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「ご父兄ですか?何か一言を」無神経にマイク向けるマスコミへの怒り 附属池田小事件で娘の命奪われた 遺族が事件直後の『超混乱期』講演で語る(part1/全4回)

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 2001年6月8日、午前10時過ぎ。大阪教育大学教育学部附属池田小学校に、出刃包丁を持った男が通用門から侵入した。2時間目の授業が終わりに近づいた頃だった。校舎1階にある第2学年と第1学年の教室などで、男は児童や教員23名を殺傷した。死亡者8名(うち1年男子児童1名、2年女子児童7名)、負傷者15名(児童13名、教員2名)という痛ましい事件だった。

「何か一言おっしゃってください」無神経なマスコミへの怒りとともに始まった”超混乱期”

 酒井さんらに届いた事件発生の第1報は、妻の携帯電話にかかってきた友人からの電話だった。「車のラジオを聞いていたら、麻希ちゃんの学校で大変なことが起きてるらしいよ。麻希ちゃんは大丈夫なの?」

 友人宅でテレビをつけると、すでに校舎から校庭に子供たちが走っている様子が映されていた。妻はいても立ってもいられず、すぐに酒井さんと連絡を取り合った。「もちろんこの時にはまさか自分の子供が被害になっているなんて思いもしませんでした」と酒井さんは語る。

 妻は「子どもに何かあったら必ず学校から連絡があるはず」と信じていた。一方で、「もし何かあったら麻希を連れて帰らなくてはという思いがあったので、すぐに自分の車で学校に向かいました」。

 道路が渋滞していたため、学校から随分手前のコンビニ店に駐車し、妻は学校まで走った。学校の正門にはすでに黄色いテープが張られていた。妻が立ち尽くしていると、いきなり報道関係者がマイクを向けてきた。

「ご父兄ですか?何か一言おっしゃってください」

(酒井肇さん)
「混乱状態にあるのにマイクを向けられたことがすごく腹立たしくて、マイクを向けた記者に『どこの方ですか』と怒鳴りました」

 それでも記者は「何か一言おっしゃってください」の一点張りだった。

「麻希は?」──搬送先がわからない恐怖

 そのとき「父兄は体育館の方に来てください」という声が聞こえた。妻は報道の垣根をかき分け、テープをくぐって中に入った。

 体育館で「けがをした方の名前を呼びますから前に出てください」と言われ、一番前の方に移動した。そこで名前が呼ばれた。「酒井麻希」と。次に「搬送先の病院を言いますので」と言われ、順々に名前と病院名が発表されていった。しかし、最後になっても麻希さんの搬送先は言われなかった。

「『麻希は?』と尋ねると、『どこの病院に行ったか分からない』というのです」

 妻は取材ヘリコプターの爆音の中、携帯電話で酒井さんに連絡を取ろうとした。しかし、相手の声が全く聞こえない。そうこうするうちに「搬送先が分かりました」という人が現れた。近づいていくと、その人が手に持っているメモが真っ先に目に入った。「酒井 重体」──頭が真っ白になった。搬送先は大阪大学医学部附属病院だった。

なぜ報道陣は自分より先に病院に?

 その頃、酒井さんは会社で仕事をしていた。仕事を途中で切り上げ、急いで病院へと向かう。先に病院に着いた妻からかかってきた電話に驚愕した。

「麻希が大変なことになっている」。

(酒井肇さん)
「私はもう電車に座っていられなくなって、車両の中をうろうろして『麻希、死ぬんじゃないよ。頑張れ、頑張れ』と心の中でずっと叫んでいました」

 地下鉄が新大阪を過ぎた頃、電車の速度がすごく遅く感じられ、いても立ってもいられなくなった酒井さんは、途中の駅でタクシーに乗り換えて阪大病院に向かった。

 病院にはおびただしい数の報道陣がいた。酒井さんは「その瞬間、臓器移植の手術があったため、その取材に来ている報道人だと思いました」という。阪大病院は臓器移植で有名だったため、事件とは全く関係のない報道陣だと思っていたのだ。

(酒井肇さん)
「私は家内と連絡を取り合って、誰よりも早く病院に着いたという思いがありました。だからまさかそこに今回の事件の報道陣がすでに集まっているとは思いもつきませんでした」

 救急部に行って「こちらに搬送された酒井麻希の父親です」と言うと、看護師の顔色が変わった。「ダメなのか」と直感した。

 処置室に入ると、もう麻希さんの顔は土色に変わっていて、妻が横で「頑張れ、頑張れ」と叫んでいる状態だった。

「助かる見込みはありません」──死の宣告

 担当医からの説明は「助かる見込みはありません」。非情な宣告だった。

(酒井肇さん)
「気持ちが動転していましたから、その時の様子を細かく思い出すことはできません。しかし担当医からしっかりとした口調で『麻希はもう戻ってこない』ということを言われたように思います」

