BLOGうつわ知新2021.01.30

信楽焼1

季節ではなく備前や織部、古染付といった焼物ごとにうつわをご紹介。京都・新門前にて古美術商を営む、梶古美術7代目当主の梶高明さんに解説いただきます。 さらに、京都の著名料理人にそれぞれの器に添う料理を誂えていただき、料理はもちろん器との相性やデザインなどについてお話しいただきます。

今回は「信楽焼」の器について梶さんにレクチャーいただき、
京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理をおつくりいただきました。

「信楽焼」の解説については、信楽焼1「歴史」信楽焼2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。

「信楽焼」の歴史や特徴など世界観をお楽しみください。

_MG_0023_1.JPG

梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

信楽焼1

 大学を卒業後、サラリーマン生活をスタートさせた私の最初の担当地域は、信楽を含む滋賀県の甲賀地域でした。そのお陰で、数えきれないくらい信楽へは通わせていただきました。
 お出かけになった方もおいでになるでしょうが、信楽は山間部に開けた高原盆地で、いまでこそ高速道路が開通し便利になりましたが、以前は宇治、草津、伊賀、水口(みなくち)など四方に隣接するどの町からでも、山道をクネクネと車で30分以上登らなければなりませんでしたから、信楽が営業担当地域に入っているだけで、仕事上では随分と負担になったものです。

 社会人駆け出しの私は、与えられた仕事をどうにかこなすことに精いっぱいで、信楽の町の事に興味を持って、学ぶ余裕もありませんでした。ですから、奈良時代に紫香楽宮(しがらきのみや)が造営され、甲賀寺(こうがでら)という古代寺院が存在したことについて調べようと思ったこともなければ、その遺跡の横を幾度通り過ぎても、車を停めて眺める余裕すら持ち合わせていませんでした。
 いまさらながら、山間の盆地に都を造営しようと試みた理由を信楽の人たちがどう考えているのか尋ねてみたところ、奈良へ行くにも京都へ出るにも、あるいは伊勢方面や名古屋へ向けて行くにも、それぞれの方向へ山を下っていけば、同じくらいの時間で到達できる要の位置にあるのが信楽なので便利だったのだろうと言うことでした。

 ずいぶん昔に読んだ本の中に、信楽焼の起源について記されたものがありました。信楽から山を下った琵琶湖の南部、水口(みなくち)地区や甲南(こうなん)地区に須恵器の窯が存在し、それらの職人が更なる陶土や窯の燃料を求めて、信楽の山を登り、移って来たのではないかと記載されていました。そして、そのやきものを用いて紫香楽宮や甲賀寺の屋根瓦なども製造し、そこからの技術発達が現在の信楽焼に続いているのだと解説されていました。

 ところが、近年の第二名神高速道路の建設に先駆けて行われた建設予定地周辺の発掘調査の結果、古信楽焼の窯跡から見つかったのは古常滑焼の影響を強く受けた陶片だったのです。つまり奈良時代に焼かれていた須恵器が発達して、現在の信楽焼に繋がったのではなく、平安後期の12世紀頃、誰かが計画的にこの信楽に焼物産業を立ち上げる目的で、常滑からの技術を導入したのだということが明らかになってきたのです。その際、信楽の地が選ばれた理由は、先にもお話した上質な陶土を産出し、豊富な燃料を確保でき、各方面の消費地へのアクセスが容易な街道の要に位置していると言うことだったと考えられているのです。

 火山列島の日本は、陶土の原料となる花崗岩(かこうがん)に恵まれています。花崗岩は地下深いところで溶岩がゆっくりと凝固したもので、長石(ちょうせき)・珪石(けいせき)・雲母(うんも)などの小さな結晶体が集って出来た岩石です。これが風化して、微細な砂となり、地殻変動によって地表近くに現れて来ます。それが雨に流されて古代の琵琶湖の底に堆積し、動植物の死骸などの有機物と混じり合いました。やがてその地層が隆起し、その上に生えた苔や植物、朽ちた木々などとも混ざり合って、気の遠くなるような時間を経て、焼物に適した粘り気やコシのある信楽の土になったのです。

 信楽焼を語るとき、ひとつ紛らわしい存在があります。それは信楽から峠ひとつ隔てた土地で生産された伊賀焼です。私も信楽焼と伊賀焼の見分けがつくような気になるまで、随分時間を要しましたが、それでも自分の見解が正しいかどうか怪しいと思っています。しかし、信楽焼を語るうえで、この違いを語ることは避けて通れないことなので、私の考えをお伝えしようと思います。正しいかどうかということよりも、ひとつの考え方として参考にしていただければ幸いです。

 今月の解説を書き始める前に、実際に信楽に赴いて学び直す必要があると感じた私は、信楽焼茶陶の第一任者の6代目上田直方氏を訪ねることにしました。氏とは知り合って30年近くなりますが、その変わらないフレンドリーな人柄に甘えて、奥様も交えて多くのお話をお聞かせいただきました。わざわざ足を運んで、経験を通して学ぶことの大切さを改めて感じる時間でした。

_MG_7955.JPG

 まず、古信楽焼と古伊賀焼の土は違うのだろうかと言う問題から始めましょう。私は以前、このことを調べたとき「両者は土が違うのだ」として、細かく研究されている文献に出会いました。その詳細な調査資料から、私は「両者は土が違うのだ」説を支持してきました。
 しかしそれ以降、展覧会や茶会、オークションで出会った古信楽と古伊賀から「なるほど両者は土が違う」と感じたことはありませんでした。このことを上田直方氏にぶつけたところ「両者の土が異なっていると言うより、採取した場所や深さが少し違えば、土は異なるのです。また、粘土として使える状態にするまでに、石や不純物を取り除いたり、異なる土とブレンドしたり大変な労力が必要なのです。」と教えていただきました。
 どこの産地でも当たり前のことですが、採集後に土は陶芸家のイマジネーションを以て粘土へと作り上げられているのです。作品に込められる作家の作為(さくい)は、この土を掘って、粘土へと整える段階から始まっていることに改めて気付かされました。

