食知新ブログ
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BLOG料理人がオフに通う店
2021.01.27
「ユキフラン佐藤」-「ワインとワショク ツネオ」の岸名裕彦さんが通う店
【ワインとワショク ツネオ】店主の岸名裕彦さん。岸名裕彦さんは兵庫県丹波市出身。祇園のイタリアンの名店「イル ギオットーネ」で経験を積み、同店の東京丸の内店のオープニングマネージャーとして活躍。都内のイタリアンレストランなどの仕事を経て、2013年5月、自らの店である【ワインとワショク ツネオ】をオープン。季節ごとの感性、素材と素材の出合いを大切に、オリジナリティ溢れる料理を日々、創造している。 白川沿い町屋が立ち並ぶ、風情ある祇園新橋にほど近いビルの奥。白い暖簾の向こうに静かに佇む「ユキフラン佐藤」の店主、佐藤功一さんは、東京の大学で建築を学んでいたが、卒業後、日本料理の世界へと進んだ。 その理由の一つが、茶の湯の世界との出会いだった。大学構内にあった「待庵」の写しの茶室で行われていた茶道の稽古に参加することになり、月1〜2回の稽古に通ううちに、茶の湯の世界に強く惹かれるようになったという。 「茶室独特のあの背筋がピンと伸びるような心地よい緊張感や、静かで澄み切った空気など、心に響くものがあったんです。建築も空間に関わる世界ですが、何か茶の湯のこの心地よさや素晴らしさとつながるような仕事をしたいと思うようになりました。漠然とですが、それは宿泊施設のような空間を将来作り、そこで仕事をすることかな?と考えるようになり、それなら、まずは宿泊に深く関わる料理から始めようと思ったんです」。 2年ほど東京の店で修業したのち、親しくしていた京都出身の先輩からの声がけがあり、京都へと移り住む。京都の割烹店で6年、さらに修業を積んで、2013年8月に自身の店をオープンした。店内はカウンター9席のみ。完全予約制で1日、1〜2組の予約を受け入れている。「ワインとワショク ツネオ」の岸名さんは3〜4年前、人づてに祇園に良い店があると聞いて、佐藤さんの店を訪ねたという。「おまかせのコースのみのお店ですが、佐藤さんの素材の持ち味を引き出す料理のどれもが素晴らしく、衝撃を受けました。シンプルな料理なのに、奥行きがあり、その料理も驚くような味わいに仕上がっていて、まさに天才肌の料理人だと思います。その上で、料理にかける情熱を持って、常に美味しい味を追求し続ける人。料理人として、その姿勢を心からリスペクトしています」開店当初の思いを持ち続けつつ、日々、料理に向き合う佐藤さん。「心の奥底に響くような料理を作っていきたいというのが、当時からの思いです。なかなかできることではないですが、コース料理の中でたった一つでも、心に響く味が提供できれば、その方はまたきっと来てくださると信じて、日々、料理に向き合いたいと考えています」と佐藤さん。 食材は自らが毎日、市場や時に遠く大原あたりまで出かけて、納得するものを手に入れる。季節や旬を考えながら、素材の取り合わせを考え、献立を決めていく。器も骨董を中心に、自分の感性に沿う品々を少しずつ蒐集している。その道具箱がぎっしりと店奥に並んでいる。 「顔見知りになってからは市場などで出会った時、よく話すようになって、食材の情報交換もしています」と岸名さん。佐藤さんの料理にすっかり惚れ込んでいて、「何か美味しいものが食べたい」という時は、迷わず、佐藤さんの店を訪ねるそうだ。桐箱には、一つひとつ、佐藤さんが吟味して集めた器が大切にしまわれている。 まだ寒さの残る新春の候に合わせて、佐藤さんに料理を何品か作ってもらった。 軍配を象った繊細な美しさの古九谷の器で登場したのは「たたきごぼうと小鯛の玉露煮」。小鯛を一尾ごと素焼きして、玉露で半日〜1日、じっくりと炊き、骨も柔らかくなったところを甘辛く甘露煮に仕上げる。身も骨もホロホロと柔らかく、添えられた玉露の茶葉とともにいただくと、じんわりと素材の滋味が溢れてくる。たたきごぼうは、サクッとした食感を残しつつ、粗く擦った白ごまを纏って、どこまでも香ばしい。素材本来の持ち味を生かし、どこまでも味わい深い料理。日本酒とともにじっくりと堪能したい。 椀ものは季節に相応しく、ふぐの白味噌仕立てのお雑煮。ふぐのアラから引いただしと白味噌のふくよかな風味、玄米餅はもっちりした中に玄米の粒々が生き生きと立って、微かな野趣を感じさせる。こんもりと盛られた緑は、ふきのとう。ほろ苦さと爽やかさが口中に広がって、まだ少し遠い春を呼ぶような心持ちになる。さらに、アラをカリッと揚げたふぐあられが弾むような食感と香ばしさを添えて、新春を寿ぐにふさわしい一椀に、深く、心打たれる。鶴の金彩を施したおめでたい椀に、そっと貼られた白味噌とふきのとうの緑の対比が実に美しい。春を呼ぶ一椀だ。 割山椒という柔らかな曲線を描く備前の古い器に盛られた、色彩豊かな一品は、牡蠣とセリのおからである。しっとりとした真っ白いおからにセリの青を瑞々しく和えて、セリの根を添える。春先の青味と大地の味を舌に感じつつ、香ばしく焼き上げたどっしりと量感のある牡蠣をいただく。潮の香りとまろやかな旨み、濃厚なコクが一気に喉元を通り過ぎ、胃の腑にしっかりと収まる。大地の恵みと海の恵みが身の内に充溢してくるようで、まさに贅を尽くした味わいとは、こうことをいうのだろう。春の芽吹きを感じさせるような一品。セリの葉と根が土の力強さを、釧路・仙鳳趾産の牡蠣が海の匂いを運んでくれる。 一品ひと品に、岸名さんのいう「衝撃」を確かに感じ、料理を味わうほどにその驚きが喜びに変わっていくのがわかる。素材の取り合わせ、調理、仕上げに至るまで凄みさえ帯びて、こちらは佐藤さんの世界にただただ、うっとりと浸ってしまう。 しかしご本人はいたってストイックな姿勢を崩さない。 「茶の湯にも通じることで、料理における真・行・草についてよく考えるのですが、草は日常の食事、行は外食や宴会なハレの食事、真は何だろう?と、まだそこは考えている最中です。その答えも含めて、まずこの料理の世界でしっかりとやっていくことが今、一番の目標です」 そう話す佐藤さんは、昨年、結婚したばかり。奥様は洋菓子のプロで、現在は洋菓子や料理の教室を京都市内で開いているそうだ。良きパートナーを得て、最終目標に据えていた宿泊の仕事も含めて、今後は二人で、互いにやりたいこと、やっていけることを相談しながら、歩んでいきたいという。 新たな境地に立つ佐藤さんの料理が、これからどんな広がりを持って、どんな驚きを見せていってくれるのか、ファンならずとも楽しみにしたい。店名のユキフランは、母、幸子(ゆきこ)さんの名前から、「幸」の一文字をもらって、"この庵(店)に、幸多く降らんことを"という願いを込めて決めたという。美味しいものには人を幸せにする力があるということを、実感させてくれる。■ユキフラン佐藤京都市東山区新橋通花見小路東入ル2軒目南側八百平ビル1階奥075-531-3778※電話による完全予約制。料理はおまかせのコース(料金はその時の材料などの都合で15,000〜20,000円の間)のみ。撮影/竹中稔彦 取材・文/ 郡 麻江
