食知新ブログ
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BLOG京都美酒知新
2022.02.27
カクテルが飲みたくなる話「ホットウイスキー」
■西田稔(にしだみのる) 京都木屋町二条「Bar K6」、「cave de K」、「keller」のマスターバーテンダー。2020年開業の「ザ・ホテル青龍 京都清水」内の「Bar K36」を監修。自らもカウンターに立つ。京都生まれ、同志社大学卒業後、東京のバーで経験を積み、1994年に「Bar K6」を開業した。シャンパーニュの将校、グラッパの騎士、クリュッグアンバサダー、ウイスキーコンテスト審査員ホットウイスキーカクテル言葉「静寂」ウイスキーにはストレート、ロック、ソーダ割などいろいろな飲み方がありますが、そんな数ある飲み方のなかで、肌寒い時期などにおすすめなのが「ホットウイスキ―」です。温めたグラスにウイスキーを注ぎ、その上からお湯を注ぐのが一般的ですが、ここではもう少し手間暇をかけて美味しくするホットウイスキ―の作り方をお教えします。まず準備するのは、九州で焼酎のお湯割りに用いる「黒じょが」という酒器。これがない場合は、手鍋でも大丈夫です。「黒じょが」にあらかじめつくっておいたウイスキーの水割りを入れ、火にかけてゆっくり温めるという方法です。お湯を注ぐよりは手間がかかりますが、こうしてつくると驚くほど美味しくなる。まさに目からウロコの美味しさなのです。まだまだ肌寒い日もあります。シェリー樽が香る温かなウイスキーで心身を温めてください。カクテルレシピカラバン・ソリスト・シェリーカスク 40mlミネラルウォーター 120ml3月のウイスキーカラバン・ソリスト・オロロソシェリーカスクトレングス台湾のウイスキー・カバランが世界中で注目されるきっかけになったのは、2010年1月にスコットランドのエディンバラで開催されたウイスキーのブラインドテイスティングイベントでした。このイベントは世界的なウイスキーブームにのってイングランドでも100年ぶりにウイスキー蒸留所が創業したことを受けて行われたもの。バーンズ・ナイト(国民的詩人・ロバート・バーンズの誕生日)に、イングランド産のウイスキーとスコッチなどを比べてみようと開催されたものでした。驚いたのは、このイベントに出品していたカバランが、評価点数で他の蒸留所を引き離して圧勝したことです。ニュースは瞬く間にウイスキー界に広まり、「KAVALAN」の名を世界中に広めたのでした。以降、カバラン蒸留所は世界中から調達した多彩な樽でシングルモルトを熟成させ、次々と世にだしていきます。樽はバーボンカスクやシェリーカスクはもとより、ワイン、ブランデー、ポート、ラムにまで及びました。なかでもシェリーはオロロソ、フィノ、アモンティリャード、マンサニージャ、モスカテルなど、まるで華かな錦絵のようにバラエティーに富んだものでした。今回は、私が直接台湾に足を運んで選んだひと樽をご紹介しています。ホットウイスキーで豊かな香りを愉しめます。■Bar K6京都市中京区木屋町二条東入ル ヴァルズビル2F075-255-5009撮影:ハリー中西
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BLOGうつわ知新
2022.02.26
伊万里焼と古九谷焼6
「伊万里焼と古九谷焼」について深く詳しく。6回目は、伊万里焼と茶の湯、古九谷のその後について解説いただきます。「伊万里焼と古九谷」の物語をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。伊万里焼と古九谷焼6 先月お話いたしました内容から、伊万里焼と呼ばれる名称の中には、古伊万里だけでなく古九谷も柿右衛門も鍋島も含まれていることが、おわかりいただけたことでしょう。大雑把な話ですが、ともかく江戸時代に、肥前一帯の焼物が伊万里港に集められて出荷されたことで、様々な様式の焼物をひとまとめにして伊万里と呼んだのです。 ではなぜ、現代の焼物に伊万里焼の名前を使わなくなったのでしょうか。いいえ、使わなくなったわけではありません。いまでも伊万里市で焼かれたものは伊万里焼と呼ぶのですが、いまとなっては肥前全体の焼物の総称ではないのです。 明治になって鉄道が開通したことで、焼物は伊万里港から船に積んでの出荷ではなく、鉄道輸送が主流になりました。そのことで、焼物は最寄りの出荷駅の名前で呼び分けられるようになり、有田焼・三河内(みかわち)焼・波佐美(はさみ)焼などは伊万里の名前から分類変更された名称なのです。現代では単純に伊万里焼と呼ぶと、骨董の焼物を示す名称になってしまった感じです。 私ども古美術商は、店舗にある商品を販売するだけではなく、お客様がご自宅を整理される場合などに、ご所蔵の品々を買わせていただくこともございます。 伊万里などのうつわは20客ずつの単位で木箱に入って、また塗りの椀類や足付膳もやはり20客単位で蔵から出てきます。【木箱のしつらえの違い】左が伊万里の入った木箱です。頑丈な樅箱(もみばこ)に20客まとまって入れられて、墨でうつわの名前が直書きされています。右は景徳鎮で焼かれた古染付の半開扇向付です。このような茶懐石の道具は5客か10客単位で箱に収められています。この写真では特注の桐の段箱(段で区切られた箱)に5客の向付が入り、それぞれ木綿の袋に入れられ、特別に丁重に扱われてきたことが窺えます。うつわの名称を異なる筆跡で記した貼紙(はりし)が2枚貼られているので、これまでにふたり以上の所有者を経て来たことが窺えます。ふたつの箱には木材の質による差別や箱の造りへのこだわりだけでなく、箱の汚れ方から見ても扱われ方に差があったことがわかりますね。 一方、茶道具や茶懐石の道具は蔵ではなく、本宅の座敷や茶室近辺の、お客様により身近な場所に置かれていることが多く、伊万里より格上の扱いを受けています。茶懐石の向付や椀類は、伊万里の20客単位とは異なり、5客か10客単位で箱に収められています。