BLOGうつわ知新2020.11.30

古染付2

季節ではなく備前や織部、古染付といった焼物ごとにうつわをご紹介。京都・新門前にて古美術商を営む、梶古美術7代目当主の梶高明さんに解説いただきます。 さらに、京都の著名料理人にそれぞれの器に添う料理を誂えていただき、料理はもちろん器との相性やデザインなどについてお話しいただきます。

今回は「古染付」について梶さんにレクチャーいただき、「洋食おがた」の緒方博行シェフに、器と料のコラボレーションに挑戦していただきました。

「古染付」の解説については、こちらも古染付1「古染付の歴史」古染付2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。

「古染付」の世界をお楽しみください。

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梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

古染付2

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 写真は10時方向から時計回りに「古染付重菊(かさねきく)向付」、2時方向に「古染付鳳(おおとり)向付」、6時方向に「古染付半開扇(はんかいせん)向付」が並べられております。
 このような、型にはめて成形した向付は、桃山時代に作られた志野や織部がお手本となったうつわです。裏面につけられた足の具合にも類似性が認められることから、日本の数寄者たちの強い要望によって発注されたものと考えられています。
 これら型物の向付は、丸形の皿類とは異なり分厚い生地でできています。それゆえ虫喰い(むしくい)がはっきりと出ています。虫喰いというのはこの景徳鎮で焼かれた「古染付」の最大の特徴と言っても良いものです。古書などの紙を、シミと呼ばれる虫が食べて、紙に穴が開いた景色と似ていることから、この名がつきました。地胎を覆う、ガラス状の釉薬が、口縁部分などの部分で、欠け落ちたように見える景色のことを言います。

 前回「古染付1」でもお話ししましたように、明時代の末期には皇帝から相当な無理難題が景徳鎮の官窯の職人たちに課せられました。その負担は陶器職人だけにおさまらず陶土を採集する労働者にまで及び、献上品を生産するための良質な陶土は枯渇し、より地中深い場所での危険な陶土採集作業が課せられました。
 ところが民間が運営する窯で製造された古染付は、採集の容易な、やや粗悪な陶土を使用したため、窯で焼き上げた際、地胎と釉薬の収縮率に大きな差が生じ、釉薬より地胎の方が大きく縮んでしまいます。そのためガラス状の釉薬と地胎の間に、わずかな空間が生じ、その部分が欠落した結果、虫喰いと呼ばれる景色が誕生するのです。これは製品としては明らかな欠点ではありましたが、日本の数寄者たちは侘び(わび)の感性からなのか、この欠点がむしろ趣があると喜んで受け入れたのです。それでも、やはりあまりに激しい虫喰いは低い評価をされているようです。

 このように、「古染付」は従来の官窯とは異なり、原料土や染料の呉須の品質を落とした陶磁器ではありましたが、その粗さが、重圧から解き放たれた職人たちの晴々とした心情を映したようで面白いのです。

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12時方向より時計回りに、古染付更紗文鉢、古染付放馬図中皿、古染付桃絵皿、古染付芙蓉手中皿、古染付唐花図七寸皿、古染付深向付(中央)

 こちらの写真で紹介した円形のうつわたちは、先に紹介した、型にはめて成形したものとは異なり、轆轤(ろくろ)によって生み出された薄手のうつわたちです。
 景徳鎮の民窯で焼かれた磁器ですので、当然虫喰いの景色は見られます。裏面の丸い高台部分には砂粒が付着しています。これはうつわを置いた時、畳付き(畳と接する高台の先端部)の釉薬をしっかり拭き取らずに焼成したため、窯の中で釉薬が垂れててしまい、窯の床面に撒いた砂が付着したものです。この砂は、うつわと窯の床面が釉薬によって接着してしまうことを防止し、焼成中のうつわの収縮運動を妨げないためのものです。

 高台の内側には、高台を鉋(かんな)で削り出した時についた、鉋跡(かんなあと)が放射状に残されているものが多くあります。高台内には文字や記号が記されていることもありますが、「古染付」の場合、これは作者や窯名を表すものではありません。作品によっては製作年代を示す場合もあるのですが、単なるデザイン的な意味しか持たないようです。やがてこの文字や記号はわが国の「伊万里」の高台内にも記されるようになります。

