BLOGうつわ知新2020.12.28

永楽2

季節ではなく備前や織部、古染付といった焼物ごとにうつわをご紹介。京都・新門前にて古美術商を営む、梶古美術7代目当主の梶高明さんに解説いただきます。 さらに、京都の著名料理人にそれぞれの器に添う料理を誂えていただき、料理はもちろん器との相性やデザインなどについてお話しいただきます。

今回は「永楽」の器について梶さんにレクチャーいただき、
京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理をおつくりいただきました。

「永楽」の解説については、永楽1「歴史」永楽2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。

「永楽」の世界観をお楽しみください。

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梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

永楽

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16代 永楽即全造 仁清写双鶴向付

この向付は、向鶴(むかいづる)或いは、菱鶴(ひしづる)向付とも呼ばれていて、表千家7世如心斎(じょしんさい)の「好(このみ)」となっています。「好」というのは、それぞれ茶人の創意工夫によってデザインされ、職人に作らせたものを言い、この「好」として過去に作られた作品を16代永楽即全の解釈で再構築したものと言えるでしょう。大概のうつわは「めでたさ」を表現しているのですが、このうつわは赤を用いることで強くそれを印象付けています。また赤が艶消しの釉薬になっていて、とても洒落た演出になっています。
 裏面は三つの足がついていて、その形状は桃山時代の織部や明の古染付向付に習っているようです。16代の永楽即全の作品ですので、絵付けも整っており、ある意味機械で生産したような几帳面さのあるうつわです。それは私たち現代人が、個々の異なる魅力より、均一に整っていることが高い品質だと思い、それを求めた結果だと思っています。私はこの均一であることの「そろいの美」は、15代正全と16代即全のこだわりであり魅力でもあると同時に、面白くない部分でもあると思っています。

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14代 永楽妙全造 赤絵福字中皿

この作品は赤・緑・青の3色の色絵で表現されています。
 見慣れた呉須赤絵図柄でもありますから、このうつわだけを見ていてもなんら特別な印象はありませんが、いざ料理を盛ってみると、華やぎを与える素晴らしいうつわです。
 明時代の漳州窯(しょうしゅうよう)の本歌の御須赤絵は、この写真の作品よりもっと筆が走っているために、やや雑な印象を与える絵付けですが、そこがこのうつわの面白さでもあります。
 永楽妙全の作品の多くも、少し筆の暴れや金彩がかすれていく、うつわ個々の風情を楽しませようとする狙いが隠されているようです。このやや乱暴とも言えるような個々の面白さ、言うなれば「不揃いの美」のような感性を、この妙全の頃までは、積極的にうつわの中に盛り込んでいるようです。10客組の向付で、ひとつひとつ出来が異なっていて、それをもしバラ売りすれば、出来の良いものから売れていきます。しかし出来が良いからと言って、機械生産したようなまったく同じ向付の10客揃いが面白いかと言えば、それは違うかもしれません。ここに「揃いの美」が好きか「不揃いの美」が好きかの好みの分岐点がありそうです。

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14代 永楽妙全造 染付飛鶴絵重 塗り蓋宗哲

 私がこの重箱を扱うのはこれで3度目ですが、この重箱が今の時代に残されている数を考えると、極めて異例の多さだと思います。同素材で作られた共蓋の他に、特別に中村宗哲作の塗り蓋が添えられ、その塗り蓋には表千家12世惺斎の花押(かおう)が入れられていることは、この重箱がお家元の好(このみ)に近い形で、極めて限定的に作られたものだったと言うことを示いると思うからです。
 この表千家12世惺斎は14代永楽妙全と15代正全の活動を支えたようで、彼らの作品に度々箱書きを行っています。

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左)15代 永楽正全造 仁清松竹梅小皿   右)11代 永楽保全造 安南焼 沓鉢

