戦後最大の人気を誇る政治家・田中角栄。稀代の政治家の真の姿とは。

5分で読める!教えてもらう前と後

2018/02/20 19:41

「教えてもらった前と後で、見る目が変わります!」を合言葉に、滝川クリステルと学ぶ今回のテーマは・・・「伝説の政治家」と「日本人と宗教」。「伝説の政治家」編では、稀代の政治家・田中角栄元総理がのこした数々の金言を通して、伝説の政治家像に迫ります。「日本人と宗教」編では、博多大吉と笛木優子が宗教学者の島田裕巳先生と東京・浅草の浅草寺をめぐり、日本人と宗教の深いつながりを探ります。

決断力と実行力を武器に数々の伝説をのこした田中角栄

総理大臣としてだけではなく、人物そのものが日本に多大なる影響を与えた唯一無二の存在である田中角栄。
そんな角栄に関する本が、2015年頃から売れに売れています。今も続いているこの人気の秘密を、元NHKアナウンサーで、ジャーナリストの堀潤さんの解説で探っていきます。
再現VTRには梅沢富美男が田中角栄役で登場。その魅力的な人物像が明らかに!

1972年(昭和47年)、第64代内閣総理大臣に任命され、54歳で当時の戦後最年少総理大臣となります。
その際角栄は、「政治は国民のものであります。民主政治は国民の支持と理解がなければ、政策効果を上げることはできません。国民の支持を求め前進してまいります」と語っていました。
また、総理就任直前に出版された「日本列島改造論」には、大都市と地方の格差をなくすための壮大な構想を綴っていました。

その策として角栄は高速道路と新幹線網を打ち立てました。そこには、最近開通した北陸新幹線や北海道新幹線を含む新幹線網の計画のほか、リニアモーターカーの構想など、未来を見通した内容が書かれています。

そんな中、面白い噂が広まりました。
「東京・目白の自宅から新潟の実家までは3回曲がるだけで着ける」
この信じがたい噂について検証してみることに。
すると...。田中邸を出発し、目白通りを走って10分ほどのところで1回曲がると、関越自動車道につながっていました。そして三国峠を抜けて新潟県の西山インターで降りたら曲がってもう一度曲がる。
そうです、新潟の実家までの220kmの間に曲がったのは、本当に3回だけだったのです!

角栄は常々「政治は数、数は力だ。そして力は金だ」と言っていました。
これは、金と力は有権者の要求に答えるための手段だといっているのです。「目白詣で」と呼ばれていたエピソードがそのことを裏づけます。
当時、連日400人もの人たちが角栄に頼みごとをするために東京・目白の自宅を訪れていました。地元・新潟の人たちにとっては、バスで東京観光を楽しんだ後で、目白の田中邸を訪れるというコースが定番だったようです。
角栄はその陳情に必ず返事を出すことを心がけていました。
そこには、「結果が相手の希望通りでなかったとしても、《聞いてくれた》と思ってもらえるように」という角栄なりの配慮があったのです。
必ず「できる」「できない」をその場で判断して返事をしていた角栄が1件にかける時間はおよそ5分。そして400件の陳情が終わると、最後に角栄自らが並び順を決めて記念撮影をしていたという暖かいエピソードが伝えられています。

逮捕されても、優れた「人心掌握力」を発揮

1976年(昭和51年)。ロッキード事件で元総理大臣が逮捕されるという前代未聞の事態に日本中が震撼します。
逮捕されメディアから姿を消した角栄は、5年後、田原総一郎さんのインタビューに応じていました。
このインタビューがきっかけで政治ジャーナリストへの道へ進んだという田原さんは、「構想力、行動力はすごいです。他に誰もいません。僕が今まであった政治家の中で、田中角栄が文句なしに一番すごいです!」と語ります。

新潟には現在も銅像が立つほど特別な存在である角栄。それについては、田原さんが「田中角栄が新潟に帰ると、駅前にたくさんの後援者が集まってくるんです。彼はその人たちの名前をちゃんと覚えていて会話するんですよ。あの記憶力はすごかったですね」
「人心掌握力」という面でも角栄は優れていたのです。

【人心掌握術 その1】
冠婚葬祭で「葬儀」を最も重視していた角栄は、「祝い事は遅れてもいい。ただし葬式には真っ先に駆けつけろ。人が悲しんでいる時に寄り添ってやることが大事なんだ」といい、葬儀場に真っ先に駆けつけて人目もはばからず涙し、故人を偲びました。
葬儀から1週間が過ぎたころには、「花が枯れるころ、遺族の悲しみが募るもんだ」といい、新しい花を贈っていたそう。

【人心掌握術 その2】
官僚をうまく使ったことでも有名な角栄は、スムーズに事を進めるために官僚を味方につける術も備えていました。
課長以上の全公務員、本人の誕生日や結婚記念日はもちろん、子どもの誕生日も把握しており、必ずプレゼントを贈り信頼関係を築いていたそうなのです。
さらに、こんな言葉がプライドの高い官僚たちを虜にしていました。
「手柄は連中に与えて"ドロ"は当方がかぶる。えこひいきせず名指しで批判しない。叱るときは"サシ"でやる。褒めるときは大勢の前で褒めるんだ!」

【人心掌握術 その3】
多いときは140人が所属していた「田中派」が鉄の結束を誇っていた理由は「金」と「地位」にありました。
角栄は「田中派」の議員全員に、年間ひとり当たり数百万円を渡していたといいます。しかも何回か当選すると必ず大臣の地位を与えていたのだそう。
しかし、単に金をバラまいていたわけではありません。
角栄流の「金の使い方」それは...、
「金は頭を下げて受け取ってもらえ。くれてやるといった態度が少しでもあれば、その金は死に金になる」という言葉が全てを物語っています。

良くも悪くも「政治家らしい政治家」だったと言える田中角栄。彼は自らの政治哲学についてこう語っていました。
「世の中は白と黒ばかりではない。敵と味方ばかりでもない。真ん中にグレーゾーンがあり、そこが一番広い。天下というものは、このグレーゾーンを身につけなければ決して取れないのだ」
「清濁」を併せ呑む人柄で幅広い年代から愛された角栄。
当時、角栄の口癖だった「まぁそのぉ」をダミ声でモノマネする人が日本中にたくさんいました。
それだけ親近感を感じさせてくれる総理大臣はそうそういないだろう。

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