「古染付」の最大の特徴は虫喰いにあり、と先に申し述べていますが、私は実はもうふたつ大きな特徴があると思っています。
ひとつめは写真を見て感じていただけるかもしれませんが、少し青みがかりながらも透明感溢れる白です。例えて言うならば、厳寒時の夜空にくっきりと凍るように浮かんだ月の色のような、日本のどの高級磁器も及ばない光沢がひとつめの特徴です。ただしこれは見慣れるまでは、なかなかそのことに気がつかないかもしれません。

 もうひとつは「生掛け(なまがけ)」と呼ばれる素焼きをしない技法です。このころは素焼の発想がなかったため、成形後に自然乾燥を行い、絵付けして釉薬をかけて、そしていきなりの本焼きとなります。素焼きをしていない状態の絵付けは、生地にどうしても水分が残ってしまい、筆に取った染料の呉須が生地に吸い込まれにくく、結果、筆が走るのだそうです。それ故、描線にスピード感があり、闊達な絵付けになるのです。

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 このうつわの木箱には「古染付菊菓子鉢」と墨で記されています。轆轤(ろくろ)で円形に引いたものを、更に型にはめて成形しています。直径17 cm ですから、6寸にも満たない大きさですが、鉢なのです。同時に数物ではなく一品物です。先に紹介した数物の型物向付より希少性が高く、轆轤成形の薄手の皿類よりも、型にはめる手間が掛かっていることから、上級作の鉢と扱われて来たようです。
 表面は染付で菊の花弁が描かれていますが裏面に模様は無く、白磁の状態で、型で立体的に成形したな菊の花弁が大胆に表現されています。足ではなく大変分厚い円形の高台がつけられていて、そこにはやはり砂の付着も見られます。

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 次は「祥瑞大鉢」です。
 私の店には海外からのお客様も沢山お見えになり、中国の方もおいでになります。彼らの多くは、かつて日本に渡った中国の美術品を探しに来るのですが、「古染付」や「祥瑞」という焼物にまったく興味を示しません。彼らはこれらを日本の「伊万里」だと考えているからです。その理由は歴史の中に隠されています。

 1511年、東福寺の高僧侶の「了庵桂悟(りょうあんけいご14251514)」は遣明使として海をわたり、その際の随行員に伊勢の商人、伊藤五郎太夫(伊藤五郎大夫)というものがいました。「伊藤五郎太夫(いとうごろうだゆう)」は明国に渡り、焼物の魅力にとりつかれ、景徳鎮へ赴き磁器製造法について学んだそうです。そして2年後、日本に帰国して有田に入り作り上げたものが「祥瑞」である、と中国人は考えているらしいのです。それを裏付ける証拠が、「祥瑞」のいくつかのうつわの高台内に記されている「五良大甫呉祥瑞造(ごろうだゆうごしょんずいぞう)」の銘だと言われています。

 この銘が一体何を意味しているのかは、諸説あって未だに解明はされていませんが、「伊万里」は日本初の磁器であり、1616年から生産が始まったとされています。仮に、そこから100年もさかのぼった時代に「伊藤五郎太夫」が「祥瑞」という磁器の生産に伊万里の地で成功していたとすれば、その技術をその後の日本人はきれいさっぱり忘れてしまったことになります。中国人が思う日本人は、ずいぶんお気楽な民族のようですね。

 未だにはっきりしないこともあるものの、古田織部の死後、茶の湯を牽引した小堀遠州の時代になると、形の大きく歪んだ、織部風の存在感の強いひょうげたものは一気に姿を消し、「きれい寂び(さび)」と呼ばれるスタイルが流行り始めます。ちょうどその頃を契機に、型物「古染付」の発注の流行が落ち着きを見せ、「祥瑞」スタイルが景徳鎮への発注の主流になっていったと言われているため、「祥瑞」は明国滅亡寸前に発注された小堀遠州好みの焼物であった、というのが日本側の見解です。

 さて、今回も焼物の解説をしたのか、歴史話をしたのかわからなくなってしまいました。
けれども私は、焼物だけをいくら見つめても、見えるものは表面の浅い部分でしかないと思います。
 もっと大きな視野で、焼物や美術品を見ることが出来れば、どれだけ多くの人に愛され、手から手へと受け継がれてきたかが理解できるだろう思います。
 そして、いま自分の手元に存在する奇跡に感動できるはずだと思うのです。