BLOGうつわ知新2020.01.28

2月節分

うつわと料理は無二の親友のよう。いままでも、そしてこれからも。新しく始まるこのコンテンツでは、うつわと季節との関りやうつわの種類・特徴、色柄についてなどを、「梶古美術」の梶高明さんにレクチャーしていただきます。

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梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

2月節分

2月といえば節分。ところが節分というのは、本来季節の境目を指すため、年に4回あります。節分の中で2月の節分がとりわけ大きな行事として、取り上げられているのは、お正月(旧暦)に近い時期であったということと、人々の春を待ち望む心が他の季節よりも強いからだと思われます。

私は八卦見が好きで、時々占ってもらいます。その八卦見の世界で「来年からは...」と言われた場合、それは往々にして1月1日(新暦)からを指すのではなく節分以降を指します。私は毎年京都大学横の吉田神社に節分詣をいたしますが、確かにこの時期は一年で一番冷え込みます。それ故に、節分の翌日が立春の日に決められていることに「なるほど」と大きく頷くばかりです。

以前、裏千家14世淡々斎の自画賛の掛軸を所有していたことがありました。

そこには一輪の侘助の絵が墨で描かれ「清娯」の文字が添えられていました。

厳しい季節の中、真っ先に花を開いたその侘助が春を告げるのを感じ取って気持ちがほんのりと和らぐ様子が表現されたような掛軸でした。

2月はまだ春を強く感じることはできなくても、春へ向かう静かな足音が聞こえ始めるまさに「清娯」の季節なのです。

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伊万里青手古九谷様式 椿平鉢

侘助は椿の仲間です。同じように椿を描いたうつわを2種ご紹介させていただきます。

ひとつ目は「伊万里青手古九谷様式 椿平鉢」で、1650年前後に作られた作品です。赤を使わず緑を主体にしてデザインされた鉢です。日本人は昔から緑を青と呼ぶ習慣を持っていましたから、緑手ではなく青手と呼ばれてきているのでしょう。

このうつわの製作年代はまだ素焼きの技術を持っていませんでしたから、いきなりの筆入れでここまでの作品に描きあげるためには、職人にしっかりした絵の技術が必要でした。その技術の確かさによって、写実的な重く堅苦しい絵にならず、崩しすぎた下手な絵でもない、うつわに最適なバランスの絵に仕上がっているのでしょう。青手と言われるうつわは、伊万里の良質な硬く白い磁器質の磁胎を用いておらず、あえて半磁器のくすんだ色の磁胎を用い、緑や黄色や紫といった鮮やかな色のガラス釉を使いながらも、磁胎のくすんだ色を背景として利用して、鮮やかさではなく、重厚感を醸し出すことに成功しています。半磁器の欠点を逆手にとった企画力と、画質の落としどころの絶妙さなどおよそ400年前の物とはとても考えられません。

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吉田屋 松竹梅 見込椿 茶盌

次にご紹介するのは「九谷吉田屋窯 松竹梅見込椿茶盌」です。

先に紹介した「伊万里古九谷様式」の鉢は、つい近年まで石川県加賀地方で製造されたものと考えられ「古九谷」と呼ばれていました。しかし発掘と研究の末に、今は九州の有田地方で焼かれた伊万里の一分野に分類されています。

ところが奇妙なことに、19世紀の加賀地方に住んでいた人々は、「青手古九谷」は地元で生産されたと信じていたようで、この「青手古九谷」を今一度復活させたいと1824年に吉田屋窯を立ち上げ、7年間だけではありましたが、さまざまな作品を残しているのです。

九州の伊万里では莫大な数の製品を残しながら、ほぼ茶道具を生み出すことはありませんでした。

ところが、この吉田屋においては香合、蓋置、水指、茶盌など多様な茶道具も手がけました。

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吉田屋では青手古九谷での再興を目標に掲げてはいましたが、写しと呼ばれる同一デザインの作品を造ることはせず、全て独自のデザインで作られています。

今日、金沢周辺を旅して、九谷焼を求めると、その中にはこの青手古九谷、吉田屋の流れをくむ作品に出会うこともあるでしょう。

古九谷が伊万里に分類されてしまっている現代でもなお、多くの北陸の人々にとって古九谷が自分たちの文化の誇りであり続けていることが理解できるでしょう。

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乾漆 鬼面

今でも節分には豆まきをされるお宅もあることかと存じます。これは、春を迎える前に追儺(ついな)と呼ばれる邪気を祓う儀式に代わるものです。それは桃の木で作った弓に、芦の矢をつがえて邪気という気配に立ち向かっていました。やがて邪気が目に見える鬼として表現されるようになり、弓矢を「射る」という言葉の類似性から、「炒った」豆が用いられるようになり、鬼に向かって豆を投げるという形になったわけです。ここでご紹介しているのは、乾漆の鬼面です。乾漆とは麻布や和紙を漆で張り重ね、漆と木粉を練り合わせたものを使って造形を行う技法です。木彫とは異なる造形の自由さが表現できます。鬼面は邪気を具現化したものでもありますが、同時におどろかせて邪気を遠ざける役目で用いられることもあります。日本人は柔軟な解釈で鬼と接しているわけです。

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原田宰慶作 木彫懸想文像

ここでもうひとつご紹介したいのは「原田宰慶作 木彫懸想文像」です。水干(すいかん)という衣装に覆面で顔を隠した人物がいます。肩に梅の枝を抱え、その梅の枝には懸想文(けそうぶみ)がくくりつけられています。この懸想文というのは今で言う恋文のことです。

麗しい女性に思いを寄せながらも、その心を打ち明けることのできない男性は、恋文にその思いを託そうとするのですが、昔は 誰もが文字を書けるわけではなく、その代筆業として、下層の公家衆が、内職として人目をはばかり、顔を隠して請け負っていたのです。

その懸想文が、やがて神社のお札のような形に発展し、節分の日にこの水干姿で懸想文を売り歩く風習となったようです。現在でも京都の左京区聖護院の須賀神社でその姿を見ることができ、お札を買うこともできます。

懸想文は、それを手に入れた女性が大切に化粧箱の中にしまっておくと、美しさが保たれ良縁が来るものと考えられていました。また、衣装箪笥にしまっておけば、着るものに困らないとも考えられていました。

私のお知り合いもこの懸想文を手に入れて間もなく、お嬢様に良縁が到来した方があり、情報提供した私はずいぶん感謝されたことがありました。

二八(にっぱち)2月、8月と言えば、商いも薄く静かで地味な季節と思われていますが、春には間があるものの、人々が春を心待ちにする期待感に溢れた季節として捉えられていることがお分かりいただけたかと思います。

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■ 梶古美術

京都市東山区新門前通東大路西入梅本町260
075-561-4114
営10時~18時
年中無休(年末年始を除く)