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BLOG割烹知新〜奇想の一皿〜
2021.01.13
祇園川上「白味噌グラタン」
奇想の一皿「白味噌グラタン」洋食のコックをしていたお父様の背中を見て育ち「いつか帝国ホテル・村上信夫シェフの下で働きたい」と思っていた若き日の加藤さん。しかし「これからは和食の時代だ」というお父様の助言を受け、和食料理人になるべく18歳で『祇園川上』へ入店。名料理人・松井新七さんのもとで研鑽を積み、やがて師の元を巣立った加藤さんでしたが、松井さんに請われ再び『祇園川上』へ。正式に代替わりして早12年、京都を代表する板前割烹として、いよいよ円熟味を増す名店の登場です。発想秘話今日は僕の大好物でもある「グラタン」を作りたいと思います。僕は口の中がずるずるになるような正統派のグラタンがたまらなく好きなんですよ。お気に入りの店ですか? 新橋大和大路にある『祇園MIKUNI』の中辻(佳和)君の作るグラタンが好きですね。「最期の晩餐にはグラタンを」と常々思っています(笑)。実は以前、今回の料理に通じるメニューを店で出したことがあって、そこから発想を膨らませました。夏に賀茂茄子をコースに組み入れる際、「食べやすくて、なおかつ見映えがいいもの―小さなオーブン焼きはどうだろう」と試してみたところ、皆さんとても喜んでくださって...。その時は賀茂茄子と田楽味噌という「出合いもの」を組み合わせましたが、今回は田楽味噌に少々手を加えて、根菜と合わせたいと思います。以前作ったオーブン焼きは賀茂茄子などの夏野菜がメインでしたが、今日は今が旬の根菜を使います。これから寒くなるにつれて、ますますおいしくなっていきますからね。かぶら、海老芋、むかご、そしてグラタンに欠かせない海老。これらを白味噌のソースで召し上がっていただきます。まずは野菜の下処理から。かぶらと海老芋はそれぞれ別の煮汁で炊いて、あっさりめに下味をつけます。むかごは塩ゆでしておきます。ベシャメルソースの代わりに使う白味噌のソースは、田楽味噌をアレンジして作ります。白味噌に砂糖とみりんを加えて練り上げた田楽味噌に、少しずつ出汁を加えてのばしていきます。ゆるすぎると食材から水分が流れ出てしまうので、様子を見ながら慎重に。別々に味をふくませたかぶらと海老芋、塩ゆでしたむかご、車海老をそれぞれ食べやすい大きさにカットします。具材を伊賀焼のエッグベーカーに盛り付け、上から先ほど練った味噌をかけます。仕上げにチーズ、パン粉を乗せてオーブンで加熱すること約15分。表面においしそうな焼き色がついたら完成です。うちはドストライクな割烹料理屋ですが、たまにはこんな風に少し目先を変えてみることもあります。僕は頭の中で料理を考えたあと、毎回それをスケッチに起こすんですよ。そのほうが「こういう器でこんな風に仕上げてよ」と皆に伝えやすいでしょう? 茄子と味噌は最高の出合いものですが、根菜と味噌の相性はいかがでしょうか。和食でチーズを使うことはまずありませんが、味噌とチーズの組み合わせって間違いないですよね。店をやっていく上で僕が一番大切にしているのはチームワークです。学生時代に野球をやっていたこともあって、みんなでひとつの目標に向かっていくのが好きなんですが、そのために欠かせないのがチームワーク。実際、僕ひとりではまったく料理なんてできないですよ。このチームあってこその『祇園川上』だと思っています。僕が小僧で入った当時の川上って、和気藹々とした学校みたいなところだったんですね。先輩も後輩も「ちゃん付け」で呼び合って、全力で仕事をしたあとにみんなで木屋町に繰り出して......。優しい先輩がたくさんいて、怖い番頭さんに鍛えられて(笑)。もちろんつらいこともありましたけど、今振り返るととても楽しい時代でした。引退を決めた松井さんから「かとちゃん、ちょっとうち手伝ってくれへんか」と言われた時は、正直とても悩みました。しかし「がんばってみろよ」と背中を押してくださる方がいて、やれるとこまでやらせてもらおうと腹をくくったんです。僕の尊敬する『瓢亭』の高橋英一さんが御著書の中で「右足は垣根を越えてもいいけど、両足で越えてはならん」と書いてらして、それを読んだときにすごく腑に落ちるものがあったんですね。松井さんの作り上げた「川上」という看板で仕事をすること、そして僕の「川上」を作っていくこと。垣根を意識しながらも、歴史ある『祇園川上』を精一杯守っていきたいと思います。撮影 鈴木誠一 取材・文 鈴木敦子■祇園川上京都市東山区祇園町南側570-122075-561-242012:00~13:30(L.O.)17:00~21:00最終入店不定休
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BLOG京の会長&社長めし
2021.01.12
株式会社 クリーントピアぴいぷる北の社長が通う店「膳處漢(ぜぜかん)ぽっちり」
■松居 洋一(まつい よういち)さん 株式会社クリーントピアぴいぷる北 代表取締役社長1978年 京都府京都市生まれ幼少期から音楽に慣れ親しみ、学生時代から社会人にかけ、エレクトリックベースやウクレレ等の演奏業や講師業に勤しむ。26歳にて株式会社クリーントピアぴいぷる北に入社。生産管理やマネージャー職種を経験しつつ、国家資格クリーニング師免許を取得。2012年 代表取締役に就任。一般衣料品から着物、寝具類からスニーカーまで、幅広いニーズに対応した独自の洗浄技術を駆使し、「アライノチカラ エガオノチカラ」の理念のもと、地域社会の方々に爽やかな衣類を提供できるよう日々邁進中。最後の晩餐は、鮭茶漬け。昭和初期の建物のレトロな雰囲気に包まれて、本場さながらの中国料理の数々を昔から呉服や繊維関係の企業が集まる室町通。四条烏丸に近い室町錦小路界隈で、存在感を放つレトロな外観の建物が、松居さんお薦めの中国料理店「膳處漢ぽっちり」だ。全国にレストランやホテルを展開する際グループが手掛けるこの店は、2003年オープン。京都と北京の街の佇まいが良く似ていることから、ここを北京の台所に見立て、北京料理を中心としたメニューを提供している。