食知新ブログ
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BLOGうつわ知新
2020.11.27
古染付1
今回は「古染付」について梶さんにレクチャーいただき、「洋食おがた」の緒方博行シェフに、器と料のコラボレーションに挑戦していただきました。「古染付」の解説については、古染付1「古染付の歴史」古染付2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。「古染付」の世界をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。古染付1 今月は、料理人だけでなく茶人にも人気のある「古染付(こそめつけ)」についてお話しいたしましょう。 近年、茶会を催す人々が減少してきたおかげで、随分と金銭的評価が下がってきたものもある古染付ですが、かえって手に入れやすくなったとも言えるのかもしれません。近頃では料理人の皆さんのように、商いを目的とした方がお求めになる機会が増えているように感じます。 さて、古い染付けと書くわけですから、呉須と呼ばれる青い染料を使った、古い時代の磁器であることはお分かりいただけることと思います。 しかし、例えば日本で作られた「古伊万里」は、単純に古い時代の「伊万里」を指すのに反して、この「古染付」の「古」は単に古いということではなく、「古渡り(こわたり)」の染付を意味しています。「古渡り」というのは、古い時代の一時期に日本に輸入された、中国製の焼物などを指す言葉です。 そして「古染付」と言うと、景徳鎮(けいとくちん江西省東北部)で製造された染付磁器を指す言葉で、明時代(1368~1644年)の末期のものを意味し、それより古いものでも、新しいものでもないのです。 私たちが染付と呼ぶ磁器は、中国では青花と呼ばれます。「釉裏青(ゆうりせい)」、つまりガラス状の透明な釉薬の下に、青い染料で絵を描いた磁器を示す言葉です。中国の染付磁器の生産が本格化したのは元の時代になってからと言われています。ご存知のように元(1271~1368年)はモンゴル帝国のことで、イスラム圏や東欧にまでその勢力を拡大し、その中でコバルトの顔料を使った焼物の絵付け技術と、その材料を獲得したと言われています。 さて、お話を景徳鎮に戻します。 景徳鎮は磁器を生産するための良質な陶土と燃料の松、さらに製品を運び出すための水運にも恵まれた土地でありました。北宋(960~1127年)の皇帝が景徳という年号(1004年)を制定し、その名をこの土地に与えたほど、この地の陶磁器は重要な産業として扱われていたということでしょう。元の時代になって盛んに製造されるようになった景徳鎮製の染付磁器は、「元染(げんそめ)」と呼ばれ古染付とは区別されています。景徳鎮と地名に名付がされた1004年以降の陶磁器産業は、国策上、大変重要であったがために、宋・元・明の歴代の国家は直接その窯の経営に携わり、いわゆる官窯としての運用がなされていました。そのため、生産された陶磁器はすべて皇帝のために使用されたわけですが、いくら皇帝の権力が絶大とは言っても、ひとりで大量の陶磁器を使うことは不可能です。多くの場合、それは周辺諸国からの貢物への返礼品として、皇帝貿易の政略として使われていたようです。 時代が進み、明の末期になると、国力が低下し、景徳鎮の産業の統括は中央の管理がゆるみはじめ、やがてその手を離れ、地方の出先機関やさらにその先の組織に委ねられるようになっていきます。それとは反対に皇帝からの注文は、陶磁器で生産できる限界を超えた、屛風や碁盤などにまで及び、難題化していきます。そんな横暴に耐えかねた景徳鎮の職人たちは、命をかけて抵抗するのですが、さらなる国力の低下によって、皇帝からの注文さえも途絶えるようになっていきます。 明国は当初海外との交易を禁じ、同時に貨幣経済を拒む政策を敷いていましたが、国力の低下とともにそれもコントロールできなくなってしまいます。ここ景徳鎮においても、国家からの統制が緩んだ隙に、本来は許されない民窯(民間運営の窯)での陶磁器生産が始まり、貨幣収入を求めて人々はその売り先を探し求めました。折しも世界は大航海時代も成熟期を迎え、オランダ東インド会社も設立され、ヨーロッパの有力諸国は、グローバルな交易を求め世界を駆け巡っていました。彼らにとって景徳鎮で生産された磁器は、自国では生産できない品物であり、格好の標的になったのです。 一方日本は、1500年代後半に興った茶の湯の大ブーム、秀吉の朝鮮出兵、関ヶ原の合戦と続く大きな時代のうねりを経て、江戸幕府によって世情が安定し始めたころでした。それらの激動の時代の裏で日本経済を支えていたのは石見銀山の開発でありました。当時世界で流通した銀の1/3を石見が支えていたと言われるほどですから、権力者たちは戦を繰り返すその裏で、石見を支配下に収めることを実行しました。世界経済を動かすほどの石見の銀は金余り状態を生み出し、権力者たちは世界の珍しいものを求めて、やがて景徳鎮の陶磁器にまで興味を持つようになっていくのです。 茶の湯の世界ではわび茶を目指した利休の時代が終わりを告げ、その後の古田織部・小堀遠州といった大名茶人が牽引する時代が到来します。侘びを極めた茶の湯も、新しいタイプの茶人たちの趣向が大きく反映され、その結果が景徳鎮陶磁器の大量輸入へとつながって行くのです。 長々と歴史の流れについてお話をしてきましたが、古染付は、明朝末期に景徳鎮の官窯の管理体制が崩れ、民窯がそれに代わって奔放な作品を生み出したことで誕生した焼物なのです。つまり明国の末期から、清国に変わるまでの短い時代に生み出された染付磁器の名前だということです。大きさも形も多種多様な古染付が日本に輸入されましたが、おそらく初期の段階においては、日本からの注文と言うよりは、明国の人々が生活の中で多用したであろう五寸程度の薄手の丸皿がその大半であったと思われます。やがて日本の数寄者たちは自分の好みに合った形状のものを発注するようになり、その結果、志野や主に織部に見られるような、型を用いて成形した、肉厚の、葉型、扇型、動物型、魚型、富士山型など多様な形の向付や鉢が生み出されていきます。後の時代に「伊万里」で大量に生産されたような大皿や大鉢は、桃山、江戸初期の茶の湯の趣向には合わなかったためか、当時の景徳鎮から日本に輸入された作品の数は限定的で、多くはオランダ東インド会社を通じて、中東そしてヨーロッパへもたらされたようです。 古田織部没後、日本から景徳鎮に出された注文に、小堀遠州の影響が色濃く見えるようになると、「古染付」の輸入も最後の時期に入ります。