「ナイキ」の窮地を救った総合商社 社長が目指す「多くの人材が輩出する会社」とは!?

3分で読める!『ザ・リーダー』たちの泣き笑い

2021/09/09 11:08

 明治、大正時代に日本を代表する企業だった「鈴木商店」。その流れをくむ総合商社「双日」は、かつて「日商岩井」の時代、いまや世界を席巻するスポーツブランド「ナイキ」の経営危機を救ったことがあった。いまなお続く「ナイキ」と「双日」の揺るぎない信頼関係。そこには、「鈴木商店」時代から起業、経営破たん、経営統合など実に様々な経験をしてきた企業の血脈がある。 藤本昌義社長はいま、“多くの人材が輩出する企業にしたい”と願う。『ハッソウジツ』という「双日」が掲げるキャッチフレーズ。そこに込めた熱くて深い思いを藤本社長に聞いた。

ナイキから贈られた「友情の証」スニーカーのオブジェ
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―――本社の社長室にナイキスニーカーのオブジェがあるそうですね。
 「ナイキ」創業者、フィリップ・ナイトさんとかつての「日商岩井」、現在の「双日」との友情の証として贈られたものです。スニーカーのオブジェの片方は、「ナイキ」本社に置いてあります。私がアメリカの機械部門長になった時から「ナイキ」本社が近かったので、交流がありましたが、社長になってからは毎年、フィルさんを訪問しています。1年間の業績のご報告を申し上げつつ、お互いに近況を確かめ合って、ゴルフやパーティを一緒に楽しむというのが、恒例になっています。

―――超多忙なフィルさんと毎年会うのは、なかなかできないことですね。
 いま、「ナイキ」のCEO(最高経営責任者)で、当時CFO(最高財務責任者)だった人が、「藤本が本社に来る時のパーティには、必ず呼んでくれ」と言っていましてね。なぜかと言いうと、CFOでありながらフィルと話しができる機会って年に2、3回しかないそうで、仕事以外で話しができるのは、本当に貴重だというのです。

源流はかつて日本一の商社「鈴木商店」 売り上げは日本のGNPの1割
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―――「双日」の源流にあたる「鈴木商店」は全盛時、日本のGNPの1割くらいの年商があったそうですね。
 1917年に第一次世界大戦が起きたちょうどその頃、三井物産を抜いて日本一大きな商社になりました。すごかったのは80ほどの会社を興したということですね。いまの神戸製鋼さん、帝人さん、日本製粉(ニップン)さん、サッポロビールさんもそうですし 、J‐オイルミルズさんとかもそうです。

―――名だたる会社ばかりですね。
 いまやどこも名だたる会社になっていらっしゃる会社の、もともとの土台をつくったのが「鈴木商店」ということになりますね。"やはりこういうものが今後、日本には必要だろう"と、そういう事業に資金を投資してきた訳ですね。決して儲けだけじゃなくて、日本の国のためになることに出資してきたところが、すごいのではないかなと思っています。

弁護士を目指し東大へ しかし「法律の勉強がつまらない」と商社に入社
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―――弁護士を志し、東京大学は法学部に進学されたそうですが、商社に入社したのはなぜですか?
 法律の勉強がつまんなかったからですね。最初に民法とか刑法とかをやるのだけれども、理屈っぽいんですよね、意外と。判例法とか言って判例を覚えなくてはならないし...。まあ覚えるのは構わないのだけれども、「なんでそういう結論になるか」という議論が重箱の隅をつついたような話が多くてね。「こんなの面白くない」と感じ、すぐに弁護士を目指すのをやめました。

―――では大学卒業間近になって、就職先をどこにしようという時は?
 就職先の希望として"海外に住みたい"というのがありました。当時は総合商社か、いまはUFJ銀行となったかつての東京銀行のような為替を扱っている銀行くらいしか、海外にオフィスを持っていなかったですよね。そこで、総合商社を選びました。のちにはメーカーさんが、どんどん海外進出するようになって、いまでは日本企業で海外に行くチャンスはあるけれども、当時はなかったですね。

―――その中でも「日商岩井」を選んだ理由は?
 雰囲気が自由闊達で、「三菱商事」に行った時は、名前出していいのかな?みんな髪型が七三分けでね、きちっとしていました。「日商岩井」はみんなくだけていまして...。「ここだったらいいかな」と思ったのがきっかけですね。先輩たちの雰囲気というのが、ほかの総合商社とは違いましたね。

「私が正しい」 "生意気"過ぎた新入社員時代
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―――新人社員時代の思い出はありますか?
 会社に入って負けん気というか、鼻柱も強かったので、自分が正しいと思えば主張し続けていましたね。その時、当時の課長、シカゴから帰ってきた上司ですが、 「お前、自分の主張ばかり通して『正しい』と言っても、相手もサラリーマンで上司に説明しなくちゃならないのだから、『私が正しい、私が正しい、こうしろ』と言っても結局、向こうは向こうで考えがあるので、そこはやっぱり相手のこともおもんぱかりながら交渉していかなければ」と、よく言われたのがすごく心に残っていますね。

