BLOGうつわ知新2021.10.27

伊万里焼と古九谷焼2

2019年に始まった「うつわ知新」は、初心者の方にもわかりやすい焼き物やうつわ解説でした。丸2年を迎えた2021年9月からは、もう少し深く、焦点をしぼった見方ができる内容をご紹介しています。 それぞれのうつわが辿ったストーリーや製法についても、ひも解いていきます。

9月末~4回ほどは「伊万里焼と古九谷焼」について。

今回は、中国から伝わった磁器が、その後伊万里焼として日本に定着し、海外へと輸出されるに至るお話しです。

「伊万里焼と古九谷」の物語をお楽しみください。

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梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

伊万里焼と九谷焼2
~伊万里焼の変遷~

先月のお話の中で李参平が1616年頃に伊万里を焼き始めたとお話ししていましたが、それと同じくらい大きな功績と言って差し支えないのが陶石(陶磁器の原材料となる鉱石集合)
の発見でしょう。
伊万里は日本で最初に焼かれた磁器でありますが、磁器というのは従来まで焼かれていた土ものの陶器とは違い、全く吸水性がなく、白く、そして金属の様に硬い焼物です。その製造に不可欠な陶石を、李参平が有田地区の泉山(いずみやま)から発見したのです。

現在では、泉山の良質な陶石は採取され尽くし、熊本県の天草の陶石が日本の磁器生産に欠かせないものになっています。

伊万里が焼き始められる頃の日本では、中国から輸入した磁器が富裕層の間で大ブームとなっており、国内の流通シェアも中国製が独占していました。

それに対して駆け出しの伊万里が、いきなり中国製磁器の品質に肩を並べられるはずもありません。初期伊万里は泉山の陶石を粘土に精製する際の技術が低く、不純物を取り除くことができなかったために、景徳鎮から輸入された磁器のような鮮やかな白肌に焼き上げることが出来ませんでした。
また、窯の中で歪んでしまうことや、粘土に含まれた鉄分がほくろのように表面に現れることもあり、呉須を安定して青色に発色させることにも苦労していて、焦げ付かせることもあったようです。

私の手元にも歪んだ初期伊万里の盃風のうつわが数点ありますが、それは窯の中で変形してしまい、製品として出荷出来なかったために、周辺に打ち捨てられ、後世になって誰かが発掘したものだと思います。きっと同じようなおびただしい数の失敗作が未だに伊万里地区の地中には眠っていることでしょう。

このような試行錯誤の時期を過ごしていた、開窯して間もない伊万里ではありましたが、かえって職人たちの情熱が素直にうつわに表現されているのかもしれません。この開窯から1640年頃までに作られたうつわを初期伊万里と呼び、完成度の高い後の伊万里よりもこれらを好む収集家もいるのです。

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この初期伊万里と呼ばれる製品を生み出していた時代から、さらに発展をとげていく九州の小さな磁器の産地は、欧州やアジアの歴史の大きな流れに乗って脚光を浴び始めます。では、1640年以降の伊万里がどのようにして世界で認められ、どの様な特徴ある焼物に成長して行くのかについてお話させていただきましょう。

まず大きな歴史的出来事と言えば、明の滅亡です。本来なら伊万里とその商圏を争うはずだった中国製磁器が1644年を契機に、生産量を激減させていきます。それは日本だけでなく欧州に向けて輸出される製品にも影響を及ぼしていきます。
その原因は、この年に漢民族の明(みん)が滅んで、満州族の清(しん)が建国されるからです。明が滅亡に向かう直前は、広がる社会不安の中、中国から陶磁器の技術を持った人々が難を逃れ、伊万里に多く渡ってきたと思われます。

このことは朝鮮半島の職人たちがそれまで担ってきた伊万里の指導的な立場を一変させ、中国人による指導体制の導入が行われたと考えられます。1616年の開窯以降、品質向上や安定した製品を供給するまでに、予想以上の時間を要していたことは、伊万里を運営していた鍋島藩の財政に相当な負担になっていました。この極東アジアの政変は伊万里に大きな発展をもたらし、急激な品質の向上をも叶えることになるのです。

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次に伊万里は、中国磁器の持っていた商圏を獲得して行きます。明が滅亡し、1644年から急激に中国磁器の生産は滞っていきます。その後、清国が建国されますが、磁器の輸出が再開されるまでしばらく時間を要します。その機会をとらえるように、1647年には中国船によって伊万里が輸出され始めたと言われています。つまり、中国の商人らが自国の磁器の生産が滞っていたため、その取り扱いに見切りをつけて伊万里を扱い始めた出来事だったのです。

伊万里の陶工たちにとっては中国磁器を収集することに夢中だった日本の数寄者たちに振り向いてもらうため、中国からの渡来技術者の指導の下、日本独自の焼物へと転換を試みていた矢先の出来事でした。伊万里を輸出することなどは思いもしていなかったことだったらしく、中国の交易船に積み込まれた製品は、中国商人の注文品ではなく、日本国内向けに作られた作品の中から選ばれたと考えられています。中国製の磁器の商圏を伊万里がとって代わる第一歩で、思いがけない幸運と言ってよいでしょう。

中国船の輸出に遅れること3年、1650年になると、オランダ船によってベトナム地方の東京湾(トンキン湾)へ向けて伊万里の輸出が始まります。これが欧州向けの荷物でなく東南アジア向けの荷物であったのは、中国製磁器の生産が止まっても、しばらくは東インド会社にいくらか磁器の在庫が残っていたからか、ヨーロッパの顧客側に伊万里を求める準備が出来ていなかったからだと言われています。

そして1659年になって、ようやくオランダは伊万里をヨーロッパ向けに取り扱うようになっていきます。ここからヨーロッパの顧客の好む形や図柄の開発が急激に進んでいくものと思われます。

伊万里焼と古九谷焼3につづく