それまでの奔放で奇抜な形の向付類を喜んだ風潮から、鮮やかな瑠璃色の染付色を持ち、洗練された幾何学文で装飾された意匠の「祥瑞」と呼ばれる磁器が流行し、次第に「古染付」の一大ブームはフィナーレを迎えます。 「古染付」は、もともと明国では禁輸令の下、それに逆らった形で交易が行われたため、そこには多くの「倭寇」と呼ばれる非公式な交易を生業とする人々の活躍があったものと思われます。「国姓爺合戦(こくせんやかっせん)」という浄瑠璃や歌舞伎の演目でも知られる鄭芝龍(ていしりゅう)、鄭成功(せいこう)父子などがその人たちです。 彼らは明国籍とも日本国籍とも判別できない人員構成の集団で、交易をくり返し、明国の締め付けが厳しくなると日本へ雲隠れし、また交易の機会を伺うというような行動をとっていたようです。 年を経るごとに彼らは富を蓄え、やがては軍事力を手にして、明国政府には手に負えない存在にまで勢力を拡大していきますが、清国が明国に侵攻を開始する頃になると、清国に抵抗勢力として、明国を擁護する姿勢へと変化していきます。しかし、抵抗むなしく、やがて漢民族の明国が滅亡し、満州族の清国が成立します。清国樹立後しばらくの期間をおいて、再び景徳鎮から染付の磁器が日本にもたらされるようになりますが、それは古染付とは趣向が微妙に異なるものでした。そのため、新しく渡ってきたものという意味で、「新渡(しんと)染付」と呼ばれて区別されるようになり、「古染付」の時代が終わるのです。古染付2につづく
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BLOG割烹知新〜奇想の一皿〜
2020.11.23
祇園もりわき「伝助穴子炙り ラズベリーソース添え」
奇想の一皿 「伝助穴子炙りラズベリーソース添え」滋賀の名店「招福楼」で長年活躍し、多くの弟子を育てた料理人・堀江隆雄さん。堀江さんの下で腕を磨いた森脇 努さんは、人気割烹「祇園おかだ」などを経て2014年に独立。祇園の一等地にありながら、旬味満載の割烹料理を手頃な価格で提供し、名だたる食通を唸らせています。発想秘話まずは素材を何にするか―これは穴子にすぐ決まりました。穴子そのものは一年中手に入る食材ですが、11月から正月ぐらいが最も脂の乗りが良く、最高の状態になります。見てください、全体的に身が白っぽいでしょう? シンプルに炭火で焼いたり、つけ焼きにしたり、松茸と合わせて鍋にしたり......。穴子料理はお客様の評判も良く、僕自身も大好きな食材のひとつです。穴子に添えるソースといえば梅肉が定番です。和食の世界で古くから受け継がれてきた伝統的な組み合わせですね。これに代わるものを提案したところで「梅肉のほうがええやん」と言われてしまっては元も子もない。昔からある梅肉ソースの代用品として、どこまで通用するものになるか。そこが一番苦心した点ですね。梅肉とは違った良さが出せたらと思います。今日用意したのは宮城産の伝助穴子です。先ほど説明したように、身にしっかりと脂が乗っているので、酸っぱいソースとの相性が抜群です。うちでは通常、梅肉醤油を添えるのですが、今回はラズベリーを使ったソースに挑戦したいと思います。まずは穴子を骨切りします。塩を振り、網にくっつかないようオリーブオイルを軽く塗ったら、炭火で焼き霜に。皮目だけをパリッと焼き上げ、中はほんのり温かい程度に仕上げます。脂がたっぷり乗っているので、煙の勢いがすごいでしょう?穴子の焼き霜を一口大に切り、ラズベリーソースと共に盛り付けます。このソースが今回の料理の肝になります。最も気を使ったのは「甘みと酸味のバランス」ですね。甘みが強いといわゆる「いやらしい味」になってしまうので、急遽甘みの少ないフレッシュのラズベリーを足して甘さを調節したり......甘味と酸味の調整が、今回もっとも苦労したところです。作り方ですか? まずはつぶしたラズベリーに煮切った酒や少量のみりん、造り醤油などを加え、たくさんの昆布と一緒に一晩ボウルで寝かせます。一日経つと昆布のうま味がソースに溶け出し、全体的にねとーっとした感じになります。鰹節を加えたものも試作しましたが、昆布だけのほうがバランスが良かったですね。ラズベリーは種が多いので裏ごしをして、最後に味を調えます。和食の「五味、五色、五法」を意識して、2色のソースで彩りました。グリーンのソースは春菊に松の実やブルーチーズを加えた和風ジェノベーゼです。添え野菜(かぶらの間引き菜)に付けてもおいしいかと思います。仕上げに土佐酢のジュレを垂らして完成です。茶色いのは岩手の友人が送ってくれた天然の香茸(こうたけ)です。「幻のきのこ」と言われる希少な茸で、名前の通り香りがすごくいいんですよ。今日はシンプルに塩とお酒でソテーしました。口に入れると香りが後からふわっと広がるのを感じます。ソースのバランスはどうですか? 偉大な先人が考案した梅肉に「勝とう」とは思っていませんが、梅肉と勝負できるソースを目指しました。僕の師であり、京都ホテルオークラ「入舟」の初代料理長を務めた堀江さんは、黄身酢にパッションフルーツを使ったり、タコをトマト煮風にしてみたりと、自由な発想をされる方でした。堀江さんからは本当に多くのことを学びましたね。とはいえ先ほども申しましたが、新しい試みが「なんちゃって料理」で終わるようでは意味がないと思うんです。以前、ある店に勤めていた時、それこそ洋風のものをいろいろ試してみたことがあるのですが、常連さんから「(洋食を意識して作るのなら)洋食を超えるものにならなきゃ無意味だぞ」と、お叱りを受けたことがあるんです。その言葉がずっと心に残っていて、今でも自分への戒めになっているように思います。実は最近、鰹節削り器を新調したんです。いろんな方に助けていただいて、ようやく理想のタイミングで椀物の鰹節を削る環境が整ってきました。「日本料理の華は椀物である」という師匠の教えを胸に、さらに椀を深めていきたいですね。毎日同じ作業を繰り返すのは大変ですが、その中で少しでも創意工夫を重ね、作業の精度を高めていくことが自分のモチベーションになっています。料理だけでなく、僕という人間も毎日少しずつ良くなりたいと思って、日々精進しています。撮影:鈴木誠一 取材・文:鈴木敦子■祇園もりわき京都市東山区祇園町南側570‐177075-525-103012:00~13:30(L.O)、18:00~20:30(L.O)木曜休
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BLOG京の会長&社長めし
2020.11.23
