近いうちに「樂」についてこの続きをお話しする機会を持ちたいと思います。楽焼2へつづく
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BLOGうつわ知新
2021.06.29
祥瑞3
今月のテーマは「祥瑞」です。染付のなかでも緻密な文様が特徴で、ファンの多い「祥瑞」について梶さんに解説いただきました。1回目は「祥瑞」が生み出された歴史的背景や特徴について。2回目はそれぞれのうつわの見方や解説です。そして、3回目は、野菜をメインにしたフレンチレストラン「青いけ」の青池啓行シェフとのコラボレーションです。青池シェフが祥瑞の個性をひきだす料理を盛り付けてくださいます。「祥瑞の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。祥瑞3祥瑞手捻子文七寸皿染付の色はバイオレットカラーです。見込みには松と鳥が描かれていて、その周辺の捻子(ねじ)模様(螺旋模様)の中に幾何学文を描いています。透明ガラス釉の輝きも、純白の磁胎も美しいので、これだけで「祥瑞」に分類してやってもよいでしょう。高台内は「五良大甫 呉祥瑞造」ではなく「角福(かくふく 角ばった福ノ字)」らしき模様が描かれています。高台の砂、口縁部の虫喰いも見ることができます。祥瑞2より活オマール海老とホワイトアスパラガス ハーブ添え「あまりにも美しいうつわの紋様に、ドキドキしました。 まず頭をよぎったのは、少しでも多くこの文様を食べる方に見ていただきたい、ということでした。 色目を考えて鮮やかな青紫の紋様と互いに引き立て合う朱と緑の料理、それもナチュラルな感じのあるものにしたいと考えました。 火を入れ過ぎずレア感を残したオマール海老と新鮮なホワイトアスパラガスの一皿。アスパラソバージュのほか酸味のあるハーブを添えて、オマールやホワイトアスパラのしみじみと美味しい滋味を感じていただきます。 最初にうつわを見て楽しみ、最後まで食べてまたうつわ全体の紋様を味わう。そんな幸せを感じてください」青池シェフ右手前:祥瑞手波兎文小皿 左と右奥:祥瑞手五寸向付これらのうつわは、「祥瑞手(しょんずいで)」と表記したように、「祥瑞」と呼んで良いものかどうなのか、判断に迷ううつわです。兎文様以外の2種類のうつわは、見込みの図柄が少し異なってはいるものの、実に似通ったうつわです。どちらも染付の色は暗く沈んだ「古染付」の典型的な色をしています。しかし見込みの周辺には幾何学文を配して「祥瑞」らしい風情があります。実はこのうつわは魯山人が残した「古染付百品集」と言う書籍に掲載されていました。そこには「祥瑞風平向(しょんずいふうひらむこう)」と命名されていました。魯山人もこのうつわが「祥瑞」の特徴を示してはいるが、「祥瑞」と呼んでしまうのには、少し不十分と考えていたようです。「祥瑞」の様式が突発的に成立したのではなく、これは誰が見ても「祥瑞」だ、というものが出現するまでには試行錯誤を繰り返して仕上がって行ったと考える方が自然ではないでしょうか。そのように考えれば、「祥瑞」の条件を完全に満たしていなくても、「祥瑞」への過渡期のうつわと捉えるべきなのかもしれません。祥瑞2より左;活鱧のポシェ 野菜のピュレ 右:毛ガニとアボカドのミルフィーユ「料理をワンランク上にしてくれるうつわです。 このふたつのうつわは、同じような文様であるのに、色目も描き方も違う。 一緒にお出しすることで、その違いも楽しんでいただきたいと思いました。 左は活鱧にさっと火をいれたポシェ。上賀茂トマトとオリーブのピュレを添え、スナップエンドウやパプリカなど夏の野菜を添えています。 右は毛ガニの実とアボカドの甘酢漬をビーツのシートで挟んだもの。 いずれの料理もお皿の色柄を邪魔しないような控えめな色合いで。文様の部分だけでなく柄のない白い空間も残すように盛り付けました。 うつわの美しさを楽しむのもレストランで料理を味わう楽しさのポイントです。 うつわと料理の組み合わせの妙をぜひ実感ください」青池シェフ青池啓行(あおいけ ひろゆき)1975年、京都府生まれ。京都ホテルで修業を開始。現【レストラン スポンタネ】(※1日4組限定のフレンチレストラン)の谷岡シェフに師事する。その後、26歳でヘッドハンティングされて市内のカウンターフレンチ【パリの朝市】のオープンに参画。これを含め、フランス料理店5軒で立ち上げに関わる。39歳で京町屋を改装し、【Restaurant 青いけ】を開業。