古染付菊菓子鉢 この古染付の鉢の箱には、「これと同手の鉢が三井家に所蔵されている。その箱には表千家7世如心斎が箱書をしている。」と、表千家11世碌々斎が書き記しています。またこの鉢は、大正7年の紀州の某家の売り立てに出品され、その後昭和7年の関西財界の数寄者、原尚庵によって再び売りに出されたときの資料が添えられています。茶道具は現在に至るまでの、来歴(伝来とも)を伝えようとする姿勢が明確です。これは伊万里には見られないことです。 現代では一席に多くの人数が集う大寄せの茶会が主流になりましたが、それでも私が参加した茶席に伊万里が登場した事はありません。20人が一堂に会する宴会に近い茶席でも伊万里を見かけないのは、伊万里が数物として粗雑な扱いを受けているということではなく、茶陶のうつわと伊万里とは歴史や文化中で住み分けがされてきているからだと思います。 伊万里が日本で最も量産された焼物でありながら、茶陶の焼物でなかったことは皆さん自身がお解かりのはずです。皆さんの中に江戸時代の伊万里製の茶道具を所有されている方がおいでになるでしょうか?あるいはそれを茶席の中でご覧になったことがあるでしょうか?きっとほとんどないことでしょう。私は水指を一点だけ所有し、かつ、二点を美術館で見たことがあるに過ぎません。 茶人の好みに近いと思われる古九谷様式の中にさえ、茶碗や水指を見い出すことが出来ないのです。さらに言えば、伊万里には「向付(むこうづけ)」と言う名のうつわがありません。代わりに「向付」的なうつわは「膾皿(なますざら)」と呼ぶのです。古い木箱にもいつも墨で「膾皿」と記されています。呼び名においてまでも茶の湯のうつわと区別されているのです。昔は、生では魚の鮮度が保たれず、酢でしめて提供したことから膾(なます)という呼び名が生まれたようですが、これを向付と呼んだところで特に問題はなかったと思うのですけれどね。なぜわざわざ呼び名を変えて区別したのでしょうね。【伊万里白磁水指】 私が所有する伊万里の水指です。塗り蓋は添っていますが、紐もかけられない茶道具にしては格の低い古い樅箱に入れられていました。模様は無く白磁で、単純な筒形ではなく口と高台脇で胴を絞っています。私が伊万里と判断したのは底面の土味と蛇の目高台(じゃのめこうだい)でした。蛇の眼のようだからそう呼ばれますが、高台内の釉薬を拭き取ってチャツと呼ばれるドーナツ形の陶板の窯道具の上にのせて焼いたのです。底部が沈み込まないように、トチンに代わって採用された技術です。 では、伊万里はどうして茶の湯に用いられなくなったのでしょう。 桃山時代は茶の湯が文化の中心に在ったと言っても差し支えないでしょう。権力者たちが争うように茶道具の名品を求めました。ところが、天下が統一されると、そのブームにも少しずつ陰りが見えるようになります。 茶室の内では刀を外しての「貴賤平等」であると言う、利休が重んじた思想に警戒感をもった人物が現れたからです。信長・秀吉の時代を味わって、自ら権力を手中に収めつつあった徳川家康です。 下剋上がもたらした戦乱の世を嫌というほど味わって来た家康は、主従関係を乱す恐れのある思想を警戒したのです。ましてや茶の湯の指導者である茶頭(さどう)が、政治に関与するなど言語道断であったことでしょう。そのため、身分の上下を重んじる儒教精神に重きを置いて統治を進めようと考えた家康は、教養を高める手段として茶の湯は評価しつつも、それが文化の中心になる事を戒めました。 家康は1616年の伊万里が開窯した同年に亡くなるため、伊万里の発展に直接関与はしませんが、茶の湯が文化の中心に在り続けることを抑制したことは、伊万里が茶の湯から離れた方向へ進む原因の一端を作ったと言えるのかもしれません。 その後、中国・景徳鎮の活動末期、1640年直前の頃に自分好みの祥瑞の品々を発注したと言われる大名茶人の小堀遠州も1647年に没し、茶の湯を牽引した大巨星が生きた時代が終わりを迎えました。それと同時に茶の湯の隆盛にも陰りが見え始めたのです。その頃に勢いをつけ始めた伊万里に、好みの茶道具を発注し、それを自らの手で流行させるような、エネルギッシュでカリスマ的な茶人が現れる時代ではなくなったということだったのでしょう。 また遠州がこの世を去った同時期には、京都の御室(おむろ)で野々村仁清が活動を始めて、きれい寂び(さび)と呼ばれる新しい美意識が数寄者たちの中で流行して行ったことも茶道具が伊万里に発注されなかった理由にあるのだと思うのです。野々村仁清作 御本茶碗 銘たつた 後西天皇箱(1638年~1685年) 野々村仁清作 細茶入 仁清の作品を触れずして、解説することは大変難しいのですが、無地の陶器でありながら、ボテとした凡庸さはなく、まるで薄手の磁器を思わせるような繊細でシャープな存在感を感じ取っていただけるでしょうか。また高麗の焼物のような長年の使用によって染み込んだ景色や時代感を味わうのでなく、土物でありながらもすっきりした清潔感に魅力がある焼物です。いずれの品も添えられている仕覆も箱にも考え抜かれた数寄者の趣味が際立っています。茶道具は焼物本体だけに価値があるのではなく、長い年月を引き継いできた人々の思いによって、更に価値が高められていることがお解かりいただけるでしょうか。このような扱われ方は、伊万里には滅多に見られないものだと思います。 それでは、古九谷・柿右衛門・鍋島の各様式の焼物は茶の湯を離れ、どのような道をたどったのかをお話しましょう。 まずは、古九谷のストーリーです。 1647年に初めて伊万里のうつわは中国船によって海外へ向けて輸出されたと言われています。景徳鎮の焼物を中心に交易をしてきた人々は、明国の滅亡にとってそれに代わる交易品を探し求めて伊万里にたどり着きました。当時の伊万里では日本国内での流通を目指した古九谷様式のうつわが焼かれていましたから、中国商人は日本人向きのうつわの中から、自分たちの好みに合うものを選別せざるを得なかったようです。 