株式会社鈴木松風堂の社長が通う店「由兵衛(よしべえ)」
■鈴木 裕(すずき ゆたか)さん 1976年生まれ 京都生まれの京都育ち。1999年に鈴木松風堂へ入社し営業部へ所属。2012年常務取締役を経て2018年に5代目代表取締役社長に就任する。幼少期に学んだ少林寺拳法の創始者の教え「すべては人の質にある」を企業理念とし、初代からつづく紙管の製造販売や先代たちから受け継いだ紙容器の企画・製造販売、和紙雑貨事業の継承と改革に取り組む。人手不足の解消に人材協同組合を設立、社内物流の改善とともに新たに運送事業を展開している。 最後の晩餐は、家で家族と食べるしゃぶしゃぶ。世代を継いで愛される鱧・ふぐ料理が自慢の割烹。京都の風情の中で温かなもてなしを四条大橋の西に、西石垣(さいせき)通という短い小路がある。江戸時代、鴨川西岸に築かれた石垣の堤防を西石垣と呼んだのが名前の由来とされ、今は大分様変わりしたものの、京都らしさを感じさせる一角となっている。この中の一軒に、鈴木さんが通う老舗の割烹「由兵衛」がある。「夏の鱧と冬のふぐがメインですが、単品で季節の魚も出してくれるので魚が食べたい時は行くお店です。おいしくて雰囲気もいいので、接待などで使うほか、社員を連れて行ったり、友達や家族と行ったり、月に1度は利用しています。大将をはじめ大女将や若女将とも仲良くさせてもらっています」(鈴木さん)「由兵衛」は昭和10年創業。3代目主人の仲井雅之さんの祖父が一条戻り橋で仕出し屋を始め、昭和20年に今の場所へ。昭和30年代にふぐを扱うようになるまでは、すき焼きやうどんなどの定食を提供していたという。「まだ食材がない時代で、あるものでお客様に喜んでもらうというのが祖父の考えだったようです」(仲井さん)そして、父・芳信さんの代で、ふぐ・鱧料理を中心に筍、若鮎、松茸など季節の京料理を出すかたちになったが、初代の「お客様に喜んでいただくことが一番」との思いは今も引き継がれている。築100年以上の建物は、1階はカウンターに、小さなテーブルと小部屋、2階は大中小の部屋を備える。数寄屋造りの趣ある部屋は、大切な人との会食や接待などにもお薦めだ。鈴木さんとこの店との出合いは、12~13年前のことだという。「なじみの祇園のバーで、隣に座った大将と知り合い、お店に行くようになりました。実は祖父母が初見合いをしたのがここで、僕も小さい頃、連れられて行ったことがあったようです」(鈴木さん) 「鈴木さんは共通の友人も多く親しくさせていただいています。おばあさんたちが来られたのは初代の頃ですが、ご縁を感じます。僕のほうが年上ですが、話をしていても教えてもらうことが多く、同じ経営者としても刺激を受けています」(仲井さん)鈴木さんがよく利用するという2階奥の茶室風の小部屋。「仕事の商談など、少人数で真剣に話をするのにちょうどよい距離感で使いやすい。この部屋も気に入っている理由の一つです」(鈴木さん)新鮮で良質な素材をシンプルに活かした人気のふぐ・鱧料理。鱧は淡路島産、トラフグは下関や安乗などでとれた天然ものを吟味して仕入れる。「ふぐは骨回りがおいしい魚なので、骨がかちっとした2.5キロくらいのものを選んでいます」(仲井さん)ふぐ・鱧、京会席などのコースのほか、季節の一品もさまざま揃う。鈴木さんは酒のアテを多めに、コースにならった流れで料理を出してもらうそうだ。 鈴木さんの一番のお薦めは「鱧しゃぶ」(写真は12000円のコースより)。「いろんなところで鱧しゃぶを食べますが、ここはダントツだと思います。だしも骨から丁寧にとっていて本当においしい。連れて行った人にも好評で、シーズンになると皆行きたがります」(鈴木さん)「だしで食べていただきたいと考えているので、だしには特に気を遣っています」と、仲井さん。鱧のアラを炭火で焼いて煮出し、鰹節、鯖節、玉ねぎを加えてとった鱧しゃぶのだしは、クリアかつ余韻が残る味わいで、飲み干したくなるほど。淡白な鱧や京野菜、生麩などの具をバランスよく引き立てる。お好みで柚子胡椒を加えてもおいしい。鱧しゃぶの後には雑炊かにゅうめんを楽しめる。「希望される方にはハーフサイズで両方お出しすることもできます」と、若女将の尚子さん。12000円の鱧しゃぶコースに付く鈴木さんお薦めの「造り」。淡路の天然鯛、塩釜の中トロ、淡路の鱧の焼霜などの定番に、長崎の車エビなどその時々の鮮魚が盛り込まれる。これからの季節はやはりふぐ。特に白子炭火焼や焼きふぐが人気で、鈴木さんも鍋と共にお気に入りだという。自慢の「焼きふぐ」は、試行錯誤を重ねてできた自家製ポン酢とたまり醤油をブレンドし、山椒や七味を加えたたれで味付けしている。香ばしく、ふっくらと焼いた肉厚の身は、味わい深く、程よい酸味が重さを感じさせない。弾力のある皮の食感もたまらない。12500円からの天然活ふぐコースや単品で楽しめる。日本酒は、桃の滴、玉乃光、城陽などの京都の地酒のほか、十四代、〆張鶴など全国の人気銘柄も揃える。お酒が好きで、何を飲みたいかで店を決めるという鈴木さん。ここではいつも富山の「立山」を楽しむそうだ。京都の人々に長く愛されてきた同店。その家庭的な雰囲気に惹かれて通うファンも多い。「接客を担当する若女将は笑顔が素敵なべっぴんの奥さんで、すごく明るくて話しやすいのがいい」と、鈴木さん。その言葉に、「ありがとうございます。何差し上げよう(笑)」と、尚子さん。もてなしについては、部屋ごとにお客の雰囲気も異なるため、その場に合わせた対応を心がけていると話す。「鈴木さんのお部屋は明るく朗らかな感じ。私も楽しい雰囲気になるようお話をさせていただいています」鈴木さんは、京都の店の魅力は、「一度仲良くなれば、何回でも会いに行きたくなる雰囲気があるところ」だという。この店もまさしくそんな一軒といえる。予算は昼4000円、夜1万円くらいから。撮影 エディ・オオムラ 文 山本真由美■由兵衛京都市下京区西石垣通四条南入075-351-1053営業時間 12時~14時、17時~22時(LO)定休日 月2回不定休http://yoshibe.com/
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BLOGうつわ知新
2020.11.17
織部焼2
