食知新ブログ
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BLOGうつわ知新
2021.11.30
伊万里焼と古九谷焼3
9月末~4回ほどは「伊万里焼と古九谷焼」について。3回目は、古染付と伊万里焼との製作技法の違いについてのお話しです。「伊万里焼と古九谷」の物語をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。伊万里焼と古九谷焼3【古染付の縁に見られる虫喰い(17世紀前期)】素地と釉薬の収縮率の違いによって生じる口縁部の釉の脱落。本来は欠点であるはずの現象が、400年前の数寄者たちには佗びていると喜ばれました。まるで、現代人がダメージジーンズや古着をイケてると思う感覚です。【伊万里古九谷様式の口紅(17世紀後期)】【古伊万里の口紅(1700年前後)】陶工たちにとって、虫喰いはいつかは克服しなければならない問題だったのでしょう。好き嫌いは一旦脇に置いても、虫喰いの無い口縁部分はスッキリして、うつわが上品に見えるようです。先にお話したように、1640年代になると中国人技術者が伊万里で活躍をはじめると言いましたが、そのことを示す証拠は伊万里の作風にありありと残されています。中国景徳鎮から日本に大量に輸入された、古染付と呼ばれる磁器には克服のできない欠点がありました。それは虫喰いと呼ばれ、うつわが欠けたようにも見える、ガラス状の上釉(うわぐすり)の脱落です。これは人が誤ってうつわを欠けさせたのとは違って、磁器を焼成した後の冷却中に発生する現象です。明末期で活動休止間近の景徳鎮では、虫喰いを回避するためにうつわの口縁部分などの脱落が発生しそうな部分の上釉を窯に入れる前に拭き取り、代わりに鉄釉を塗るという方法を採用しています。日本人が特に好んだ祥瑞などにはその技法がよく見られます。ところが伊万里では釉薬と生地の収縮率に大きな違いがないために、単純に焼き上げても虫喰いは発生しません。一方、中国人の技術者たちは伊万里においても景徳鎮と同じように虫喰いが発生することを当然と考えていたために、1640年代以降の伊万里のうつわの縁に盛んに鉄釉を塗るように伊万里の陶工たちに指導したのだと考えられています。その後この技法は口紅と呼ばれ、うつわの装飾法として現代でも使われています。【うつわの中央部にトチンによる盛り上がりが見える/伊万里古九谷様式(17世紀後期)】高台中央部にトチンを立てた効果があって、中央部がくぼもうとするのが抑えられているのがよくわかります。このうつわは極端に薄く作られ、なおかつ平坦な部分を広く取られているため、トチンなしでは皿の形状は保てなかったものと思われます。【高台中央「福」の字の中にトチン跡が見える】上の皿を裏側から見ると、中央の福の字の中にトチンの跡が小さく残されているのが分かります。このように、中央にトチンを置くと、高台内の装飾と重なってしまうケースも多々見られます。さらに中国と伊万里の胎土の性質の違いによって考え出された新技術についてお話ししましょう。伊万里に用いられた胎土は、中国景徳鎮の胎土に比べ、コシがないために窯の中で変形しやすい性質を持っていました。そのため、古染付のうつわのように、高台を広くして、うつわを平らな皿のような形に仕上げようとすると、高台中央部分が重さに耐えられず凹んでしまいます。こういった特徴から、なかなか製品として納得できるレベルには至りませんでした。景徳鎮では気に掛ける必要がなかったこの問題に、中国人技術者たちは悩まされたことでしょう。それを解決するためには、初期伊万里と同じようにうつわの中心部に厚みを持たせ高台を小さくするしかありません。そこでトチンと呼ばれる小さな支柱を高台内に立てて焼くことによって、うつわの中央部の陥没を防止する技術を考え出します。1640年頃以降の高台が広い円形の丸皿には、高台内に焼成後に小さな柱を外したトチン跡を発見することができます。これは伊万里独自の画期的な技術だったのです。ただ、このトチンと高台内に記されている福などの文字等が重なって見苦しくなることも頻繁に見受けられます。【古伊万里のトチン跡(1700年代前期)】【伊万里のトチン跡(1800年代中期)】トチンの配置の仕方も研究が進み、複数配置されるようになっていきます。その反面、先の古九谷様式の皿の様に、なるべくトチン跡を隠すために福の字を描いたり、トチンのサイズを最小限に収めようとする努力は緩んでくるように思います。後世では更にトチンを目立たなくしようとする気遣いは失われていくようです。トチンを発明したことは伊万里をより進化させていきます。中国製の磁器の裏面に見られる、砂が付着した砂高台という景色を皆さんはご存じでしょうか。