数年前のことですが、インドネシアの首都にあるジャカルタ国立博物館に、海を渡った古九谷の大皿が数点収蔵されていると聞いた私は、とても驚いたと同時に、ぜひこの目で確かめたいと思っていました。ところが最近、ひょんなことから、インドネシアの古都、ジョグジャカルタにいまも残るスルターン(君主)一族の方に出会いました。博物館に収蔵されている古九谷の話をしたところ、それらは、当時インドネシアを植民地化していたオランダ人が日本から運んだものではないだろうか、と聞かされました。 確かに1650年からオランダ人による伊万里の輸出が始まり、最初は主にアジア諸国に向けてのものだったと記録があるようです。しかしさらに詳しく調べると、ジャカルタ国立博物館に収蔵されている古九谷様式の伊万里は1650年代に焼かれた青手古九谷の大皿であり、当時中国船が交易を繰り返し、運ばれたものであるとジャカルタ国立博物館はその研究結果を発表していました。 オランダ船による交易以前に、すでに中国船によって多くの古九谷様式の伊万里は輸出されていたのです。その中には1640年以前の製造と考えられる初期伊万里様式のうつわまでもが発見されており、伊万里の輸出体制が整うのを待てず取引が始められるほどの人気があったことが窺われます。 輸出品として人気があった古九谷様式の伊万里ですが、それでも古九谷様式のうつわは主に国内向けに焼かれていた製品だったと思われます。その理由として、1683年に江戸で起こった天和の大火(八百屋お七の大火)で、本郷にあった加賀藩江戸屋敷は焼失し、その発掘調査から大量の古九谷が発見されたという報告が、1985年(昭和60年)の新聞に発表されました。 古九谷伊万里の産地論争は一旦横に置いて考えれば、加賀藩主であった前田家は、少なくとも古九谷の大収集家であったことに間違いありません。大火は1683年のことですから、それから数年後の1690年ころに古九谷の生産が終了してしまうのは、この大火を契機に、江戸屋敷の再建などで莫大な費用が必要になった前田家は、続けて古九谷を購入する資金が無くなったことに原因にあるのかもしれません。 そんな古九谷の栄枯盛衰に関わるほどの注文量を加賀藩が握っていたと考えられることからも、古九谷は国内向けブランドだったのでしょうね。 さて、ここまで古九谷様式についてお話してきましたが、案外長くなってしまったので、残る柿右衛門と鍋島は来月に持ち越しとさせていただきます。伊万里焼と古九谷焼7につづく
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BLOG割烹知新〜奇想の一皿〜
2022.02.26
祇をん かじ正「すっぽんと海鮮おこげの皿うどん」
祇をん かじ正「すっぽんと海鮮おこげの皿うどん」九州の大学を卒業後、縁あって仕出し料理の老舗『菱岩』に入り、日本料理の道へ。伝統的な京料理を一から学んだのち、「京料理を親しみやすいスタイルで」との思いを胸に、『祇をん かじ正』をオープン。芸舞妓さんやお茶屋のおかあさんなど、口の肥えた祇園町の人たちも贔屓にする、祇園町南の名割烹です。発想秘話僕は長崎出身なので、小さい頃からよく皿うどんを食べていました。長崎では人が大勢集まる時に、皿うどんの出前をとる習慣があります。みんなでわいわいと賑やかに食べる皿うどんは、懐かしい故郷の味ですね。今回はそんな思い出の皿うどんに和の要素を加え、僕の修業先の名物でもある「だしまき」を忍ばせた一品を作ろうと思います。味の決め手となるあんかけには、丸鍋を作る際に出たすっぽんの端材を使います。すっぽんの茶碗蒸しってすごくおいしいじゃないですか。だからすっぽんスープとだしまきも絶対に合うと思ったんです。写真左の麺(かた焼きそば)は長崎のものです。最初、母が送ってくれた荷物の中に入っていたのですが、すごくおいしくて時々取り寄せるようになりました。お客さんにも好評で、わざわざ長崎まで買いに行かれた方もいるほどです。有名メーカーではなく、知る人ぞ知る製麺所のようですね。「海鮮おこげ」というのは海鮮の変わり揚げのことです。今日は鮮度のいい車海老と帆立の貝柱を「おこげ」にし、だしまきや軽く火を通したあさりと一緒に皿うどんの具材にします。野菜は菜の花やたけのこなど、春らしいものを選びました。ご存じの方も多いと思いますが、僕の修業先の『菱岩』は仕出し料理の老舗です。『菱岩』といえば「だしまき」も有名。当店でも修業先に敬意を払い、看板メニューのひとつとして開店当初からお出ししています。とはいえ使用する卵も違いますし、なによりカウンターで「できたての熱々」を召し上がっていただく点が大きく違います。卵を切るようにまぜ、出汁を加えます。だしまきに使う卵は新潟から取り寄せているもの。コシが強く、黄身の味も濃厚です。焼きあがっただしまきから出汁が出ていくのを防ぐため、少量の葛も加えます。『菱岩』では、だしまきを巻くのは大将や一部のベテランだけに許された仕事です。下の者はひたすら練習を繰り返し、自力で焼き方を体得します。今日は焼いただしまきに軽く粉をまぶし、油で揚げたものを具として使います。粉を付けて揚げることで外側は少しカリッとし、中はふんわり。食感の違いを楽しんでもらえると思います。殻をむいた車海老には道明寺粉を、貝柱にはあられをまぶして高温の油で揚げ、おこげを作ります。はまぐりは殻から外して身の固い部分に包丁を入れ、のちほどすっぽんのスープにくぐらせて軽く火を通しておきます。次はスープ作りです。二番だしに生のはまぐりから出た貝汁を加え、塩、醤油、みりんなどで味を調えます。そこにすっぽんのえんがわを加え、しばらく炊きます。仕上げに葛でとろみをつけ、あんかけスープの完成です。皿うどん用の麺の上に油で揚げただしまき、海鮮おこげ、はまぐり、ボイルしてから味をふくめておいた菜の花やたけのこなどの具材を盛ります。最後にすっぽんのうまみが溶け出したあんかけスープをたっぷりかけ、白髪ねぎと生姜を乗せて完成です。仕上げに黒七味をすこし振ってもいいですね。胡麻油など中華系の調味料は一切使わず、麺以外はすべて和の食材で仕上げた皿うどんです。