MBS 毎日放送

2018年02月26日 11時03分 公開

あらためて大注目の西郷隆盛。しかし本当の顔は誰も知らない!?

「教えてもらった前と後で、見る目が変わります!」を合言葉に、滝川クリステルと学ぶ今回のテーマは……「西郷隆盛」と「めまい」。「西郷隆盛」編では、各地に現存している「西郷さんの銅像」に隠された秘密を紹介するとともに、西郷さんの真実と魅力に迫ります。「めまい」編では、全国で280万人が悩まされているともいわれる「めまい」について、専門の医師から改善方法を学びます。

今期NHK大河ドラマの主人公は、明治維新の立役者・西郷隆盛。学校の教科書にも掲載されているおなじみの姿は、実は全くの別人でした。
そういわれてもちょっと信じがたいこの事実について、歴史家で作家の加来耕三先生が解説します。
さらに上野だけではなく他にも存在している西郷の銅像、いずれにも西郷にまつわる逸話が隠されているのです。「西郷どん」に対する見方が変わります!

上野の西郷隆盛像は「こげな人じゃなか」

東京・上野公園にある、日本で一番有名な西郷隆盛像。日本の新しい時代の幕開けを信じ、獅子奮迅の活躍をした西郷の功績を讃えたこの銅像は、堂々たる風格でありながらも愛犬と一緒で可愛らしい一面も併せもち、上野のシンボルとして愛されています。
しかし「上野の西郷さん」の顔は、実は本人ではなく別人ふたりの顔を合成して作られた、という説があるのです。
この「上野の西郷さん」は、詩人・高村光太郎の父で、彫刻家・高村光雲の作品。光雲は、銅像を作る際に西郷の肖像画を参考にしました。そう、誰もが記憶しているアノ肖像画です。
その絵は、明治政府が招いたイタリア人画家のキヨッソーネが描いたもの。しかし、彼は西郷と一度も会ったことがなかったのです。
そこで、顔の上半分を弟の西郷従道をモデルに、下半分を従兄弟の大山巌をモデルにした、といわれています。

こうして建てられた「上野の西郷さん」の除幕式で騒動が。
この時の様子を、西郷隆盛の本家直系5代目にあたる西郷隆太郎さんはこう語ります。
「除幕式で銅像をみたイト夫人(隆盛の妻)が、『こげな人じゃなか』と発言しまして、色々ございました...」
そして加来先生も「板垣退助も『こんな顔じゃない』といって途中で帰ってしまいましたし、勝海舟も『体調が悪い』といって帰ったんですけど、内心はいちもつ持っていたんじゃないかと思います」と教えてくれました。

鹿児島の西郷隆盛像は「まったくの別人!?」

西郷の地元・鹿児島市の「城山公園」にある西郷隆盛像は、昭和12年に、西郷の没後50年を記念して建てられました。作者は「渋谷のハチ公」を製作した、鹿児島出身の彫刻家・安藤照。
実はこの「鹿児島の西郷さん」のモデルも本人ではないのです。
なんと西郷とは縁もゆかりもない、当時山形県に住んでいた石澤宏太郎という人物がモデルというから驚き。
たまたま安藤のアトリエを訪れた石澤さんに「イメージする西郷さんだ!」とビビビときた安藤は「西郷隆盛像のモデルになってもらいたい」と考えたといいます。
そして西郷の遺族に相談したところ、「本人とよく似ている!」というお墨付きをもらったため、石澤さんに西郷の軍服を着てもらい、製作を開始したそう。

加来先生はこう教えてくれた。
「西郷さんの写真は1枚も残っていません。撮影したという記録もないんです。西郷さんは写真がすごく嫌いで、大久保利通がヨーロッパで撮った写真を送ってきたとき『そんな見苦しいものを送ってくるな。情けない』と返信しているそうです。西郷さんは明治政府の要人、広く顔が知られてしまうと狙われる可能性も高くなりますから、暗殺を恐れて写真を撮影しなかったということも考えられています」

沖永良部島の西郷隆盛像は「やせてガリガリ」

鹿児島県沖永良部島にも西郷隆盛像があります。
それは私たちのイメージとはかけ離れた「ガリガリの西郷さん」。西郷さんといえば、背が高くて恰幅が良く大柄なイメージですが、ここにある銅像は痩せていました。実は西郷には牢獄に入っていた過去があったのです。
西郷は、時の藩主・島津斉彬に見出されて活躍していましたが、斉彬亡き後を継いだ島津久光とソリが合わなかったため批判して激怒させてしまいます。そのことで島流しに遭い牢に入れられたのです。

鹿児島市から南におよそ550㎞離れた沖永良部島に、その牢が再現されています。
その狭い牢は、屋外にあり吹きさらし。容赦なく南国の日差しが照りつけ、雨風も防げません。満足な食事も与えられない過酷な環境のなかで、日に日に痩せ細っていく西郷は「名前も、地位も、名誉もいらん」といって徐々に死を覚悟していったそうです。
加来先生「その時の食事は、麦飯とおかずの"焼き塩"。真水が少々でした」

そんな西郷の姿を見るに見かねた島民が西郷に救いの手を差し伸べます。
「代官に、家の中の座敷牢でいいんじゃないかと、掛け合ったのです」と、「西郷南洲記念館」の永吉由美子館長が経緯を教えてくれました。
そんな島民たちに心打たれた西郷は、牢の中から子供達に勉強を教え始めます。当時島には充分な教育が行き届いていなかったため、この西郷の行為は島民たちに大きな影響を与えたそうです。

島の人は「あの方のおかげでお医者さんになったり、学者になった方がたくさんいます」といって今でも西郷に尊敬の念を抱いている様子。
このことがきっかけで、西郷の生涯の指針となる「敬天愛人」という思想が生まれました。「天を敬い人を愛する」ということを意味するこの言葉は、西郷の代名詞となりました。

そして牢に入っていたときのことを加来先生はこう分析します。
「西郷さんは目線を低くして島の人の立場で物事を考えてくれました。そんな人はあの当時いなかったので、どこに行ってもみんなから好かれていました。あの時西郷さんが死んでいたら、西郷さんの名前は後世まで語りつがれていなかったでしょうね」