2025年08月31日(日)公開
「中国残留邦人2世」抱える言葉のハードル 認知症と診断されわずかに知る日本語も忘れる恐怖 国の支援の"対象外"で医療や介護にも壁
編集部セレクト
戦争をきっかけに中国へと渡り、戦後の混乱の中で中国に取り残された日本人「中国残留邦人」。残留邦人とその家族を含めて、約2万人以上がこれまでに帰国していて、その子ども世代にあたるのが「残留邦人2世」です。医療や介護で問題に直面している残留邦人2世の知られざる苦悩を取材しました。
戦争に人生を翻弄された「中国残留邦人と2世」
京都市伏見区にある集会場。週に一度、お年寄りが集まり麻雀やトランプを楽しんでいます。その会話に耳を傾けてみると、中国語が飛び交います。ここに集まっているのは終戦後、中国に取り残されていた「中国残留邦人」とその家族です。
(残留邦人の家族)「日本人の友達は少ないし、言葉の交流はできない。みんなと一緒にここで楽しんでいる」
(残留邦人の家族)「生活で唯一の楽しみはここでみんなとしゃべって遊ぶこと。そうしないと物忘れが激しくなってしまうから」
京都市に住む、新田和子さん(83)も残留邦人の1人です。その子どもで、残留邦人2世の静恵さん(65)は母と一緒にこの場所へ通っています。
(残留邦人2世・新田静恵さん)「母たちは日本語があまりできない。私も簡単な日本語しかできない。みんな中国語で楽しんでしゃべれる」
穏やかに暮らしているように見える2人ですが、その人生は戦争に翻弄されてきました。
「社会から見下されていた」中国でも日本でも心無い言葉をかけられる
戦時中、約30万人の日本人が開拓団として移り住んだ「満州」。母・和子さんも1歳のとき、家族と満州にわたります。
しかし、直後に両親が他界。取り残された和子さんは中国人の家庭に引き取られました。そして18歳のときに中国人男性と結婚。静恵さんたち6人の子どもが生まれました。
(残留邦人2世・新田静恵さん)「兄弟は6人いて、両親は畑仕事をしていました。家族も多く生活は苦しかったです。お母さんが日本人であることが原因で思うように就職できなかった」
1980年代に入り、日本政府による残留邦人の帰国事業が本格化。1991年、和子さんは48歳にしてようやく日本に戻りました。その2年後、33歳だった2世の静恵さんも「家族で一緒に暮らしたい」と帰国します。しかし、静恵さんたちを待ち受けていたのは“言葉の壁”でした。
(残留邦人2世・新田静恵さん)「生活で一番困ったことは日本語です。買い物をするときに商品が見つからないし、スタッフに聞こうと思っても聞けない」
日本語教室に通いましたがなかなか言葉を覚えられず、できる仕事も限られ苦しい生活を送ってきました。
さらに心無い言葉もかけられたといいます。
(残留邦人2世・新田静恵さん)「中国にいたころ周りにずっと『小日本鬼子、小日本鬼子』と言われた。日本に戻ってからは『中国人、中国人』と言われ社会から見下されていた。ふだんの生活であまり幸せを感じることはなかった」
国の責任が認められる 残留邦人1世には給付金などの支援
2000年代に入ると、残留邦人1世が中心となり、国策で帰国が遅くなったにもかかわらず公的な支援がないとして、国に損害賠償を求める裁判が全国で起こります。
そして神戸地裁で国の責任が認められたことがきっかけとなり、老後の生活を安定させるための給付金など、新たな支援制度ができました。残留邦人1世の母・和子さん。支援制度の1つである医療を受ける際の通訳の派遣に助けられたと話します。
(残留邦人1世・新田和子さん)「日本に来て医療は先進的で3回も手術をしました。行政から派遣してくれた通訳が役に立って感謝しています」
しかし、残留邦人2世は原則、こうした支援の対象外となっています。2世の静恵さんは病院で医師の言葉をほとんど理解できておらず、さらに6年前、認知症と診断されていて、日本語が全くわからなくなる不安も抱えています。
(残留邦人2世・新田静恵さん)「普通の病気のときは大丈夫。なにか大きい病気、手術とか入院とかには通訳がほしい。2世は全く通訳がない」
「残留邦人たちが日本人だということを知ってほしい」
残留邦人らが頭を悩ませているのは医療だけではありません。「介護」でも問題に直面しています。
東京都江戸川区にあるデイサービスの施設。この介護施設には中国語を話せるスタッフが常駐していて、中国残留邦人1世など約20が通っています。体操やレクリエーションなども中国語で行われていて、利用者たちも自然に過ごせています。
(残留邦人2世)「家にいるよりここの方が居心地がいい。みんなとおしゃべりできるから」
(残留邦人1世)「家に帰ったように言葉の壁がない。死ぬときはここで死にたい」
ただ、中国語に対応できる介護施設は数少ないのが現実です。施設の代表、佐々木弘志さん(58)も残留邦人2世です。「親世代の1世だけでなく、これから年老いる2世も居場所がない」とこの施設を立ち上げました。
(一笑苑・江戸川 佐々木弘志代表)「言葉の壁がなかなか乗り越えられていなくて、残留邦人の介護・老後の生活はなんでこんなに大変なんだろう。最後の最後の施設がどうしても日本にあまりない」
8月7日のこの日は立秋。中国では秋の始まりの日に肉料理を食べる習慣があり、昼食は餃子です。手作りの水餃子を口いっぱいに頬張ります。口に合う料理に慣れた言葉での会話、利用者は満足げな様子です。
佐々木さんは「残留邦人やその2世が日本に帰ってきてよかった」と思える居場所ができるよう、まずは社会が彼らの存在に目を向けることが必要だと考えています。
(一笑苑・江戸川 佐々木弘志代表)「戦争がなかったらみんな日本で普通に暮らしていて、戦争によって残留邦人はこういう現状になっている。何かをしてほしいというよりは、社会的に残留邦人たちに目を向けてくれたら、残留邦人たちが日本人だということを知っていただきたい」
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