夏休みに行きたいアルプス秘境。「山小屋主人」という生き方

北アルプス最深部、標高2550mにある登山ファン憧れの山小屋「三俣山荘」。登山口から通常片道2日かかるという辺境の地にもかかわらず最盛期には一晩200人以上の宿泊客が訪れる。電気もガスも、水道もない場所で、サイフォンを使ったオリジナルコーヒーや絶品ジビエシチューが振る舞われるというが、一体どんな秘密があるのだろうか？8月5日放送のドキュメンタリー番組「情熱大陸」では、妻と9歳と6歳の幼子と共に山小屋を営む41歳の主人の姿が放送され、絶景の中で登山客と家族を守る姿に共感する声が相次いだ。

7月から10月の夏シーズンにのみ姿を現す「天空の宿」

三俣山荘は、その名の由来となった三俣蓮華岳の麓に位置している。間近に見上げるのは鷲羽岳。はるかな連山のなかに高峰・槍ヶ岳が美しく、食堂からの雄大な眺望に登山客たちはみな息を呑む。
7月から10月までの山小屋シーズン限定の営業で、主人の伊藤は妻と子ども2人、そして数名のアルバイトと共に4か月間をこの地で過ごす。

カメラは、7月1日からの「小屋開け」の作業にとりかかる伊藤家に密着した。
まず、重要なのが水の確保だ。水源は山小屋から300mも離れた場所にあり、そこからホースの水道で山小屋まで送る。ポンプを使わず高低差だけを利用するとあってセッティングはすべて手作業だ。

そんな過酷な環境をものともせず、伊藤家の6歳の長女と9歳の長男は実に働き者だ。ヘリで食料や燃料などを届くと、言われなくても自ら動いて荷物を運ぶ。長女は小さな手で料理を手伝い、長男はたどたどしい挨拶ながらもフロント業務を一人前にこなす。厨房をあずかる縁の下の力持ちが妻の敦子さんだ。敦子さんの料理にはファンが多く、中でも地元の鹿肉と野菜などを煮込んだジビエシチューは評判の一皿だ。

物質的には恵まれていないはずの山小屋だが、都会では決して味わうことのできない贅沢な時間が流れ、訪れた登山客たちはみな「日本最後の秘境」と満足げに口をそろえる。

父から受け継いだ山小屋を守り、登山客を守り、家族を守る41歳の覚悟

伊藤の父親は、山岳文学ファンの間で有名な『黒部の山賊』の著者・伊藤正一。三俣山荘を始め3軒の山小屋を建てた父に連れられ、伊藤もまた物心つく前から夏は山小屋で過ごして来た。25歳の時に山小屋でアルバイトをしていた敦子さんと結婚し、跡を継いだが、その年の冬、将来を決定づける悲劇に遭遇する。
山小屋改築のために、職人らと乗り込んだヘリが墜落し2人が命を落としたのだ。伊藤もまた肋骨骨折などの大怪我を負い、妻と二人で雪の中を這ってなんとか山小屋に非難、一命をとりとめた。

「マイナス20度とかだったから、外にいたら死んでいたわけで。その時山小屋の意義をはからずも痛感してしまった。使命感がより増して、これはもう逃げきれない、やるしかないと。象徴的な出来事でした」

山小屋は、緊急時に対処するための施設であると痛感した伊藤は、以来、山で急病人が出たと聞けばすぐさま現地に向かって救助にあたる。また、シーズン中何度となく山を歩き回り自然の保護や登山道の補修を自らの重要な仕事と考えている。

ある日、伊藤は9歳の長男を連れて、現在改装中の山荘、「水晶小屋」に向かった。三俣山荘からおよそ3時間の道のりだ。
尾根の高みにたつ水晶小屋は湧き水に頼れないため、生活用水は雨水しかない。厳しい環境でも登山者を快適に迎えられるよう、下水処理のいらないトイレを導入するなど最新技術を使った試行錯誤を続けている。

「人が、生き物が、通常のままでは暮らせない環境下でも普通にお客さんを迎えられるようにするための仕事の話というのは意外と外に見えづらい。そこを皆さんに知ってほしい」

自分が幼いころから慣れ親しんだ絶景を守り、多くの人に来てもらうために日々、山小屋と登山道の整備に明け暮れる伊藤。物静かで淡々とした物腰の下に、覚悟が光っていた。