かた焼きそばがすっぽん風味のおだしを吸って、若干くたっと柔らかくなったところもおいしいでしょう? あんかけをまとっただしまきは「だしまきの揚げ出し」だと思って味わってみてください。仕出し屋の仕事は基本的にお客様と顔を合わせることがありません。ですから自分で店をする際には「絶対に対面スタイルで」と決めていました。お客様の反応を間近で見られるのは励みになりますし、実際「おいしい」と声をかけていただくと「次はもっとおいしいものを作ろう」という前向きな気持ちになれます。とはいえ、最初はしんどさもありました。料理をしながらお客様に気配りをすることが難しく、開店からしばらくは勝手が違って大変でした。当時、忌憚のない意見を言い、叱咤激励してくれた花街の皆さんのおかげで、今は楽しくカウンター仕事をやらせてもらっています。割烹ですので「こんな料理が食べたい」というリクエストにも気軽にお応えします。材料さえあれば、基本的にはどんなものでも作りますが、ペペロンチーノの注文にはびっくりしました(笑)。僕は肉が好きなので、ステーキやローストビーフ、角煮などの肉料理も定番としてお出ししますし、コースにも入れています。ちなみに季節にかかわらずコースのシメは長崎名物の冷やし「五島うどん」。その時季ならではの伝統的な料理から、だしまきや肉料理まで、あれこれ楽しんでいただけるのが当店の強みだと思っています。写真:鈴木誠一 取材・文:鈴木敦子■祇をん かじ正京都市東山区祇園町南側570番地127-3075-525-821111:30~13:00(L.O)、17:30~21:00(L.O)水曜休
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BLOG京の会長&社長めし
2022.02.19
ジャパンリスクマネジメント株式会社の社長が通う店「子鴨(こがも)」
■竹内 秀興(たけうち ひでおき)さんジャパンリスクマネジメント株式会社 代表取締役社長1981年生まれ 京都市出身2004年 滋賀銀行入行2008年 ジャパンリスクマネジメント株式会社入社2016年 専務取締役2019年 社長就任当社は、リスク管理と保険コンサルティングの専門企業として、1948年に創業。1968年には、生損保共に扱う総合代理店としてお客さまのリスクを総合的にお守りする体制に。「事故時の安心」と「長期間にわたる安心」をお届けし、京都大阪を中心に法人約1,000社、個人約9,300人とお取引をさせて頂いています。最後の晩餐は、かつて西大路御池にあったイタリアン「トラットリア カロ」のニンニクたっぷりのパスタ「ガーリックガーリック」。名物の馬刺しや鴨のたたきをはじめ、職人の技が冴える自慢の味を京滋の美酒と「私は経営者仲間の先輩や後輩に誘われて食事に行くことが多いのですが、連れて行ってもらうと、やっぱり祇園の割烹や寿司、焼肉などが増えてくる。だから、自分で店を選べるときは街中のこういうカジュアルな店に行きたいと思って使わせてもらっています」(竹内さん)三条河原町交差点に近い三条通と龍馬通をつなぐ路地裏に、竹内さんお薦めの「子鴨」がある。ここでは馬肉と鴨肉、京野菜に特化し、京料理の技で仕立てたメニューを提供し、好評を博している。馬肉といえば、高たんぱく、低脂質、低カロリーのヘルシーさで人気が高まっている食材。竹内さんも高品質で美味しい馬肉料理を目当てに通っているという。「2015年の秋頃、経営者の友人の紹介で行ったのが最初だったと思います。私は馬刺しなど生肉が好きなんですが、当時京都では食べられる店があまりなくて、馬刺しが食べたくなったらここに、という感じで行き始めました」(竹内さん)店内は6席の一枚板のカウンターに2人掛けと4人掛けのテーブルの小さな空間だが、窮屈な感じはなく、くつろげる雰囲気だ。名物の馬刺し盛り合わせ、京鴨のたたきなど、馬肉や鴨肉が焼き物や造りで味わえるほか、季節野菜を使ったサラダや天ぷら、焼きびたし、生麩・生湯葉料理などがあり、冬場には鴨鍋も登場する。「馬や鴨などのジビエが食べられて、しかも野菜まで美味しいというのがポイント高いです。コースもありますが、私はいつもアラカルト。まず馬刺しの盛り合わせを頼み、あとは一緒に行く人に選んでもらう感じです。私が選ぶと、生ものばかりになっちゃうんで(笑)。馬刺しの味は熊本で食べるものにも引けを取らないと思います」と、竹内さん。また、マラソンランナーでもあり、普段から体重管理に気を遣う竹内さんにとって、カロリーを気にせずいくらでも食べられることも大きいようだ。店主の青木泰樹さんは、祇園の老舗などで5年間、京料理の修業をした後、大阪の飲食店経営の会社に就職。そこで串焼きや鍋などの店舗の運営、馬肉焼肉店「けとばし屋チャンピオン」の立ち上げ、店舗展開などに携わってきた。そして独立して地元京都に戻り、2013年7月に「子鴨」を開いた。「京都の職人として生きていきたいという思いがあり、身に着けた能力と経験を生かしながら、小さな京都らしい職人のお店をつくろうと考えた」という青木さん。京料理の伝統的な技術でほかにない個性的な素材を扱いたいと考え選んだのが、馬肉と鴨肉だった。「肉の京料理をやりたかったんです。馬肉は美容・健康にいいし、何より肉として美味しい。牛肉よりあっさりしているので、やりたい料理の表現には最適の素材だと思ったんです。また鳥類のお肉も使いたかったので、京都の料理人として鴨を選びました」「本物の素材、本物の技術による高品質な味、料理を目指しています」と、青木さんは話す。馬肉は、「馬業界の最大手であり最高峰」の熊本の「千興ファーム」と専属契約し、最高グレードの肉だけを入れている。そして鴨肉は、味、食感、香りにすぐれ、京料理に最適な京都産ブランド鴨の「京鴨」を。野菜は京野菜や近江野菜を農家や直売所に毎朝赴き、吟味して仕入れているという。馬の生肉は牛以上にデリケートだという。馬肉の扱い方を熟知しているからこそ、その魅力を引き出せる。