BLOGうつわ知新2021.02.26

魯山人と志野1

季節ではなく備前や織部、古染付といった焼物ごとにうつわをご紹介。京都・新門前にて古美術商を営む、梶古美術7代目当主の梶高明さんに解説いただきます。 さらに、京都の著名料理人にそれぞれの器に添う料理を誂えていただき、料理はもちろん器との相性やデザインなどについてお話しいただきます。

今回は「志野」のなかでも魯山人の器に特化して梶さんにレクチャーいただき、
京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理をおつくりいただきました。

「魯山人の志野」の解説については、魯山人と志野1「魯山人と志野について」魯山人と志野2「作品解説」の2回に分けて配信いたします。

魯山人がつくる「志野焼」の魅力をお楽しみください。

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梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

魯山人の志野

 白色の陶磁器は古来より人々の憧れの的でした。江戸初期の1614年に日本初の磁器が伊万里で生産されるまでは、それ以前の白い国産の陶磁器として唯一のものは、桃山時代に焼かれた志野でした。
 毎月ならば、ここで志野についての様々な基本情報をお話しするところですが、そうすると情報量が多すぎて、お話の展開が複雑になり過ぎる心配があります。今回は北大路魯山人の志野に焦点を当てていますので、魯山人の人物に沿った形で志野のお話を進めさせていただくことにしました。
 魯山人は歴史上、この志野という焼き物と最も縁の深い人物と言って良いのかもしれません。
 幕末から明治維新の動乱期を過ぎ、近代化が進む日本の中で、次第に時代の牽引役は武士に代わって経済人たちが引き受けるようになります。それと同時に、彼らは数寄者としての側面でも、没落する大名家や武士階級から引き継ぐように、茶の湯や美術の世界に再び明かりを灯します。このことは人々の古陶磁器への鑑賞熱を高める役目を果たします。

 昭和2年、魯山人は陶磁器研究家の案内で瀬戸地方にあった30を超える窯跡の試掘を行い、古陶磁器の研究に取り組みます。しかし、その試掘ではめぼしい陶片を発見できず、彼が望んだような成果は得られませんでした。
 「瀬戸黒」や「黄瀬戸」という名前が指し示すように、それらは昭和2年の時点では瀬戸で焼かれたものと考えられていました。それ故、本当は美濃で焼かれていた志野や織部も、「瀬戸黒」や「黄瀬戸」に続いて瀬戸で焼かれたものだと思い違いされていたので、魯山人が行った試掘でこれらの陶磁器に関わる発見が見つかるはずはなかったのです。

 そして昭和5年のことです。魯山人は共に仕事をしていた荒川豊蔵(後の人間国宝)を伴って、名古屋で開催した「星岡(ほしがおか)窯主作陶展」へ出向きます。そして名古屋滞在中、この地の名家の関戸家から、「玉川」という筍の描かれた志野茶碗の名品を借り受けて、鑑賞する機会を得ます。当時この二人は志野焼に心を強く惹かれており、魯山人は「古伊賀・古志野は、日本が生んだ純日本的作風を有することが、第一の権威に値する」と高く評価し、「室町・足利時代の絵画や彫刻に匹敵するほど、ゆるゆるした良い気持ちで見ることができる」とも述べています。また、朝鮮の茶碗に比べても遜色なく、光悦の作品に先駆けるものだと恋い焦がれるようでもありました。

 そのような状態でありましたから、魯山人と豊蔵は借り受けた志野焼を目の前にして、時の経つのも忘れて語り合ったそうです。荒川豊蔵は、それから寝床に入った後も眠りに落ちることができずにいました。そして数年前に美濃の窯跡を調べ歩いた時に、たまたま拾った織部の陶片のことを思い出し、いてもたってもいられなくなり、翌朝、魯山人にそのことを話し、早速美濃に出かけることにしました。
 この時、普段は金銭的に渋い魯山人も珍しく調査費用を持たせてくれたそうです。美濃では、付近の村人たちに窯跡を尋ね歩き、草むらに分け入って陶片を探したそうです。そしてついに黄瀬戸と鼠志野、そして偶然にも前夜に魯山人と眺めた関戸家の「玉川」と同様の絵付けをされた、志野の向付の陶片を探し当てました。この大発見に豊蔵はしばらく呆然として動くことすらできなかったそうです。そして電報で魯山人に報告し、付近の農家に一週間ほど泊まり込んで捜索を続けました。

 この大発見と共に持ち帰った陶片は、魯山人を狂喜させました。改めて魯山人と豊蔵は、人手を揃えて計画的な発掘を行うため美濃へ出向きます。そして、さらに多くの陶片を発掘し、すかさず鎌倉に魯山人が開いた星岡窯に人々を招き、これらの陶片を披露します。
 さらに魯山人が営む東京の料亭の星岡茶寮においても、その成果を披露するための会を大々的に開催することとなります。この時になると、この大発見はすっかり魯山人の手柄であるかのように広告されるようになり、魯山人はより詳しい発掘調査にも乗り出し、その成果を文章でも発表するようになります。自分こそが功労者だという自負がある荒川豊蔵は、これらのことに強く抗議をしたようです。しかし、このことを魯山人はアメリカ大陸発見に例えて、「コロンブスは俺で、豊蔵は水夫だ」と語った記録が残されています。

 志野という焼物に取りつかれ、その正体を明らかにした最大の功労者が、魯山人であるのか、荒川豊蔵であるのかは一旦脇に置いて、この先、活動を分かつ二人ではありますが、両名とも志野が自らの代表作と呼んでいいほどに極め、数々の名品を世に送り出すことになるのです。

 魯山人の志野の作品は、一見、桃山時代の古陶への回帰を思わせる出来栄えです。しかし、実際には彼独自の新しい試みが随所に見られ、そのことが他の陶芸家の模倣を許しません。魯山人は彼の陶芸家としての活動の中で、特に長きに渡って志野を焼き続けています。
 当初は当たり前に鉄分の含有量も少なく、白い美濃のもぐさ土をなんの疑いもなく使っていましたが、より鉄分を含み、火色が赤く出やすい信楽の土を用いるようになっていきます。信楽の土は、そのきめ細やかさから強い粘り気を持ち、成形しやすかったのです。もぐさ土を用いた桃山時代の志野は、ほんのりと桜の花のごとく赤味がにじむ程度ですが、魯山人の志野は、信楽の土を用いて研究を重ねるにしたがって、強く赤い鉄錆色を効果的に用いるようになります。

 現代の志野焼の陶芸家の多くは、強い赤や鉄錆色と長石の純白との色の対比を、その表現の主軸に置いています。いまになって振り返ると、魯山人はこの表現の先駆者であったように思えます。しかしそこには、彼の厳格な決まり事や節度があったように思えてなりません。

 現代の志野の作品は、赤と白が強烈に対峙しあい、色に加えて造形的にも主張が強すぎるため、道具やうつわではなく、鑑賞目的のオブジェであるかのようになっていると感じるのは私だけでしょうか。「うつわは料理の着物」と語っているように、あくまで主人公は料理であることを忘れないよう、魯山人は桃山時代の志野を自身の手で進化させていたようです。

魯山人と志野2につづく