織部焼2回目も、1回目同様「洋食おがた」の緒方博行シェフに器と料理のコラボレーションに挑戦していただきました。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。織部焼と洋食今回は、典型的な桃山時代の織部焼の「向付」と北大路魯山人作「 織部釉 十字皿」に洋食を盛ったらどうなるかというテーマで、「洋食おがた」の緒方シェフに料理制作に挑んでいただきました。それぞれのうつわが持つ風合いやデザインから緒方シェフが受けるインスピレーションとは。料理を盛ることでさらに魅力的になるうつわの美しさをお楽しみください。織部焼向付「典型的な桃山織部の鋳型に入れて製造した変形の向付です。 花籠に梅鉢模様をあしらっているものが4客、わらびに梅鉢をあしらったものが1客で一組となっています。これは、古いうつわに時々見受けられる取り合わせですが、1客だけ手の違うものを混ぜ込むことによって、陰と陽のバランスをとったものです。つまり、験担ぎ(げんかつぎ)です。外側に木賊などの模様を描き、緑の織部釉が流れ落ちる様を景色のアクセントにしています。 温かい肌色がうつわの柔らかさを感じさせますが、実は織部焼は往々にして、高温で焼き上げて硬く締まっていることが多いです。絵の具として使われた錆色(さびいろ)のものは、鬼板(おにいた)と呼ばれる鉄分を多く含む地層から採取した泥です。」織部焼1より洋食おがたの前菜盛り合わせ「5客揃いの向付を拝見し、小鉢風に使わせていただくことにしました。ひとつの鉢に多くを盛り付けないと決め、前菜を分けて盛り付けることを思いつきました。 冷たい料理は冷たく、揚げ物などは熱々でおだしできるうえ、ソースなどが混ざり合うこともない。そういう意味では多種の料理を一度に出すのにちょうどいい組み合わせができます。人参のサラダ(キャロットラペ)、青菜のおひたし、てっぱいといった和洋の野菜料理は、このうつわに盛ると和食そのものの雰囲気を醸します。揚げたての太刀魚とイカのフリットは揚げたてを一切れずつ。 一番苦労したのが、清水牧場のフレッシュチーズです。多すぎず少なすぎず、ミルキーなチーズの美味しさを堪能いただける量はどれくらいかと迷いました。いずれも、わずかではあっても料理の下から絵柄がのぞくようほぼ中央に盛付け、うつわの上品さを損なわない彩を心掛けました。」緒方シェフ北大路魯山人造 織部釉 十字皿「魯山人は美濃の土と共に、信楽の土を混ぜて土味を面白くしたといわれています。 二つの異なる土を混ぜる場合、その収縮率が異なるために、このように窯の中で割れてしまうことがあります。このうつわは、どうやらもう一度窯に入れて焼き直しをしたのか、裂け目に釉薬が入ってくっついています。魯山人もある時から、自らこのような修復を手掛けるようになったと聞いています。裂け目が大変面白いアクセントとなって、表面を斑に流れた釉薬の景色が魅力を高めています。 流れやすい灰釉に銅の成分を混ぜることによって作られるこの織部釉は、釉薬の流れも一つの見どころと言えます。」織部焼1より鰆のフライ「緑のうつわは難しい。いろいろな色を置くとゴチャゴチャしてしまう。特にこの魯山人の器は中央に割れ目があり、それをどう生かすかで悩みました。最終的にできるだけシンプルで色の少ない料理にしようと思い、レアに揚げた鰆のフライを盛ってみました。 この鰆は、静岡のサスエ前田魚店さんに届けていただいているもので、生でも食べられる鮮度も状態も良いものです。薄く衣をつけて、ミディアムレアに揚げました。 シンプルにお塩と辛子だけで召し上がっていただくと、鰆の上質さを感じていただけるでしょう。意図していたわけではありませんが、うつわに盛り付けて真上から見ると、蝶が樹木に止まって羽を広げているように見え、驚きました。魯山人のうつわは、それ自体が存在感抜群ですが、料理を美味しく見せる力があると、改めて感じました」緒方シェフ緒方博行(おがたひろゆき)熊本県出身。熊本のニュースカイホテル、長崎ハウステンボス内のホテルヨーロッパなどを経て、肉料理で名高い京都の「ビストロ セプト」の料理長をオープンから6年間務める。2015年に独立、「洋食おがた」を開き、ハンバーグやエビフライなどの本格的な洋食に、和のテイストを加えたメニューなどを、カウンターの"洋食割烹"スタイルで提供する。尾崎牛や平井牛、焼津の「サスエ前田魚店」から取り寄せる魚、鹿児島県の「ふくとめ小牧場」の幸福豚など、全国各地の厳選した素材で「大人の洋食」をつくり上げる。■洋食おがた京都府京都市中京区柳馬場押小路上ル等持寺32-1075-223-223011:30~13:30(L.O.)、17:30~21:30(L.O,)休 火曜、月1回不定休
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BLOG割烹知新〜奇想の一皿〜
2020.10.31
京料理 藤本「伊勢海老のフリット グリーンカレー風味、無花果のセサミソース添え」
奇想の一皿「伊勢海老のフリット グリーンカレー風味、無花果のセサミソース添え」2008年、30歳を目前に風情ある「ろーじ」の町家に店を構える。独立10年目に烏丸御池エリアへ移転。デザートの充実ぶりでも知られ、昼夜ともにお値打ちなコース料理が人気を博す。押小路寺町の姉妹店『悠貴』ではよりカジュアルに京料理が楽しめ、シーンによって使い分けたい。発想秘話ちょうど今が旬の無花果は甲殻類との相性がいいことで知られています。「エクルビス(アメリカザリガニ)と無花果のサラダ仕立て」はフランス料理の定番ですが、今回は無花果に伊勢海老を合わせてみようと思います。とはいえ伊勢海老のフリットに無花果のソースを合わせるだけじゃいかにも普通で面白くない。そこで、伊勢海老にグリーンカレーの風味を足して、日本、イタリア、タイのエッセンスが感じられるハイブリッドな一品に仕立てました。実は以前、外国人のお客様が「この料理にホットソースやチリソースを絡めたらおいしそう」と話すのを聞いて、スパイシーな味付けをいろいろ試してみたんです。繊細な味わいが日本料理の持ち味ですが、コースの中にひとつかふたつパンチの効いた料理があってもいいのかなと思って......。そういうわけで最近は自家製のグリーンカレーペーストを使ったりもするのですが、今回もそのペーストを使って「和食の枠」を飛び越えたいと思います。まずは無花果の酒煮を作ります。無花果は添え物ではなくソースのように使いたいので、香りを損なわないよう調味します。甘みは足さず、味付けには白味噌のたまりを使います。うちではこの無花果を冷やしたものに胡麻酢を添え、前菜にお出しすることもありますね。伊勢海老の身と味噌を殻から外します。身には軽く塩を振り、のちほどフリットに。味噌はグリーンカレーペーストの隠し味として使います。伊勢海老の味噌を塩漬けにして、自家製のカレーペーストに足してやるんです。