 説明を聞いた後、再び心臓マッサージを受けている麻希さんに目をやった。麻希さんの小さな体が冷えていて、もう麻希さんの姿が痛々しくてならなかった。そして言葉にできない思いとともに「ありがとうございました」と医師に告げた。2001年6月8日12時32分のことだった。

 麻希さんの髪の毛には砂のようなものが付着していた。指の爪の中には血液交じりの砂が入っていた。それを見て、妻は「きれいにしてやってください」と看護師にお願いした。少しでもきれいにして家に帰してやりたい―。看護師は頷き、麻希さんを別の部屋に連れていった。

 しばらく待たされた後、すぐ近くの小さな部屋に通された。そこにはきれいになった麻希さんが横たわっていた。夫婦が呆然と麻希さんのそばに立ち尽くしていると、警察から「これから検視をしなければなりませんので、一旦部屋の外へ出ていただけますか」と言われた。

 その時、検視とは一体何のことか分からなかった。尋ねると「写真などを撮ることです」と言われ、やむを得ず部屋の外に出た。検視が終わると、夫婦は再び麻希さんの部屋に通された。その後も呆然としながら麻希さんと一緒に時を過ごしていた。すると再び警察関係者が入ってきて、「これから司法解剖を行います」と言われた。

(酒井肇さん)
「幼い娘が突然非業の死を遂げ、その上に司法解剖と言われた衝撃は言葉にはし尽くせません」

 いくら交渉しても夫婦の希望は通じず、麻希さんはその日のうちに司法解剖を受けることになった。

「この痛みを言葉で表すことはできない」―”ホミサイドサバイバー”となったあの日

(酒井肇さん)
「親をなくした子供を孤児といい、伴侶をなくした夫や妻を寡婦といいます。しかしながら、子どもを亡くした親を呼ぶ言葉はない。なぜなら、その痛みを言葉で表すことはできないから」

 これは2004年9月、ニューヨーク市の911同時多発テロ追悼式典で、当時のブルームバーグ市長が述べた追悼の言葉の一節だ。酒井さんは「私もそのように感じました」と静かに語った。

 2001年6月8日金曜日の朝、酒井さんは娘の麻希さんと一緒に家を出た。妻はその姿を玄関で見送った。「麻希の元気な姿を見たのがこの時が最後でした」と酒井さんは振り返る。

 酒井さんは自身を「ホミサイドサバイバー」と呼ぶ。直訳すれば「殺人犯罪の生存者」という意味だが、酒井さんはこの言葉をこう捉えている。

(酒井肇さん)
「殺人犯罪被害に遭遇し、生きる望みを失った遺族がその悲しみや苦しみを乗り越え、人生を生き抜いていくという風に捉えています」

「ちょっとしたことでもいいから指示を」―被害者支援の警察官との出会い

 事件の日に話を戻す。阪大病院で失意の中にあった夫婦のところに、大阪府警の被害者支援対策室の警察官2人がやって来た。2人は「酒井さん、手助けをします。よろしくお願いします」と言った。「何でもしますから」とも言った。

(酒井肇さん)
「何かしてもらえるのであれば麻希のためにしてほしいと思いました。でも麻希は死んでしまったんです。『もう何もしてもらうことはありません』と、この2人に告げました」

 司法解剖には随分時間がかかるということが分かり、酒井さんがその場に残り、妻はとりあえず麻希さんが帰ってくるための準備をするために家に帰ることにした。そうするとこの2人の警察官が「私たちが送ります」と声をかけてくれた。11日間という短い期間だったが、2人の警察官から様々な支援を受けることになる始まりだった。

(酒井肇さん)
「今思うと、特に警察官でなくても良かったかもしれません。とにかく誰かに助けてほしかった。これから一体何がどうすればいいのか、どうなっていくのか。ちょっとしたことでもいいから、犯罪被害者になった後の行動について指示が欲しかったなと思います」

 何を支援してくれるのか―。当初は支援の内容なんて分からなかったし、何より、搬送先の阪大病院で突然娘の死を告げられ、娘に何が起きたのか分からない、今起きていることが夢か現実か分からない、これからどうすれば良いのかも分からない。

 しかし、その後大阪府警の警察官らは、帰宅するときの付き添い、家に帰ってから洗濯物を取り込む、報道陣から逃れるために窓のカーテンを閉める、残された子どもの幼稚園の送迎援助といった生活支援に加え、犯罪被害者等給付金の制度の説明、自宅に取材に訪れる報道陣に取材を控えるよう伝えてもらうといった、あらゆる支援をしてくれたという。

(酒井肇さん)
「今にして振り返るとたった11日間の支援でした。しかし今も最も支援の実感を得たという支援だったことには違いありません。いかに早期支援が被害者にとって重要であるか、そのことを裏付けています」

事件が発生し、被害者やその家族、友人、知人、マスコミを含め全ての関係者が混乱に陥る。酒井さんはこの状況を”超混乱期”と名付けている。24年前に経験した”超混乱期”の中で、進むべき道を理解することになったきっかけは、事件から3か月後だったという。

part2に続く

2025年12月01日(月)現在の情報です

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