
■ 長瀬孝充(ながせ たかみつ)さん
キョーラク株式会社代表取締役取締役社長
1957年京都府生まれ。三菱銀行を経て'85年に、プラスチック製品の製造・加工・販売企業である「キョーラク」に入社。代表取締役専務などを経て'98年から現職。さまざまな業種の方にお会いして、美味しいものを共有することを愛している。
美食を味わうためのカロリーコントロールとして、自宅のウォーキングマシーンで1万5000歩歩くのが日課。
ご主人の蕎麦愛に打たれ、お茶くみも率先してやってしまう
「私にとって愛すべきお蕎麦といえば、『おがわ』さんです」
8年連続でミシュランの一つ星に輝いた「おがわ」。ご主人の小川幸伸さんと奥様の二人で切り盛りする北山通りに面する蕎麦屋には、連日行列が絶えない。平成14年のオープン当初から通う長瀬さんは、こちらを「癒やしの場」と言う。
「実家の近くに新しいお蕎麦屋ができたな、と何気なく入ったのですが、その風味豊かな蕎麦ののどごしにびっくり。それからは休日になると家族でうかがうようになりました。当時はまだ行列もありませんでした。カウンター越しにご夫婦と立ち話をしていると、とても心が和みます。仕事で慌ただしくすごしている日常から、ここにいるときだけは距離を置くことができるんです」
足繁く通う長瀬さんのお店での様子に、小川夫妻は驚きつつ感謝していたそう。というのも......
「古民家を改装したテーブル12席の小さな店ですから、行列はなくてもよく満席になりました。私と妻と二人で手がまわらないと、長瀬さんはほかのお客様にお茶を出してくださったり、食器を下げてくださったりして。本当に助かりました。実は1年以上、長瀬さんの肩書きを存じ上げませんでした。どなたにも分け隔てなく明るくニコニコと気配りされている様子に、只者ではない感じはしていたのですが(笑)」(小川さん)
「ご主人とよく話し、お互いの人間性を理解しあえる関係を築く」という料理店との付き合い方のモットーを遺憾なく発揮した長瀬さんは、何より小川夫妻の朗らかな人柄に惹かれているという。お顔写真の撮影をお願いしたが、かたくなに固辞されたシャイなところもまた魅力的だ。
「いつも長い時間メニューを眺めて熟考するのですが結局毎回、同じお蕎麦を注文してしまいます(笑)」と長瀬さんが言うそのひとつが「おろし辛味大根」(税込1240円)。
「まずは何もつけずにそのままで蕎麦の風味を楽しみます。次にカツオ、どんこ、昆布でとった出汁つゆに、長野産の辛味大根を溶いてズズッと蕎麦をたぐると、さわやかな辛味がすっと鼻を抜けていくんです」
蕎麦の風味を落とさないよう新鮮な味わいのうちに一気におろし辛味大根を平らげた長瀬さんは、すかさず運ばれてきた「鴨せいろ」(1750円)に箸をのばす。
「じっくり焼かれた合鴨に、少し濃いめで甘みのある出汁がからんでジューシーです。この二枚が私の定番。おがわさんのお蕎麦は、群馬産の無農薬の蕎麦の実を挽いたそば粉が10、つなぎ粉が2の割合の"外二(そとに)蕎麦"。とても細く切られていて、スルスルと口に入ってゆきます」
小川さんが今の外二蕎麦にたどり着いたのも、ここ数年のこと。長瀬さんが通い始めてからも試行錯誤を重ねていったという。
「長瀬さんが最初に召し上がった蕎麦から、少しずつ変化していると思います。蕎麦の実を仕入れたら、あとは自分の腕次第。すべて自分の責任になることが楽しいことでもあり、時には苦しいことでもありますね」(小川さん)
「小川さんはとにかくお蕎麦を愛していらっしゃるんです。今は行列が絶えずなかなか気軽にうかがえなくなりましたので、特別に冷凍のお蕎麦を送っていただいています。我が家の年越し蕎麦は例年これで作ります。お蕎麦に興味を持たれていた『たん熊北店』さんにお贈りしたこともあります。冷凍蕎麦は半年保つのですが、小川さんは2週間で食べてくださいとおっしゃいます。長く放っておかれると、お蕎麦がかわいそうだからと」
その言葉を聞いた小川さんは照れくさそうに「半年保つとはいっても、冷凍庫のなかに長く忘れ去られると風味は落ちますしね。冷凍蕎麦を美味しく食べるのは難しいんですよ。完全解凍が必要ですし、夏は氷で、冬は冷水でと、しめる水の温度調整も必要ですし」と頭をかく。この冷凍蕎麦は、今は常連客のみへの販売だそうだ。
小川さんが蕎麦に目覚めたのは、なんとも運命的な出会いからだった。
「ある催事で蕎麦打ち教室をやっていたんです。たまたま通りかかってその様子を眺めていたら、ちょうど1名欠員が出たので参加しないかと声をかけられて。先生に手取り足取り教えていただきながら、なんとか打ち上がった蕎麦を家で茹でて食べてみたら、なんとびっくり、とっても美味しかったんです。自画自賛ですが(笑)。
生まれて初めて美味しい手打ち蕎麦を口にして目からうろこ、うどん文化に生きてきた京都人である私の概念が覆りました。
それから道具をそろえ、蕎麦打ちにはまっていったんです。当時はサラリーマンだったのですが、その蕎麦との出会いから1年ほどたって起業を志して脱サラ。そして富山の蕎麦屋で1年修業した後、ご縁があって北山のこの場所に店を構えることができました」(小川さん)
小川さんが「たまたま」「催事で」「欠員が出て」蕎麦と出会ったことで、地元はもちろん国内のみならず、今では多くの外国人までもがわざわざ訪ねてくる名店が生まれたのだから、小川さんと蕎麦の深い縁を感じずにはいられない。そして長瀬さんが「たまたま」「実家の近くで」「見かけて」16年もの長く深い付き合いを続けるお店と出会ったことも、また得がたい特別な縁があったからなのだろう。
「2016年、我が社は99周年を迎えたのですが、そのパーティ会場のホテルまで小川さんにお蕎麦をふるまいに来ていただきました。できるだけお店の味に近づけられるようにと、設備や器などの準備のために本番までに3回も下見に行ってくださったそうです。社員も社員のご家族もみなさん、こんな美味しいお蕎麦は食べたことがないと大絶賛でした。
小川さんは商売抜きで、お蕎麦に愛情を込めて作っていらっしゃいます。口下手でシャイでいらっしゃいますが、お店に行くとお蕎麦への深い愛を感じることができます。奥様も包み込むようなおおらかさでご主人を支えていらっしゃる。その空気が私にはたまらなく心地いいのです」
※価格は取材当時のもの
撮影 津久井珠美 文 竹中式子
■ おがわ
京都市北区紫竹下芝本町25
075-495-8281
11:30~15:00※売り切れ次第終了
定休日 木曜(祝日の場合営業、翌日休み)