2021年08月16日(月)公開
戦時中に『隠された大地震』 政府が情報統制「戦力低下が推察できる事項は掲載しない」被災者には支援も届かず
編集部セレクト
終戦の約半年前、1944年12月に発生した大地震がありました。しかし、この地震は当時ほとんど報道されず、“隠された地震”とも呼ばれています。なぜ隠されたのか。当時を知る人たちを探して取材しました。
学校でも話題にならなかった「大地震」
77年前に不思議な経験をしたという和歌山県新宮市の85歳の男性を記者が訪ねました。当時8歳だった田中弘倫さん(85)は、自宅で大きな地震に襲われたといいます。
(田中弘倫さん)
「1人で留守番していたら、急にガーと揺れ出して。水平線のところから真っ黒い波が来ているのがわかるわけです。水平線がギザギザになっている」
戦争末期の1944年12月7日に起きた地震は、その後「昭和 東南海地震」と呼ばれます。田中さんの家は無事でしたが、翌日に異様な空気を感じたと言います。
(田中弘倫さん)
「地震の話なんかほとんど聞いていないです。母親も何も言わなかった、その後のことは。(地震の話は)学校でもまったくなかった。おそらく学校でも禁じられていたんじゃないですかね」
これほど大きな地震だったにもかかわらず、誰もその話をしようとはしなかったというのです。
死者・行方不明者は1200人以上とされるが新聞は小さな記事
地震発生翌日の12月8日の朝日新聞には、一面に大きく昭和天皇の写真が掲載されています。一方、地震については「昨日の地震 震源地は遠州灘」と小さな見出しで、詳しい被害にはほとんど触れられていませんでした。
【地震の記事より】
「空襲の体験を得てきた一般人の待避はまず順調であった」
しかし、内閣府などによりますと、紀伊半島沖で発生したこの地震の規模はマグニチュード7.9。沿岸部に津波が押し寄せ、死者・行方不明者は1200人に上ったとされます。
防災の専門家は「今では考えられないことが行われていた」と指摘します。
(兵庫県立大学 木村玲欧教授)
「当時の日本は戦争をしている最中で、やはり戦争に勝つことというのが至上命題で、その中で地震というものは消すべきもの隠すべきものでした。文字の記録自体もいわゆる軍の検閲・校閲によってなかなか外に出てこない。被害の様子はほとんどわかっていないのが現状です」
地震被害の様子を示す兵士出征の記念写真
政府によって隠された地震。記者は被害の中心とされる愛知県半田市に向かいました。話を聞いたのは郷土史研究家の西まさるさん(76)です。西さんは地元の被災者約600人から証言を集めていました。
【証言の記録より】
「防火用水槽の水が大きく波打ち、ドブンドブンと外にあふれ出た」
さらに貴重な写真も見つかっていました。
(はんだ郷土史研究会 西まさるさん)
「日にちははっきりしないですが、(地震から3か月後の)2月の中旬から下旬にかけての写真です。建物の屋根に亀裂が真横に入っている」
被害を証明するこの写真は兵士の出征を撮影した記念写真だったため奇跡的に残ったそうです。
―――当時、被害の写真を撮っていたら憲兵に捕まっていた?
(はんだ郷土史研究会 西まさるさん)
「そうだったんでしょうね。周りが『お前なんでそういうことするんだ』と。『お国のためにならないじゃないか、非国民だ』と。忖度があってお国の不利になることやあまり見たくないことは、見ざる聞かざる言わざるでいたんだろうと」
「検閲係」の文書に記された情報統制 一方でアメリカは地震被害を確認
人々は心を縛られ口を閉ざしたという戦時中の出来事。政府はなぜ地震を隠したかったのでしょうか。政府が情報統制を行っていた証拠が東京の国立公文書館にありました。表紙に極秘と書かれた文書は内務省新聞検閲係の勤務日誌です。その多くは敗戦時の焼却処分などで失われましたが、地震発生時の日誌は奇跡的に残っていました。
検閲係は新聞社に情報統制を行う担当で、地震のあった12月7日にこう通達していました。
【内務省新聞検閲係の勤務日誌より】
「被害や戦力低下を推察できるような事項は掲載しないこと。名古屋、静岡など重要都市が被害の中心地あるいは被害が甚大であるような取り扱いをしないこと」
しかし政府の目論見はもろくも崩れ落ちました。地震発生から3日後、アメリカ軍は現在の三重県尾鷲市の上空から写真を撮影していました。地震と津波の被害を確認するものでした。
さらにアメリカのニューヨークタイムズも「日本を大震災が襲った」と発生の翌日と3日目も大きく報道したのです。
(兵庫県立大学 木村玲欧教授)
「地震というのは地球で起こる現象でして、東南海地震ほどの大きな地震は、実は揺れがアメリカの方まで伝わっています。軍部は隠そうとしたわけですけれども、試みというのは見事にうまくいかなかった」
さらに情報の隠ぺいにより国民に深刻な問題が生じたと指摘します。
(兵庫県立大学 木村玲欧教授)
「報道がされないので、全国から様々な支援がそもそも来るものがなかった。人々の生活は非常に苦しめられて、中には体調を崩して亡くなるような方もおられたと聞いています」
「現代の子どもたちに言い伝えていかないと」被災者が語る戦争と自然災害
三重県熊野市で被災した鈴木美文さん(82)も、当時は支援がなく苦しい思いをしたと言います。
(鈴木美文さん)
「情報統制されたから他からの支援物資もなければボランティアの応援もないと、そういう状態でしたね。被災しなかった(高台の)上の方が、どの家にも手伝いに来てくれてね」
―――被災されて一番感じたことは?
「津波で辛かったことと、食料や衣類が不足したことかな」
去年、鈴木さんは地震について記した『つなみじぞうのあるまち』という絵本を出版しました。
【『つなみじぞうのあるまち』より】
「いきなり足元が大きく揺れ、立って逃げようとしても立つこともできない」
「もう津波がそこまで来ていたんだ」
「どっかんどっかんと大きな音を立てて、岸に打ち寄せてくるんだ」
「地獄を見たことはないけど、地獄とはこんなものかと思った」
(鈴木美文さん)
「戦争というのは本当にやってはいかんと。結局、戦争が引き起こしたことやからね。自然災害やら先人のそういうことを伝えられていない。現代の子どもたちに言い伝えていかないかんなと思いますね」
大きな目的のために個人の心が縛られる。77年経った現代でも同じようなことが起きてはいないでしょうか。
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