2025年04月29日(火)公開
脱線事故で脳にダメージ...重体から奇跡的回復遂げた鈴木順子さんの20年 記憶障害に苦しみながらも陶芸できるように「いろんな方の助けで生きてこられた」
編集部セレクト
乗客106人が死亡した2005年のJR福知山線脱線事故。鈴木順子さん(50)は当時2両目に乗っていて、一命をとりとめ奇跡的に回復しましたが、記憶障害となりました。家族らに支えながら生き続けてきたこの20年。今の思いを聞きました。
「お弁当箱の中に豆腐を入れて、がしゃがしゃと振ったような…」
20年前の脱線事故で鈴木順子さん(50)は意識不明の重体で見つかりました。全身を強く打ち、脳に致命的なダメージを受けていて、医師は家族に厳しい宣告をしました。
(大阪市立総合医療センター 林下浩士医師※2006年取材)「わかりやすく言えば、お弁当箱の中に豆腐を入れて、がしゃがしゃと振ったような…。お豆腐はぐちゃぐちゃになる、これはそういう衝撃が加わったCT画像です。『もしかしたら(助かる)』という曖昧な言葉は使わなかったと思います。『亡くなります』と。たとえ良くなったとしても『意識は出ません』と、そういう説明をしました」
その後、何とか一命をとりとめた順子さんの意識を回復させようと、家族はあらゆる刺激を与えました。
(順子さんの姉 敦子さん)「何か思い出すかなと思って、頭に巻く三角巾に香水を毎日振ったり、CDで音楽を聴ける物を買ったり、童謡を聴かせたり」
事故から5か月後、奇跡的に意識は回復しましたが会話を交わせるほどではなく、母・もも子さんは順子さんの“ある言葉”に胸を痛めました。
(順子さんの母 もも子さん)「ときどき声が出るときは『なんで~』と言うんです。なんで自分がここにいるのか、なんでこうなったのか、あの子の中では理解できていない」
もう一つ気がかりだったのは、食事をしないこと。事故直後、口の中がガラス片で埋まっていた順子さんは、食べることを拒否し続けていました。ところが、事故から11か月後、退院して1週間が過ぎた時、初めてプリンを口にしました。この日を境に食事をとるようになり、笑顔も増えていきました。
「できることは全部するし、頼って」順子さんを間近で見てきた姪の言葉
リハビリにも積極的に取り組み、立ち上がって歩くことが目標に。身体の回復の一方で、順子さんも家族も苦しんだのが記憶障害です。「高次脳機能障害」と呼ばれる症状で、5分前のことや日付がわからなくなり、順子さんは自分が何歳なのか、なぜ障害があるのか、家族に尋ねることが増えました。
(鈴木順子さん)「なんで車椅子になってしまったんだろうと思うので、こういうふうに(紙に記した文章で)形にしてくれています」
この10年で順子さんは今の自分を受け入れるようになりました。「なぜ?」と尋ねることはありません。母・もも子さんは77歳。今の穏やかな生活を続けたいと思う一方で、いつまで元気でいられるかという不安もありました。そんな時、孫の杏月さん(順子さんの姪)から声をかけられました。
(順子さんの姪 杏月さん)「私もいるから、できることは全部するし、『頼って』とは言いました。家族だし…元気な人がそばにいて、(順子さんを)見ていけばいいかなって」
(順子さんの姉 敦子さん)「(Q娘の杏月さんに『頼むね』と言った?)言ってないです。言ってないけど、無言のプレッシャーを与えていたのかも!?」
事故当時、杏月さんは8歳。周りの大人たちが順子さんを必死に看病していた様子を間近に見てきました。今もはっきりと覚えているのは、順子さんが初めてプリンを食べた時のこと。
(杏月さん)「(プリンを)なめて飲み込んだ瞬間を一緒に見ていて、泣いて喜んだ記憶はあります」
大阪で、母親の敦子さん(順子さんの姉)とおにぎり店を切り盛りする杏月さん。家族を支えるのは自然な思いからでした。
陶芸に挑む順子さん「こんなに大きいのを私が作ったというのが…感激、感動です」
手先が器用で絵が得意だった順子さん。資格を取得し自立しようと思っていた矢先に、事故に遭いました。かつての自分を取り戻したいと始めたのが、長年の趣味だった陶芸です。
(鈴木順子さん)「(Q陶芸をしているときは?)自由な感覚です。自分で何でもできる、そんな感覚」
近所の人にも声をかけ、自宅の駐車場を陶芸教室に改装。陶芸家の先生も月に1回来てくれることになり、3年前、皆で“作品展”を開くという大きな目標を立てました。まずは、作品展のメインとなる大皿作り。3時間半、集中して作りました。
(鈴木順子さん)「こんなに大きいのを私が作ったというのが…感激、感動です」
その3か月後、皿に自分のサインを彫ると、次は絵付けです。順子さんは“群れで泳ぐ魚”を描きたいと、ずっと考えていました。後遺症の残る右手が描きにくい時は左手を使って。去年6月、魚の目を描いて、絵付けがついに完成。
(鈴木順子さん)「大満足です。ありがとうございました。もう全力を尽くしました」
作品展で思いがけない訪問も…
兵庫県宝塚市で今年4月17日に始まった作品展『鈴木順子と仲間たち』。これまでに作った作品70点が並びます。1年以上かけて作った大皿は、会場の真ん中に飾られました。そして、思いがけない訪問も…
(大阪市立総合医療センター 林下浩士副院長)「覚えていないと思いますけど…本当に元気そうで。よく頑張っているな」
事故直後、「たとえ助かっても意識は回復しない」と話していた医師が足を運んでくれたのです。
(林下浩士副院長)「ここまで回復するのもびっくりすることですし、感動しかないです」
(順子さんの母 もも子さん)「(20年)しんどいなっていうのは正直ありましたが、(作品展を)開けるってそうそうないことだし、今までの苦労は無駄じゃなかったし、これからも前向きに生きていけるかなと思います」
(鈴木順子さん)「(Qどんな20年でした?)一言ではなかなか言えないですね。いろんな方の助けがあって、ここまで生きてこられたと感じているので、ありがたいです」
順子さんが描いた“群れで泳ぐ魚”。これまで支えてもらった人たちと自分を重ね合わせて、記憶しておきたいと話しています。
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