元呉服商の建物をリノベーションした店の雰囲気や本場さながらの料理が評判を呼び、長年にわたり京都の人々に親しまれている。ちなみに「膳處漢」という名は、かつて都の御厨所があった滋賀県大津市の地名「膳所」に由来しているという。松居さんがこの店を訪れたのは、9年程前だという。「もともと仕事などで利用していた家内に薦められ、一緒に行ったのが最初です。京町家を改装された特殊な店内の造りで、接待にも使える個室やバーがあるし、メニューはリーズナブルなものから高級なものまで揃っていておいしい。今はコロナ禍で回数は減りましたが、大体年に5~6回は行っていました。他府県の同業の方々が当社に見学や打ち合わせに来られた時など、接待使いも良くしますし、以前は家族のイベントなどでも使っていました。一緒に行く人にも毎回評判がいいですね」(松居さん)松居さんが「京都の街中であれだけの広さのところはなかなかない」という建物は、昭和初期もの。元店舗部分が洋館、住居だった奥の部分が町家になっており、ほぼそのままの佇まいが残されている。ここでは、北京ダックやふかひれなどの北京料理を中心に、高級料理から点心まで多彩なメニューが、コースやアラカルトで楽しめる。とりわけ、ヨシキリザメ、モウカザメ、アオザメの3種を用意したふかひれの姿煮はお薦めだという。松居さんはいつもアラカルトを注文し、お酒と一緒に楽しむそうだ。「北京ダックやふかひれもよく頼むし、何でもおいしいですが、辛いものが好きなので特にこの2つは行くと絶対頼みます」と、松居さんがお薦めに挙げるのが、初めて来店した時からのお気に入りだという「ぶつ切り鶏の四川風唐辛子炒め(辣子鶏)」1800円と「四川麻婆豆腐」1600円。 写真の「ぶつ切り鶏の四川風唐辛子炒め」は、鶏の唐揚げを2種の唐辛子と炒め、唐辛子ごと豪快に盛り付けた四川の人気料理。ニンニク、ショウガ、豆板醤、醤油で下味をつけた唐揚げを、山椒と唐辛子などの香りを移した油と絡め、ふっくら柔らかく仕上げている。しっかり旨味が感じられる重層的な味わいの中にじわじわと辛さが利いてくる。「辛いけど、美味い。お酒が進みます」(松居さん)もう一つのお薦め「四川麻婆豆腐」は、牛挽肉を使用したランチでも好評のメニュー。「こちらも辛くて、お酒のアテにもご飯にもよく合う。汗をだらだらかきながら食べています」(松居さん)2種の豆板醤、豆鼓、ニンニク、ショウガなどの香味野菜や漬物などの辛味と風味、肉の旨味からくるまろやかさが絶妙に合わさり、おいしい。濃厚でありながら、意外としつこく感じない。ここの料理は味にメリハリがあるのが特徴だが、それでいてくどくならないよう、いかにうまく油を使うかということに気を付けていると、料理長の花田伸介さんは話す。「調味料を足していくことは簡単ですが、それではだんだん食べていてしんどくなる。うちは油を多めに使いますが、調味料は最小限に抑え、香辛料や肉などの香り、旨味を油に移して味に深みを出すようにしています」「大体いつも5~6人が入れる個室を予約します。入口のところにソファスペースがあって、会食なら後から来る人をそこで待っていてもいいし、先に個室に行ってもかまわない。そういうシステムも気に入っています」(松居さん)200人程を収容できる店内は、庭を望むテーブル席から座敷を含む異なる趣の個室まで、さまざまなシチュエーションに対応。重厚な雰囲気の待合スペースを備えるなど、大切な人との食事に適した造りになっている。地元サラリーマンから家族連れ、観光客まで、客層は幅広く、松居さんのように接待での利用も多いという。松居さんも時々食後に利用するという蔵を改装したバースペース「ぽっちり」。現在は休業中だが、食事からの流れで一杯飲める使い勝手の良さも好評。松居さんは、店を選ぶ際、味、雰囲気、マナーの3つを基準にしているという。「やっぱり味だけじゃなくて、いかに気分よく店を出られるかが大事。その点で『膳處漢』さんは、味はもちろん、建物の雰囲気もいいし、マナーや気配りが行き届いていて、必要な時に来てくれる距離感もいい。だからずっと通っているんだと思います」(松居さん)松居さんの言葉に、「お褒めの言葉をいただけるのは、とてもありがたいです」と店長の尾﨑剛さん。「ここに来られるお客様は千差万別なので、それに臨機応変に対応できるようにしています。また、マナーとともに、常に必要な時にパッと手が届くということも、私たちが目指しているところ。皆、一つでも喜んで帰っていただけるようにという思いで接客しています。これからも、『膳處漢』に来れば間違いない、絶対おいしい、絶対楽しめると思っていただける店でありたいですね」予算は昼3000円、夜1万円程度。撮影 エディ・オオムラ 文 山本真由美■膳處漢ぽっちり京都市中京区錦小路通り室町西入ル天神山町283-2075-257-5766営業時間 11時30分~15時(LO14時)、17時~22時30分(LO21時30分)定休日 無休https://kiwa-group.co.jp/zezekan/※営業時間は状況により変更の場合あり。お店にお問い合わせください。
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BLOGうつわ知新
2020.12.30
永楽3
今回は「永楽」の器について梶さんにレクチャーいただきました。今回は、それらの器に京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理を盛りつけていただきました。「永楽」の世界観と見事な料理のコラボレーションを堪能ください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。永楽に新春の料理を盛る2021年、最初のお料理は、「祇園 さゝ木」佐々木浩さんにお願いしました。食材の持ち味をとことん引き出す独創的な料理で知られる佐々木さんが、新春の料理を永楽に盛り付けたらどのような表現になるのか。誰もが見てみたいと願う「さゝ木の料理」を披露します。うつわの形や色柄などを見極め、盛り付けられた料理はアートのような美しさです。16代 永楽即全造 仁清写双鶴向付 この向付は、向鶴(むかいづる)或いは、菱鶴(ひしづる)向付とも呼ばれていて、表千家7世如心斎(じょしんさい)の「好(このみ)」となっています。大概のうつわは「めでたさ」を表現しているのですが、このうつわは赤を用いることで強くそれを印象付けています。また赤が艶消しの釉薬になっていて、とても洒落た演出になっています。 16代の永楽即全の作品ですので、絵付けも整っており、ある意味機械で生産したような几帳面さのあるうつわです。