うつわにかけた釉薬が焼成中の窯内で垂れ流れて、窯の底面とうつわが溶着してしまうことを防ぐため、窯の床に砂を撒いていたことを物語るものです。また焼成時にうつわが何割か収縮しようとするときの動きを妨げない役目もありました。しかし、高台付近に多く付着した砂は見栄えが悪く、食事の時に使う漆器の折敷(おしき)を傷つける厄介者でしかありません。初期伊万里の段階では高台付近に砂の付着が見受けられますが、トチンを発明して以降の伊万里では、うつわをトチンによって床面に接触させないことにより、砂を撒くことから解放されていきます。このことによって、高台付近に砂を付着させないだけに留まらず、より一層、高台を美しくしようとする意識が生まれました。畳付き部分の釉薬の削りや拭き取りも一段と丁寧に行われ、高台に櫛目の模様などを描いて装飾を行う習慣が生まれていきます。これは私が感じているだけに過ぎないかもしれませんが、伊万里は古染付と比較して釉薬を薄く、丁寧にかけているように見えます。それもこのトチンを発明し、高台周辺を美しく見せようと進化を遂げたことに続く努力の結果のように思えます。【古染付の砂高台(17世紀前期)】この古染付の高台への砂の付着は極めて少なく、高台の中に砂が混じっている程度です。しかし、時には大量の砂が付着して折敷やテーブルを傷つけることへの気遣いが必要なこともよくあることです。この砂の付着についても、景徳鎮の窯においては時代が進むとともにできるならば少なく抑えたいという努力の跡が見られるようです。【古伊万里の高台周りのきれいさ(1700年代前期)】景徳鎮のうつわの高台周りに対して、初期の伊万里の段階では同様に砂の付着も見られましたが、1640年以降の伊万里に関しては砂が付着せず、同時に高台の畳付き部分の削りなども端正に、美しさを求め始めたような気がします。最後に、初期伊万里に見られる大きな特徴として、生掛けと呼ばれる技法があります。粘土を成形した後、日陰にて乾燥をさせ、その後、今では当たり前に行われる素焼きという工程を行わずそのまま絵付けをし、釉薬をかけ、本焼きを行うことを生掛けといいます。伊万里の胎土は、陶石を粉末になるまで砕いて水を加え、粘土としただけのものなので、自然乾燥させても、不注意に扱うと崩れてしまう危うさを持っています。ましてや、自然乾燥では内部に水分が残り、呉須を用いて絵付けをする時も、その水分のために呉須の吸い込みが悪く筆が良く滑り、大胆な筆遣いには向いていますが、細やかな模様を描くのには向きません。そのため、初期伊万里の頃の絵付けはざっくりとした水彩画のようなのです。こうして絵付けの後、釉薬を施すわけですが生地がたいそうもろいために、高台周辺の頑丈な部分を持って釉薬をかけていました。その結果、高台周辺に指跡が残ってしまい、これが初期の伊万里の特徴の1つとも言われています。そしてここに素焼きの技術が導入されていきます。粘土を思いの形に成形し、日陰での乾燥を経て、低い温度の窯で一旦焼成するのです。この作業を行うことで、もろかった生地から水分が抜けて焼き締ります。その結果、絵付けに使う染料の呉須の吸着が強くなり、釉薬をかける作業もうつわの破損にそこまで気を使うことなく、楽に行うことができるようになったようです。【上:生掛けで描かれた古染付のうつわたち(17世紀前期)、下:素焼きの後に絵付けをした古伊万里のうつわ(1700年前後)】上下二つの写真を比較して、皆さんはどちらがお好きでしょうか。生掛けでの絵付けは下書きもなしにいきなり絵付けを行ったように、荒っぽいながらものびのびと力強く描かれています。その反対に下の写真は、素焼きを行った後に絵付けをした伊万里です。素焼きをして焼きしまったうつわは、絵付けの際の取り扱いも気遣いがいらず下絵なども用いて計画的に書き込みが行われたことが見て取れます。染付の濃淡もはっきり使い分けて端正な表現が際立っています。このように、アジアの歴史の流れ、磁器の製造技術の進歩があって、初期伊万里と呼ばれた時代を抜け出し、やがて古九谷様式と呼ばれるうつわを生み出した伊万里の陶工たち。かれらにとって、この1640年頃の出来事は現代に続く大きな転換期であったことが少しはご理解いただけたでしょうか。詳しく書けば読みにくくもなる事は理解しています。しかし日本の陶磁器にとって桃山からこの江戸初期はその礎となる時代です。ゆっくりお読みいただき、理解を深め、今後の伊万里の展開をお楽しみいただければ幸いです。伊万里焼と古九谷焼4につづく
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BLOG京都美酒知新
2021.11.27
カクテルが飲みたくなる話「サイドカー」
