BLOG京ノ旅手帖2020.01.20

大河ドラマで話題!京都で明智光秀ゆかりの地めぐり。丹波亀山城、福知山城、天王山など

2020年の大河ドラマで明智光秀の生涯が描かれることになり、全国の「光秀ゆかりの地」に注目が集まっています。京都にも、明智光秀やその周辺の人物に関連する史跡・名所が数多くあり、これまで以上に多くの観光客が訪れることになりそうです。 そこで京都の光秀ゆかりの地について、「本場」や「近場」のポイントを紹介します。

02.jpg

石垣の大半は後年に積み直されたもの

ここから「本能寺の変」に出陣、丹波亀山城跡(亀岡市)

亀岡市の丹波亀山城は、明智光秀が丹波攻略の拠点として1577年(天正5年)頃に築いた城です。城下町の形成によって、この地は発展を遂げました。光秀の死後、層塔型の五重の天守が築かれましたが、1877 年 (明治10 年)には天守が解体されました。城跡は現在、宗教法人・大本の所有地となっていますが、受付で見学を申し込むと内堀跡や本丸付近の石垣を見学することができます。

光秀は、本能寺の変の際にこの城から出陣したと言われていて、まさに歴史が動いた起点なのです。

ちなみに、京都府亀岡市にある城が「亀山城」なのは、もともとの地名が亀山だったからです。ところが三重県亀山市と混同するとして、1869年(明治2年)に亀山から亀岡へと改称されました。

■ 丹波亀山城跡

亀岡市荒塚町内丸1
JR亀岡駅から徒歩約10分
0771-22-5561(宗教法人・大本)

「光秀像」でアピール

亀岡市は2019年、JR亀岡駅近くの南郷公園にある広場の名称を「光秀広場」と変更しました。南郷公園は丹波亀山城の本丸北側の外堀の跡につくられた公園です。広場には亀山城天守閣のしゃちほこを復元した銅像2体がありましたが、新たに明智光秀の銅像を設置して、「ゆかりの地」をアピールしています。

03.JPG

南郷公園「光秀広場」

「光秀愛妻御膳」も登場

明智光秀は愛妻家として知られ、側室も持たなかったそうです。そんな光秀にちなんで、彼の好物だった鯛や味噌汁などによる「光秀愛妻御膳」というミニ会席を作った日本料理店も。

04.jpg
05.JPG

左:光秀愛妻御膳3,218円(税・サ別、要予約) 鯛塩焼き・粽(ちまき)・魚の荒汁など光秀の好物のほか、おつくりの盛り合わせや天ぷらなどを盛り込んだ御膳
右:がんこ 京都亀岡 楽々荘 国登録有形文化財指定のレンガ造りの洋館や、書院造りの屋敷で贅沢なひと時を過ごすことができる

福知山の名付け親は光秀

福知山の地名は光秀が名付けたとされていて、もともとは福智山という漢字が使われていました。「本能寺の変」で主君・織田信長を討った光秀には"逆賊"のイメージを抱きがちですが、優れた統治者という側面もあります。福知山城下を流れる由良川はたびたび氾濫を起こしていましたが、光秀が堤防や藪を築くなどの治水事業を進めました。また地子銭とよばれた税金を免除したりするなど、民の生活を豊かにする善政を行いました。このため、領民には名君として慕われたのです。

06.jpg

唯一、天守閣がある福知山城

福知山城は、光秀が織田信長の命を受けて丹波を平定した際、西国攻略に向けた拠点として1579年(天正7年)頃に築城されました。1873年(明治6年)の廃城令により石垣と一部の遺構を除き大部分が取り壊されましたが、1986年(昭和61年)に天守閣が復元され、光秀が築城した中で唯一、現在も天守閣がある城として市民に愛されています。