それは私たち現代人が、個々の異なる魅力より、均一に整っていることが高い品質だと思い、それを求めた結果だと思っています。私はこの均一であることの「そろいの美」は、15代正全と16代即全のこだわりであり魅力でもあると同時に、面白くない部分でもあると思っています。永楽2より新春の口取り「祇園さゝ木では、お正月料理はお客様におだししていません。それというのも、みなさんご自宅や他のお店で、十分にお正月のお料理を召し上がっていらっしゃるだろうと思うからです。 "そろそろ正月料理に飽きていたから、こんな料理が食べたかった"と言っていただくのが私の願いです。今回は由緒正しい永楽のうつわを1月にご紹介するとお聞きし、新春を寿ぐ料理にしたいと思いました。『祇園 さゝ木』、『祇園 楽味』、『鮨 楽味』3店の合作料理をご覧ください。 私が調えたのは、新春の「口取り肴」です。口取りは、新春のお祝いの席や饗膳などの最初に出す、いわゆる酒の肴。朱色の地に鶴が羽ばたくこの向付皿を拝見した時、上品な肴を盛るのにぴったりだと思いました。黒豆、サーモンの砧巻、金柑いくら、車エビ塩ゆで、ふくさ玉子、鯛竜皮巻、紅白ちょろぎを彩よく盛り付けています。料理を盛ることで、うつわの美しさや品格がさらに際立ちます。」『祇園 さゝ木』佐々木浩さん14代 永楽妙全造 赤絵福字中皿 見慣れた呉須赤絵図柄でもありますから、このうつわだけを見ていてもなんら特別な印象はありませんが、いざ料理を盛ってみると、華やぎを与える素晴らしいうつわです。 明時代の漳州窯(しょうしゅうよう)の本歌の御須赤絵は、この写真の作品よりもっと筆が走っているために、やや雑な印象を与える絵付けですが、そこがこのうつわの面白さでもあります。 永楽妙全の作品の多くも、少し筆の暴れや金彩がかすれていく、うつわ個々の風情を楽しませようとする狙いが隠されているようです。このやや乱暴とも言えるような個々の面白さ、言うなれば「不揃いの美」のような感性を、この妙全の頃までは、積極的にうつわの中に盛り込んでいるようです。ここに「揃いの美」が好きか「不揃いの美」が好きかの好みの分岐点がありそうです。永楽2より「赤絵の福字皿ということで、ふく(ふぐ)を盛らせていただきました。赤、緑、金という文様の色目に合わせ、白身のふく、緑のあさつき、琥珀色のぽん酢のジュレと決めました。繊細な絵柄を邪魔しない料理で、この皿の美しさを引き立てたいと思ったのです。 皿のなかほどにふぐを厚めに切ったふぐぶつを盛り付け、ポン酢のジュレをかけてあさつきを添えました。食べ進むと、白子やてっぴなども身の下に潜んでいます。 そして、最後のひときれを食べると、その下から福の文字が現れる。食べてふくの美味しさを感じ、観て華やかな気持ちになる。新春を祝う一品です。」 『祇園楽味』水野隆弘さん14代 永楽妙全造 染付飛鶴絵重 塗り蓋宗哲 私がこの重箱を扱うのはこれで3度目ですが、この重箱が今の時代に残されている数を考えると、極めて異例の多さだと思います。同素材で作られた共蓋の他に、特別に中村宗哲作の塗り蓋が添えられ、その塗り蓋には表千家12世惺斎の花押(かおう)が入れられていることは、この重箱がお家元の好(このみ)に近い形で、極めて限定的に作られたものだったと言うことを示いると思うからです。 この表千家12世惺斎は14代永楽妙全と15代正全の活動を支えたようで、彼らの作品に度々箱書きを行っています。永楽2よりにぎり鮨とちらし寿司「永楽妙全作ということに加え、表千家12世惺斎のお好みだとお聞きし、緊張感をもって臨みました。上段には、鮪、蟹、烏賊、こはだ、鯛、車海老、穴子、鯖きずしのにぎり。彩よく盛ることはもちろんですが、空間の美しさも生かしています。下の段には、普段、店ではおだししていないちらし寿司を盛り込みました。鮪、烏賊、サーモン、車海老、穴子、玉子、いくらという豪華なネタに加え、お正月らしい、黒豆や甘酢レンコン、赤と黄色のとびこなどを飾っています。たとえば、ご家族でこのお重を開いていただくとして、蓋をあけると豪華なにぎりが並んでいる、さらにその下には彩豊かなちらし寿司が盛り込まれている。見たとたんに心が華やぐ場面を思い浮かべ、作らせていただきました。」『鮨 楽味』野村一也さん祇園 さゝ木味はもちろんこと空間や劇場型のもてなしまですべてが「ほかにはない」と評され人気を博す京都を代表する料理店。店主の佐々木浩さんは、客を驚かせ喜ばせる達人で、常に新しい料理を模索して作り上げる。その日仕入れた筍や鮑をピッツアの石窯で焼き上げ、洋テイストの味わいに仕上げるなど、従来の和食の範疇を超える料理も多い。客前で生きた蟹をさばく、鮨を握って手渡すなど躍動感ある演出もこの店の魅力。グループ店に割烹形式で一品料理を味わえる『祇園 楽味』、さゝ木の料理と鮨の両方を味わえる『鮨 楽味』、洋食など酒に合う料理で飲める『食ばあー楽味』がある。■祇園 さゝ木京都市東山区八坂通り小松町566-27電話:075-551-5000営業時間:12:00~14:00、18:30~いずれも一斉スタート土曜 17:00~、19:30~一斉スタート定休日:日曜日、第2・第4月曜日、不定休あり■祇園 楽味京都市東山区祇園町南側570-206電話:075-531-3773営業時間:終日2部制第1部17:30~20:20(最終入店18:30)、第2部20:30~23:00(最終入店21:30)定休日:日曜日、第2・第4月曜日、不定休あり■鮨 楽味電話:050-5597-8015営業時間:第1部17:00~、第2部19:30~ 一斉スタート定休日:日曜、第2・4月曜
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BLOG京都美酒知新
2020.12.29
カクテルが飲みたくなる話「マンハッタン」