 対照的な二つの作品を一枚の写真に収めてもらいました。
 乱れのない繊細な筆遣いと豪華な金彩の絵付けを見どころにした、15代正全の小皿。歪んだうつわに仕上げ、上薬には全体に細かな貫入が入り、呉須の絵付けもややぼやけさせて、高台の畳付も意識的に荒く削り、高台内のベンガラの塗りにもムラ感を出す等、うつわ全体にわざと粗雑さを強調して、それを見どころに変えようとしている11代保全の安南焼沓鉢(あんなんやき くつばち)です。
 保全は顧客の家で目にした焼物を忠実に写すことを心がけた結果、大変質の高いうつしものを残すことに成功していますが、それがこの鉢にも表現されています。ところがその傾向は世代を重ねるごとに薄れて、特に15代正全以降は忠実に写すことよりも、永楽家として本歌をどう解釈をして、どう永楽流の京焼に作り変えるか、ということに焦点を移して、作品作り進化させてしまっているように思います。その結果、乱れなく整った形と絵付けの綺麗さ(「揃いの美」)は、本歌の仁清を上回る緻密で整った絵付けとなり、それが永楽の魅力だと思わせる結果に至ったのだと思います。

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左)11代 永楽保全(善一郎)造 染付手塩皿  右)12代 永楽和全造 染付松皮菱小鉢

 染付網目ニ魚の皿は、保全が近江の膳所(ぜぜ)の窯で焼いたものだということが、高台内の「於湖南永楽造」の銘からうかがうことができます。また、この作品の箱には永楽善一郎と記されてもいます。つまり息子と仲違いした保全が、京都を離れて膳所の窯で善一郎を立ち上げてから焼いた作品です。細やかな網目の絵付けを施しながら、なぜかその筆遣いで印判手(版を用いて転写する技法)の皿に見えるような技です。
 もう一方は息子の和全の作品で、馬と鹿を交互に描き、縁には幾何学模様を施しています。
この馬鹿の図柄は中国の故事に由来しており、紀元前200年頃、秦の始皇帝に使えた宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が権力を握っていく過程で、自らの力を試した逸話が残されています。側近一同の面前で皇帝に鹿を献上し、それを馬だと言い放って異議を唱える者を処罰したのです。この話が馬鹿の起源になったということです。そんな故事を江戸明治期の日本人は好んでいたのですね。どちらのうつわも白さの際立った素地に瑠璃色に近い発色の呉須で描かれて、幾何学門文を配していることから、祥瑞風のうつわの注文に応えたものでしょう。本歌に忠実に作ろうとしている姿が見えます。

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12代 永楽和全造 仁清翁様作写 茶碗 黒ノ七宝

 「仁清翁様作写 茶碗 黒ノ七宝」と14代永楽得全が箱表に作品名を記しています。また箱裏にも「家父耳聾軒和全作次郎相違無之証、父在世之時仁清翁様作ナル黒おか禾本造之別而苦心之一種也」と記されております。
 「永楽家の父 耳聾軒和全(じろうけんわぜん)の作に間違いありません その証は父が生前に仁清翁様(にんせいおきなさま)の黒をだすために 禾本(イネ科の植物)の大鋸屑(おがくず)を用いて苦労していたからです。」と言うような内容が書かれて12代和全の作品であることを極めています。

 この文章から、12代和全は晩年聴力を失っていたこと、そのことから自らを「耳聾軒和全」称していたこと、仁清の窯跡の上に自分の窯を築いたことを縁と感じて仁清の作品の写しに精力を注ぎ込んでいたこと、「仁清翁様」と呼んで、家をあげてとても敬っていたことなどが読み取れます。私は、この茶碗をしばらく所有して、茶碗との対話をしてみました。
 和全の真剣な取り組みがにじみ出たようなこの茶碗を、過去扱った永楽の茶碗の中で、最上の出来栄えだと思っています。この永楽和全より前の時代に、青木木米(1767年~1833年)という京都の名工がいました。彼も聴力を失い、自らを「聾米(ろうべい)」と称していました。このころの陶芸家は、耳を近付けて窯の温度を測っていたために耳を傷めたのです。

※「永楽」料理回につづく