07.JPG

「瓦1枚運動」など市民の熱意によって三層四階の天守閣が復元された福知山城

石垣には「転用石」

福知山城天守閣の石垣は、「野面積み」「乱石積み」などと呼ばれる技巧で自然の石をそのままの形で積み上げられたものですが、「転用石」が多く使われているという特徴があります。転用石とは墓石や石仏、燈籠・五輪塔など寺院で使われていた石造物を石材として再利用したもので、福知山城の近辺には大量の石材がなく、築城に時間的な余裕がなかったことから集められたとみられています。これまでの発掘調査でおよそ500点が確認されていて、天守石垣付近に集中しています。

08.JPG

石垣には大量の「転用石」

「光秀が話す自販機」でおもてなし

城内でひときわ目を引くのが、この自動販売機。人気イラストレーター・諏訪原寛幸さんによる福知山市オリジナルの光秀イラストをラッピングしたもので、福知山城本丸広場の自販機は売り上げが急増したとのこと。市内に6台が設置されていて、硬貨投入時には「ときは今!明智光秀、ここに見参!」の音声が流れる仕掛けです。お金が足りない時に流れる音声は、自販機によって違う設定になっているそうです。

09.jpg

お金が足りないときには「のぶながぁぁぁぁ!!」の音声が

■ 福知山城天守閣

福知山市字内記5番地
JR福知山駅から徒歩で約15分
0773-23-9564
開館時間:午前9時から午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日:12月28日から12月31日
入館料:大人330円、こども(小・中学生)110円

■ 福知山光秀ミュージアム

福知山城のふもとに期間限定オープン(2021年1月11日まで)
0773-22-1010
開館時間:午前9時から午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日:無休
入館料:大人500円、こども(小・中学生)250円
福知山城との共通券大人700円、こども(小・中学生)300円

京都駅から15分圏内!半日で巡れる「ゆかりの地」

明智光秀ゆかりの地には訪ねてみたいけど、ちょっと遠いところは無理という人におススメなのが、大阪市内や京都市内から電車で気軽に行ける観光スポットです。JRや阪急の駅から徒歩圏にも「ゆかりの地」はたくさん存在するのです。

大山崎町 のぼり写真の差し替え.JPG

「天下分け目の天王山」に登ってみた(大山崎町)

天王山は、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した山崎合戦の舞台となったことで知られています。実際の合戦は天王山の東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いでしたが、天王山の地名は「天下分け目の大決戦」の代名詞となっています。ドライバーにとっては、名神高速道路の渋滞箇所で有名な天王山トンネルの知名度が高いかもしれません。

大山崎町 天王山.jpg

ハイキングコースとしても人気の天王山 ※写真提供:大山崎町

12.JPG

近くには「アサヒビール大山崎山荘美術館」も

天王山は、JR山崎駅または阪急大山崎駅が最寄り駅になります。JR京都線の線路を北側に渡ったところに「天王山登り口」があります。大山崎町のウェブサイトによると、「標高約270メートルの山で、登山道は整備されているためお年寄りや子供連れでもハイキングを楽しむことができます」そうですが、それなりに急な坂道が続きますので、運動靴や動きやすい服装で出かけたほうが無難でしょう。

13.JPG

宝積寺山門には金剛力士像

坂道を10分ほど歩くと、宝積寺(ほうしゃくじ)の山門が見えてきます。真言宗智山派の仏教寺院で、724年(神亀元年)に聖武天皇の命によって行基が開いたと伝えられています。聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀っていることから、「宝寺」(たからでら)の別名も持ちます。また宝積寺本堂の脇にある「出世石」には、山崎の合戦のときに秀吉がこの石に腰を下ろして采配を振るったという伝説があります。

14.jpg

「出世石」に願掛けすれば未来は明るい?