■西田稔(にしだみのる) 京都木屋町二条「Bar K6」、「cave de K」、「keller」のマスターバーテンダー。2020年開業の「ザ・ホテル青龍 京都清水」内の「Bar K36」を監修。自らもカウンターに立つ。京都生まれ、同志社大学卒業後、東京のバーで経験を積み、1994年に「Bar K6」を開業した。シャンパーニュの将校、グラッパの騎士、クリュッグアンバサダー、ウイスキーコンテスト審査員マンハッタンカクテル言葉「せつない恋心」みなさんもご存知のようにマンハッタンは、ニューヨーク州ニューヨーク市にある5つの行政区のひとつ。ニューヨーク市の中心街でもあるマンハッタンは、都会の代名詞ともいえる場所です。ところが、この場所は、かつては先住民族のレナペ族の持ち物だったそうです。1926年、オランダの西インド商会が、酒を飲んだことがないレナペ族の酋長にビールを飲ませて酔わせ、土地譲渡書にサインをさせ、たった24ドルで買い取りました。酔いのさめた酋長が、「マンハッタン(酔っ払い)状態でサインさせた契約は無効だ」と主張しましたが、すべては後の祭り。マンハッタン区の名前は、このレナペ族の言語「泥酔」が由来だったのですね。 カクテルの「マンハッタン」は、「カクテルの女王」と呼ばれる、クラシックのなかでもひときわ名高いカクテル。ウイスキーをベースにベルモットとビターズを合わせます。バーテンダーによって使うウイスキーはさまざまですが、私はライとトウモロコシをブレンドしたカナディアンウイスキーを用います。つまり、同じレシピであっても、どんなウイスキーを使うかで味わいが変わるということ。バーテンダーの匙加減が肝心だということでしょうか。京都でも、今年は大人数での忘年会や新年会は難しいですが、家族や親戚とプライべートで食事をする機会は増えるかもしれません。くれぐれもマンハッタンにはならないよう、お気をつけくださいね。カクテルレシピカナディアンウイスキー 45mlスイートベルモット 15mlアンゴスチュラビター 1dash12月のウイスキーカナディアンクラブ 20年世界中のウイスキーラバーに「C.C.」の愛称で親しまれるカナディアンクラブは、カナディアンウイスキーの先駆者といえる存在。上品ですっきりとした味わいが魅力です。カナディアンウイスキーは、ライ麦を主に使ったウイスキーと、トウモロコシから作ったウイスキーをブレンドしたもの。ウイスキーとバーボンの良さを合わせもつ味わいは、マンハッタンに最適です。「カナディアンクラブ 20年」は、濃い琥珀色。キャンディ、レーズン、スモモ、リンゴの花のような芳醇で極めて強い香り。スムースでクリーミーテイストを極めたピュアな風味。ナッツとスパイスをミックスしたような感覚が特徴です。ロックもいいですが、寒い時季にはストレートで、その芳醇な味わいをじっくりと愉しんでください。カナディアンクラブ蒸溜所のあるカナダ・オンタリオ州ウィンザーは、清冽で豊かな水脈と自然に恵まれ、穀倉地帯にも近く、ウイスキーづくりに最適な環境にあります。カナディアンクラブの誕生は1858年。たちまちにしてアメリカ東部を中心にした紳士が集まるクラブで、洗練された品格あるウイスキーとして人気を獲得しました。当時、アメリカでよく飲まれたライウイスキーやバーボン、さらにはスコッチ、アイリッシュにもない爽快なタッチ、新しい感覚のテイストだったからです。この人気は、現在につづくカナディアンウイスキー全体の香味特性を決定づけるほどの多大な影響を与えました。(サントリーHPより)撮影:ハリー中西■Bar K6京都市中京区木屋町二条東入ル ヴァルズビル2F075-255-5009
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BLOG京のとろみ
2020.12.29
「楽酒菜はづき」の鴨山椒あんかけ
新町三条にあった「まゆめ」が今年の8月「楽酒菜はづき」となって河原町松原に移転オープンされた。まゆめ時代から日本酒が豊富で日本酒好きに愛される店だったが、はづきになっても厳選された日本酒が楽しめるのが嬉しい。そして何よりもニュースなのは12時から23時までの通し営業になったことだ。日替わりランチを食べているサラリーマンやOLに交じって、昼間からしっかり日本酒や焼酎と共に夜のメニューが楽しめる。夜の一品メニューはお酒が進みそうな料理がずらりとならんでいるが、この時期惹かれるのはやっぱりとろみたっぷりの餡掛け系である。小芋や南瓜のそぼろ餡掛けは具材を素揚げしてから餡がかかっているので、表面がカリッと仕上がりとろとろ餡との相性がいい。この日いただいたのは「鴨山椒あんかけ」。そのままでも充分美味しい鴨ロースに山椒たっぷりの餡がかかっている。添えられている九条ネギを餡にからめ鴨ロースで巻いていただく。鴨と山椒とネギ、そら旨いわ!燗酒が止まらなくなる。これを昼間からいただく罪悪感がたまらない(笑)
ハリー中西
料理カメラマン
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BLOGうつわ知新
2020.12.28
永楽2
今回は「永楽」の器について梶さんにレクチャーいただき、京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理をおつくりいただきました。「永楽」の解説については、永楽1「歴史」永楽2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。「永楽」の世界観をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。永楽16代 永楽即全造 仁清写双鶴向付この向付は、向鶴(むかいづる)或いは、菱鶴(ひしづる)向付とも呼ばれていて、表千家7世如心斎(じょしんさい)の「好(このみ)」となっています。「好」というのは、それぞれ茶人の創意工夫によってデザインされ、職人に作らせたものを言い、この「好」として過去に作られた作品を16代永楽即全の解釈で再構築したものと言えるでしょう。大概のうつわは「めでたさ」を表現しているのですが、このうつわは赤を用いることで強くそれを印象付けています。また赤が艶消しの釉薬になっていて、とても洒落た演出になっています。 裏面は三つの足がついていて、その形状は桃山時代の織部や明の古染付向付に習っているようです。16代の永楽即全の作品ですので、絵付けも整っており、ある意味機械で生産したような几帳面さのあるうつわです。それは私たち現代人が、個々の異なる魅力より、均一に整っていることが高い品質だと思い、それを求めた結果だと思っています。私はこの均一であることの「そろいの美」は、15代正全と16代即全のこだわりであり魅力でもあると同時に、面白くない部分でもあると思っています。14代 永楽妙全造 赤絵福字中皿この作品は赤・緑・青の3色の色絵で表現されています。 見慣れた呉須赤絵図柄でもありますから、このうつわだけを見ていてもなんら特別な印象はありませんが、いざ料理を盛ってみると、華やぎを与える素晴らしいうつわです。 明時代の漳州窯(しょうしゅうよう)の本歌の御須赤絵は、この写真の作品よりもっと筆が走っているために、やや雑な印象を与える絵付けですが、そこがこのうつわの面白さでもあります。 永楽妙全の作品の多くも、少し筆の暴れや金彩がかすれていく、うつわ個々の風情を楽しませようとする狙いが隠されているようです。