BLOGうつわ知新2021.09.30

伊万里焼と古九谷焼

うつわ知新は、2021年9月末で丸2年を迎えました。これまでは、初心者の方にもわかりやすい焼き物やうつわ解説でしたが、今回からは、もう少し深く、焦点をしぼった見方ができる内容をご紹介していきます。それぞれのうつわが辿ったストーリーや製法についても、ひも解きます。

9月末~4回ほどは「伊万里焼と古九谷焼」について。

伊万里焼は、なぜ料理屋では使われることが少ないのか。
これまで石川県の焼き物と思われていた古九谷焼が実は伊万里焼だった。

など、目からウロコのお話しです。

「伊万里焼と古九谷」の物語をお楽しみください。

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梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

伊万里焼と九谷焼

私は30歳になる直前に結婚をし、少しずつ妻の家の家業だった骨董商の仕事をし始めました。当時はバブルの絶頂期へ向かう時代だったので、数ヶ月前のオークションで購入した品物が、今日のオークションでそれよりも数十万円高い値段で売れた。陶芸家に注文していた茶碗が右から左へ転売するだけで利益が出た。今から思うとなんと安易に商売が成り立つ時代だったことでしょう。

 当時、妻の父親によって運営されていたこの店は多くの伊万里を取り扱っていました。外から見れば伊万里屋さんに見えるくらいだったかもしれません。ある時、店主の義父から、幾人も料理屋人の知り合いがいた私に、伊万里を積極的に営業するようにと指示が出ます。私は言葉通りに営業をかけてみたのですが、なぜか良い反応がありません。自分の売り方が悪いのかと悩んでいた当時、現在は東京のミシュラン二つ星を獲得されている有名店のご主人から、「懐石に伊万里は使えない。」と、耳を疑う言葉を聞かされました。そのご主人は私から、初代須田菁華や永楽家の作品をよく買ってくださっていました。
 その後、この経験から料理人の方が好みそうな伊万里以外のうつわを多く扱うように心がけ、現在のように広く料理店にうつわを納めさせていただくようになったのです。今になって考えれば、当時伊万里を買ってくださっていたのは、羽振りの良かった主婦層が中心で、料理人さんたちではなかったかもしれません。

 やがてバブルが崩壊し骨董市場に価格変動の嵐が吹き始めます。当然、伊万里も大きく値崩れしました。以前からの在庫品は大幅に売値を下げなければ、近い将来お客様から見向きされなくなるのは明らかでした。そんな経済の急速な下降局面で、私は店の経営を引き継ぎ店主になりました。直後は大量の伊万里の在庫を見て、それを売り切るのに要する年月を思って頭を抱えたものです。

 この先も伊万里の市場価格は更に冷え込むであろうこと、料理人が根本的に伊万里を欲していないことから、私は損を覚悟で、あちこちのオークションで伊万里を投げ売りする戦略にでました。その行動を見た妻は、私の経営感覚に不安を覚えたようでした。しかし、ここで出た損害は、今後の売り買いを繰り返す中で挽回出来ると信じて、私はひたすら売り続けることにしました。同時に、売却して手にした資金で、まずは料理人さんたちの好む、永楽家や楽家のうつわへの買い替えを進めて行きました。

 伊万里と有名作家の懐石のうつわには大きな価格差があったため、小銭をかき集めて千円札1枚と交換するような感覚でした。伊万里はバラ売りするのが店頭での基本でしたが、それに対して、作者の共箱が添っていることで価値が高まる懐石のうつわは、5客や10客単位の共箱に入った組売りが当たり前になります。その組売りによって、バラ売りするより価格が高くなりますから、売れる機会が減りはしないかと不安に思ったものでした。

 ちょうどその頃、京都のいくつかの名店にもお出入りさせていただけるようになり、うつわだけでなく料理の世界についても学ばせていただく機会を得てきました。販路も広がったおかげで、伊万里から取り扱いを乗り換えた懐石のうつわも順調に売れるようになったのです。

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 さて「伊万里は懐石に向かない。」と言われたことがあると書きましたが、その他にも伊万里のコレクターの方に「伊万里を使うと料理がどこか民芸風に感じられるようになる。」と言われたこともあります。皆さんはそのようにお感じになった経験がおありでしょうか。