僕は大蒜、生姜、玉ねぎ、唐辛子、パクチー、市販のスパイスなどを合わせて一から手作りしていますが、市販のグリーンカレーペーストに海老味噌の塩漬けを小さじ1杯くらい加えてもいいかと思います。我が家の冷凍庫にストックしてある自家製ペーストをココナッツオイルで炒め、カレーソースの素を作ります。まずは鍋に呼び油として少量のオリーブオイルを入れ、ココナッツミルクを加えます。ココナッツミルクを加熱して水分を飛ばし、オイルとミルクが分離したところにペーストを加えて伸ばし、香りを出します。ここに具材を入れ、ココナッツミルクで伸ばしたものがいわゆる「グリーンカレー」ですね。加熱した際に反り返らないよう伊勢海老の筋を切り、包丁を入れた箇所に先ほど作ったカレーソースを塗り込みます。フリットの衣は卵白の効果でふわふわとした食感になりますが、今日はミルクの代わりにココナッツミルクドリンクを使い、衣自体にかすかな甘みを加えました。芯まで完全に火を通さず半生ぐらいに仕上げたいので、ある程度色が変わったら出来上がりです。レアに揚がったフリットを適当な大きさにカットし、スライスした無花果と交互に重ねるよう盛り付けます。セサミソースをかけ、仕上げに振り柚子をして完成です。伊勢海老と無花果を一緒に食べると、無花果が口の中でソースのようになって、伊勢海老だけで食べるよりも味に奥行きが感じられます。無花果、ココナッツ、胡麻の香りと、ほのかに甘いフリット生地に包まれたスパイシーな伊勢海老。無花果の自然な甘みが、それらをうまくまとめあげてくれます。30年前に「これが和食? これも京料理?」と思われていた料理が、今では普通に受け入れられています。今の感覚では少々奇抜過ぎると感じる料理も、30年後には和食と呼ばれているかもしれません。時代と共に料理そのものはもちろん、料理の構成やコースのあり方も変わっていくのでしょう。少しずつ変化する世の中のニーズを受け止め、柔軟に対応していく力が、我々料理人にも必要だと感じています。「あの店のあの(名物)料理が食べたい」と楽しみに来てくださるお客様は多いですが、同時に「少し冒険をしたい」「食べたことのない料理を味わってみたい」とも思っておられる。若い人だけではなく、口の肥えた年配の方々も、新しい料理を面白がる度量をお持ちです。そういった期待に応えられるよう、伝統的な味と新しい試み―それぞれのバランスに配慮しながら、これからも10年、20年と続くお店でありたいですね。撮影:鈴木誠一 取材・文:鈴木敦子■京料理 藤本京都市中京区新町通御池下神明町72 エリタージュ新町1F075-211-910512:00~13:30(L.O.)、18:00~20:00(L.O.)水曜休
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BLOGうつわ知新
2020.10.22
織部焼
梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。織部焼「象の足跡の化石が見つかった。」どこか外国の話かと思ったら、日本の美濃地方の話でした。象が生息していたくらいの大昔の美濃地方では、地形も現在とはずいぶん異なっていたそうです。岐阜県と長野県の県境にある、お馴染みの木曽の御嶽山(おんたけさん)は、富士山より高く、激しく噴火を繰り返し、火山灰を撒き散らす活火山だったそうです。その火山灰が堆積した一部の地域が、広く陥没して東海湖と呼ばれる大きな湖となりました。象の足跡の化石は、ちょうどその東海湖の水辺にあたるところから発見されたそうです。美濃地方は桃山の頃より、日本でも有数の焼物の産地でした。それを支えたのは東海湖の底に沈んでいた火山灰の地層です。この火山灰は水中で堆積していたため、長い年月強い風化にはさらされず、その結果、粘り気が少ない砂混じりの「もぐさ土」と呼ばれる粘土へと変化します。「もぐさ土」というのはお灸に使うもぐさのような風合いであることからつけられた名前です。焼きあがるとやや荒く、カサつくような表情を見せ、釉薬と生地の境目にはほのかな赤色を呈します。柔らかく軽い風合いが人々に愛され、黄瀬戸や志野をはじめ、今回お話する織部などの美濃の焼物は、この「もぐさ土」を基本に用いて作られました。織部焼の名前はご存知の通り桃山時代の武将、古田織部に由来します。織部焼のことをお話するためには、織部の人物像や時代背景を含めた周辺の環境をお話しておかなければなりません。古田織部重然(ふるた おりべ しげなり)は1543年、美濃の守護であった土岐氏(ときし)に仕える家柄に生まれます。ところが美濃に生まれ育ち、父親も茶の湯に熱心であった環境にありながら、しばらくは茶の湯にも焼物にも興味を示しませんでした。戦国の時代の渦に巻き込まれ、土岐氏から斎藤道三、その後は美濃侵攻時の織田信長に従います。信長の死後は豊臣秀吉に仕え始め、千利休と深く関わることによって、ようやく茶の湯に目覚めたのが40歳の頃でした。その後、この世を去る72歳までの約30年間に織部が焼物にどんな影響をもたらしたかを知るには、彼の茶人としての人生を知っていただく必要があるのではないかと思います。織部同様、信長に仕えていた千利休は、本能寺の変で信長が世を去った直後、その弔い合戦である「山崎の合戦」の際、秀吉の陣に馳せ参じ、今は国宝にも指定されている茶室「待庵(たいあん)」を山崎の地に建築します。新しい天下人は秀吉だと瞬時に見切った素早い行動です。利休はこれ以降、秀吉のそばで大きな存在感を示すようになりますが、同時に、織部との関係も深まって行きます。茶の湯を単なる教養や作法ではなく、社交術として利用し、利休が天下人の側近に昇りつめていく様が、戦でのし上がって行く武将たちの姿よりも刺激的で、大いに織部には学ぶことがあったのでしょう。やがて織部は利休七哲と呼ばれるほど重要な利休の弟子として知られるようになります。信長の時代には、まだまだ室町時代の美意識が強く残っていて、茶の湯の世界でも唐物の陶磁器がもてはやされていましたが、利休がもたらした侘茶の成熟とともに、流行の中心は素朴な高麗物へと移っていきます。その裏では、茶道具の国産化も確実に進められていきます。そんな時代の流れに乗って、利休も自身のプロデュースによる国産の茶碗制作を手掛けていきます。ここでみなさんが思い浮かべるのはきっと楽茶碗でしょう。しかし、最近私は利休が最初に手掛けたのは信長からの依頼による美濃焼の瀬戸黒茶碗であったのではないかと考えています。楽茶碗が先か、瀬戸黒茶碗が先かの議論は、今後の研究が解き明かしてくれるでしょう。ともかく利休は茶碗を完成させることに成功します。茶人の腕の見せ所は、それまでは渡来品の中から茶道具を見立てて、その美しさを探し当てることでした。