 信楽焼は焼きあがった表面に多数の長石の石粒を見ることが出来ますが、これは作家が粘土を作るときに調節して混ぜているのだと思っていましたが、その逆で沢山の石粒を取り除いていることを教えていただきました。そしてこんな根気のいる作業は、奥様が担当されているともお話しいただきました。また石だけでなく枯葉や枝などの木屑などが適度に取り除かれていなければ、作品を破損させ、水漏れの原因にもなるのだそうです。そういった石や不純物は、焼き物の景色になるので、歓迎されるものだと思い込んでいましたが、何事も頃合いが大事なのですね。
 このように粘土が、人の手によって調節されていることと、採取する場所の加減で土は容易に表情を変えるものだとすれば、同じ山の峠を挟んで異なる斜面から採取されたことだけで信楽焼と伊賀焼を区別できるのだと思い込むことはナンセンスですね。
 ちなみに水をつかって粘土の粒子を整える水簸(すいひ)と呼ばれる作業を信楽では行わないのだそうです。粘土の粒子が細かく整うと、信楽焼の野趣が消えてしまうというのが理由だそうです。

 次に窯の話ですが、信楽焼は一度の焼成、伊賀焼は複数回焼成されることで区別するという話です。私は、これが信楽焼と伊賀焼の決定的な違いだと思っていました。一度焼きの信楽焼は、表面に付着している長石の石粒も、焼成後も石粒としての原型を留めているし、窯の中で舞い上がった灰が表面に付着して流れ現れる自然釉の景色にも複雑さが見られません。
 片や伊賀焼では表面の長石の石粒は度重なる焼成のため溶けているし、自然釉も幾度も被ることで厚く複雑な景色を見せて、時には炭化した燃料が付着して黒く焦げたような部分まで見受けられる。これをもって両者を区別することが、私を含め多くの皆さんの考え方だと思っていました。
 ところが、そのことを区別する決定打だと思うのも違うのではないか、と上田氏は教えてくださいました。信楽焼でも複数回焼成するケースもあるのだそうです。
 氏がそのあと続けてお話になった「伊賀は信楽に比べ、執念深く数寄者の意向を反映させた焼物ではありませんか」という言葉は、両者の違いスッキリさせてくれる表現だと思いました。確かに信楽焼は茶道具だけではなく、様々な日用品を手掛けてきた歴史があるので、土味で魅せる以上のことに執着が少ない。ところが伊賀焼は茶道具専用の窯のような出発点なので、数寄者のこだわりが執念のように、その複雑な形や景色に表現されている。これは感性の違いを両者の国境線としたお話なので、焼物を長く見てきた人にしか伝わらないかもしれませんが、このことをお伝えきることが今回の収穫だと思います。
 よく「花生で耳の無いのが信楽焼で、伊賀焼には耳がある。」と言われていますが、これは傾向としては正しくても、実際に特徴として確かとは私には思えません。それよりも、数寄者のこだわりで区別することの方が私は納得できるように思えます。

 現在において、信楽も伊賀も堂々たる焼き物の産地でありますが、実は伊賀焼は、開窯の時期もはっきりとはわかっていません。
 恐らく1580年頃から茶会に登場するようになり、1630年頃にはその活動を終えたのではないかと考えられており、そして100年強の時を経て、1750年頃に再興されたことになっています。そして再興された伊賀焼は、焼き締めの窯ではなく釉薬を掛けて焼いた施釉陶をその主流として現在に至っているのです。

 茶の湯の道具に軸足を置いて、信楽と伊賀を見た場合、どちらも釉薬を掛けず焼成する焼き締めと言われる焼物だと思ってしまいます。

 ところが上田直方氏の奥様が奇妙なお話を聞かせてくださいました。上田家は信楽の職人の中では変わり者で、焼き締めの茶陶の作品を作り続けている家は、以前は2軒くらいしかなく、多くの窯元は「信楽の土は良質なので、どんなものでも作れる」と言うアドバンテージを利用して、火鉢・植木鉢・風呂釜・狸の置物などを作って日本の市場を席巻したそうです。この陶磁器産業とも言うべきものが信楽を潤したため、茶陶の仕事は決して信楽の代表的な焼物とは言えないのだそうです。その結果、ここ信楽においても伊賀と同じで、焼締めではなく施釉の陶器が主流となってしまっているのです。

 私は古美術商という職業柄、信楽焼も伊賀焼も等しく釉薬を掛けない焼き締めの陶器だと思っていますし、ほぼそれしか取り扱っていません。そして以前にもお話ししましたが、古い時代に作られた焼き締めの陶器は、直接口をつけるようなうつわ類である、茶碗・向付・飯碗・銘々皿等はほとんど存在しません。そんなことから、今回もうつわとしてご紹介出来た信楽焼は現代陶の杉本貞光氏の作品だけでした。
 しかし、いまの信楽は、陶磁器の制作環境が整っていることから、国内だけでなく世界中からアーティストが集まる町になっています。そして伝統的な美しい茶陶の作品に留まらず、モダンアートと呼んで良いような良質な作品までもが、バランスよく生み出される町だと言えます。MIHOミュージアムや陶芸の森美術館などにも立ち寄れば、浸るように美術と接することができるでしょう。素晴らしい信楽焼に出会いにお出かけください。

信楽焼2につづく

今月の記事を書き上げるのに際して、信楽の上田直方ご夫妻には沢山のご指導を賜りました。この場をお借りして感謝申し上げます。