歴史を学びながらのハイキング

宝積寺を後にして、山頂を目指します。時折すれ違うハイカーと「こんにちは」と挨拶を交わしながらやや急な坂道を進むと、合戦の模様を表した陶板絵図が目に入ってきます。

15.JPG

歩き疲れたタイミングで絵図と解説の前で休憩を

登り道の7合目付近にある旗立松展望台からは、山崎合戦で両軍が対峙していた古戦場が見渡せます。桂川・宇治川・木津川が合流し淀川になる三川合流地帯の景色は「京都の自然200選」にも選ばれています。

16.JPG

「旗立松展望台」の名前は、秀吉軍が自軍の士気を高めるために松の木に旗印を掲げたことが由来

登山口から休憩をはさみながら、ゆっくり登って約60分でようやく山頂に到達です。JR山崎駅・阪急大山崎駅からのルートのほかに、阪急西山天王山駅から山頂を目指すルートもあります。(所要時間約80分)

17.JPG

山頂(山崎城跡)付近一帯には天守台跡・門跡・土塁跡・礎石等が残る

細川ガラシャゆかりの勝竜寺城公園(長岡京市)

大山崎町のお隣、長岡京市には明智光秀の娘・玉が細川忠興との幸せな新婚生活を送った勝龍寺城があります。

1571年(元亀2年)に細川藤孝がこの一帯を信長より与えられ勝龍寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされています。そして、1578年(天正6年)に藤孝の嫡男・忠興と明智光秀の娘・玉(細川ガラシャ)がこの城で結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたと伝えられています。

また、「山崎の戦い」に敗れた光秀が逃げ込み、最期の夜を過ごした城としても知られています。

18.JPG

2019年11月に展示室を中心にリニューアル

19.JPG

周回式の美しい庭園があり、「日本の歴史公園100選」にも選ばれている

20.jpg

公園内には細川忠興・ガラシャの銅像も
玉の輿入れ行列を再現する「長岡京ガラシャ祭」を毎年11月に開催

勝龍寺城跡の堀や土塁・石垣などを復元し、1992年に公園として整備された勝竜寺城公園。2019年11月に公園管理棟が全面リニューアルされ、その2階は「歴史ミュージアム」として生まれ変わりました。順路の案内に従って見ていくと、明智光秀、細川藤孝、細川忠興、細川ガラシャといった勝龍寺城ゆかりの人物のプロフィールや相関関係図が展示されています。さらに長岡京市ゆかりの4人の生涯を水墨画風のタッチで描く展示や、「戦国時代を駆けた4人の物語」と題し明智家・細川家の数奇な運命を10分間のダイジェストにまとめた解説映像を見ることができるコーナーもあります。

21.jpg

細川藤孝(幽斎)・忠興・ガラシャ・明智光秀の生涯をパネルでたどるとともに勝龍寺城の特徴・出土遺物等もわかりやすく展示
※写真提供:長岡京市

■ 勝竜寺城公園

長岡京市勝龍寺13-1
JR長岡京駅から徒歩約10分、阪急長岡天神駅から徒歩約20分
075-955-9515(長岡京市商工観光課)
開園時間:午前9時から午後5時(4~10月は午後6時)
休園日:無休(12月28日から1月4日を除く)
入園料:無料

当時の光景のまま!?"隠棲の地"

最後に、京都府にある「光秀ゆかりの地」で最も行くのが難しいスポットを紹介します。ガラシャ隠棲の地、味土野(みどの)です。

光秀の娘・玉(細川ガラシャ)は1582年(天正10年)の本能寺の変の後「謀叛人の娘」となり、夫の忠興は1584年(天正12年)までの2年間、彼女を丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町)に幽閉することになります。細川忠興は「離縁」と言う形をとりましたが、細川家が羽柴秀吉から疑われないようにするためや、玉が旧織田家の武将らから襲撃されないようにするなどの理由と考えられていて、この幽閉も事実上は「保護」だったとのではないかと言われています。

ガラシャが住んでいたとされる場所は「女城(めじろ)跡」と呼ばれていて、「細川忠興夫人隠棲地の碑」が立っています。

京丹後市味土野は丹後半島の山奥にあり、電車やバスではアクセスできません。ただし、Googleマップで「細川ガラシャ隠棲の地」と検索すると表示されます。

ガラシャの碑.JPG

遺構などは残っておらず、「隠棲地」の石碑がある ※写真提供:京丹後市

味土野周辺.jpg

「隠棲の地」は手つかずの自然が残る。石碑に続く道路はあるが、道中は車1台がやっと通れる程度の道幅で、すれ違うのも困難とのこと。 ※写真提供:京丹後市