「牛レバーと変わらないぐらいの感じで食べられて、美味しい」と、竹内さんお気に入りの「極上生レバー」1200円は、馬肉特有の甘味とこりっとした食感が楽しめる。※数量限定。入荷がない場合もあり野菜料理も出色。竹内さんのお薦めは、「朝獲れ新鮮野菜サラダ」1400円。美しくカットし、彩り豊かに盛った20種以上の旬の野菜は、甘く濃厚で力強い。醤油やみりん、ワイン、オリーブオイルなどを使ったドレッシングも、野菜の味を絶妙に引き立てている。「こんな美味しいサラダ、あまり食べたことがない。みずみずしくて、飲み疲れしている中でも食べてホッとできるメニューです」(竹内さん)「馬や鴨と同様、野菜も最高級の扱いをしています」と青木さん。窓際には白菜、ニンジン、小かぶなどさまざまな野菜が。飾りで置いているのではなく、食べ頃になるまで毎日位置や角度を変えながら寝かしているそうだ。力を入れているのはワインと日本酒。料理との相性を踏まえ、ワインはほぼイタリア産をメインに70種程、日本酒は京都と滋賀の酒15~20種程をセレクト。竹内さんが気楽な仲間とよく利用するというテーブル席。「この店の気に入っているところは、気楽に飲めるところ。居心地が良くて、いつも美味しい料理を食べながらしょうもない話をして、べろべろになるまで飲んでいます(笑)。また、私は仕事で人と接することが多い分、店ではあまりしゃべりかけられたくないタイプ。ここは無駄にしゃべりかけず、ひっそりしといてもらえるのもいいんです」(竹内さん)「うちが店としてこうしていきたいというところが、竹内さんにも伝わって使っていただいているのはうれしいですね」と、青木さん。程よいきっちり感と、肩ひじ張らないカジュアルさを併せ持つ同店。お客それぞれに合わせた対応で心地よく過ごせるのも、魅力の一つ。素材に誠実に向き合って作る料理とアットホームな雰囲気で、ファンのお腹と心を満たしていく。予算は飲んで食べて8000円~1万円程度。撮影 エディ・オオムラ 文 山本真由美■子鴨京都市中京区河原町三条下る大黒町46--1075-746-4973営業時間 18時~22時(LO21時30分)定休日 月曜※営業時間は状況により変更の場合もありhttps://ko-gamo.com/
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BLOG京都美酒知新
2022.01.31
カクテルが飲みたくなる話「サイレントサード」
■西田稔(にしだみのる) 京都木屋町二条「Bar K6」、「cave de K」、「keller」のマスターバーテンダー。2020年開業の「ザ・ホテル青龍 京都清水」内の「Bar K36」を監修。自らもカウンターに立つ。京都生まれ、同志社大学卒業後、東京のバーで経験を積み、1994年に「Bar K6」を開業した。シャンパーニュの将校、グラッパの騎士、クリュッグアンバサダー、ウイスキーコンテスト審査員サイレントサードカクテル言葉「人知れぬ恋」1930年代前半に誕生したこのカクテル。以前、このコーナーでもご紹介した「サイドカー」のスコッチ・ウイスキー版です。英国とカナダでコアントローの独占販売権をもっていた英国の実業家、ガース・グレデニングが、1930年代前半に考案したと伝わっています。グレデニングが60年代前半に販売権を手放すまで、このカクテルのPRを通してコアントローの販売促進を行ったそうです。「サイレントサード」というカクテル名は、グレデニングの愛車Railtonのサードギア(トップギア)が、とても静かでスムーズだったことに由来します。彼は自分の車を自慢するとともに、「サイレントサード」がいかにスムースで口当たりのいいカクテルかを伝えたかったのでしょうか。「物言わぬ第三者」、「静かなる三番手」とも呼ばれるようです。ベースをスコッチではなくほかのウイスキーにすると、「ウイスキーサード」というカクテルになることからもわかるように、スコッチ・ウイスキーでつくることが大切な一杯です。ジョニーウォーカー・ブルーをベースにすると、よりバランスよく印象的な味わいに仕上がります。カクテル言葉は「人知れぬ恋」。なんだかドキドキしますね。カクテルレシピジョニーウォーカー・ブルー 40mlコアントロー 15mlレモンジュース 15ml2月のウイスキージョニーウォーカー・ブルーラベル(干支ラベル)ジョニーウォーカー究極のブレンデッドです。熟成年数は明記されていませんが、ジョニーウォーカー秘蔵の貯蔵樽、なかでも15年~60年熟成させたものからとり出された貴重な精選原酒がブレンドされています。創業2代目のアレクサンダー・ウォーカーが製造していた19世紀当時の至高の風味を再現しようと開発されました。親会社がギネス社になった直後の1980年代後半に、最古年物(Jhon Walker's Oldest)の銘柄で販売され、1992年にブルーラベルになりました。ブルーは、元々は英国王室御用達となった1934年に製造された、ジョージ5世記念版(John Walker & Sons King George V Scotch Whisky)に用いられた名誉ある色であり、その栄光を復刻したものです。ブルーラベルはウイスキーフロートで琥珀色からはじまるグラデーションが美しいフロートスタイルは、最初にストレートでブルーラベルのやや強めの口当たりを愉しみ、氷が溶けていくにつれ、トワイスアップ、ソーダ割を堪能できます。飲み進むうちにバランスの良さを感じるこの飲み方は、ブルーラベルへの愛を極めた飲み方といえるでしょう。ロックやストレートは苦手だったという方も、この飲み方にするとそれぞれの美味しさを感じていただけます。■Bar K6京都市中京区木屋町二条東入ル ヴァルズビル2F075-255-5009撮影:ハリー中西
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BLOGうつわ知新
2022.01.31
伊万里焼と古九谷焼5