■西田稔(にしだみのる) 京都木屋町二条「Bar K6」、「cave de K」、「keller」のマスターバーテンダー。2020年開業の「ザ・ホテル青龍 京都清水」内の「Bar K36」を監修。自らもカウンターに立つ。京都生まれ、同志社大学卒業後、東京のバーで経験を積み、1994年に「Bar K6」を開業した。シャンパーニュの将校、グラッパの騎士、クリュッグアンバサダー、ウイスキーコンテスト審査員サイドカーカクテル言葉「いつもふたりで」「サイドカー」の名前の由来には諸説ありますが、現在ではふたつの説が有力候補として挙げられています。そのひとつは、第一次大戦中のフランス軍・将校に由来しているというもの。大戦中に劣勢に陥ったフランス軍。兵士たちに戦場からの退去を命じますが、ある将校がその時に乗っていたのがサイドカーで、彼は恐怖を紛らわせるためにレモンをかじりながらブランデーとキュラソーを飲んでいたそうです。もうひとつは、パリのバー経営者によって名付けられたという説。このバーにはサイドカーに乗ってやってくる常連客がいたそうです。この客のためにバーの経営者がつくったカクテルを「サイドカー」と名付けたとか。レモンジュースやオレンジジュースも入って柑橘系の爽やかな香り、口当たりもよく女性に人気のカクテルです。カクテル言葉は「いつもふたりで」。大切な人への告白にぴったりのカクテルかもしれませんね。カクテルレシピポールジロー 40mlコアントロー 12mlレモンジュース 15mlオレンジジュース 10ml11月のウイスキーデュワーズ ホワイトラベル1981年のニューヨーク。デュワーズブランドの創設者のひとりトミー・デュワーは友人とウイスキーを愉しもうとサロンへ行ったそうです。そところがそこで出されたグラスが小さかったため、トミーはウエイターに「もっと背の高い(hight)グラスにしてくれないか。そうすればもっと楽しめる(have a ball)」と言いました。その瞬間にhightとhave a ballがかけ合わさって、ハイボールという呼び名が誕生したと言われています。ハイボールの起源は、ここにあったのですね。「ホワイトラベル」は、1899年に初代マスターブレンダーのA.J.キャメロンが手掛けた長年愛されるブレンデットスコッチウイスキー。スムースな味わいと華やかな香りはハイボールに最適です。デュワーズ/バカルディ社デュワーズは、1846年にジョン・デュワーによって製造がはじめられたウイスキーです。息子のトミー・デュワーは巨大なネオンや映画などを利用した大規模なキャンペーンで、デュワーズを世界的なウイスキーブランドに押し上げました。スコッチの中でも世界屈指の人気を誇り、スコッチウイスキー消費大国アメリカでは、大きなシェアを占めています。世界有数の酒類メーカー・バカルディ社の主要ブランドの一つです。バカルディは、世界で最も売れているプレミアムラムのブランドから、蒸留酒全般を扱う世界最大級の非上場の蒸留酒会社へと変貌を遂げました。1993年のマルティーニをはじめ、スコッチウイスキーのデュワーズ、ジンのボンベイ・サファイア、ウォッカのグレイグース、テキーラのカサドレスやパトロンといったブランドを獲得。ラインアップの拡充のみならず、流通面も強化してきました。バカルディ社HPより■Bar K6京都市中京区木屋町二条東入ル ヴァルズビル2F075-255-5009撮影:ハリー中西
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BLOG京のとろみ
2021.11.26
「銀の塔」のビーフシチュー
1955年、東京銀座でオープンしたシチュー専門店「銀の塔」パリ「トゥール・ダンジャン」のレシピを受け継ぐシチューはパリの味と絶賛された。その「銀の塔」の唯一の暖簾分けの店が長年にわたり京都祇園にあったのだが、2020年5月、ビルの老朽化により惜まれつつ閉店となった。そんな折、40年来の付き合いのある「ミートショップMARUTAKE」の主人が、「うちでやらないか」と声をかけ同年9月MARUTAKE内でオープンした。店頭にかかる祇園時代の「シチュー専門店 銀座 銀の塔」の看板が誇らしい。ミートショップMARUTAKEは竹屋町通り烏丸を東に進んだ所にあり、2008年頃に「麺屋◯竹」と言う名でラーメンフリークを虜にした店だ。ラーメン好きの私も週に2−3回通っていた。もう一度、あの魚出しのラーメンを食べたいと常々思っている。ここのシチューは見た目とは裏腹にスッキリとしている。甘さを抑えた酸味が心地よい。赤ワインとベストマッチするのは当然だが、シチュー定食には、ごはんと漬物が付いてくる。和風だしを使ったシチューだから、ごはんや漬物との相性が抜群である。シチューの牛肉と漬物で最初のご飯を食べてからおかわりご飯は土鍋のソースの中に投入するのがオススメだ。