このやや乱暴とも言えるような個々の面白さ、言うなれば「不揃いの美」のような感性を、この妙全の頃までは、積極的にうつわの中に盛り込んでいるようです。10客組の向付で、ひとつひとつ出来が異なっていて、それをもしバラ売りすれば、出来の良いものから売れていきます。しかし出来が良いからと言って、機械生産したようなまったく同じ向付の10客揃いが面白いかと言えば、それは違うかもしれません。ここに「揃いの美」が好きか「不揃いの美」が好きかの好みの分岐点がありそうです。14代 永楽妙全造 染付飛鶴絵重 塗り蓋宗哲 私がこの重箱を扱うのはこれで3度目ですが、この重箱が今の時代に残されている数を考えると、極めて異例の多さだと思います。同素材で作られた共蓋の他に、特別に中村宗哲作の塗り蓋が添えられ、その塗り蓋には表千家12世惺斎の花押(かおう)が入れられていることは、この重箱がお家元の好(このみ)に近い形で、極めて限定的に作られたものだったと言うことを示いると思うからです。 この表千家12世惺斎は14代永楽妙全と15代正全の活動を支えたようで、彼らの作品に度々箱書きを行っています。左)15代 永楽正全造 仁清松竹梅小皿 右)11代 永楽保全造 安南焼 沓鉢 対照的な二つの作品を一枚の写真に収めてもらいました。 乱れのない繊細な筆遣いと豪華な金彩の絵付けを見どころにした、15代正全の小皿。歪んだうつわに仕上げ、上薬には全体に細かな貫入が入り、呉須の絵付けもややぼやけさせて、高台の畳付も意識的に荒く削り、高台内のベンガラの塗りにもムラ感を出す等、うつわ全体にわざと粗雑さを強調して、それを見どころに変えようとしている11代保全の安南焼沓鉢(あんなんやき くつばち)です。 保全は顧客の家で目にした焼物を忠実に写すことを心がけた結果、大変質の高いうつしものを残すことに成功していますが、それがこの鉢にも表現されています。ところがその傾向は世代を重ねるごとに薄れて、特に15代正全以降は忠実に写すことよりも、永楽家として本歌をどう解釈をして、どう永楽流の京焼に作り変えるか、ということに焦点を移して、作品作り進化させてしまっているように思います。その結果、乱れなく整った形と絵付けの綺麗さ(「揃いの美」)は、本歌の仁清を上回る緻密で整った絵付けとなり、それが永楽の魅力だと思わせる結果に至ったのだと思います。左)11代 永楽保全(善一郎)造 染付手塩皿 右)12代 永楽和全造 染付松皮菱小鉢 染付網目ニ魚の皿は、保全が近江の膳所(ぜぜ)の窯で焼いたものだということが、高台内の「於湖南永楽造」の銘からうかがうことができます。また、この作品の箱には永楽善一郎と記されてもいます。つまり息子と仲違いした保全が、京都を離れて膳所の窯で善一郎を立ち上げてから焼いた作品です。細やかな網目の絵付けを施しながら、なぜかその筆遣いで印判手(版を用いて転写する技法)の皿に見えるような技です。 もう一方は息子の和全の作品で、馬と鹿を交互に描き、縁には幾何学模様を施しています。この馬鹿の図柄は中国の故事に由来しており、紀元前200年頃、秦の始皇帝に使えた宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が権力を握っていく過程で、自らの力を試した逸話が残されています。側近一同の面前で皇帝に鹿を献上し、それを馬だと言い放って異議を唱える者を処罰したのです。この話が馬鹿の起源になったということです。そんな故事を江戸明治期の日本人は好んでいたのですね。どちらのうつわも白さの際立った素地に瑠璃色に近い発色の呉須で描かれて、幾何学門文を配していることから、祥瑞風のうつわの注文に応えたものでしょう。本歌に忠実に作ろうとしている姿が見えます。12代 永楽和全造 仁清翁様作写 茶碗 黒ノ七宝 「仁清翁様作写 茶碗 黒ノ七宝」と14代永楽得全が箱表に作品名を記しています。また箱裏にも「家父耳聾軒和全作次郎相違無之証、父在世之時仁清翁様作ナル黒おか禾本造之別而苦心之一種也」と記されております。 「永楽家の父 耳聾軒和全(じろうけんわぜん)の作に間違いありません その証は父が生前に仁清翁様(にんせいおきなさま)の黒をだすために 禾本(イネ科の植物)の大鋸屑(おがくず)を用いて苦労していたからです。」と言うような内容が書かれて12代和全の作品であることを極めています。 この文章から、12代和全は晩年聴力を失っていたこと、そのことから自らを「耳聾軒和全」称していたこと、仁清の窯跡の上に自分の窯を築いたことを縁と感じて仁清の作品の写しに精力を注ぎ込んでいたこと、「仁清翁様」と呼んで、家をあげてとても敬っていたことなどが読み取れます。私は、この茶碗をしばらく所有して、茶碗との対話をしてみました。 和全の真剣な取り組みがにじみ出たようなこの茶碗を、過去扱った永楽の茶碗の中で、最上の出来栄えだと思っています。この永楽和全より前の時代に、青木木米(1767年~1833年)という京都の名工がいました。彼も聴力を失い、自らを「聾米(ろうべい)」と称していました。このころの陶芸家は、耳を近付けて窯の温度を測っていたために耳を傷めたのです。※「永楽」料理回につづく
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BLOGうつわ知新
2020.12.27
永楽1
今回は「永楽」の器について梶さんにレクチャーいただき、京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理をおつくりいただきました。「永楽」の解説については、永楽1「歴史」永楽2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。「永楽」の世界観をお楽しみください。梶高明梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。永楽 その歴史茶道具を中心に作品を生み出す陶芸家たちを茶陶(ちゃとう)の作家などと呼んでいますが、その茶陶の代表格といえば樂家と永楽家の両家と言えるでしょう。今回は、その一つの永楽家についてお話していきます。永楽家は本来の姓を「西村」と言い、代々の当主は「善五郎」を名乗り、その初代は室町時代の終わりに奈良の西ノ京に住まいしていました。永楽と名乗り始めるのはずっと後の幕末のころになってからで、春日社の供御器(くごき)と呼ばれる、神事に用いるうつわを作る職人であったようです。やがて二代目の頃、茶の湯が広く流行し、侘び茶(わびちゃ)を主導した武野紹鴎(たけのじょうおう)などから土風炉の注文を受けるようになると、堺に移り住みます。