2025年12月30日(火)公開
「おかあさーん」戦友の叫び声が耳の奥に残っている― "お茶の家"に生まれ特攻隊員になった千玄室さん 戦後80年を生きる日本人へ最後のメッセージ【単独インタビュー全文記事①】
編集部セレクト

京都の茶道・裏千家の15代家元で、2025年8月に102歳で亡くなった千玄室さん。旧日本海軍の元特攻隊員でもあった。MBSは、千玄室さんが亡くなる約2か月前の6月16日に取材を行っていた。テレビカメラを前に語ったのは最後の機会だったとみられる。戦後80年という節目の年の瀬、約1時間の単独インタビューの全文をもとに、現代を生きる私たちへの「遺言」とも言えるメッセージを振り返る。千玄室さんは旧日本海軍の元特攻隊員。陣中で開いた茶会で戦友らが口々に「お母さーん」と叫んだ光景をはっきりとした口調で語るいっぽう、いまの贅沢な時代を生きる人に厳しい見方も示した。“時代の生き証人”はまず、戦後80年をふりかえるところから語り始めた。
「アメリカと未曽有の戦争をして日本はめちゃくちゃな状態に」
(千玄室さん)
戦に敗れて、アメリカとああいう未曽有の戦争をしたことによって、日本はめちゃくちゃな状態にさせられた。80年前を思い出しますと、本当に無残な、なぜこんなことになったんだろう、最終には原子爆弾などを広島と長崎に投下されて、そしてアメリカは、「それによって日本は戦争を終えられて平和を迎えた」と、私としては何を言うているんだと。
私は1943年(昭和18年)、大学の1年生で同志社大学の法学部に進学しました。なんで家元の息子さんが法学部に…と言われたが、私が生まれたときから千家はお茶の家でありました。明治維新までは武家、各藩に仕えて禄高をもらっていたが、明治維新で禄高が全部なくなった。
そこで公家がずっと京都の御所をお守りするためにわずかな禄高では生きていけないので、蹴鞠やら歌や書やら、いろんな家元を名乗った、それで収入を得たわけです。家元制度になって今日まで来ているんです。
20歳になれば徴兵検査「DUTYと責任感」

私は祖先の千利休15代目を継ぐということで、大正12年の生まれでありますから、武家作法、茶作法と小さい頃からずいぶん鍛えられた。継ぐということは大変なことです。利休のお茶というものを私が受け継いでいかなければいけない。大変な覚悟が要ります。
昔は今と違って中学は5年間、小学校も5年間、非常によく勉強できましたね。あのころは何もないから、遊びごとがないし、戦時中で遊んでいたら怒られるから。聞いているのはラジオだけ、中学5年間の充実した勉強がいまにも役に立っていますよ。
そして大学に行った。ちょうど1年生から2年生のころに20歳になったの。昔は、男子は20歳になれば徴兵検査というのを受ける、これはDUTYである、義務である。でも単なる義務ではない、大事なことは「responsibility=責任感」です、これを非常に私たちは中学に入ったころから鍛えられました。
「インテリ、すべて捨てろ!」海軍での生活

ちょうどその年に東条内閣から、文系の学生は徴兵検査を受けろと。医学部、理学部、工学部、農学部の学生はよろしい、そのまま大学で勉強しろと。経済学部、法学部、文学部は徴兵検査を受けろと。まあ今と違って大学も少ないですからね。帝国大学、旧制高等学校、いまでいうと高等専門学校ですかねえ。陸軍に言った連中はほとんど帰りません。ロシアで捕虜になったり、南方戦線でビルマで、ほんとに生き残ったのは1人か2人でしょう。
私たちは試験・試験・試験で、海軍飛行予備学生という大学生に与えらえた特権でその試験に合格して、海軍に2万人とられた。2万人のうち2000人が搭乗員で、あとの1.8万人は艦船や通信。私たちは2000人だけ第一選抜で合格して、土浦の海軍航空隊で予備士官の教育を2か月半、あれは厳しかったねえ。大学生が予備士官になるんですから。
「君たちはインテリ。大学から来たがそれをすべて捨てろ!これから帝国海軍の軍人として鍛える」ということで、2か月半の鍛えられ方はすごいですよ。そして試験と適性検査で合格して飛行機乗りになった。それに合格したのはわずか1000名、1000名の中からまた鍛えられて、操縦と偵察、それから最後に地上勤務にまわされたのもいます。
高身長の千さん「零戦」を断念

私たちはそれに合格しまして、私は最初は零戦=戦闘機を希望し、戦闘機は93式の戦闘機ですが、私は背が大きい。当時は1メートル75センチ以上あった。戦闘機に乗るのは165~170センチくらいでないとあかんねん。零戦は素晴らしかった、羨ましかった乗れないのが。それで隊長が、「千学生、君は大きいから大型機にいけよ」と言われて「嫌だ」といったんだけど、徳島の海軍航空隊で大型機に乗りました。
偵察機を改造して戦闘用に改造した「白菊」という素晴らしい戦闘機です。そのころは三菱とか日野とか、みな飛行機つくっていました。ぼくは大型機で白菊を改造して250キロの爆弾を翼の下に積んで、4人乗りのところを、2人乗りにして、操縦員と偵察員だけ。そして電信機1つ、13ミリの機関砲を一発、いやあ苦しかったねえ。ぼくらの訓練は1500メートルくらいの訓練。1500メートル以上は酸素ボンベを使うので、1500メートルまで上がっていろんな訓練を受けました。敵のグラマン、ヘルキャット、これと戦えるだけの実績を積んで。
「君たちは大学出身なんだよ。だからほかのものが1年半かかるところを1年で全部身につけい」とか、「どうせ死にに来たんや、君たちに代わるものはいくらでも出てくるよ。」とか「飛行機は変わりはないぞ、飛行機つぶすな、死ぬな、死ぬな」と。朝から毎日「死ぬな死ぬな、死んでいくところにおまえたちの目的がある」と。まあきつい、これまた地獄ですよ。
「お母さ~ん」戦友の声が耳の奥に残る

先祖の千利休は、茶の湯の師範代として織田信長の合戦についていった。陣中で戦う連中にお茶を飲まさなければいけない、陣中のお茶会も全部やったんだ。うちの父がそれをうまく縮小して陣中茶箱というものをつくった。私は海軍の時それを一式持って行った。陸軍はダメだったけど、海軍は非常にスマートだった。楽器を持っていった大学生もいた。海軍は船の生活が主ですからそりゃ音楽もお茶も必要、軍人として悪いことはない。
そういうことで、私が陣中茶箱を持って行ったのを知って、訓練が終わると「千さん、お茶にしてくれや」とみんなが集まってくる。配給の羊羹とやかんをもって、私がお茶をたてて、みんな茶飲んで、「千ちゃんうまいなあ、おふくろ思い出すわ」と。
当時の我々は男女の仲はおふくろだけですよ。今みたいに自由奔放じゃない。そんなことしていたら、学生といえどもみなやられますよ。だからおふくろが恋人だった。「おかあさーん」とみなが叫んだ声が私の耳の奥に残っていますよ。おふくろに会いたいなあと、みんな涙流した、おふくろのことを思って。本当ですよ。
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