現在に至る。青いけ青池啓行さんが、2014年京都・御所南に開いたフランス料理店。中村外二工務店設計の端正な店内で味わえるのは、野菜の持ち味を存分に生かした季節のコースです。コースには30~50種もの野菜が使われるのが特徴で、女性はもちろん健康を気遣うヘルシー志向の食通にも評判。1階では、シェフの調理や盛り付けを間近に見られ、カウンター席の醍醐味を満喫できます。■青いけ住所:京都市中京区竹屋町通高倉西入塀之内町631電話:075-204-3970営業時間:12時~13時30分(L.O) 、18時~19時30分(L.O)定休日:日曜、不定休あり
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BLOGうつわ知新
2021.06.27
祥瑞2
今月のテーマは「祥瑞」です。染付のなかでも緻密な文様が特徴で、ファンの多い「祥瑞」について梶さんに解説いただきました。1回目は「祥瑞」が生み出された歴史的背景や特徴について。2回目はそれぞれのうつわの見方や解説です。そして、3回目は、野菜をメインにしたフレンチレストラン「青いけ」の青池啓行シェフとのコラボレーションです。青池シェフが祥瑞の個性をひきだす料理を盛り付けてくださいます。「祥瑞の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。祥瑞2祥瑞大鉢 私が所有する「祥瑞」の中で、もっとも「祥瑞」らしい特徴を持った大鉢です。呉須は美しいバイオレットカラーをしていて、見込みには8種類の幾何学模様を配しています。これだけで「祥瑞」と分類してやってもよいでしょう。高台内には「大明成化年製」と記されており、先に解説した「五良大甫 呉祥瑞造」ではありません。高台の畳付き付近には粗い砂の付着が見られ、砂の付着を防ぐために高台部分の釉薬を削ることはされていません。また、口縁部分には虫喰い予防の鉄薬も塗られておらず、ハッキリ虫喰いができています。このようにいくつかの特徴が欠けていますが、この鉢を「祥瑞」と呼んで問題ないと思います。祥瑞手捻子文七寸皿 やはり染付の色はバイオレットカラーです。見込みには松と鳥が描かれていて、その周辺の捻子(ねじ)模様(螺旋模様)の中に幾何学文を描いています。透明ガラス釉の輝きも、純白の磁胎も美しいので、これだけで「祥瑞」に分類してやってもよいでしょう。高台内は「五良大甫 呉祥瑞造」ではなく「角福(かくふく 角ばった福ノ字)」らしき模様が描かれています。高台の砂、口縁部の虫喰いも見ることができます。右手前:祥瑞手波兎文小皿 左と右奥:祥瑞手五寸向付 これらのうつわは、「祥瑞手(しょんずいで)」と表記したように、「祥瑞」と呼んで良いものかどうなのか、判断に迷ううつわです。右手前の中央に兎を描いたうつわの染付はバイオレットカラーです。しかし、兎以外には模様化された唐草が描かれてはいますが幾何学文ではありません。それでは、染付の色合いだけで「祥瑞」と判別するのか?と考えさせられるうつわです。 私はこれとよく似た兎の同種のうつわを幾度も扱いました。それらはみんなバイオレットカラーでした。図柄は、あるものは幾何学的な模様と判断できるものもありましたので、その経験からこれを「祥瑞」の仲間に分類しても良いように思います。 他の2種類のうつわは、見込みの図柄が少し異なってはいるものの、実に似通ったうつわです。どちらも染付の色は暗く沈んだ「古染付」の典型的な色をしています。しかし見込みの周辺には幾何学文を配して「祥瑞」らしい風情があります。実はこのうつわは魯山人が残した「古染付百品集」と言う書籍に掲載されていました。そこには「祥瑞風平向(しょんずいふうひらむこう)」と命名されていました。魯山人もこのうつわが「祥瑞」の特徴を示してはいるが、「祥瑞」と呼んでしまうのには、少し不十分と考えていたようです。「祥瑞」の様式が突発的に成立したのではなく、これは誰が見ても「祥瑞」だ、というものが出現するまでには試行錯誤を繰り返して仕上がって行ったと考える方が自然ではないでしょうか。そのように考えれば、「祥瑞」の条件を完全に満たしていなくても、「祥瑞」への過渡期のうつわと捉えるべきなのかもしれません。手前:14代永楽妙全作 祥瑞平皿 右奥:12代永楽和全作 祥瑞写茶盌 明代末期のうつわを並べて、それが「祥瑞」かどうかを検証することも良いのですが、日本の陶芸家たちは何をもって「祥瑞」と思って写して来たかを学べば、「祥瑞」の姿がもっとハッキリするのではないでしょうか。