ハリー中西
料理カメラマン
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BLOG割烹知新〜奇想の一皿〜
2021.11.17
悠々「子持ち鮎のコンフィ 秋の実り」
悠々「子持ち鮎のコンフィ 秋の実り」北大路から鷹峯へと移転した人気割烹『おたぎ』跡に2019年オープン。聞けば、『おたぎ』の馬場一彰さんと下田さんは『和久傳』時代の先輩・後輩の間柄だといいます。長年、日本料理の名店で働いてきた下田さんですが、ひとりで切り盛りする自店のメニューには白味噌仕立てのタンシチューや熊、猪といったジビエ、鴨肉の麻婆豆腐など、日本料理の本流から少し外れた品書きも。決まりごとに囚われない自由な発想で、その時々のおいしいものを食べさせてくれる、心弾む一軒です。発想秘話うちはどちらかというとアラカルトで楽しんでもらう店なので、新しいメニューを一から考えることが多いんです。和の王道を行くような料理ばかりではお客さんも飽きてしまうし、そういう料理は他所でも食べられますしね。それならいっそ、うちにしかないメニューを楽しんでもらいたい。そんな気持ちで考えたのが、季節の魚をトーストでサンドした「刺身サンド」や今日ご紹介する「子持ち鮎のコンフィ」なんです。どうです、おなかのあたりがぱんぱんでしょう? 今(11月初旬)はちょうど子(卵)がみっちりと詰まっている時期。若鮎はオーソドックスな塩焼きで召し上がっていただきますが、若鮎のシーズンが終わると子持ち鮎のコンフィに切り替えます。一尾100g前後でしょうか。お一人で食べ切るにもちょうどいいサイズだと思います。まずは鱗の処理からです。全体がかなり細かい鱗で覆われているので、丁寧に鱗を取っていきます。この手間を省くと味が全然入らないんです。一度忘れてエラいことになりました(笑)。 なのでここは一尾ずつ丁寧に、しっかりと処理します。一般的なコンフィはハーブで風味付けをしますが、今日は香味野菜の生姜と粉山椒を使います。バットにスライスした生姜を並べ、全体に塩と粉山椒を振ります。そこに先ほどの鮎を敷き詰め、さらに生姜スライスを乗せ、塩、山椒をまんべんなく振りかけます。この状態で一晩置くと、鮎の身や卵から水分がどんどん出てきて、翌朝にはびしゃびしゃになっています。丁寧に水分をふき取り、コンフィ用の鍋に移します。鍋の底に鮎がくっつかないよう、ここでも鮎の下に生姜を敷きつめます。コンフィに使う油はこめ油。一度、オリーブオイルでも試してみたのですが、「うわ~フレンチやなぁ」という仕上がりになってしまいました(笑)。こめ油はオリーブオイルのように香りも強くないですし、すっきりと軽い感じに仕上がります。ひたひたに油を注ぎ、山椒の実を散らして加熱します。山椒油で煮込むイメージですね。スペースの都合上、厨房にオーブンが置けないため、直接鍋を火にかけて調理するのですが......直火なので温度調節がとても大変です。鮎が鍋底にくっつかないよう時々動かしながら、ほぼ付きっ切りで約6時間。90℃前後をキープしながら煮ていきますが、80℃を超えたあたりからおなかが割れてきます。この時、おなかが派手に爆発するのを防ぐためにも、事前にしっかり水分を出しておくのがポイントです。90℃で6時間煮込んだ鮎がこちらです。最後にグリルで軽く焼き、余分な油を落としてやります。時間にして3分くらいでしょうか。香ばしく焼きあがった鮎を、ふっくらと温かい状態でお出しします。断面はこんな感じです。口に入れても骨が全然当たらないくらい柔らかくなり、丸ごと食べられます。栗、銀杏、さつまいものチップスで秋らしく盛り付けて...「子持ち鮎のコンフィ 秋の実り」の完成です。鮎のコンフィ自体は割とポピュラーなメニューですが、おなかが破れやすいため、子持ち鮎を使うレシピはあまり見かけません。でも子持ちならではのぷちぷちとした食感が楽しいんですよね。うちでは「刺身サンド」よりずっと人気があります(笑)。お酒と一緒に召し上がるのもいいですが、白ごはんにも合いますよ。長く務めた『和久傳』の創始者・桑村綾さんは、繊細で伝統的な「いかにも京料理」然とした料理があまりお好きじゃありませんでした。綾さんは「おいしいもんを『ぼん』と出せばええんや」という明快なポリシーを持っておられて、僕もその思いに共感しています。和久傳以外の日本料理店でも修業しましたが、最初に料理を教えてもらった吉兆出身の料理人も、しきたりや型に囚われない柔軟な方でした。そんな先輩方の影響もあり、「おいしかったら何をしてもいいんじゃないか」と思ってしまうんです。料理のアイデアですか? やはり食べに行った先でヒントをもらうことが多いですね。もともと「料理人になったら自分でおいしいものが作れるな」と思ってこの道に進んだくらいなので、「おいしい」と聞いたらすぐに足を運びます。あまり堅苦しく考えず、いろんなものからアイデアを得て、自分の料理に生かしていきたいですね。撮影 鈴木誠一 取材・文 鈴木敦子■悠々京都市北区小山北上総町8075-493-337311:30~12:30入店(水・金・日・祝、コースのみ)18:00~21:00入店月曜定休