しかし、利休は自ら茶道具を制作したことにより、国産の茶道具をデザイン監修して、そのセンスを広く世に問う、という茶人としての新しい存在意義を示したのです。お洒落好きに過ぎなかった人が、ついに自分でデザインした洋服を売り出したのと同じことですから、織部も利休の新たな事業展開に驚いたのでないでしょうか。また同時に、やがて自らが陶磁器の制作指揮をするお手本としても多くを学んだことでしょう。その後利休は茶人としても、秀吉の顧問としても頂点を極めていきますが、それは同時に、茶頭としては度を超えたものとして妬みを買い、疎んじられ、やがては利休自身の命を奪う原因にもなってしまいます。天下人豊臣秀吉の傍に仕え、茶人として大輪の花を咲かせた千利休の姿は、織部にとって将来目指すべき目標に見えていたことでしょう。それ故に、やがて訪れた利休の失脚は、受け入れがたいほどの失望を織部に与えたことは想像に難くありません。しかし、自分が仕えた主家が織田家のように滅亡し、何も持たない秀吉がのし上がって天下を獲ることを当たり前のように見てきた乱世を生きた人間にとっては、利休の死は大きな夕日が没したのと同じで、ひとときの闇夜を過ごせば、明日にはまた日は昇ると誰もがわかっていたのではないでしょうか。この時、織部は武将として成り上がることが、世の中の中心に近づく唯一の方法ではないことを学び、利休の担っていた役割を獲る、下克上的野望を叶えようとしたのだと思えます。そして織部は豊臣家の茶の指南役筆頭となり、茶の湯を通じて大きな影響を持つ存在へとなって行くのです。利休は、わび茶を完成させたと言われているように、質素で慎ましく、精神性を追求するために不要なものをそぎ落として行きました。それに対し織部は、利休の遺志を継承しつつも、武家流の茶とわかりやすさを導入したのではないかと思います。具体的には、狭く暗い空間で目を凝らして道具を鑑賞していた茶室に、窓を設けて明かりを入れ、招かれた正客に付き添った者にも、同じ室内に留まりながら控えておくための相伴席(しょうばんせき)を設け、茶席を広げました。あえて茶室の中で身分の上下を明確にしたのです。茶道具においては、国産の茶器をプロデュースしながらも、新しい感覚で舶来ものの登用も積極的に進め、華やかな中国の青華(染付磁器)や色絵磁器も採用しています。また同時に「へうげもの」と表現されるような、窯の中の焼成過程で破れ歪(ゆが)んだ陶器を面白がって採用することに始まり、やがては人の手で積極的に歪みや変形を作り出すまでに芸術性の高いものとして昇華させます。こうして織部の手掛けたことを取り上げて並べてみると、利休のわび茶からは大きく方向を変えていることがわかります。以前、裏千家の名誉業躰の先生が「やはり古田織部や小堀遠州は大名の身分だから、どうしても華やかさを好む傾向がある。」とお話になっていたことが忘れられません。たしかに織部が作らせた焼物、選別した舶来ものの焼物、これらは利休時代の焼物に比べ明らかに色彩的に鮮やかなものが多い事に気が付きます。見た目の存在感の強さも特徴的です。深い味わいを持った内面から湧き出るような主張ではなく、単純にサイズが大きい、ゴツゴツと角張っている、大きく歪められているなどの、目を凝らさずとも理解できる造形です。そう考えれば、織部の表現は素人目にもわかり易いものだと言えるでしょう。利休の時代は、茶の湯の中に厳格なまでの精神性を求めていましたが、織部が豊臣家の茶の湯の指導的な立場になると、武家たちの社交や楽しみのような華やかさも加わり、変化していったのだろうと推測されます。やがて秀吉が没し徳川家が台頭してくると、織部は関ヶ原で徳川方に付き、徳川家の中でも茶の湯の指導的立場に付きます。徳川の政治は士農工商の身分制度を明確にしていきますので、織部の打ち出した武家好みの茶が主流となり、町人が武家を指導していた利休時代の茶の湯から遠ざかっていきました。また、織部焼の生産が始まった頃の美濃地方では、登り窯の導入という大きな技術革新が起こり、生産量が飛躍的にあがります。きっと織部の手掛けた焼物が、大量に世の中に流れ出し、彼の名前を広める追い風になったのではないでしょうか。利休が大きな力を持っていった経緯は、織部同様に家康もよく知っていたことでしょう。大きな武力を持つわけではない織部でしたが、茶の湯の指導と、茶道具をプロデュースして得た商業的な影響力は相当なものがあったと考えられます。名声が上がることは、やはり織部の運命を大きく動かすことになります。それが事実であったか否かは定かでないものの、織部は大坂夏の陣と冬の陣においての豊臣方への内通と、家康への反逆の嫌疑で処分されてしまいます。徳川の世を安泰なものにするためには、織部の持つ影響力は決して油断のならないレベルに成長していたことの証左とも言えるでしょう、織部が生み出した品々や美意識は嵐が吹き荒れたように、即座にこの世から抹殺されてしまいます。京都の中京(なかぎょう)には唐物屋と呼ばれた陶器商が軒を連ねていたようですが、その辺りに一時期大量に織部の手がけた陶磁器が廃棄された形跡があることが、発掘調査で明らかになりました。元々主張の強い織部の焼き物は、時代の中で飽きられたのではないかという意見も聞いたことがありますが、やはり織部のすべては家康の指示の下で抹殺されたのだと私は思っています。天下人に見放されて廃棄された織部のうつわたちは、今は京都の西陣の京都市考古資料館に保存されていますので是非お出かけになってはいかがでしょうか。いつものように長々と綴ってしまい、もっと簡単にご説明をした方が良いことは重々承知なのですが、織部焼については単に焼物のみを解説しても、その本当の姿を見抜くことはできないのです。焼物を語るより織部人物や歴史の流れを知った上で、ぜひ今一度、織部の焼物をしみじみと眺めてみてください。織部焼向付 典型的な桃山織部の鋳型に入れて製造した変形の向付です。花籠に梅鉢模様をあしらっているものが4客、わらびに梅鉢をあしらったものが1客で一組となっています。これは、古いうつわに時々見受けられる取り合わせですが、1客だけ手の違うものを混ぜ込むことによって、陰と陽のバランスをとったものです。つまり、験担ぎ(げんかつぎ)です。外側に木賊などの模様を描き、緑の織部釉が流れ落ちる様を景色のアクセントにしています。温かい肌色がうつわの柔らかさを感じさせますが、実は織部焼は往々にして、高温で焼き上げて硬く締まっていることが多いです。絵の具として使われた錆色(さびいろ)のものは、鬼板(おにいた)と呼ばれる鉄分を多く含む地層から採取した泥です。