ここに明治から大正期の永楽家の作品を2点ご紹介します。 残念ながらどちらの作品も特徴的なバイオレットカラーはうまく表現できていません。しかし、全体的に幾何学文を配し、虫喰いが発生しそうな口縁や、茶碗の胴紐(胴体に回した紐状の装飾)部分は、焼成前に透明釉を拭き取って、代わりに鉄釉を塗って、虫喰いの発生予防をしています。私が特に注目したのは茶碗の高台部分です。写真では少し見にくいかもしれませんが高台の先端部の畳付(たたみつき)から約2mmの高さまで、透明釉を削って、砂を付着させないための配慮がされています。この虫喰いや砂の付着への対策が、小堀遠州の目指した「綺麗さび」へのこだわりが伺える点ではないでしょうか。 これら2点は京都の永楽家が作ったものですが、永楽家の勝手な創作ではないと思われます。それは、永楽家の染付磁器では虫喰いも砂の付着も発生しないのですから、それに対策をする必要はありません。ですから「写(うつし)」の文字が示すように永楽家は、徳川家・三井家などのスポンサーに「祥瑞」と伝わる本歌(ほんか=オリジナル)を借りて、忠実に写した結果、本来不必要なはずの作業も行なわれている訳です。 こうして「祥瑞」について学んで来ると、「祥瑞」の定義は、案外はっきりしていないことにお気付きになったことでしょう。箇条書きにした「祥瑞」特徴も、その全部にあてはまるものなどほんの一握りしか存在しなくて、ほとんどは私たちのおおよその判断でもって、「古染付」と「祥瑞」の境界線を引いているということでしょう。祥瑞3につづく
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BLOGうつわ知新
2021.06.26
祥瑞1
今月のテーマは「祥瑞」です。染付のうつわのなかでも緻密な文様が特徴でファンの多い祥瑞について梶さんに解説いただきました。1回目は祥瑞が生み出された歴史的背景や特徴について。2回目はそれぞれのうつわの見方や解説です。そして、3回目は、野菜をメインにしたフレンチレストラン「青いけ」の青池啓行シェフとのコラボレーションです。青池シェフが祥瑞の個性をひきだす料理を盛り付けてくださいます。「祥瑞の世界」をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。祥瑞 今月は「祥瑞(しょんずい)」のうつわについてお話させていただきます。まずは、「祥瑞」の言葉が持つ意味から探っていきましょう。「祥」は「吉事の前触れ」を意味し、「瑞」は「みずみずしく美しいこと」の意味を持っています。そして、ふたつの文字を合わせて「祥瑞(しょうずい)」と読むと「うつくしい、めでたい兆(きざ)し」という意味になります。また、これを「祥瑞(しょんずい)」と読むと、中国の明代につくられ、日本の桃山~江戸初期に日本に渡来した陶磁器のなかでも、ある特徴を持ったものを指す言葉となるのです。 私はいままでに数え切れないほどのうつわを見て参りましたが、絵が描かれているうつわの、そのほとんどには、縁起の良い模様が施されていました。ちょうど着物の文様と同じように、うつわの文様も、大概は富貴・幸運・長寿の意味が好まれていたのでしょう。そしてこの「祥瑞(しょんずい)」のうつわは、その名前自体が吉兆を意味するほどに、それらのうつわたちの中でも特別なうつわだった、ということですね。 2020年11月に「古染付」についてのお話をさせていただきましたが、その景徳鎮で焼かれた「古染付」家族のひとりである「祥瑞」は、日本の茶の湯に深くかかわった特徴を持った焼物とお考えいただいて間違いありません。 さて、「わび茶」は千利休の時代に完成したと言われていますが、利休の時代における美的基準は、ひと目で読み取れるところに存在する、明らかで単純な美よりも、深く読み込むようにしてようやく浮かび上がる渋い趣を高く評価したようです。そのような深いところに存在する美は、京や堺に居住した富裕層が国内外の文化に接し、美術品を蒐集することで手に入れた高い数寄の感性(こだわりの美意識)の中にあったのです。その感性にふれ、審美眼を養い、互いの情報交換をするための最高の場所が茶会であったため、利休をはじめとする茶人や有力数寄者のもとに権力者や富裕層が集まったのだと考えられます。 