まずは「伊万里焼と古九谷焼」について深く詳しく。5回目は、藍九谷と吸坂手について解説いただきます。「伊万里焼と古九谷」の物語をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。伊万里焼と古九谷焼5 さて、今回からは前回お話しきれなかった藍九谷と吸坂手についてお話をしていきます。 まずは藍九谷ですが、皆さんはこの「藍九谷」という呼び名はいつからあったと思いますか? 実は私がこの業界で仕事を始めた1990年頃には、まだ藍九谷という言葉は、私の周辺の業者間ではあまり使われていませんでした。それからまもなく伊万里の人気が絶頂期を迎えるのですが、そのころから急に耳にするようになりました。そんな新しい言葉なので、私も重要性を感じず、しばらく曖昧な理解のままでした。 1640年以前の伊万里ではまだ色絵などを生産する技術が無かったため、ほぼ染付の器しか焼くことが出来ませんでした。1640年頃から中国人の陶工たちの移入が始まり、初期伊万里から古九谷様式の青手・色絵・吸坂手・藍九谷の焼物の生産が始まります。ここで私たちを混乱させるのは、これら4種類の焼物の中で青手・色絵・吸坂手は加賀地方で焼かれたと分類されたことです。そして藍九谷は初期伊万里から進化した、古い染付けの伊万里として注目されてはいませんでした。 現代になって九谷で焼かれていた青手・色絵・吸坂手が伊万里に組み込まれるようになった時、染付の古い伊万里と古九谷の間に共通する図柄があることが注目されます。そうして、古い染付が藍九谷と呼ばれ古九谷様式の仲間入りを果たすのです。 この藍九谷の初期の作品には、素焼をせずに絵付と施釉を行う、「生がけ(なまがけ)」と呼ばれる初期伊万里と同じ焼き方をしたものもあります。ちょうど初期伊万里から古九谷様式への過渡期的な作品だったのでしょう。それらは厚手で高台が狭く、高台周辺には陶工の指跡なども残されていて、初期伊万里と同じ特徴を持っています。やがて素焼きの技術が導入され始めると、藍九谷においても高い表現力を駆使した絵付けが行われていきます。その理由は、呉須の濃淡を巧みに使い分けることや輪郭線で囲まれた内側を塗り詰める「濃み(だみ)」の技術が向上したことにあると思われます。 後にご紹介する柿右衛門様式のうつわが出現すると、呉須の濃淡を藍九谷以上に巧みに使い分けていきます。藍九谷の段階ではそこに近づくまでの新しい取り組みなどを見ることができますし、呉須の色も、初期伊万里の頃に比べると、ずいぶん鮮やかになってきます。うつわの形状も薄造りになり、中央部の平らな面積も広くとれるようになります。それは裏面の高台内にトチンと呼ばれるピンを立てて、中央部の陥没を防ぐ技術を発明したおかげです。トチンの技術は伊万里独自のものなので、中国の焼物との見分けに役立ちます。【藍九谷見込牡丹花に葡萄七寸皿】 呉須を用いて絵付けする前の表面に墨を用いて細い線を描き、その上から呉須をのせています。墨の成分は油ですので、上から呉須を塗っても弾き、さらに墨は窯の中で焼け飛んでしまうため、墨で描いていた線が白く残ります。縁に描かれた葡萄には、この墨弾き(すみはじき)と呼ばれる新しい技法が使われているのです。呉須の扱いも格段に進歩し、発色も美しくはなりますが中央部に描かれたのが何の花なのかをはっきり表現できるにはいま一歩です。初期伊万里にはみられた指跡は裏側に見られず、ピンホールと呼ばれる釉抜けは見られるものの、仕上がりの美しさへのこだわりがはっきり表れて来ました。七寸皿 (直径21cm)の大きさに合わせて3本のトチンを立て、高台も広くとられています。トチンは極力小さして、美しさを損なわない配慮を見せています。 吸坂手を初めて見た人は誰もがこれが古九谷の仲間であることに驚かされます。この吸坂と言う名前は石川県の加賀地方の焼物を焼いた地名に由来しています。吸坂の名前でさえも古九谷の産地は加賀だと主張しているかのようです。この吸坂の地では、伊万里が始動するより古くから生活雑器を生産していたとされ、発掘調査もされていたはずですが、その結果を伝える報告を見出すことはできませんでした。恐らく、古九谷伊万里論争に影響を与えるような発見は無かったからだと思われます。 写真のふたつの吸坂の皿を弊店の加賀市の店を長年支えてくれていた社員に見せたところ、無地のものはおそらく加賀で焼かれた皿で、蕨絵の方は伊万里で焼かれたものだという見解を語ってくれました。加賀に住んで古九谷を扱ってきた人にとっては、まだまだ古九谷を伊万里だと言い切ってしまうことに抵抗があるのです。いずれにしろ、この吸坂手は生産量が少なく見かけることも難しいので、この場にご紹介できたことは幸運なことでした。 それはさておきこのシンプルに錆釉(銹釉・鉄釉とも)をかけただけの吸坂手のアイデアはどこから来たのでしょう。このお手本となる焼物がちゃんと中国に存在したのです。明国で生産されていた「柿南京(かきなんきん)」や「餅花手(もちはなで)」と呼ばれるうつわです。これらは錆釉の上から「いっちん」で装飾する技術も採用していました。このことから考えても、中国からの技術の導入によって吸坂のうつわが焼かれたことがお解かりいただけるかと思います。【無地吸坂手古九谷端皿】 古九谷様式のうつわの大半の口縁部に虫喰いの解決策として鉄釉(錆釉とも)を塗ったことはお話しました。さらに、鉄釉でうつわ全体を被った作品を生み出し、それを吸坂手と呼びます。鉄釉の下の素地の様子は、釉の掛かっていない畳付き部分から窺うしかありませんが、硬質磁器ではなく半磁器で作られています。全面が錆色で面白味のない姿ですが、手にとると、極限まで薄く削られた、そのシャープさに驚かされます。写真では見にくいですが、高台内の中央にトチンを立てていたことが微かに窺えます。他にも先端部を外に向かって開いた端反り(はたぞり)に仕上げてあることや、見込みと周辺の立ち上がりの境界に段差を設けるなど繊細な意匠が魅力のうつわです。【蕨絵吸坂手古九谷端皿】 先にご紹介した「無地吸坂手古九谷端皿」は表面が細かなサンドペーパー状にざらついているのに比べ、この皿は表面が大変滑らかです。