北大路魯山人造 織部釉 十字皿魯山人は美濃の土と共に、信楽の土を混ぜて土味を面白くしたといわれています。二つの異なる土を混ぜる場合、その収縮率が異なるために、このように窯の中で割れてしまうことがあります。このうつわは、どうやらもう一度窯に入れて焼き直しをしたのか、裂け目に釉薬が入ってくっついています。魯山人もある時から、自らこのような修復を手掛けるようになったと聞いています。裂け目が大変面白いアクセントとなって、表面を斑に流れた釉薬の景色が魅力を高めています。流れやすい灰釉に銅の成分を混ぜることによって作られるこの織部釉は、釉薬の流れも一つの見どころと言えます。左手奥、弥七田織部千筋文茶碗。歪んでゴツゴツしている形状が織部らしい表現だと本文中に書きましたが、このうつわはずいぶん薄造りで、端正な形をしています。これは織部が世を去ってしばらくしてから製造されたもので、織部の名前を付けられているものの、織部好みの意匠ではありません。むしろ、京焼に近いような意匠だと思っています。織部の死後、美濃の陶工たちは織部の意匠を作品から消すことにずいぶんと苦労したことでしょう。その結果としてこのような、ガラスのデザートボールのような形にたどりついたのでしょう。本来の織部の焼物とは真逆の軽やかさが楽しい焼物です。次に織部黒沓茶碗。本文中に信長の依頼によって利休が瀬戸黒茶碗をデザインしたようなことを書いておりましたが、まさにその瀬戸黒のサイズを大きくして、さらに沓形に歪めているのがこの茶碗です。歪めて大振りで存在感の強い、これがまさに織部の好んだ典型的なスタイルで、武家風だと思います。緑の織部釉は一切使われていないものの、これと似たような沓茶碗は唐津などでも見受けられ、これも織部の指導による意匠だと言われています。弥七田織部塁座細向付。使い勝手の悪い向付ですが、客にとっては何が入っているのだろうと覗き込むことが楽しみなうつわでもあるので、「のぞき」とも呼ばれています。一般の家庭では湯呑として使うくらいのことでしょうが、当時の人たちはどんな料理をこのうつわで提供しようかと、頭をひねることが創造力を掻き立てる面白いうつわだったのでしょう。また、火入れとしても茶会に登場することから、案外多くの数が現代に伝わっています。塁座(るいざ)と言われる捻子や釘の頭の意匠を胴体に施し、幾何学紋を鬼板で描いています。これも織部と呼ばれるものの、織部の死後に作られた作のひとつでしょう。手前は、はじき織部香合が2点。赤みがかった香合と、白肌の香合がありますが、美濃のもぐさ土には紅白の色があり、白は緑の織部釉に透明感を与えます。赤い土は赤織部と言われ、写真のように白い化粧土と鬼板の絵付けによって、興味深い意匠が施されているものが多くあります。私はこの赤織部の意匠が大好きです。どちらも「はじき」と呼ばれる摘みのついた香合で、弾いてあそぶ玩具からこの名がつけられているとのことです。両方ともしっかり高温で焼き締められ硬く出来上がっています。織部焼はこのように、茶碗から向付、香合に至るまで他の美濃の焼物とは比べ物にならないほどの多品種の焼物が焼かれていることから、織部の力の入れようが伺えるように思えます。
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BLOG京都美酒知新
2020.10.20
カクテルが飲みたくなる話「ブルームーン」
■西田稔(にしだみのる) 京都木屋町二条「Bar K6」、「cave de K」、「keller」のマスターバーテンダー。2020年開業の「ザ・ホテル青龍 京都清水」内の「Bar K36」を監修。自らもカウンターに立つ。京都生まれ、同志社大学卒業後、東京のバーで経験を積み、1994年に「Bar K6」を開業した。シャンパーニュの将校、グラッパの騎士、クリュッグアンバサダー、ウイスキーコンテスト審査員BLUE MOON ブルームーン カクテル言葉「完全なる愛・叶わぬ恋」古の時代から、満月の日15夜とその前の少しだけ欠けた13夜は両方愛でるものとされ、片方だけ見ることを片見月と呼んでいました。2020年は10月に15夜と13夜(10月29日)の両方がある珍しい年です。男性から愛の告白をするのが当たり前だった時代、15夜に男性から告白された女性は、その後の13夜だけは、自分から男性を誘ってもよかったのだそうです。それは15夜の告白に対する、YESの返事だったのですね。なんとロマンチックなストーリーでしょう。そんな満月が美しい10月にご紹介するカクテルは「ブルームーン」です。ジンにパルフェタムール(完全な愛)という名のリキュールを合わせています。実は、このカクテルのカクテル言葉はふたつ。「完全なる愛」と「叶わぬ恋」です。果たしてあなたの恋は、どちらでしょう?今回は、嵐山の渡月橋下に船を浮かべて観月を愉しむ月見酒の風情を演出しました。川に映る月と、盃に映る月。空を見上げるだけでなく、たまには自分のグラスに月を映して、いつもとは違うお月見を楽しみたいところです。カクテルレシピ季の美 30mlパルフェタムール 15mlレモンジュース 15mlレモンピール10月のウイスキーラフロイグ10年のソーダフロートラフロイグ蒸留所のフラッグシップ・モルトで、世界的な人気を誇る1本です。爽快なピート感や磯の香が強烈で、独特の風味をもっています。1stフィルバーボン樽熟成による甘いバニラの香りとクリームのような滑らかさを併せもちます。ソーダを入れたグラスに氷を加え、ウイスキー30mlを静かに浮かべるように注ぎます。口にすると最初はウイスキーそのものを、その後氷が溶け込んだウイスキーを、最後にソーダが混ざった味を。つまり、ストレート、ロック、ハイボールの3つの味わいを1杯で楽しめるのです。ラフロイグ蒸留所とはスコットランドの西岸沖、インナーヘブリディーズ諸島の南端に位置するアイラ島の蒸留所です。アイラ島は、淡路島よりやや大きいくらい。そこに、8つの蒸溜所とひとつの製麦工場がある世界でも珍しいウイスキー島で、ウイスキーの聖地とも言われています。創業は1815年。フラッグシップ・モルト「ラフロイグ」は、力強い酒質で伸びがよいウイスキー。20世紀初頭のアメリカ禁酒法時代にも、薬用酒としてアメリカに輸出されていたのは、薬品のような香りに薬用効果があると認められたからだといわれています。(サントリーHPより)撮影:ハリー中西■Bar K6京都市中京区木屋町二条東入ル ヴァルズビル2F075-255-5009
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BLOG料理人がオフに通う店
2020.10.10
