2025年10月17日(金)公開
『あの外国人女性はどこに?』1970年万博パビリオンで忘れられない出会い 77歳男性の願い叶うか―― 55年ぶりの万博で起きた奇跡に密着
編集部セレクト
2025年10月13日、半年間にわたる大阪・関西万博が閉幕しました。その55年前に開かれていた1970年の大阪万博で「忘れられない出会い」をしたという一人の男性。当時一緒に撮った1枚の写真をあの人に届けたい――その願いは、大阪に再びやってきた万博で叶うのか。1枚の写真が2つの国、2つの万博をつないだ”奇跡のような4か月”に密着しました。
「ずっとそれだけは覚えていた」――55年前 大阪万博で出会った“あの人”との一枚
山本龍彦さん、77歳。子ども3人はもう独立し、いまは生まれ育った京都で妻・加代子さんと2人で暮らしています。音楽バンドを組んでいて、ビートルズが大好き。
そんな山本さんの手元には、55年前の大阪万博で撮った1枚の写真があります。その写真を撮ったときのことが忘れられないのだそうです。
(山本龍彦さん)「恋まではいかんやろうけど、憧れみたいなものやろうね」
その写真に山本さんと一緒に写っていたのは、外国人の女性。名前まで覚えています。
(山本龍彦さん)「ずっとそれだけは覚えていた。間違っていないと思う。マーリス・ミューラー。マーリス・ミューラー……」
果たされていない約束――あの時の写真は渡せないまま
高校を卒業後、食品関連のメーカーに就職した山本さん。22歳の時、大阪・千里で開かれた1970年の大阪万博に足を運びました。
大阪万博のスイス館は「光の木」と呼ばれる高さ21mの彫刻が特徴で、人気を集めたパビリオン。山本さんは大好きなカメラを片手に訪れました。
(山本龍彦さん)「光の木、そこを見に行ったら、横にスイスレストランがあったと思う。そのあたりでうろうろしていたらきれいなお姉さんが来られて、『一緒に写真を撮りましょう』と。次に来るときは写真を持ってきますと言って別れたんです」
スイスパビリオンでたまたまツーショットを撮影したのが、そこで働いていた「マーリス・ミューラーさん」。山本さんは「次に万博に来る時には写真を渡す」と約束をしてマーリスさんと別れました。しかし――
(山本龍彦さん)「次に行ったときはおられず、お休みかで、それっきりこれっきりなんです」
SNSも電子メールもない時代。山本さんは万博を再訪したもののマーリスと再会することができず、写真はいまも山本さんの手元に残ったままです。
大阪に再び万博がやって来た――「スイスパビリオンにおられたマーリス・ミューラーさんはお元気なのか?」
それから55年後。大阪に再び、万博がやって来ました。
あの時渡せなかった写真を、今度こそマーリスさんに渡したい。山本さんの中に願いが生まれました。
(山本龍彦さん)「55年たって写真を渡したい。まあ死ぬ前にいろいろ考えとかんと。次の万博は見られないんやから、どっちに転んでも」
その願いは、妻にも伝えました。
(妻・加代子さん)「ヤキモチ…。あと何年どうなるかわかりませんので悔いのないように、それだけです」
万博が行われている今こそがチャンス。山本さんは今回の大阪・関西万博のスイス館に宛ててマーリスさんの消息を訪ねるメールを書き、返事を待つことにしました。
週末はいつも仲間とバンドの練習をしていますが、練習中も気になるのはあの人のことです。
(バンド仲間)「1回きりですか?1回だけ会ったん?」
(山本龍彦さん)「うん、1回だけ」
(バンド仲間)「えー、と思ったな。写真を持っていることもびっくりやし、名前も覚えているんやと」
(山本龍彦さん)「あのお姉さんが(万博に)いる(いらっしゃる)かなと。いなくてもお元気かなと」
55年後の万博で 止まっていた時間が動き始める
スイス館にメールを送って数日後。返事が届きました。そこには、「スイス館に来て欲しい」とのメッセージが。
(山本龍彦さん)「『館長一同お待ちしています』と返ってきたから、これは行かないかん」
そうして山本さんは、バンド仲間とともに55年ぶりに万博を訪れました。何か手がかりが得られるかもしれない、という期待とともに。
