2025年12月30日(火)公開
「情けない日本にならないで」千利休の子孫で元特攻隊員・千玄室さん「今を大事に。今があってこそ明日がある」戦後80年を生きる日本人へ最後のメッセージ【単独インタビュー全文記事③】
編集部セレクト

京都の茶道・裏千家の15代家元で、今年8月に102歳で亡くなった千玄室さん。旧日本海軍の元特攻隊員でもあった。MBSは、千玄室さんが亡くなる約2か月前の6月16日に取材を行っていた。テレビカメラを前に語ったのは最後の機会だったとみられる。戦後80年という節目の年の瀬、約1時間の単独インタビューの全文をもとに、現代を生きる私たちへの「遺言」とも言えるメッセージを振り返る。陣中で開いた茶会で戦友らが口々に「お母さーん」と叫んだ光景をはっきりとした口調で語った千さん。インタビューを続けるうち、戦後に取り組んだ茶道による「ピースフルネス」や、「特攻はテロ」との言説に怒ったエピソードにも言及していく。
茶道で海外へ「ピースフルネス」伝える

(千玄室さん)
私は意地にもなって、ずっとこの80年間、ほとんど海外70カ国以上、300回以上、一椀のお茶をもってピースフルネス、一椀のお茶から「ワンボウル、ワンピースフルネス」、平和がこのお茶碗の中にあふれている。
お茶碗はまるいでしょう、小さな地球ですよ。中をご覧になった?グリーンのお茶の色、自然共生、緑ですよ。いま世界から緑がなくなったらどうします?緑がなくなったらどうなる、ほんとうに殺伐とした砂漠ですよ。いや砂漠よりもひどいよ。だから私は世界中、この一椀のお茶を小さいけど地球=アースだと思いなさい、それを手に取る、ルックトウアース、グリーンの色を見なさいと。
人間は生まれたときから自然共生、ネイチャーといっしょに生きてきた。緑が無かったらだめです。緑があって水がある。そういう説明をして私は一椀のお茶からの平和を訴えてきた。
「特攻」に対して思うこと
昔の記者がね「特攻はテロ」と言ったが、冗談じゃないよと怒ったんや。テロは何でも無差別にする、われわれは国のために戦うんだよ。兵隊に行かない連中もたくさんいます。その人たちに代わって私たちは死んでいく。それがなんでテロやと言うねん、と怒ったことがある。昔はそんなことを言った記者もいるんです。
私たち特攻の生き残りの連中は涙したんです。特攻というのは命令、命令で戦っている国に対して敵ですよ。殺されなければ私たちが殺されるんです、どっちかが死ななきゃならない。テロみたいに無差別ではないんです。どんな信仰と言ってもそれは嘘。私たちは本当に、親のためや子供のために、みんなのために私たちは命を捨てればいいと。
決断を迫られたというより命令です。「迫られた」という言葉は当時はありません。これは命令でどんな命令でも命令に従わなければ軍令違反になる。苦しくて耐えられず脱走したのもいますよ、学生ですから。大学生で勉強していたインテリ連中が、そりゃ殴られ蹴とばされ、飛行機に乗って過酷なことですよ。
ただ操縦したり、訓練をするだけでない。どうやって飛ぶのか、と機械整備も全部習いましたよ、あれだけ工学部行かない文系の学生が油まみれになって、飛行機がどうやって飛ぶか分かった。だから戦後に自動車の整備員になれるくらい技量があった。ええこともあった。
でも悲しかった、いろんな意味で悲しかったねえ。でも文でやらないといかん。幸い私にはお茶がある。それで占領中の1951年(昭和26年)1月にシビリアンインテリジェンスエディケーション(CIE)、マッカーサー司令部からの指令を受けてアメリカへ行った。日本は文もあるということを紹介して来いと言われて、パスポートもない時代で、紙切れ一枚「占領国民中につき保護をされたし」というのを持って軍用機に乗っていきましたよ、2年間。
私は同志社で英語を勉強をさせられたし、同志社は語学を大切にするし、海軍に入ったら、海軍も全部英語でした。世界7つの海を征服する。昔は制海権、でも第二次世界大戦がはじまってから制海権より制空権ですよ。そういう中で、話せば1日中かかるけど大変な地獄の中で毎日毎日生活していた。
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何とも言えないねえ、あのときは、どうせ死ににきたんだからじたばたしてもしょうがないやないかとみんなそうですよ、でも中には、言うて悪いけど、「わしら何のために死ぬんやろなあ」とつぶやくように、つぶやくようにそういうのが耳に入る。
すると「しっ、しっ」誰かが、そんなこと言ったら…と、当時は一切口に出せない、泣き言も言えない、その苦しさは、大学で講義とかするけど今の連中にはわからないわ。若い連中はそんなことを言っても、ぼけーっとしている。
利休が朝鮮征伐を諌言(かんげん)して切腹を命じられた、はあー、と、その時思ったことはそれだけですよ。利休は腹を召された、私は15代目でまた腹を召さなあかんかなと、それだけです。それ以上何にも、考えんほうがいい。ただ、さみしそうなおふくろの顔が出てきてね。それだけやった。
出征を見送った母親の言葉