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BLOG京の会長&社長めし
2021.11.16
荒川株式会社の社長が通う店「京料理 およね」
■荒川 慶一(あらかわ けいいち)さん荒川株式会社 代表取締役社長1972年京都生まれ 東京育ち荒川株式会社は1886年創業。全国の百貨店で、和装小物や和にまつわる様々なものを扱う「さんび」と、パジャマとリラクシングウェア「Amour」「arakawa1886」、ライセンスブランド「PAUL & JOE」「DAKS」LIBERTY PRINT」「mila schon」「Paul Stuart」「MOOMIN」などを展開する。室町綾小路の京都本社の一階に、祖業の半衿専門店「荒川益次郎商店」と和小物の店「さんび堂」を運営している。店選びの基準は、プライベートでも接待でも楽しい時間を過ごせる店。最後の晩餐は、あん肝と度数高めの日本酒。細工も美しい八寸が人気。3代目主人が旬の素材で織りなす京料理を選り抜きの日本酒と「小学校時代の同級生がやっているお店で、本格的な京料理をおまかせコースで出しています。季節の野菜をしっかり取り入れているところが気に入っています。接待や先輩経営者の方との食事などで利用することが多いですね」(荒川さん)地下鉄四条駅から5分ほど。話題の飲食店などが集まる人気のエリア・綾小路通で昭和2年から営んでいるのが、「京料理 およね」だ。荒川さんの友人で3代目主人の中島弘道さんは、女将である母の悦子さんと主に二人で店を切り盛りしている。昔ながらの京料理に現代風の趣向も加えた季節の献立が常連客や観光客に好評で、女性の一人客の利用も多いという。「本当にオーソドックスな京都の料理屋さんという感じ。接待でも相手の方と親密になりたい時に利用しています」(荒川さん)京都らしい風情の落ち着いた店内は、1階に7席のカウンターと掘りごたつの部屋が一つ、2階はテーブルの個室3部屋がある。中島さんの代になり、看板を掲げて一般のお客にも来てもらうようになったが、もともとは接待を専門とする店で、室町の呉服関係など地元企業や団体と契約して料理を提供していたそうだ。「丸紅さんが京都にできた時、自社に来客用の食堂をつくるから、そこに入ってくれへんかと言われて専属で入るようになったんです。昼間はうちが食堂で料理を出して、夜は丸紅さんがここにお客さんを呼んで、接待されていました」と、中島さん。荒川さんが地元の小学校に通っていたのもそんな時代だ。「僕は中学から東京に行ったので、京都には小学校卒業までしかいなかったんです。小学校は1クラスしかなく6年間皆ずっと一緒で、仲が良かったですね」と荒川さん。中島さんとはよく互いの家に遊びに行ったという。「いろいろ遊びに連れて行ってもらったし、お母さんにもお世話になりました。僕は結構偏食だったんですが、おやつに出してもらって苦手なスイカが初めて食べられるようになったのをすごく覚えています」中島さんも、「ガク(荒川さんのあだ名)の家の裏に空地ができたので、皆で放課後、秘密基地を作ったりして遊んでいましたね」と思い出を語る。荒川さんがお客として初めて訪れたのは、京都に戻ってまもなくの25年ほど前。「今の妻と一緒に行ったと思います。美味しかったんですが、まだ大学を卒業したてで、あれっ、こんな高級な店だったの?と驚きました(笑)」と、荒川さん。いつもはカウンターで、中島さんたちと他愛もない話をしながら食事を楽しむという。「このへんをふらっと歩いていて出会って、『ああ、久しぶりやな』となって。それからちょくちょく来てくれるようになりました。カウンターでちょろっと食べて飲んで、『ほな』って言って帰る。そんな感じですね」(中島さん)「京都の食材を丁寧に調理して食べさせてくれるので、皆さんに喜んでもらえます。彼は一見チャラい感じですが(笑)、料理に関してはすごく真面目です」(荒川さん)中島さんは、京都で料理の修業を積んだのち、二十数年前に家業に入った。代々の味に中島さんの色が加わった料理は、繊細な細工野菜をはじめ美しい盛り付けにも定評がある。「父がやっていたのは枯れた料理が多かったから、もう少し華やかにしたいなと。うちの店には庭がないので、料理で庭を表現できたらと思ってやっています」(中島さん)昔から信頼関係のある錦市場の八百屋や魚屋から主に食材を仕入れ、その時々の美味しい旬の素材をコースに盛り込む。