しかし、そもそも審美眼や数寄の感性は、ものの見どころや鑑賞法を教わったからと言って育つものなのでしょうか。むしろ、その人の生い立ちや、交流をもった数寄者同士の関りの方が、その感性の成長に大きく影響を及ぼすのではないかと私には思えます。 利休の後の茶の湯を牽引した古田織部や小堀遠州たちは、下剋上の世の中を勝ち上がってきた大名茶人だったので、彼らの美意識の中には自らの力を強く誇示したい傾向が見えるように思えます。それが、丸い茶碗をわざわざ歪ませることや、釉薬の変化だけで飽き足らずに、積極的にうつわに独特の絵模様を添えることであったのでしょう。深い趣を味わうことよりも、人々の目を素早く引き付けるための魅力作りに重きを置いた結果ではないでしょうか。 同様に、利休の提唱した「わび茶」の継承者でありながら、大名としての顕示欲が強かったために、わざわざ明国から取寄せた染付磁器や華やかな色絵磁器を茶の湯に持ち込み、やがて彼らは明らかに利休とは異なる独自の方向を見出していったのだと思えるのです。 古田織部は慶長20年(1615年)、徳川家康への謀反の嫌疑をかけられ、切腹させられてしまいます。しかし、利休亡き後の茶の湯の牽引役として、それまでの約20年間、実に大きな足跡を残しました。特に「織部」という彼の名前をいただいた向付は、実にユニークな形と絵付けを施されたうつわです。 ところが織部の切腹の後は、罪人が手掛けたうつわの生産は止められ、大量廃棄され、商いの最前線からも大急ぎで姿を消してしまいます。産地であった美濃地方でも、ろうそくを吹き消したように消滅した織部のうつわですが、明代末期の景徳鎮の窯では、まるで織部焼のその後の進化を引き継いだかのような展開をみせています。つまり、織部焼の向付にみられたように、鋳型を使って様々な形に成形された厚手の「古染付」の向付は、動植物などの多様な形が織部焼に追加されたように生み出されていきます。そして、それら「古染付」が本格的に日本にもたらされたのが、まさに織部の死後からまだ程ない時期だったのです。 豊臣秀吉から徳川家康へと権力が移行する時期に活躍したのが古田織部ならば、織部亡き後、徳川幕府の基礎を作った家康から二代将軍秀忠の時代、日本の茶の湯を牽引したのは小堀遠州でした。人は先人の残した仕事を引き継ぐ際、そのまま継承するのではなくそこに新たな自分の色を持ち込もうとします。 利休が完成した「侘び茶」に、古田織部が「歌舞(かぶ)いた」ものや、「ひょうげた」表現を茶の湯に持ち込んだように、小堀遠州はさらに「綺麗さび」と呼ばれる彼なりの表現を持ち込んだと言われています。明代末期の景徳鎮への注文品に至っても彼らの好みは大きく反映されたと考えられています。織部の影響が色濃く残された、鋳型成型を中心にした「古染付」に対して、小堀遠州が海の向こうの明国に注文したのが、「古染付」を遠州好みにもう一段進化させた「祥瑞」だったのではないかと言われています。 「祥瑞」が日本に渡ってきたのは、明国滅亡前の最後の皇帝、崇禎帝(すうていてい/1628年~1644年)の時代だったとされていますが、それでは「祥瑞」の特徴について、「古染付」と比較して箇条書きにしてお話をさせていただきましょう。 いくつかの特徴は「古染付」と共通するものがありますので、それに関しては軽く流してまいります。その詳しい説明が必要な方は古染付の解説月に戻ってご覧ください。①虫喰いがある。(古染付と共通)②高台に砂が付着している。(古染付と共通)③高台内側に放射線状に高台を削り出したカンナ跡が多く見られる。(古染付と共通)④生がけである。(古染付と共通)⑤染付の呉須が大変鮮やかな瑠璃色を呈しているものが多い。⑥幾何学的な模様を多用している。⑦高台内に「五良大甫 呉祥瑞造(ごろうだゆう ごしょんずいぞう)」と記されているものがある。⑧釉薬の透明感が強く、輝きが強い。⑨古染付より、白く上質な磁胎が使われている傾向が見られる。⑩畳付きへの砂の付着を嫌って、高台部分の釉薬をやや幅広に削り落としていることも見受けられる。⑪虫喰いを嫌って、口縁部分釉薬を削って、鉄釉を塗っていることも多く見られる。⑫古染付型物向付同様、日本向けに作られ、他国では見られない。⑬茶道具を中心に発注された傾向がある。上記のように「古染付」と「祥瑞」の特徴は、多くのところで重なっています。しかも「古染付」から、ある日を境に突然「祥瑞」が発生したわけではないのです。そのため、両方の特徴を合わせ持つものもたくさん見受けられます。