母も苦しかっただろうと思うんですよ。20歳まで家を守り続けるために育て上げた男を軍に捧げる。しかも生きて帰れないような飛行機乗りになるとは夢にも思っていないでしょう母は。
あのとき母が私の手を握って、出征する時言ってくれた言葉が、「どんなことがあっても、あなたは慌てる癖があるから、慌てたらだめよと、なんかあったら『利休さま、利休さま』と叫びなさい」わたしは飛行機の上でも叫んだことがあんねん。あの当時のことを明確に覚えていますわ。何とも言えない。誰を恨むということもできないじゃないですか。
僕は小学6年生ごろから第二次大戦の前の盧溝橋、大学まで戦争戦争戦争ですよ。ひとこともそんなこといえやせん、みんな尽忠報国、国のためだって。鉄も何でも放出、民間が努力していることに当然だと。わたしのおじも先に出てなくなっていますよ。ほとんどの人が盧溝橋が始まってから招集受けたりして戦死していますよ。そんなこと一言も言ったら非国民です、非国民。
慰霊祭は今年で最後 102歳「ここでご無礼します」

この間も沖縄へ行って、慰霊祭に行った。友に毎年会いにいくの。沖縄にみんな沈んでいる「おーい」って名前呼ぶのよ。2025年は6月はじめに行った。そしてまた今年10月に行きます、沖縄で慰霊祭をします。
次は沖縄の県民の慰霊祭もします。それから仲間の慰霊祭をします。平和の像の前でご献茶をし、海上に船を浮かべてみんなにお茶を飲ませます。
これは最後やと思う。ぼくももう102歳だからね。もうしんどい。この辺でご無礼しな。「千中尉、ここでご無礼します」。(と、千さんは敬礼の姿を見せる)
もう誰もいません。ぼくらの仲間は私1人になっちゃった。生き残った人はみな死んでしまった。最後に残っていたヤナイという零戦乗りの、広島出身のも亡くなった。
ただね、私長々戦争の話ばかりしているけど戦争の好きな男やない。もうほんとうに私は、利休が織田信長・秀吉に、「戦争ばかりじゃいけない、戦はいけない、隣国とも仲良くしないといけない、そのためにお茶を勧め合う心でやわらぎのつながりをもっていかないといけない。」朝鮮征伐はとんでもないことやと諌言した。それで利休は不興を買って切腹を命じられた。
利休の精神は和(わ)、敬(けい)、清(せい)、静(じゃく)。和はなごみです。平和平和と旗立てて口きいて平和なら、どこに平和があります?口で言うても平和は来ないよ。その勇気はいまの日本にはない。アメリカ一辺倒。日本は独立国家としてもっと諸外国と大きなつながりをもたないとだめですよ。こんな状態で、日本が本当に国体を維持できるのか。
自衛隊だってあれは軍隊ではない。どうやって国を守れる?軍人じゃないんですよ。自衛隊は軍人じゃないですよ。見てみなさい、日本は弾を持っていても撃てやしない。私たちはほんとうに撃ってきた。アメリカと空中戦をした。もっと国を守る気持ちを国民が持たないと、よその国に旗を立てられる。
大切なのは「間をつくること」

