BLOG京のほっこり菜時記2018.11.01

「ぐじと秋鯖」

By中井シノブ

大阪生まれの京都暮らし、厳密には「京女」とはいえないが、イケズなかんじやはんなり感は身につけた(あくまでも自己申告)。20年以上京都の飲食店を取材しているから、「京都の食には詳しい」のがウリ(笑)。そんな私が想う京の菜時紀を、ここでは語っていこうと思う。

京都の秋のご馳走というと「松茸」を挙げる人が多いだろう。丹波で採れた松茸を濡れ布巾でさっとぬぐって手で割き、七輪の上で焼く。軽く焦げ目がついた頃合いに口に運ぶと、なんとも芳しい。シャクっとした歯ごたえも心地よくて、思わず目をギュッと閉じてしまう。ただし京都産の松茸は「山のダイヤ」と称されるほど高額で、そうそう味わえるものではない。

江戸っ子なら、嫁を質に入れても食べるのだろうが(いまどきないか、笑)、京女(ここでは私限定)は、それほど豪儀ではなく。自分の懐具合を考えると、私レベルのご馳走はぐじ(アマダイ)や秋鯖が精一杯。決して、ぐじや鯖が安物だと言っているわけでない。コストパフォーマンスの高いものに、つい走ってしまうということだ。

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ぐじ塩焼き

ぐじなら「塩焼き」、鯖なら「きずし」が私好み。ちなみに、ぐじとはアカアマダイのこと。主に福井県若狭で水揚げしたものが京都に届く。なんといっても「塩焼き」がメジャーだが、造りで食べられる店では、私は細造りにしてもらうことも多い。その身はねっとりとして甘く、飲みこみたくないと思うほど美味。山葵をちょんとのせて味わったり、醤油を軽くつけたり。変化を楽しみながら、一皿の細造りを味わう楽しみ...。ぬる燗をちびちびやると、これ以上の幸せはないと思えるのだ。

「塩焼き」はなんといっても焼き加減が肝心で、鱗のついた皮はこんがり過ぎるほどパリッと、身はふんわりしているのが最高だが、なかなかこれが難しい。私史上、「ぐじの塩焼き」ナンバー1は、『蛸八』(中京区蛸薬師通新京極西入ル)の先代・掛谷陞さんが焼いたものである。

『蛸八』に初めて足を向けたのは、おそらく20年以上前。新京極と寺町の間、ひっそりと白い暖簾がかかる店は渋すぎて、当時の私には入りにくい店だった。品書きに並ぶのは魚の名前だけ。「ぐじ」と書かれていても、どんなふうに食べればいいのかもわからない。寡黙で頑固そうな店主の掛谷さんが、「ぐじなら塩焼きですよ」と助け船をだしてくれた。

串を挿して焼き場に置き、ほかの料理をつくりながらも焼き場から目を離さない。繊細に焼き加減を目と鼻と手で見る。焼きあがったぐじは、驚くほど美しかった。皮はサクッと音がするほどこんがり焼け、その下から現れる身はふかふか。しっとりとして旨味がジュワッと広がっていく。「これほど美味しい焼き魚を食べたことがない」と思ったものだ。何度か通ううち「大将」と呼べるようになり、ぽつぽつと言葉を交わした。役者にしてもいいような男前、板前の鏡のような人だった。残念ながら数年前に逝かれたが、その料理は息子の浩貴さんに受け継がれている。

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きずし

秋になるとグッと脂がのる鯖は、焼いても煮ても美味しい魚。だが、あえて私は「きずし」を注文する。「きずし」は関東でいうところの「しめ鯖」。この料理も酢〆加減が味を左右する料理。人によって好みは違うが、私はレアめの「きずし」が好き。正面本町にある『東寿し』(東山区正面通本町西入ル)の「きずし」は、いつ食べても最高の〆具合。売り切れていることもある人気メニューだ。生姜をとけこませた酢をつけて食べると、口の中にじわっと脂が広がっていく。新鮮な青魚独特の清々しい香りと旨味。鯖寿司とはまた違う、ダイレクトな鯖の美味しさを味わえる。

聖護院かぶらや秋茄子、栗など、ほかにも美味しいものはたくさんあってすべては食べきれない。だから、これだけはと「ぐじ」と「秋鯖」に狙いを定め、お目当ての店に足を運ぶ。そんな食の歳時記を自分の中にもっていると、京都の食がより楽しくなる。

2回は「コッペ」です。

中井シノブ

京都の情報誌編集長を経てライターに。飲食店取材1万軒。外飯、外酒がライフワーク。著書に『京都女子酒場』(青幻舎)、『京の一生もん』(紫紅社)などがある。