これは、無地吸坂手の素地が半磁器で、その素地に含まれる微細な砂が錆釉の表面にざらつきを与えているのですが、かたや蕨絵のこの端皿は素地が磁器質であり、さらに錆釉の上に透明の上釉を掛けて焼いてあるため、滑らかなだけでなく光沢まで生まれているのです。蕨の絵は周囲より膨らんで浮き出ています。これは無地の吸坂手の皿を作るように鉄釉を全体に掛けた後に、蕨の絵を「いっちん」の手法で描き、染付で部分装飾も行い、最後に透明の上釉を掛けて焼いているからです。「いっちん」と言うのは白い化粧土をチューブから絞り出す要領で、うつわの表面に絵を描く技術です。この蕨絵の皿は番傘の形をしていて。その形状を窯の中で保つため、幅広の高台と三本の脚で支えています。このような高台は私も初めて見ました。 うつわに虫喰いが発生するのを防ぐ解決策として、錆釉を用いた景徳鎮の取り組みはこれまでのお話でご理解いただけたと思います。ところがこの虫喰いが発生したのは景徳鎮の民窯だけで、呉須の漳州窯などでは虫喰いは見られません。中国から伊万里に渡って来た職人が積極的に古九谷のうつわの縁に鉄釉を塗ったということは、伊万里で働いた職人は景徳鎮出身者が多かったことが想像できます。 それでは伊万里に於いてはどうだったのでしょうか。結論から言うと伊万里の土と釉薬の収縮率は同じであったため、虫喰いへの心配は無用でした。ですから、やがて鉄釉はうつわの装飾のために使われるようになります。縁に鉄を塗るとうつわの強度が上がり、欠けにくくなるとも聞いたことがありますが、実際はどうなんでしょうかね。【古染付重菊向付】 明末期に作られた古染付のうつわの縁に見られる虫喰い。この景色は素地と釉薬の収縮率の違いで発生します。日本の数寄者たちはこの欠けたような風情を侘びているとして愛しましたが、やはり焼物としては欠点だと思います。【12代永楽和全造 祥瑞写茶盌】 明最末期に小堀遠州によって発注されたと言われている祥瑞。古染付の焼物の最終の進化形と考えてよいかもしれません。この写真はその祥瑞茶碗を永楽和全が明治前期に写したものです。遠州は虫喰いのない焼物がなんとか出来ないかと知恵を絞らせたのでしょう。虫喰いが発生しそうな箇所の釉薬を窯入れる前に拭き取らせ、その部分に鉄薬を塗らせています。口縁部分の虫喰いを補うための取り組みが、胴紐にも施され、一歩進んで装飾として利用されています。【色絵古九谷草花文八角端皿】 明国の滅亡によって、従来通りの生産が困難になった景徳鎮から、多くの陶工が伊万里に流入したと考えられます。先の祥瑞の茶碗でもご説明した鉄釉を塗って虫喰いを補う技術が古九谷様式のうつわに見られるようになります。伊万里では素地と釉薬の収縮率に差が無いため、虫喰いが発生しないことにすぐには気づかなかったのでしょうか。それとも鉄釉を使った装飾が流行していたのかもしれません。左上:柿右衛門手見込み獅子絵鉢 右上:柿右衛門手見込み盆栽皿手前:柿右衛門手生垣文膾皿 柿右衛門様式の染付は藍九谷の染付のうつわに比べて、磁器の白さを際立たせるように、余白を上手く活用した構図が考えられています。その白さも純度を増したようで、鉄粉が付着した黒子のような景色も見られなくなります。染付の藍色もご覧の写真のように透明感のある澄んだ色になり、その濃淡を使い分けて表現豊かになっていきます。絵画的でやや重厚な絵付けを好んだ古九谷様式より図柄も洗練されたものとなります。周囲や裏側に描かれる繰り返し模様(パターン模様)の種類も増え、その凝った意匠を描くための労力を惜しまない姿勢は最上級の焼物に挑戦するかのようで、特に染付には日本人好みを追求した図柄を研究した様子が窺えるようです。 このように古九谷様式が開花することで、一気にその魅力を高めた伊万里ですが、さらに焼物としての完成度が頂点に達する時代に入っていきます。その販路も日本国内からアジアへ、さらに欧州へ広がりをみせ、それぞれの顧客の要望に合わせた焼物の開発もされるようになります。それが古九谷様式の進化だけに留まらず、柿右衛門様式・鍋島様式・古伊万里様式を誕生させて行くのです。 やがて古九谷様式は主役の座を他の様式に譲って1690年頃に終焉を迎えます。伊万里の歴史を振り返ると、古九谷誕生から17年代前半の柿右衛門様式・鍋島様式・古伊万里様式が展開される時期は、伊万里が最も芸術性の高い焼物を世に送り出した時代でもあったのです。 この先どのように伊万里が進化していったのか、またどのように茶の湯道具や懐石のうつわから距離のあるうつわになっていったのかを、次回お話させていただくことにします。伊万里焼と古九谷焼6へつづく
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BLOG京のとろみ
2022.01.27
「カリル」の月替りカレー
この一年半、毎月欠かさず通っている飲食店がある。私は新店を開拓するというよりは同じ店に通うタイプではあるが、一年半に渡り毎月欠かさず通うという店はそんなにはない。京都第二赤十字病院の東側、新町通りに面してある、京都カレー製作所「カリル」がその店。毎月行く理由の一つが月替りカレーだ。チキンカレーやポークカレー、ビーフカレーなどのレギュラーカレーに加え、月替りカレーが存在する。レギュラーメニューのカレーもどれも美味しいのだが月替りがあるので月に2回以上行かなければレギュラーを食べることができない・・・笑2022年1月の月替りは念願のカツカレー!カリルはスパイスカレーの店なのでルーのとろみはサラッとしている。カツカレーといえばどろりとした欧風カレーのイメージが強いが、カリルのカツカレーは見事にスパイスカレーだった。生卵を全卵トッピングすれば卵のとろみとサクサクのカツが絡み合い、なんと言うか最高になる。今年も通い続けることになるカリルの月替りカレー。どんなカレーが登場するのか楽しみで仕方ない。今年は月2回以上行くけるよう、機会を増やしレギュラーメニューもいただこう!
