2025年05月28日(水)公開
「この子と前を向いて歩きたい」脱線事故から"奇跡の生存"18歳だった青年は父になった 新しい命に出会い心境に変化「自分の生き死にばかり考えていたけど...」
編集部セレクト
乗客106人が死亡したJR福知山線の脱線事故から20年。事故発生から18時間後、大破した先頭車両から当時18歳の大学生だった山下亮輔さんが、奇跡的に救出されました。事故当時から長年にわたって取材を受けてきた山下さんが5月、人生の転機を迎えました。
絶望視された先頭車両から救出 医師「両足の切断も考えた」
ベッドの上で宙を見つめる1人の青年。彼は動くことも、声を出すこともできません。当時18歳の山下亮輔さん。あの日、人生は一変しました。
2005年4月25日、マンションに直撃した電車。その地下に埋もれ、絶望視された1両目から山下さんが救出されたのは、事故から18時間後でした。
長時間圧迫された身体の組織から毒素が出る『クラッシュ症候群』。
(関西ろうさい病院 高松純平医師)「これを放っておけば、命にかかわると思いましたので、当然両足の切断も考えました」
(山下亮輔さんの父・正実さん)「ショックですよ。家に帰って息子の部屋に行くとつらい。ズボンとかあるし、靴とかもあるし」
家族らの懸命な支えにより“劇的な回復”
入院1か月となる2005年5月。山下さんに少し反応が…。
(スタッフ)「亮輔くん、タイガース勝ったらうれしい?」
(山下さん)「(うなずく)」
(スタッフ)「きょうは勝ちそう?甲子園行かなあかんしな」
(山下さん)「(うなずく)」
入院3か月目の2005年7月。「言葉が出た」と母親から連絡がありました。山下さんは劇的な回復を遂げていました。
(父・正実さん)「(事故のとき)感覚あったの、足?」
(山下亮輔さん)「体を抜くとき痛くて抜けなかった。最後は無理やり(抜いた)」
しかし、治療は一進一退。40度を超える熱が2か月にわたって続き、再び両足切断の可能性を告げられたことも。母親は1日も欠かさず泊まり込み、支え続けます。
(母・美佐江さん)「がんばれって言うのもつらいし、代わってあげたいけどそういうこともできないし」
何とか松葉杖で歩けるようになったとき、季節はもう冬になっていました。そして、入院10か月の2006年2月。ついに退院の日をむかえました。
(山下亮輔さん)「素直に生きていてよかったというのもあるけど、そんなに両手挙げて喜べることではないかな。友達もひとり亡くなっているし、申し訳ない気持ちもあるかな」
亮輔さんに人生の出会い「一緒に頑張っていけたら」
大学を卒業した山下さんは、生まれ育った伊丹市の職員に。周りの人に助けられた事故の経験から「人のために役立つ仕事をしたい」という思いがありました。
ひとりで生きていくことも覚悟してきましたが、人生の出会いがありました。福祉の仕事を通じて知り合った奈央さん。「こんな自分にも自然体で接してくれる」。5年の交際を経て結婚を決めました。
(山下亮輔さん)「これから足がよくなるわけじゃないから、悪くなることしかなくて。ひざを痛めるとか、傷口が悪化してがんになるとか。将来、体力が落ちていくから、できることがどんどん減っていく」
(奈央さん)「私も全く不安がないわけじゃない。でもそれは考えてもしかたがない心配やと思うから、一緒に頑張っていけたら」
迎えた結婚式 言葉を詰まらせながら語った感謝の思い
両足には麻痺が残っていて、傷が悪化しても感じることができません。必要に応じて病院に通っています。
(西宮協立脳神経外科病院 木下光雄医師)「運動とか感覚障害があるので、潰瘍ができて時間が経過すると、皮膚がんになるおそれがある」
2022年9月11日。迎えた結婚式。これまで支えてくれた家族や友人に囲まれ、笑顔がこぼれます。
(山下亮輔さん)「18歳のときに大きな事故に遭いましたけど、ふたりの懸命な看病のおかげで社会に復帰でき、このような晴れ姿を披露することができました。今こうしてここに立って笑顔でいられるのも、みなさまのおかげです。僕のゆっくりの歩くペースに合わせてくださってありがとうございます」
一日の大切さと重みを実感できたのは「事故があったから」
事故から20年となる今年3月。山下さん夫婦は引っ越しをしました。新居に移った理由があります。お腹に宿った小さな命。
(山下亮輔さん)「まだ実感が…。自分自身の足にケガがあるので、子どもをだっこしてウロウロするとか、子どもが飛び出したときに自分が動けない不安はあるんですけど」
事故があった4月25日。いつもと変わらず職場に向かいます。ただこの日は、あの事故を否が応でも思い出します。
(山下亮輔さん)「一日一日の大切さ、重さを実感しながら、自分を振り返ったり、いろいろな人とつながれたりという経験ができたのは、事故があったからとポジティブに捉えて、この20年を過ごしています」
「この子に愛情を注いで、生きてもらいたい」20年で教わった“生き続ける意味”
(山下亮輔さん)「今もう陣痛室にいるみたいなので、陣痛は起きているみたい。無事に生まれてきてくれたら…」
5月11日、女の子が生まれました。
(山下亮輔さん)「生まれました」
(奈央さん)「(Qどちら似ですか?)わたし似かな。まゆ毛は亮輔くんかなって」
(山下亮輔さん)「名前は葵生(あおい)と決めました。『生きる』という字を付けたほうが、この子にとっていい名前だと思って。すくすくと生きてほしい」
20年で教わった生き続けることの意味。苦しい時は支えてもらって。ひとりで生きていけないのが人生だから。今度は自分が小さな命を守っていきたい。
(山下亮輔さん)「今まで自分が生きること死ぬことばかり考えていたけど、そんなことは今どうでもよくて、この子に愛情を注いで、生きてもらいたい。ともに前を向いて歩いていけたら」
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