三代目の頃には千家からの注文も受け賜るようになり、住まいを京都へ移し、下京の六条東洞院(ろくじょう ひがしのとういん)に居を構え、さらに室町下立売(むろまち しもだちうり)に移り住んだと言われています。 その後も土風炉師の西村家は代を重ねますが、9代目の西村善五郎は技の継承もできぬまま、9歳の幼い少年(後の10代西村善五郎・了全)を遺して早逝してしまいます。この時の西村家は土風炉師であり、まだ様々な焼物を作っていたわけではありませんでした。この9歳の少年がその後の数年間をどのように暮らしていたのかを記した資料を見いだすことが出来なかったため、お話しできないのですが、彼が18歳になった天明8年(1788年)、京都を天明の大火が襲います。京都五花街のひとつで、鴨川のすぐ東にある宮川町辺り(南座の南辺り)から出火し、風に煽られた炎は鴨川の西対岸へ飛び火し、やがて京都全体を焼き尽くしたのです。この大火によって、西村家は家屋のみならず、歴代の資料や仕事道具の全てを失ってしまいます。 そんな西村家の窮地に、表千家8世啐啄斎(そったくさい)とその子の了々斎(りょうりょうさい/後の表千家9世)が手を差しのべます。 その結果、西村家は9代樂吉左衛門(了入)の世話になり、このことが、西村家を土風炉だけでなく焼物を生産する道へと導いていくのです。 天明の大火は京都の大半を焼き尽くしたため、当然、表千家や樂家も焼け出されてしまいました。しかしこの未曾有の大災害の下、京都の人々は力を結集して互いに助け合ったことが表千家・樂家・西村家のお話の中にも見て取れますね。 天明の大火の約18年後、西村家は次代を担う男子(後の保全)を大徳寺の大綱和尚の仲介で養子に迎えます。このことからも、西村家の仕事が安定してきたことがうかがえます。さらに、西村家は土風炉の製作だけに留まらず、金彩で装飾した灰器や火入れなども手掛け始めます。その後、樂家との交流が強く、さらに千家からの仕事の依頼が多かったためでしょうか、西村家は樂家の至近に転居します。これが文化12年(1815年)の頃といわれています。さらにその2年後の文化14年(1817年)、10代西村善五郎(了全)は隠居し、その養子(保全)に11代善五郎を託し、自らは隠居名の了全を名乗ることになります。 土風炉師の仕事に加えて、西村善五郎(了全)が、いつから他の焼物を焼き始めたのか明確にわかりませんが、文政7年(1824年)には表千家からの注文に対して、青磁花生や交趾焼香合の見積書を提出した記録が残されていますので、この頃にはある程度の数もこなせて、多様な焼物を焼くノウハウも蓄積されていたことが伺われます。 文政10年(1827年)、表千家9世了々斎が、西村了全の作った紫交趾のうつわを紀州徳川家の治宝(はるとみ)侯の茶会に持参したところ、治宝侯は、このうつわを大層気に入ったそうです。 時はちょうど、治宝侯が西浜御殿(にしはまのごてん)を造営し偕楽園(かいらくえん)という庭を整備している時でした。すぐさま治宝侯は、息子の西村善五郎(後の保全)を呼び寄せ、この偕楽園のお庭焼として、交趾の焼物を焼かせます。その出来栄えは素晴らしく、治宝侯はそれを労い、「永楽」と「河濱支流」の陶印を授けるのです。 このことを契機に西村善五郎(後の保全)は永楽善五郎と名乗り始めることになったのです。また了全も天保12年(1841年)に71歳で亡くなるまでの13年間は永楽を名乗り、磁器以外の様々な作品を残します。 天保14年(1843年)、11代善五郎(保全)はその長男(後の和全)に12代目善五郎を譲ると、隠居名の保全を名乗るのではなく、「永楽善一郎(ぜんいちろう)」と名乗り、焼物師に特化した仕事を始めるようになります。西村家の本業である土風炉師の仕事は長男(後の和全)に譲って、土風炉師と焼物師の線引きをしようと言う狙いがあったのかもしれません。 弘化四年(1847年)、永楽善一郎(後の保全)は塗師の佐野長寛の次男(後の宗三郎)を客分として養い始め、やがて焼物師として名乗り始めた「善一郎」をこの宗三郎に譲り、「焼物師」の家を建てようとします。しかし、この行為は長男の12代永楽善五郎(和全)には受け入れられず、これを原因に、以降この親子は不仲になったと言われています。またこの頃に一旦は「善一郎」と名乗っていたところを「永楽保全」という隠居名を名乗り、作品にもその名を刻むようになります。 嘉永元年(1848年)、永楽保全は関係が悪化した息子のいる京都を離れ、琵琶湖畔の膳所(ぜぜ)に窯を築き、河濱焼(かひんやき)を興し「於湖南永楽造(おいて こなん えいらくつくる)」と作品に記すようになります。この転居や彼の陶磁器研究(七宝に興味を持ったとも言われる)にかける熱意が、彼を経済的に追い込み、嘉永3年(1850年)には金策のために江戸へ出向くことになります。 保全はこの4年後の安政元年(1854年)に60歳の生涯を閉じることになりますが、それまでのわずかな間も精力的に動き、嘉永4年(1851年)には客分として預かっていた、前述の宗三郎を養子として迎え入れます。また、嘉永5年(1852年)に摂津高槻城主の永井直輝(ながいなおてる)侯の招きで城内に窯を築き高槻焼を興し、さらに安政元年(1854年)には大津の三井寺(みいでら)の円満院門跡(えんまんいんもんぜき)の御濱御殿(みはまごてん)内で覚諄法親王(かくじゅん ほっしんのう)の御用窯として三井御濱焼を興します。 この事は傍目には保全が人気者で引く手あまたとも見えますが、実はこうしてあちらこちらの要望に応える以外、彼が収入を得る有効な手立てがなかったのかもしれません。 一方、同時期の12代永楽善五郎(和全)は、嘉永2年(1849年)に義弟の宗三郎を自らの跡継ぎにと考えた時期もあったようです。しかし、宗三郎は分をわきまえて後年、西村宗三郎として自ら分家を興しはしますが、明治9年(1876年)に急逝するまで、永楽家を支えることに専念するのです。 嘉永5年(1852年)、和全は宗三郎が所有する御室にある仁和寺の門前の土地に、新しい窯を築きます。 その工事の際、仁清印の陶片が多く出土したことにより、新しく築いた窯の場所は仁清の窯跡であったことが判明したのです。この出来事は、永楽家が仁清や乾山を研究し、自分たちの作品は、その技を引き継いでいかねばならないと強く意識させることにつながっていったようです。実際、私の手元に永楽和全が作った仁清写し七宝繋ぎ黒茶碗がありますが、それを作った和全が試行錯誤を繰り返した様子を、息子の14代永楽善五郎(得全)が箱に記しています。 そして翌年の嘉永6年(1853年)から、この御室窯において生産が始まります。