「Bistro Ceriser」-「料理処はな」青山孝さん・美由紀さん夫婦が通う店
「料理処はな」の店主、青山孝さん・美由紀さん 店主の青山孝さんは、大学卒業後、法曹人を志していたが、30歳を契機に料理の世界に入った。調理師学校で一から学び、京都の老舗、「京料理 道楽」で修業したのち、大阪・天満にて地鶏料理の店、「地鶏焼 でんえん」を開店。3年後に、当時、イタリア料理店で勤務しており、のちに妻となるソムリエールの美由紀さんとともに、「料理処 はな」をオープンさせた。夫婦で茶の湯の稽古に通い、とくに魯山人の食への意識、器との取り合わせなど当意即妙な芸術観や料理スタイルに関心が広がり、当時の調理法などを深く掘り下げて学んでいる。重厚な木の温もりに包まれる店内。家族や友人とくつろいで食事ができる。1998年にオープンした「Bistro Ceriser」は、現在、オーナーの椎葉正子さんがマダムとして切り盛りし、厨房はシェフの小森雄介さんが預かる。 「料理は昔から変わらず、クラシカルなフランスの郷土料理を提供しています。アルザス、ブルゴーニュ、ガスコーニュ、リヨン、ブルターニュ、プロヴァンスなどフランス各地の郷土料理は、たとえば日本食でいえば、肉じゃがだったり、茶碗蒸しだったり、いわゆる身近なお惣菜だと思うんです。どこか懐かしくてほっとする、そんな料理を楽しんでいただきたいと思っています」(椎葉さん)。「僕がここに通い始めたのは23年前のことです。最初に伺った時から価格を超えた料理とサービスに感動しました。きちんとしたフレンチに触れたのはこのお店が初めてだったかもしれません。全ての料理の根底には、肉、魚、野菜などの素材から丁寧に抽出したフォン(だし)の深い味わいがあって、郷土料理の力強さを実感しました。以来、大ファンになり、ずっと通っています」(青山さん) 青山さんおすすめのパテ・ド・カンパーニュは、豚ミンチ、豚レバー、グリンペッパー、くるみハーブ各種を合わせて、アルマニャックの香りを添える。材料をなめらかになるまで混ぜて、背脂で包んで蒸し焼きにするという実にオーソドックスな作り方を守っている。「パテ・ド・カンパーニュはフレンチの定番ですし、いろいろな店で食べましたが、ここほど自分の好みにマッチした味は他にはないですね。肉の重量感があって、ねっとりとレバーの風味と血の気を感じさせて、それでいて決して重すぎない。軽くてスパイシーな赤ワインといつも楽しみます」(青山さん)くるみの食感が程よいアクセントのパテ・ド・カンパーニュ950円。添えられた季節の新鮮野菜とよく合う。※価格は全て税別。青山さんがここにきたら必ず注文したくなる料理の一つが、アルザス風シュークルートだ。シュークルートとは、キャベツの酢漬けで、アルザス地方を代表する保存食のひとつである。 見るからにボリューミーな一皿は、初めて見るひとはきっと驚くに違いない。ハーブやニンニクを利かせたソミュールという塩水に漬け込んだ豚のすね肉の煮込み(アイスバイン)に、自家製トゥールーズ風ソーセージ、フランクフルト、ロースハム、ベーコンなど自家製のシャルキュトリがたっぷりと盛られ、その下にシュークルートがこれまた、どっさりと隠れている。さらに、じゃがいもとにんじんが添えられて、二人でシェアするとちょうど良いサイズだろう。「シュークルートも大切な主役。とんかつのキャベツのような添え物と思われがちなのですが、肉と一緒にシュークルートもぜひ楽しんでください」(小森さん)「この料理には、白ワインを必ず合わせます。とくによく冷えたリースリングとのマリアージュは素晴らしいと思います。ワインの心地よい味わいが、肉と野菜の塩気をまろやかに包み込んでくれて、最後まで食べ飽きしません。フランス郷土料理の熱々のおいしさを実感できる一皿です」(青山さん)シンプルでいて、フランスの郷土料理の真髄が味わえる一皿、アルザス風シュークルート2900円。よく冷えたアルザスのリースリングがことのほか合う。「デザートは迷うことなく、ブラン・マンジェを注文します。一人で通っていた時も、妻と二人で来るようになってからも、子どもができて一緒に食べに来る時も、店のスタッフを連れて来る時も、みんなが美味しいと喜んでくれる締めの一皿ですね。マダムとシェフの思いがこもったデザートだと思います」(青山さん)シェフおすすめのブラン・マンジェとキャラメルアイスの盛り合わせを頼んでみる。濃厚で香ばしいキャラメルアイスは、焦しキャラメルをつくり、ミルク、卵、生クリームをあわせて冷やしたもの。どこまでも、なめらかで後を引くおいしさにうっとりする。ブラン・マンジェは、ホールのアーモンドを砕いて、ミルク、生クリームとあわせて、香りをよく移してから、濾してゼラチンで固める。つるんとして、アーモンドの深いコクが感じられ、いつまでも甘やかな余韻が残る。コクのあるブラン・マンジェとほろ苦さと香味が際立つキャラメルアイス600円。「郷土料理のレシピはとてもしっかりしていて、美味しい。それを崩す必要はないんです。せっかくそれで美味しいのに、日本人向けの料理にしようとは思っていません(笑)」(小森シェフ)ソースの濃厚さやバターやクリームの重たさ、時にジビエな内臓のクセなども個性として一皿にしっかり表現していきたいという小森シェフ。この店のジビエを待ち兼ねるファンも少なくないと聞くが、それもうなずける。左:昔からマダムが大切にしているフランス郷土料理の本。右:ワインはフランス各地のものが揃う。「昔、とても寒い時期に開店前に来てしまったことがあって...。店内でお待ちくださいと招き入れてくれて、マダムが温かなカプチーノをご馳走してくれたんです。そのおもてなしが嬉しくて、妻にもよくその思い出話をするんです」(青山さん)マダムの椎葉正子さん。とても明るくて笑顔が素敵な女性。一皿のボリュームが半端ないので、二人でなら前菜二品、メイン1品、デザートとで十分満たされてしまう。分け合って食べる楽しさもまた、この店の魅力だろう。クラシックな郷土料理と心からくつろげる笑顔とサービス。古き良き時代の人の温もりがここにはある。またすぐに癒されに行きたくなる、ここはそんな場所なのかもしれない。撮影/津久井珠美 取材・文/ 郡 麻江■「Bistro Ceriser」(ビストロ・スリージェ)京都市左京区田中下柳町1−3075-723-5564ランチ12:00~14:00(LO)〔※月曜〜金曜はガレットランチ、土日はビストロランチ〕、ディナー:18:30~21:00(LO)木曜、第3水曜定休
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