ハリー中西
料理カメラマン
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BLOG割烹知新〜奇想の一皿〜
2022.01.26
ぎをん福志「スプリングロール(北京ダックの味わい)」
ぎをん福志「スプリングロール(北京ダックの味わい)」ご出身は青森県。関東で10年の修業後、『たん熊北店本店』で長らく料理長を務め、2017年に独立。花見小路から少し西へ入った閑静な通りに、茶室を思わせる数寄屋建築の日本料理店を構えました。熟練の手つきでカウンター仕事をこなしながらも、柔和な笑顔を絶やさない福士さん。卓越した料理の腕前はもちろん、その真摯な人柄が多くのファンを惹きつけてやまない料理人です。発想秘話寒さの本番はまだまだこれからですが、和食のお膳には一足早く春が到来しています。そこで旬の食材を使った春らしい一品を作ることにしました。春巻のことを英語で「スプリングロール」といいますが、今回は実際に「春を巻く」ので、ダブルミーニングにもなっています。「北京ダックの味わい」という一言は、白髪ねぎや特製味噌を添えた北京ダック風の演出を表現したもの。和でもなく、洋でもなく、かといって中華でもない。そんな、福志流の新しいお料理に仕上げたいですね。メイン食材は脂の乗った真鴨。そこにせりや京菊菜といった旬の野菜を合わせます。今の真鴨は旅立ちを前に栄養をたっぷり蓄えた状態で、脂がしっかり乗っています。合鴨に比べると小さいですが、クセがなくて味が濃い。火入れをしても固くならず、天然ならではの弾力が楽しめます。今日はそんな真鴨の「赤身のおいしさ」をしっかり感じてもらえるよう、食感にもこだわっていきたいと思います。水かきが付いた状態の真鴨を、細かいパーツに切り分けていきます。これから使うのはロースの部分。いわゆる「ささみ」や「もも」は使いません。はじめはミンチにしようかとも思いましたが、やはり真鴨ならではの食感を残したくて、ロースをそのまま使うことにしました。ロースを切り分けるときに注意しないといけないのは、皮(脂)部分の処理です。加熱すると結構大きく縮みますので、それを見越して適切な量を残さないといけません。切り過ぎてしまうと、焼き上がりがどうにも不細工になってしまいます。フライパンでロースの皮目をパリッと焼きます。出てきた脂を取りながら焼くのは、焼き色を均一にするため。このように身をフライパンに圧しつけながら焼くと、反り返らずに美しく仕上がります。この秘密兵器ですか? 鴨だけでなく、鳥を焼くときにも使います。皮がお好きじゃない方も、皮目を揚げたようにパリッとさせると喜んでくださいます。皮が身をしっかり覆っています。成功です(笑)。焼きあがったロースは、すぐに氷水をはったボウルへ。余熱で火が通り過ぎるのを防ぐためです。氷水で締めたロースを合わせ調味料と共に真空パックし、70℃で25分加熱調理します。ローストビーフのように、少しレアっぽさが残る感じに仕上げます。そのまま一晩寝かせ、肉に下味がついたら鴨の準備は終了です。ここでは「ちょっともの足りないくらい」の味に留めておくのがポイント。召し上がる際に別添えの味噌を使い、好みの味に調味してもらいます。別添えでお出しする味噌は、風呂ふき大根などに使う自家製の赤味噌に、甜面醤や豆板醤、みりんなどを加えたもの。焦げ付かないようかきまぜながら10~15分加熱し、水分を飛ばしてまろやかな味に仕上げます。白ねぎや根菜類は青森から取り寄せたもの。寒冷地で育つため、水分量が多く瑞々しい。繊維が細かく甘みが強いので、生でも「辛っ!」とならない。ねぎの断面を見てください。幾重にも巻いているでしょう? 西日本産ねぎの2~3倍は巻いています。これで白髪ねぎを作ります。11月後半から出回り、年内には収穫が終わってしまう京菊菜は、クセが少なくそのまま生で食べられる京の伝統野菜です。今回はサンチュのように包み野菜として使うので、少し大きめに切りそろえます。水分をしっかりふき取った鴨を1センチ幅にカットします。一緒に巻くせりも、同じくらいの長さに。野趣あふれる真鴨にさわやかな和のハーブを合わせることで、鴨のおいしさがより強く感じられるはずです。市販の春巻の皮に大葉、鴨肉、せりを乗せて巻き、油で揚げます。せりはそれぞれ味わいの異なる葉の部分、中間部分、根に近いところ、すべてを使います。大葉を敷くのは鴨を油からガードするため。鴨の赤い色をなるべく損なわないよう、そしてパリッとした春巻ならではの食感を楽しんでもらえるよう、野菜の量を調整しながら巻いていきます。中までしっかり火を通す必要はありませんが、温度が低いと春巻が油を吸ってしまうので、170~180℃で1分半くらい。きつね色にからりと揚げて完成です。いかにも春らしい色合いになりました。仕上げにパルミジャーノレッジャーノを雪のようにこんもり乗せて完成です。梅が描かれた三浦竹泉さんの祥瑞に盛り付けましょう。味噌は山椒風味と柚子風味の2種類を用意しました。ふっくらと瑞々しい菊菜で春巻と白髪ねぎ、パルミジャーノを包み、お好みで味噌を。かぶりつくと、パリッと小気味いい音をたてる春巻から、肉々しい弾力の鴨やさわやかなせりが顔をのぞかせます。力強い味噌が軽く下味のついた鴨ロースと調和して......点心というよりは、メインディッシュの満足感が得られる一皿ではないでしょうか。新しいことへの挑戦ですか? もちろん常に考えています。僕だけでなく、日本中の料理人の創意と工夫によって、日本料理は日々進化し続けています。温故知新的に古いものを焼き直す場合もありますし、フレンチやイタリアンからヒントをもらうこともあります。うちでも例えば、柔らかく煮た鮑を肝ソースとパルミジャーノレッジャーノで召し上がっていただいたり、(こっぺ蟹の)香箱にジュレ酢をかけて蒸してみたりと、決して伝統的とは言えない料理もお出ししますしね。日本料理の進化を感じてもらうために、あえてそういったお皿も織り交ぜているわけです。とはいえ、それらはコースの中で1品、ないし2品に限ったものです。かぶら蒸しだったり、松葉蟹だったり、その時季にしか食べられない「福志の〇〇」を楽しみに来られるお客様に、変化球ばかり投げるわけにはいきません。それに、あまり変わったことをやろうとしても、結局は日本料理の王道に近いところに戻っていくという側面もあります。どこまでならOKなのかーそのぎりぎりの見極めは、長いキャリアの中で自然と培われたもの。今回の春巻にしても、中華やイタリアンの調味料を使いながらも、最終的にわけのわからないものにはなりません(笑)。脇道にそれるような「ぶれた仕事」をしようとしても、出来上がったものはちゃんと自分の料理になっている。ですから安心して、新しい日本料理を味わいにきてください。 写真:ハリー中西 取材・文:鈴木敦子■ぎをん福志京都市東山区祇園町南側570-120075-354-531412:00~、17:30~(19:30最終入店)日曜、第2・4月曜休(月1回不定休あり)
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