ここには一品もあるが、荒川さんたち常連の大半はおまかせを頼むという。中島さんの料理を象徴するのが、荒川さんお薦めの季節の味覚が詰まった八寸だ。箱庭に見立てた華やかな八寸は、最初に必ず出される名物的な一品。写真は秋の一例。温泉卵の味噌漬けの柿仕立て、からすみ、鴨ロース、菊かぼちゃ...などなど、一つひとつ手間をかけて手作りされた料理は味わい深く、満足度が高い。「この八寸を食べたくて来られる方も多いです」と、悦子さん。「野菜の炊き合わせも好きですね。細工された野菜が美しいです」(荒川さん)写真は10月~11月の「小かぶの旬菜鋳込み 菊花あん」。小かぶを箸で割ると、中から野菜や生麩が顔をのぞかせる。鮮やかな錦秋を思わせる一椀だ。「京料理は野菜を使ってなんぼ」という中島さん。野菜の扱いには特に思い入れが強い。定番料理にも一工夫施し、ここならではの味に仕立てている。希少なものにも出合える地酒は獺祭など定番3種に、旬の料理に合わせた5種が揃う。「彼は利き酒師で日本酒に詳しいので、おまかせで出してもらいます」と、荒川さん。ここでは20年ほど前から料理に合わせて日本酒を提供している。長く接待の店として多くの人をもてなしてきた同店。中島さんは、お客の顔を見て年齢や体調などを考慮し、素材の切り方を工夫したり、料理の内容や出し方を変えたりと、臨機応変に料理を提供しているという。ただ、そうしたきめ細かな気配りも、TPOに合わせた雰囲気作りも、当たり前のことをしているだけと話す。「彼もお母さんもこちらの都合もわかってくれているし、それに合わせた対応もしてくれる。それは簡単なようで簡単なことじゃないので、安心できますね」と、荒川さんも確かな信頼を語る。「お客さんには、笑って楽しんで帰ってもらえたら」と、中島さん。さりげなく温かいサービス、明るく気取らない人柄もファンの心をつかんでいるようだ。予算は食べて飲んで1万5千円~2万円程度。これからの季節は、甘鯛のみぞれ鍋やカニ料理がお薦めだ。撮影 竹中稔彦 文 山本真由美■京料理 およね京都市下京区綾小路通り高倉西入る神明町230075-351-2849営業時間 18時~22時定休日 日曜http://oyone.com/
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BLOG料理人がオフに通う店
2021.11.10
「太郎屋」-「焼肉 文屋」岩村文植さんが通う店
「焼肉 文屋」岩村文植さん(右)梅小路公園の七条通に面した「焼肉 文屋」は2009年11月オープン。実家の料理店の手伝ったことから料理の道を目指した主人の岩村さんは、有名ホテルの名門中国料理店で修業し、四川・北京・香港料理など、中国料理を幅広く習得した。独立を考えた時、まず自分が大好きな料理を提供したいということで、「焼肉店を開きました(笑)」。家族や友人同士、みんなでワイワイとリラックスして旨い肉を楽しんで欲しいと日々、仕入れから調理まで力を尽くしている。気取りがなくて、賑やかな店はいつも笑顔で溢れている。今は新展開として、得意の中華料理の新しいスタイルのレストランの開店を企画進行中だという。「裏路地にあるいい店があると信頼できる知人から聞いて『太郎屋』さんに伺うようになりました。忙しく喧騒な日々から少し抜け出したい時や、日常とギャップを感じたい時に気のおけない友人と一緒に行きます。女将の人柄、優しさが醸し出される手料理と、落ち着いた空間ながらも、心地よい躍動感があって、ほっとするんです。程よい距離感のある接客も寛げますし、つい長居してしまいます」いかにも居心地の良さそうなカウンター席。お一人様客も多い。 四条烏丸西入ル、さらに北側に上がったあたりに路地酒場が集まるエリアがある。最初の頃はポツンポツンと点在したいたが、いつのまにか飲食店が増えて、人気の食ゾーンに。その一角に、「太郎屋」と染め抜いた白い暖簾が掛かる。 暖簾を守っているのは、店主の杉本雪枝さん、長女の悠子さん、次女の瑠衣子さん姉妹だ。母娘3人がてきぱきと切り盛りして、アットホームな店はいつも常連客を中心に賑わっている。 「母がとても料理上手で、父がお酒好き。母の手料理で美味しいお酒は飲める理想の居酒屋をして欲しいと、父のたっての希望で30年前にこのお店を始めたんです。店名は父のニックネームからつけました」と姉妹は笑う。 父の母、つまり雪枝さんのお姑さんが料理の名手で、雪枝さんはおばんざいをはじめ、京の家庭料理をしっかりと受け継いだという。次女の瑠衣子さん(左)、長女の悠子さん(右)の笑顔ともてなしにほっとする。 リーズナブルな一品料理とお酒を気軽に楽しむ「サラリーマンの味方」というのが、創業以来のモットー。