 日本に一番多く存在するうつわは伊万里だろうと私は思っています。にもかかわらず料理屋さんで懐石料理をいただくときも、懐石料理の本を読んでみても、伊万里はほとんど使われていません。不思議だと思ったことはありませんか。そのあたりをお話してみようと思いますが、その前に伊万里と古九谷は何なのかをお話しなければなりません。

 伊万里は1620年に生産を始めたと言われて来ましたが、最近では少し早くなって16141616年頃だと言われています。豊臣秀吉の朝鮮出兵時に、鍋島藩によって召し抱えられた半島出身の陶工、李参平(りさんぺい/金ヶ江三兵衛)の手によって有田で焼き始められたとされています。とはいっても、いきなり完成度の高い伊万里焼が世に送り出されたはずがありません。まだこの頃は、唐津焼の窯と同じ窯で焼成されていて、くすんだ灰色無地や、単純な絵付けの染付の磁器を焼きながらの試行錯誤が続きます。このように唐津焼同様に朝鮮半島の技術を用いて始まった日本初の磁器の製造は、いまとなってはその未熟さが味わい深いと評価され人気がありますが、窯の中での灰などフリモノを被った景色や素地や染付の不安定さから、中国の景徳鎮から輸入されていた古染付に競合する相手と呼ぶには程遠い存在でした。また、事業としても採算が合っていなかったと考えられます。

 1637年に鍋島藩は生産体制の見直しを行い、その甲斐あって、それ以降の品質に向上が見られるようになります。これは恐らく、滅亡寸前であった中国の明朝から景徳鎮の技術者が流入したことで中国人の技術指導が入ったこともあったと思われます。また直後の1640年頃からは、広い販路を獲得していきますが、これは明朝から清朝の移行する動乱期にあって、陶磁器の一大生産地の景徳鎮の生産が途絶え始め、陶磁器という重要な交易品の新たな生産地を西洋諸国が探し求め、伊万里にたどり着きます。このような複数の要因の重なりが、伊万里に急速な発展をもたらしたのだと考えられます。だいたいこの変化が起こった1640年以前の伊万里を初期伊万里と呼んで分類しています。

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 このような技術革新などの変遷を経て、1640年頃に登場するのが古九谷なのです。多くの読者が、この伊万里の話の中でどうして石川県で焼かれた古九谷が登場するのかと疑問に思われるかもしれません。そうです。最近まで古九谷は石川県加賀地方の焼物とされていたのですからね。

 戦後間もなく、古九谷は有田地方で製造されたのではないかという説が提唱され、論争が起こります。それは、江戸時代に欧州に輸出された伊万里の里帰りが始まったことによります。里帰り品の古九谷と、間違いなく有田で製造された初期柿右衛門との共通点に注目が集まったのです。
 また昭和31年にロンドンで開催された「日本陶磁器展」で発行された図録に、日本では古九谷に分類されている焼物と酷似した作品が、伊万里として輸出され、1671年製の銀の蓋が添えられていたため、古九谷は伊万里に分類すべきではないかと掲載されたのです。
 最近の平成22年の国会で、国立博物館で古九谷が伊万里古九谷様式と曖昧な表記がされていること、また東京国立博物館所蔵の重要文化財に指定されている古九谷の大皿が、長年展示されないでいることについての質問が行われました。

 しかし、弊店もそうですが、古美術商には関東や関西を問わず北陸方面に縁のある店が多いのです。自らの文化を否定されたような思いがあったのでしょうか、古九谷伊万里説には拒否反応を示す方は実にたくさんいたと思いますし、いまでも根強く残っているでしょう。私もこの話をしている最中に、叱られた記憶が幾度かあります。

 しかし古九谷について、発掘調査が行われた結果、伊万里で生産されていたことがほぼ確定的となっています。焼物の名称も古九谷の名前は残したままの、伊万里古九谷様式と曖昧な表記することが展覧会の暗黙の了解になってしまいました。発掘調査の結果石川県の窯跡からは色絵の破片も見つかったようではありましたが、古九谷と呼ばれる様式とは少し異なるものだったそうです。しかし長年古九谷が石川県産だと思われてきた根拠も未だに明らかにされていません。さらに、古九谷が製造されなくなってから約150年後に生産された、吉田屋窯を始めとする再興九谷は古九谷が石川県加賀地方で作られたことを疑うことなく生産されたのは何故でしょうか。多くの謎は解明されず、玉虫色の答えのまま、一応古九谷は伊万里に属することになっているのです。

伊万里焼と古九谷焼2へつづく