「古染付」から「祥瑞」への移行途中と言うべきものも多く、明確な線引きはかなり困難であると思ってもよいかもしれません。それでは上記を項目単位でご説明させていただきます。① 「古染付」「祥瑞」共に釉薬と磁胎の収縮差が、うつわに虫が喰ったかのようなカケに似た景色を生み出しました。② 「古染付」「祥瑞」共に、うつわ底部の釉薬が窯の底部に固着しないように砂を撒いたため、それが高台周辺に付着しています。③ 「古染付」「祥瑞」共に、円形の高台を削りだして成形するときに使ったカンナが、高台内で跳ねて生み出した削り跡です。④ 「古染付」「祥瑞」共に、天日乾燥ののち絵付けし、釉薬をつけて焼成したということで、低い温度で一度素焼きをしてから絵付けをする工程はまだなかったということです。⑤ の呉須の色の違いについてですが、「古染付」ではやや沈んだ青色が多くみられることが特徴ですが、「祥瑞」では紫に近い青、つまり瑠璃色と言うべき色が特徴です。⑥ の幾何学的な模様を多用しているという点ですが、幾何学模様があれば「祥瑞」、無ければ「古染付」と言った具合に、このことだけで線引きをすると見誤ってしまいます。ただ「古染付」に比べて図柄が絵画的ではなく、模様のようにパターン化されている結果として、「祥瑞」は幾何学的な模様が目立っている、くらいに解釈したほうがよい品物も見受けられます。曖昧な表現ですが、はっきり断定してしまうと模様だけで線引きをしようとして、偏った見方になってしまうのです。⑦ の高台内に記された「五良大甫 呉祥瑞造」の銘についてですが、これが何を意味するのかは諸説あり、単純に「五良大甫(ごろうだゆう)」なる人物が「祥瑞」を造った、ということにはならないのです。紛らわしいことに、伊藤五郎太夫という伊勢の商人が実在し、1513年に明国から焼物について学んで戻った記録が残っていたために、この人物と「祥瑞」を結びつけて考えられる説もありました。しかし、「祥瑞」が日本にもたらされたとされる約100年以前の人物が、その製造に関りを持ったということは、到底説明がつくものではありません。この銘が意味するものが特定の人物を指し示すものなのかどうかは、現時点の研究で明らかにすることはできませんので、むしろこの銘の解釈に捉われず、他の特徴を見逃さないように注意すべきだと思います。⑧ ~⑪ にかけての項目は、「祥瑞」は日本からの強い要望によって、それまでの「古染付」より高い品質を求めた結果として現れた特徴だと考えられます。しかし全ての「祥瑞」にこの特徴がはっきり確認できるとは限らず、あくまでもその特徴を備えている傾向が強い、くらいの解釈に留めて、作品を見間違わないように気をつけてください。⑫⑬ は日本人が新しい茶道具の流行をこの「祥瑞」の中に求めた結果このようになったのだと考えられます。従って茶道具は日本独自の物で、他国には不要であったため、日本に向けてのみ船積みされたのでしょう。ただし、茶道具には茶懐石のうつわも含まれていますので、茶碗や水指だけとは思わないでください。 このようにして「祥瑞」について皆様にご説明してきましたが、この文章を書きながら、私自身ここまで詳しく書くことが良いことなのかどうか疑問に思ってしまいます。 皆さんにお話しする前に、私も様々な勉強を積み重ねてきました。でも私が欲しいと思う情報が書かれた書籍や論文は、難しい言葉で表現することこそ良い資料なのだと言わんばかりに、凡人の私が理解するには意地の悪い文章ばかりでした。 それらを読み砕くことは本当に苦痛でしかありませんでした。それを感じた自分なのに、私も皆さんに難しく説明しすぎてはいないかと言う疑問から逃れることができずにいます。美術の本質は鑑賞して楽しむことです。私の表現力が乏しいために、いつも長文になってしまうことに、うんざりされているのではないでしょうか。 もっと読みやすく、わかりやすく語ることを忘れないでおこうと思います。 例えば「祥瑞」はとても細密な絵付けが施されて、高い品質を追い求めているので、多くの労力が払われています。しかし、そのことが必ずしも、うつわとして料理を引き立てるのに役に立っているわけではありません。私個人は、おおらかな古染付の方に魅力を感じています。どうでしょう、このくらいの簡潔さで充分なのかも知れません。 そんなことを自問自答しながら、これからも毎月の投稿を続けて行こうと思います。祥瑞2につづく
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