観光客の層も増えたが、その思いは今も変わらない。 素材選びも主婦目線。その時々の旬でお安くて美味しいものをたっぶり仕入れて、炊く、焼く、蒸す、揚げるなどさまざまな味わいに仕上げる。 「素材同士の出会いや組み合わせも大切。家庭料理がベースですが、そこはプラスα、うちの店らしさを一味添えるようにしています」 一品料理は500円〜でとてもリーズナブル。定番メニューのほか、日替わり料理を加えると60〜70種ほどの料理が揃う。 「らしさ」を大切にしているとのことだが、それをよく感じさせるのが、不動の人気を誇るのがポテトサラダだ。これは女将オリジナルの味わいで、何と玉ねぎを飴色に炒めることからはじめ、くったりと甘くなった飴色玉ねぎ、お芋さん、ハムを具材として合わせている。マヨネーズ2種を合わせるのも「太郎屋」らしさだろう。ポテトサラダ500円。まず頼みたい一品だ。こちらも定番のにしんなす。600円。なすは一度揚げておく。にしんは戻した出汁で炊き、なすも別で炊いておいて最後に合わせる。この一手間を惜しまない。 女将ゆずりの料理センスは季節感にも現れる。秋らしい一品、小かぶとカシューナッツと柿の和えものはまさに、今が旬の食材をピタリと合わせている。鉄錆を思わせる色合いの器に、秋の夕日を思わせる華やかな橙色がよく映えて、見るだけでもお酒を欲する仕立てはさすがだ。 「旬はすぐに過ぎてしまうので、短い間だからこそ、その季節を愛でながら味わっていただきたいと思います」小かぶとカシューナッツと柿の和えもの630円。色彩も素晴らしい。 出張で京都に来る人など一人客も多く、お一人さま用の5種盛り900円〜を用意してくれているのも嬉しい。料理のセレクトは基本お任せだが、苦手や好みなどきいて、上手に組み合わせてくれる。女性ならではの心づくしのサービスは、ほんとうにお母さんのいる家に帰ってきたような寛ぎを感じる。 日本酒1合900円〜(半合もある)。セレクトされた日本酒と季節の一品。仕事帰りに芯から癒されるひととき。日本酒は熱燗、冷酒、生のままなどお好みで。京都や灘をはじめ、全国の地酒をセレクト。 あれこれ一品を頼んで、お酒をちびりちびり楽しんだり、ご飯ものまでしっかり食べるのもよし。4950円〜で、飲み放題付きのお任せコース料理も用意してくれる。仕事帰りの一杯や懐かしい友との語らい、家族で食事会など、カウンター、テーブル、座敷など人数やTPOに合わせて、太郎屋のひとときを自由に楽しんで欲しい。 美しい器たちはほとんどが女将の雪枝さんの作品というから驚く。長年、作陶を続けてきたそうだが、今やプロ級の腕前といっていいだろう。女将手作りの器と京の家庭料理とお酒をゆったり楽しむとは、なんと贅沢なひとときだろう。 庭を眺める座敷席もゆったりとした寛ぎを感じさせる。 コロナ以前は大鉢料理をカウンターにずらりと並べて、お客が選べるようにしていたが、今は残念なことにそれはできない。世の中が落ち着けばそのスタイルを再開したいという。もちろん今も品数は変わらず、たっぷりの品書きから料理を選ぶことができる。 そうは言っても、自慢のずらりと並んだ大鉢料理の向こうに、女将さんと姉妹の笑顔が見える...。そんな日が待ち遠しい。 看板の文字に惹かれてふらり。暖簾をくぐればいつもの笑顔が迎えてくれる。■「太郎屋」京都市中京区新町通四条上ル東入ル観音堂町473075-213-3987営業時間 17:00〜23:00(LO 22:00)※現在はコロナ禍にてディナーは休業中。定休日 日曜・祝日(日曜は祝日の場合は営業、翌月曜休)予約ベター※営業については事前に必ず電話で問い合わせを。撮影/竹中稔彦 取材・文/ 郡 麻江
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BLOG京のとろみ
2021.10.29
「プチレストランないとう」のゴルゴンゾーラポークカツ
2001年 、河原町三条にオープンしたプチレストランないとう。当時はカウンター8席、たった4坪のレストランだった。横歩きしか出来ない細長いオープンキッチンで動き回る大きな体の内藤さん。この動きにくい狭い厨房で作られる「とんかつ」が絶品で、一発でファンになってしまった。豚汁、ごはん、漬物も本当に美味しい。とんかつが美味しすぎて、他にどんなメニューがあったのか覚えていない・・・笑そして、2004年に柳馬場夷川上ルに移転されるのだが。いきなり60坪に広がりカウンターは11席、座敷に2テーブル、その奥にはさらに蔵のテーブル席まで出来た。キッチンも以前とは比べ物にならないほど前後左右に広くなった。メニューの数もどんどん増えていき、この時に生まれたのが、ゴルゴンゾーラポークカツ。分厚いポークカツの中にたっぷりのゴルゴンゾーラチーズが仕込まれ、ナイフを入れるととろみのあるチーズが溢れ出てくる。このチーズと少し苦味のあるドミグラスソースが混ざり合い、赤ワインが止まらない。この一皿でワイン1本軽く空いてしまう。2019年、麩屋町二条下ルに移転された今もこのメニューは健在だ。現在はコース料理ではなくアラカルトで注文出来るので、ゴルゴンゾーラポークカツとワインだけというオーダーも可能だが他にも魅力的な料理がゴロゴロあるので一皿で帰るのはまず不可能だろう。前菜的な料理、メインの一皿、ひとくちカレーライス、たっぷりのお酒。これらをカウンターでいただくのが私の定番である。