これまで京都の市中で小規模な工房で生産を続けていた状況とは違い、生産体制が整ったことで、和全はその才能を存分に発揮し、完成度の高い色絵や金襴手を量産し始めます。それを陰で支えた存在として、熟練した技術を持った義弟の宗三郎(後の13代永楽回全)と共に轆轤師の西山藤助(後の13代永楽曲全)を忘れてはならないでしょう。 この年にペリーが来航し、和全には長男が誕生し、この子が後の14代永楽善五郎(得全)になります。翌、安政元年(1854年)に保全が多額の借金を残して60歳の生涯を閉じます。この借金を背負って、幕末明治維新の動乱期を12代永楽善五郎(和全)は懸命に作陶を続け、その名を世に広めていきます。 慶応2年(1866年)、12代永楽善五郎(和全)は加賀大聖寺藩に招聘され、九谷焼の職人たちに明治3年までの約5年間技術指導を行います。この時、九谷山代へは宗三郎と長男(後の14代得全)を伴って出かけていますので、この間の京都での生産活動は止まったに等しい状態だったと考えられます。 九谷では良質な金沢の金箔を用いて金襴手の作品も多く製作しました。また九谷滞在中に元号が明治に改まり、その際の「戸籍法制定」を契機に、戸籍名も西村から永楽へ変更登録しました。 明治3年(1870年)に加賀山代から京都へ引き上げた12代永楽善五郎(和全)は、翌年(1871年)、長男(後の得全)に14代目善五郎を譲ります。隠居後の短期間は永楽善一郎を名乗りましたが、やがて隠居名の永楽和全を名乗り始めます。ところが、京都へ引き上げてみると欧州からの文化が押し寄せており、伝統日本文化は軒並み存亡の危機に瀕していきます。当然、経済的にも追い込まれ、何とか活路を見出すべく、明治5年(1872年)、永楽和全は裏千家11世家元の玄々斎(げんげんさい)の高弟の鈴木利蔵の招聘に応じて、愛知県岡崎甲山(かぶとやま)の地に出向き、赤絵や染付を量産するための新たな窯を築きます。 この岡崎で生産された作品は、やや質の劣る量産品だったために手荒く扱われたのか、はたまた運営が上手く出来なかったからか、それとも作品数が少なかったのか、どんな理由があったのかはわかりませんが、いまでは市場で見かけることがほとんどありません。 その運営の不首尾を裏付けるように、永楽和全は明治10年(1877年)には甲山の窯に見切りをつけて京都に戻っています。岡崎滞在中の明治6年(1873年)、和全は東京へ出向き、作品を定期的に購入してもらうための頒布会組織の発足を三井家に相談していますが、不調に終わっています。このことからも当時の永楽家の窮状が見て取れます。 残念ながら、詳細な資料を見つけることは出来ませんでしたが、和全が京都に戻ったときの永楽家の窮状は相当なものであったようで、中断に追い込まれた作陶の再開を裁判所に願い出て、ようやく家業再興の承認を受けた記録が残されています。財産を差し押さえられていたのかもしれません。 明治15年(1882年)、永楽和全は油小路一条(あぶらのこうじ いちじょう)の自宅を売却し、高台寺下河原(こうだいじ しもがわら)に菊谷窯(きくたにがま)を開きます。そこでは、やや粗雑な生地を使いながらも、味わいある絵付けを施すことで、数寄者好みの趣ある作品を生み出していたと思います。先の岡崎甲山では、質の悪い生地に、粗さの目立つ絵付けの作品を生産して失敗した反省がこの菊谷窯では生かされていたのでしょう。 菊谷窯での作品には、「永楽」印ではなく、三井高福(みついたかよし)の筆による「菊谷」の印が押され、乾山風の作品を多く製作しています。 さて一方、14代永楽善五郎(得全)は明治3年の継承以降、父の和全と共に多くの作品を生み出します。特に呉須赤絵の作品は評価が高く、その力強くスピード感溢れる筆致が彼の特徴と言われています。 彼は歴代の永楽の家系を整理し、実際には善五郎を名乗ることがなかった西村宗三郎と、轆轤師の西山藤助らの死後、その貢献度を評価して、両名を共に13代目に迎え入れました。彼は妻の悠(14代妙全)との間に子供をもうけることができなかったためか、得全の甥の治三郎(後の15代正全)にその技を伝えるよう努め、その甲斐もあって、得全が明治42年(1909年)に57歳で亡くなった後、治三郎は悠が亡くなる昭和2年(1929年)まで彼女を支え、やがて15代永楽善五郎(正全)を襲名します。 悠は女性ながらも、夫亡き後の家業を懸命に守る姿が評価され、大正2年(1914年)に三井高保(たかやす)より「悠」の印を受け、以降その手掛けた作品の箱に「悠」の朱印を押し始めますが、その後三井高棟(たかみね)より、「妙全」の号を賜り、悠(74歳)の亡き後、妙全の名で、夫の得全に添って、共に永楽家14代に名を連ねることになります。 15代目永楽善五郎(正全)は、襲名から5年後の昭和7年(1932年)に53歳の生涯を閉じますから、その間のわずかな期間に世に出た作品しか彼の仕事は見ることが出来ません。家業は昭和10年(1935年)に息子の16代永楽善五郎(即全)に引き継がれていきます。 このように永楽家は、土風炉師を生業として繋いできたところ、10代目の了全によって焼物師として新たな事業を興しました。しかしそれ以降、永楽家の歩んだ道のりは平坦なものではなく、家庭内においても経済面においても、苦難の連続であったと言えるでしょう。 歴代の永楽が茶陶の道を歩まんとしたにもかかわらず、茶道具だけではなく数多くのうつわをこの世に残していることは、茶道具だけではとても生活が成り立たなかったことを物語っているのかもしれないと私は考えています。しかし同時に、その苦労のおかげで京都のみならず、日本の懐石料理の発展にどれだけ寄与したかと言うのは今だからこそわかることで、これは永楽家の誇れる歴史だと思います。ここでひとつ、料理人として、あるいは陶芸家として日々研鑽を積まれている皆さんにお伝えしたいことがあります。それは、この永楽家や樂家のうつわは懐石料理のバイブルと言っても良いものだということです。それらが表現する季節感、サイズや形が教え導いてくれる料理の盛り方、間合いの取り方などしっかり学んでください。 例えば、うつわのサイズだけをとっても、茶室の広さや、折敷の大きさ、料理の品を良く見せることを考慮して作り続けられてきているのです。この長い歴史の中で作り上げてこられた懐石の標準スタイルを、これらのうつわの中から、まず学んでみてください。各々の家庭の食器棚から学ばず、日本文化の中から一度は基本を学んで見ることをおすすめします。※2回目作品解説につづく
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