私は茶の外交をしてきた。大事なのは一碗のお茶をもって、間を作っていくということ。ヨーロッパ、アメリカ人は間を持てない。世界のいろんな大統領、ドイツのヴァイツゼッカーさん親友やった、胡錦濤さんはうちに三回もきてくれた。世界中にたくさん友達ができて、みんな千さんお茶を、って。アフターユー、エクスキューズミー、このお茶をすすめる気持ち、大事なことなんです。それを世界中に伝えてきている。
私は利休の血を持っているから、利休さんができなかったことを500年たった今、やっているんです。間を持つことを、日本はそれをずっとやってきた。今でこそマンションに住んでいるけど、昔は玄関、居間、客間。居間で親子みんな集まって、お客さんを客間に、床の間などの間がある。生活の中に間をとった。日本人は非常に間の取り方がうまい。それを教えたのがお茶です。お菓子をどうぞ、その間にお茶をたてる。美味しいな、間ですよ、お点前は。
若い世代へ「今を大事にしないと未来はない」

若い人になんぼ言うたってダメ、僕は大学の教授もやったけどダメ。世界中情けない、自由奔放これだけがいいとか、そうじゃないよ、もっと大事なことを考えて、人生の価値観というものを知ってくれなきゃだめだ。
今の連中は「どうでもいい、未来、未来へ」と言いますが、未来なんかありませんよ。今を大事にしないと。ナウ=今があってこそ未来がある。未来なんか誰にも分からない、未来なんてどこにあるんです。その前に今生きているということの価値観を大切に思うことが大事。それをみんな忘れている。わたしは若い連中にそれいいたいね。一言だけ。
日本は80年前のことなんて誰一人忘れていますよ。もうねえ、情けない日本にならないでください。残された広島や長崎の無残な原爆のあとをみてぼけーっと見るんじゃなくて、いかに馬鹿なことをしたなあと。戦争という愚かなことを、と言うて、まだやっているやん世界中で戦争を。終わりませんよ。
トルストイの「戦争と平和」の中でいいましたよ。人間の愚鈍な価値観、それは自分の権力を示そうとするだけやと。みなそれや、そんな価値てあらへん。だからみんなが平等、みんな区別されちゃいけない。ノーディスクリミネーション、そしてジアザーピープルのために手を貸してあげる。どんなことにも、苦しむ家族、飢えに苦しんでいる人たちのために。
テレビを見ても美味しい食べ物ばっかり、冗談じゃない。昔は梅干しと握り飯で生きていたんや。私たちはよくあんな乏しい食糧で戦ってきたよ。前線だけでなく、背後にいる民衆の人たちはどれだけ苦しい目にあったか、お米一つ、今大変やといっているけど、ほんとうに大変やったんよ。本当にたいへんやったんよ、考えられないほど。今の日本人にはもっと自制心を持ってほしい。以上、ありがとう。
亡くなって約2か月後 お別れ会が開かれる
茶道を通じて平和を訴え続けた千玄室さん。亡くなって約2か月がたった11月27日、お別れ会が開かれ、親族や親交のあった人たちが参列した。
(京都府 西脇隆俊知事)「会うたびに背中を思い切りたたかれて『がんばってや』と言われたのが非常に印象に残っています。ご冥福をお祈りする気持ちで献花させていただきました」
(文化庁 都倉俊一長官)「日本を代表する外交官・文化人として、日本文化を世界に発信していただき、感謝の気持ちでいっぱいです」
千さんが投げかけたメッセージに、現代を生きる私たちはどう応えるべきか。戦後80年の節目を越えた今後も、考え続けるべきではないだろうか。
【千玄室さん】大正12年生まれ。茶道・裏千家の15代家元を継承し、1997年には文化勲章を受章、茶道の普及に貢献。2002年、家元を長男に譲る。太平洋戦争中は海軍の元特攻隊員で戦後は、茶道を通して平和を訴える活動を続ける。今年5月に転倒して京都市内の病院に入院、8月14日未明に102歳で死去。
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