ハリー中西
料理カメラマン
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BLOG京都美酒知新
2021.10.28
カクテルが飲みたくなる話「ギムレット」
■西田稔(にしだみのる) 京都木屋町二条「Bar K6」、「cave de K」、「keller」のマスターバーテンダー。2020年開業の「ザ・ホテル青龍 京都清水」内の「Bar K36」を監修。自らもカウンターに立つ。京都生まれ、同志社大学卒業後、東京のバーで経験を積み、1994年に「Bar K6」を開業した。シャンパーニュの将校、グラッパの騎士、クリュッグアンバサダー、ウイスキーコンテスト審査員ギムレットカクテル言葉「遠い人を思う」1980年ごろ、イギリス海軍の軍医だったギムレット卿が、将校たちが戦艦内で配給されるジンを飲み過ぎることを憂慮し、健康維持のためにライムジュースを混ぜて飲むことを提唱し、それがこのカクテルの起源だとされています。突き刺すような味わいから「ギムレット(gimlet)=錐(キリ)」と命名されたという説もあるようです。ギムレットというと、「ギムレットには早すぎる」という名台詞を思い起こされる方もいるのではないでしょうか?これはレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説「長いお別れ」のなかにでてくる台詞で、英語の原文は「"I suppose it's a bit too early for a gimlet," he said.」。主人公の探偵フィリップ・マーロウに対して友人のレノックスが言った言葉で、その後、二人の間には深い友情が育まれたそうです。作品の中には、「本当のギムレットは、ジンとローズ社の(コーディアル)ライムジュースを半分ずつ。ほかには何も入れない」とも書かれていて、甘口のカクテルだったことがうかがわれます。100年の時を経てなお愛されるのは、カクテルの味わいはもちろんのこと、これら背景にあるストーリーの魅力もあるのでしょう。甘いライムジュースを用いられることが多かったことから、女性でも飲める食前酒としてもてはやされました。けれど今、日本で好まれるギムレットは、その味と比べると、ずいぶんドライで男性的になっているように思います。「Bar K6」では、小説に登場するローズ社のライムジュースを使います。カクテル言葉は「遠い人を思う」。「ギムレットには早すぎる」、いつか言ってみたい台詞ですね。カクテルレシピエギュベルジン 45mlライム 2カットローズライムジュース 10ml10月のウイスキー山崎ミズナラ樽貯蔵モルトや、ワイン樽貯蔵モルトをはじめとした様々な山崎モルトが出合うことで生まれたのが、シングルモルトウイスキー山崎です。やわらかく華やかな香りに潜むイチゴのような香りは、ワイン樽熟成モルト原酒が、そして甘くなめらかな広がりはミズナラ樽熟成モルト原酒が加わることによって生まれるのです。ノンヴィンテージの「山崎」は、その若々しい風味を愉しむためにも、水割りかロックで味わうのがおすすめです。少しずつ冷たくなっていく過程で、このウイスキーがもつ辛味がまろやかな甘みへと変わっていきます。山崎蒸留所1923年、サントリーの創業者である鳥井信治郎は、輸入品ではない国産のウイスキーにこだわり、山崎の地で日本初のモルトウイスキー蒸溜所の建設に着手しました。以来、山崎蒸溜所の歩みが日本のウイスキーの歴史を創り、シングルモルトウイスキー山崎をはじめとする数多の名酒を生み出してきました。ウイスキーづくりに適した理想の気候・風土と名水、そして脈々と受け継がれてきた職人の情熱と技。山崎蒸溜所は、日本最古のモルトウイスキー蒸溜所であり、世界に誇るジャパニーズウイスキーの聖地です。サントリーHPより■Bar K6京都市中京区木屋町二条東入ル ヴァルズビル2F075-255-5009撮影協力:Bar K36/撮影:ハリー中西
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