「少年よ大志を抱け」のクラーク博士は詐欺で訴えられていた

5分で読める!教えてもらう前と後

2018/07/13 12:00

教科書で習った誰もが知っている偉人の、教科書では教えてくれなかった知られざるその後の人生とは。「教えてもらった前と後で、見る目が変わります!」を合言葉に、滝川クリステルと学ぶ「教えてもらう前と後」では、「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士、エレキテルを発明した平賀源内、そして徳川最後の将軍・慶喜が晩年どんな人生を送ったのかを紹介した。

ビジネスパートナーに裏切られたクラーク博士

札幌郊外に銅像が立っているクラーク博士についての衝撃の事実にスタジオでも驚きの声が広がった。
教えてくれたのは歴史家で作家の加来耕三さん。
博多大吉も遠くを指さすクラーク博士の銅像を見て「訴えられた人の恰好じゃないですよね、むしろ訴えている方」
いったいなぜクラークは訴えられることになったのか。その真相を探るべく、かつてクラークが教壇に立っていた北海道大学(旧札幌農学校)で、彼に関する研究をしている藤田正一名誉教授を訪ねてみると...。
「悲しいことですが、クラーク博士が詐欺容疑で訴えられていたのは事実です」という。
明治9年。日本政府からの要望で、農学を教えるためにアメリカから来日したクラーク博士。
日本での任務を終え50歳で帰国したクラークはジョン・ボスウェルという男と共に鉱山関連の会社「クラーク・ボスウェル社」を設立した。
船で世界を旅しながら学ぶことができる「洋上大学」を設立するという夢を抱いていたクラークは、その資金を得るために会社を興したのだった。
しかし、ここからクラークの人生は一変する。パートナーのボスウェルは賭博や横領を繰り返し、職を転々としてきた悪党だったことが発覚。入っているはずのお金が帳簿についていないうえ、逃亡してしまったため、会社はわずか1年で倒産してしまったのだ。
そしてクラークは、出資者から詐欺容疑で訴えられてしまうのだ。
この事件で心に深い傷を負ったクラークは、4年後に心臓病を患い、志半ばにしてこの世を去った...。
加来先生は「クラークは最終的に無罪にはなるんですが、この事件を気に病んだのは確かです。」
さらに意外な事実を教えてくれた。「クラーク博士は、長年日本で教鞭をとっていたような感じがしますが、実は滞在期間はたった8か月間のみで、卒業生は13人でした。その教え子に伊藤一隆さんという人物がいます。」
この伊藤一隆という人物、北海道で鮭の孵化事業に成功。水産業の発展に尽力すると共に、新潟では石油を掘り当てた実業家で、実はタレントの中川翔子さんの高祖父にあたるそう。
スタジオのメンバーもクラーク博士の見方がすっかり変わった様子だった。

天才発明家・平賀源内は殺人の罪で捕まっていた

エレキテルの発明や土用の丑でおなじみ、江戸時代の天才発明家・平賀源内が、殺人を犯して投獄されていたことをご存知だろうか。
その時のことを記録している書物があるということで、源内の研究をして36年という日本女子大学の福田安典教授に見せてもらった。するとそこには、
「人を殺めて自殺しようとしたけれども、門人にとどめられて獄に繋がれた」
という文章が!
しかしなぜ、発明家だった源内が人を殺してしまったのだろうか。
その理由について、源内の子孫・7代目の平賀一善さんはこう教えてくれた。
「最初の頃は、源内の才能を買ってくれたスポンサーもいましたが、晩年はそれが少なくなったのです。」

晩年、非常にお金に困ってどん底の生活を送っていた源内に、大名屋敷の修繕という大仕事が舞い込む。
しかしそれは、源内の人生が狂い始めることになるきっかけでもあった...。
源内は「名誉挽回のチャンス!」とばかりに、仕事仲間だった大工の棟梁と共に気合十分で修繕の計画を緻密に練り、見積もりまで全てをまとめた計画書を完成させた。
ある日、計画書完成の祝杯をあげたふたりは、酔ってそのまま寝てしまう。
ここで事件が起こった。
目をさました源内が「計画書が見当たらない」と騒ぎはじめたのだ。
そして、こともあろうか仲間の棟梁を疑い、誤解だという言葉も聞かずに一刀両断! 
殺人の罪で投獄されてしまったのだ。
しかしその後、計画書は自宅から発見される。全て酒に酔った源内の思い違いだったことが明らかになったのだ。

事件発生から約1か月後、源内は獄中で破傷風を患い、そのままこの世を去る。
この時、源内52歳。
発明家になる前、高松藩の足軽だった源内は、発明家になりたいという夢を叶えるために武士をやめて江戸にやってきたのだ。
教科書に載っている源内の絵を見ると、刀を携えていることが分かる。
刀を捨てきれずに腰につけていたがために起きた悲劇だった。

徳川慶喜は自撮り好きのカメラオタクだった

徳川最後の将軍・慶喜。晩年はカメラに夢中で"カメラオタク"になっていたという。
32歳の頃、江戸から離れて駿府(静岡)に移住した慶喜は、77歳で亡くなるまでカメラにのめり込み、数々の写真を遺した。
慶喜の写真を研究して30年、徳川慶喜研究家の齊藤洋一さんが、貴重なエピソードとともに慶喜のカメラオタクぶりを物語る写真を特別に見せてくれた。
「明治維新後、写真に惹かれてカメラに熱中。没入したといわれるくらい打ち込んだのは事実です。彼がつけていた撮影記録が500枚以上は残っています」

静岡に住んでいた慶喜は、最初の頃は自分の家の周りの景色をしきりに撮っていた。静岡の名所で撮っていない場所がないというほど、精力的に撮影していたようだ。
元将軍とは思えないラフな格好で、カメラを構えている慶喜の後ろ姿を捉えた貴重な1枚が残されていた。そこには、漁をしている人の姿を、河原に腰掛けて撮影している慶喜が写っている。
自分の心の赴くままに出かけて行き「撮りたいから撮るんだ」と、写真を心から楽しんでいる証拠の写真でもある。
そんな慶喜が一番思い入れのある写真は、なんと「自撮り写真」。
歴史の移り変わりとともに自分の姿を写しまくり、細かく記録していた慶喜。
そのことについて齊藤さんは、
「彼ほど身分の高い人が、バリエーション豊かな写真を集中的に残している。こんな人は慶喜さんだけです。中には彼のことを"ナルシスト"と呼ぶ人もいたようですが...」

何をやっても一流の慶喜は趣味で書道もやっていて、その文字が現存している。
それは、誰でも一度は目にしたことがある東京・日本橋に掲げられている「日本橋」の文字。
(これも慶喜が書いたと思うと)「これから見る目が変わりますね」と、しみじみ感じた様子の滝川クリステルだった。

「教えてもらう前と後」はMBS/TBS系で毎週火曜日よる8時放送。
政治・経済・健康・アート・歴史など毎回その分野のスペシャリストが登場し、決定的瞬間を教えてくれる。
「知のビフォーアフター」が体感できる番組。

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