会社の一大事!不眠不休の毎日だった「統合チーム」時代
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―――「日商岩井」が「ニチメン」と経営統合しますが、「日商岩井」の経営がどうも危うくなっていると知ったのは?
 私が「トヨタポーランド」に出向している時ですね。「日商岩井の経営が危ないのかな?」と心配した時期がありました。2001年と言えば、「9.11」があった年ですね。当時の大手流通会社「マイカル」の社債が"飛んだ"あとから資金繰りが苦しくなりました。それで私は、本社の経営企画部門に異動になって、資金繰りをはじめ、銀行への交渉など、大変な日々を2、3年間は送ったのかな。最後は「ニチメン」との統合チームに入って事業計画作りをやっていました。

―――会社の命運を握るメンバーのひとりですよね。相当、大変だったのでは?
 相当、大変で猛烈に忙しかったです。毎日、仕事が終わるのは朝の4時とか5時でしたね。基本的には土日もなかったです。激務で不眠不休のような感じでしたね。今考えると、よくダウンしなかったものだと感心します。

―――会社の経営統合を経験して思うことはありますか?
 いろんな意味で、できれば経営統合しないで済むならしない方が良いと思いますね。私どもの「日商岩井」は、かつて「日商」と「岩井」が経営統合してできました。そこに「ニチメン」さんが入ってくる...。どの会社も興りの地は神戸ですよね、興りの地は...。それでも、経営統合して人が融和するまでに10年くらいはかかっちゃう。その間に、自分たちが考えていなくてもいろいろとお互いがおもんぱかるとか、実に様々なことが起こりますので、できれば経営統合とかは避けたいよな、と思いますね。

『ハッソウジツ』に込めた社長としての熱い思い
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―――「双日」の強みは?
 事業家精神といいますか、「会社を作って、興してやろう」という精神が、いまもなお生きているところじゃないかなと思います。会社はいま、「発想で新たな価値を創造し、それをビジネスとして実現する」というキャッチフレーズを掲げ、それを『ハッソウジツ』と呼び、プロジェクトを進めています。さっきのナイキの話に戻りますが、やはり"ナイキの危機を救う"そういう決断、普通だったらできないような決断をやってきて事業を作る。かつては、そういう人物がいた、ということですよね。

―――『ハッソウジツ』の実現ですか?
 会社のメンバーがいろんな発想を持ち、いろんなものを実現して事業化していく。そして、会社を飛び出していただいても結構だって言っているのだけれども、そうやって緩い形のグループを形成していけば良いなって。気が付けば、みんな「双日出身」だよね、ということでいいろいろなところで繋がればいいと思っていまして。そういった意味で「いろんな人が輩出するような会社でありたいな」と思っています

南米で身の危険を感じたサラリーマン最大の危機!
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―――サラリーマンとしての最大の危機はいつですか?
 それはもう、2008年に南米・ベネズエラに赴任しまして、自動車組立て販売会社の社長になった時ですね。チャベス大統領の時代で結構、労働者主義というか、共産主義、社会主義の政権だったものですから、労働者に甘くて、労働者を解雇できない大統領令が出ているような国でした。そのような中で、過激な組合員が工場を乗っ取って占領して、3か月全く工場を動かせないという騒動が起きました。工場をなんとか再開に漕ぎつけたのですが、普通の工員が働くのを邪魔する、組合の人間が暴力を振るうという状況で...。さすがに会社を続けていけないとなり、会社をたたもうという決断をしたことがあるのですが、その時が一番しんどかったですね。

―――身の危険を感じる、とかはなかったのですか?
 工場を閉めると決断した時、労働大臣から呼ばれて、「工場を開けろ」と脅しみたいな形で。「そうじゃないと牢屋に入れるぞ」と言われました。深夜まで交渉して外に出ると、周囲を労働者に取り囲まれるとかはありました。2、3回はね。あと、国会に呼ばれたこともありました。
工場で発砲事件がありまして、労働者が2人死んだんですよね。それで、会社の責任者として国会に召喚されました。

「関西発想」のベンチャーやスタートアップ企業を育てる拠点に
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―――神戸に源流がある会社として、これかの関西経済をどうご覧になりますか?
 いまや日本の企業が製造業で世界に勝っていけるような時代じゃないと思っています。そういう意味では、関西経済はもっとサービス業などを手掛けるベンチャーとか、発想の豊かなスタートアップ企業を育てるような基盤づくりが必要だと思います。関西発想の元気な会社が出てくるような場所にするべきじゃないかなと思っています。

―――古くは「ナイキ」というベンチャー企業に投資した「日商岩井」ですものね。
 日本はどうしてもベンチャー投資が苦手な国なのですけれども、もっともっと私たちのような経営者のマインドを変えて、ベンチャー投資を加速させていくような仕組み作りをやっていきたいと思っています。

―――最後に藤本社長にとってリーダーとは?
 リーダーは、全てのことに対して自分の責任で判断し結論を出さなければならない立場。決して逃げてはいけないし、そして常に誠実であってフェアでなければいけない。このように考えています。

■双日 2004年、日商岩井とニチメンが合併し発足。米国の航空宇宙機製造会社ボーイングの販売代理店事業を60年以上手掛ける、2020年トルコで大規模な総合病院を開院。国内外に80以上の拠点、グループ会社は400以上、グループの売上げは、1兆6000億円を超える。従業員数は約2万人。

■藤本昌義 1958年、福岡県生まれ。1981年、東京大学法学部卒、同年、日商岩井入社、2015年、執行役員経営企画、IR担当、同年、常務、2016年、専務、2017年、社長、現在に至る

■このインタビュー記事は、毎月第2日曜日のあさ5時40分から放送している「ザ・リーダー」をもとに再構成しました

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