手には一冊のアルバム。当時の写真をスマートフォンのAI機能を使って鮮明にし、アルバムを作っていました。どうにかして、マーリスさんへあの時の写真を渡そうというのです。
いざ、大阪・関西万博のスイスパビリオンへ。到着するやいなや、スタッフから「今からハイジカフェに上がって、ラクレットチーズを食べませんか」と提案がありました。
思わぬ歓迎に胸は高鳴ります。パビリオンで待っていたのは、スイス館のカフェテリア・ハイジカフェを運営するフィリップ・モジマンさん。山本さんにこんな話を始めました。
(フィリップ・モジマンさん)「私の母がスイス館でスタッフをしていて、父がシェフで働いていた。だから私は万博ベイビーです。“マルリーズさん”は両親の結婚式の証人でした」
フィリップさんの話に突如として登場した名前。この“マルリーズさん”こそ、山本さんが55年前に出会ったスイス館の女性。名前は山本さんの記憶違いで、マーリスさんでなく、正しくは“マルリーズ・ミューラーさん”でした。
フィリップさんの両親とマルリーズさんは、1970年の大阪万博・スイス館でともに働き、それ以来の親友だといいます。
フィリップさんら現代のスイスパビリオンのスタッフが、山本さんからのメールを受け、スイス・チューリッヒで暮らしているというマルリーズさんの連絡先を探してくれることになりました。
(フィリップ・モジマンさん)「とても心が揺さぶられます。たくさんの愛情を一緒に見つけて、受け入れて、お互いの文化の違いを乗り越えます。それがまさに万博だと思います」
フィリップさんは、マルリーズさんに連絡を取り、山本さんお手製のアルバムを渡すことを約束してくれました。
「生きていてよかった」55年の時を超え 9000kmの距離を超えた"再会”
それから3カ月、マルリーズさんとつながることはできたのか――。
自宅を尋ねると、AI翻訳を駆使してメールを書いている山本さんの姿がありました。アルバムがマルリーズさんに届いたのです。
山本さんの願いは、55年越しに叶いました。さらに、マルリーズさんから返事が届き、二人は文通を始めていました。やり取りは、もう2か月以上続いています。
(マルリーズさんのメール)「親愛なる山本様、素敵な写真と和菓子のプレゼントをいただきました。面白く予想外だった6か月、たくさんの思い出が1970年のスイスパビリオンにはあります。残念ながら、私や当時働いていた友人たちはもう訪れることはできません。あまりにも遠く、長旅で私ももう飛行機に乗れなくなってしまいました」
(山本龍彦さんのメール)「マルリーズさんへ、思いもよらないつながりでマルリーズさんに写真をお渡しできて幸せです。私ももうスイスまで行く体力はありません」
マルリーズさんからは当時の写真も届きました。
(マルリーズさんのメール)「私の写真で1970年を思い出してください。万博が終わったあと日本を旅して九州へ行って、長崎や広島も訪れました。原爆の恐ろしさに心が震えたのを覚えています。日本の美しさは、私にとっての癒しになりました」
55年前の写真とともに最近撮った笑顔の写真も添えられていました。
今はひとり、チューリッヒで暮らしているマルリーズさん。電話でこの“再会”への思いを取材班に話してくれました。
(マルリーズさん)「驚いたのは、彼が私を探して、見つけ出したことです。奇跡ですよね?これから、お互いにどんな人生を送ってきたか、語り合うつもりです。私はいま81歳、彼は多少若く、家族がいて仕事もしてきて、いま意見の交換ができるのはすばらしいことです」
国が違うからこそ知り合えた喜び、つながりが今なお人生を照らしてくれる。55年ぶりの万博が教えてくれました。
(山本龍彦さん)「この歳になって外国の人と、それも9000km離れた国の人と友達になれたのがウソみたいで、すごくうれしい、ウキウキしています。生きていて良かった――。今回、つくづく思いました。会うべくして会っている。人と人とのつながりに偶然はないね」
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