そうです。15歳の時でした。僕の師匠のザ・ぼんちに憧れてこの世界に入ってきました。子どもの頃は野球選手になりたかったんですが、13歳の時に漫才ブームを見て、野球部を辞めました。その時に(NSCに)願書を送ったんですけど、若すぎて駄目やったんです。その時受かっていたら、ダウンタウンと同期だったんですけど。高校を出るというのが親との約束やったんで、高校へ行きながらNSCに通ってましたね。当時はとにかく漫才がしたくて。ボブキャッツというコンビを組みました。
新喜劇に入ったのは、ボブキャッツの時だったんですよ。吉本が平成元年(1989年)に「新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」を始めて、今の社長の大﨑(洋)さんや木村(政雄)さんが面接をしていました。その時、アンケート用紙があって、落語とか漫才とか新喜劇とかタレントとかの項目から、自分のしたいものに○をしなさい、と。その時、新喜劇だけに○をしなかったんです。芝居なんか出けへんと思ってたんで。はっきり目の前で「しません」と断ったんですけどね。新生・吉本新喜劇になった時に、名前が入ってました。あれ?と思って。
(何の前触れもなく?)
あれ?断ったのになあ、と。あの時、2丁目劇場のメンバーはダウンタウン以外、全員(新喜劇に)入ったみたいな感じやったんです。だから最初はナインティナインとか千原兄弟とかバッファロー吾郎とかみんないましたね。今の社長が当時2丁目劇場の担当やったんですが、新喜劇の担当になったので、「みんなこっちへ来い」みたいな。
覚えてますね。うめだ花月で同窓会の芝居だったんですよ。僕だけ違う役を与えられたんです。板前の修業中の役。金髪だったからそんな役になったんでしょうね。でも芝居は出来へんと思っているから、メッチャ緊張したんですよ。「流しにタグが詰まった」というセリフが言えなくて、「流しにサルが、サルが…」って。「サルが」と言ったのも自分では覚えてないんですよ。緊張してしもて。親方役の竜じい(井上竜夫)とかが上手いことフォローしてくれましたけどね。それはよう覚えてますね。
(お芝居で、セリフもあって?)
いえ、セリフはほとんどそれだけですけど。その時、「やっぱり芝居出来へんわ」って思いましたね。異常に緊張するしね。
(緊張するタイプですか?)
家でテレビで見てた人と絡むわけじゃないですか。そりゃ緊張しますよ!
みんなあったかいんですよ。1度、40度近いものすごい熱があって舞台に立った時がありました。自分のセリフを言ったあと、セットを握っておかないと立っていられないんですよ。でも、やすえさんとかが、自然と寄ってきてくれて、倒れないようベルトをつかんでくれていたりして。みんな、あったかいなあと思いましたね。「やめよッカナ?キャンペーン」で半年間にこれだけお客さん入れないと新喜劇がつぶれるという状況で、必死でやってましたね。
今田耕司とやってて、初めて芝居に合うギャグが出来た時がありました。「開けて閉めて、開けて閉めて、開けて閉めたら、入れなーい」というギャグ。「それや!芝居には、そんなんや。急に「まゆげボーン」言われてもわかれへんやん。そういう芝居の流れに沿ったものの方がええて」と言われて。そこからそういうギャグをいっぱい作るようになりました。あと、めだかさんと絡んだ時だったんですけど、一発ギャグをやったら、舞台袖にいた船場太郎さんが、「ちょっと来い。お前、何したんや?」「ギャグです」「もうあんなんするな」「わかりました」。次の舞台で違うギャグをやったら、また呼び出されて、「何しとんねん」「ギャグです」「するな言うたやろ」「違うことしました」それが続いて…。そのうちめだかさんが、「今日はないんか?」って。毎回違うことをいっぱいするんで、めだかさんは「よし、わしはお前を認めた」と言うてくれましたね。ある時、めだかさんが「ヒロ君、ちっさいおっさんのギャグあるやんか、あれ舞台でやって」と。そしたら、めだかさんが自分でノリを考えてはって、あの歌のネタが出来たんですよ。漫才の時は、ネタふりがいるなんて知りませんでしたからね。漫才にもなってなかったですけど、逆にお客さんが「何で笑えへんねんやろ」と思ってました。ちゃんとネタふりがないとオチないんや、というのが新喜劇に入ってわかりました。
ほとんど皆コンビで入ってましたから。辻本なんかも三角公園USAだし、オールディーズや130Rもみんなコンビのまま2丁目から流されてきてるんで。
(漫才もやりながら舞台に?)
そうなんですけど、新喜劇べったりなんで、もう、漫才の仕事なんかないんですよ。「夕焼けの松ちゃん浜ちゃん」(ABCテレビ1990年12月~91年9月)とか、番組には出てました。「ダウンタウンのごっつええ感じ」(フジテレビ1991年12月スタート)が始まる前に、一応“卒業”という形で、Wコウジ(今田耕司、東野幸治)、オールディーズ、130Rと一緒に卒業みたいな感じになったんですよ。そのあと、東京で「ごっつええ感じ」に出てた間は、新喜劇には出てないです。2年くらいやったと思います。その時にはもうコンビは解散してましたね。
(卒業でホッとされた?)
いや、もう新喜劇に慣れてましたから、「え?卒業?」って感じでしたね。
2年くらい経ってからこっちに帰ってきた時に、内場、辻本、石田と俺の4人が呼ばれて、ニューリーダーになるっていう話やったんです。その時、「ほんわかテレビ」(YTV)に出ていたので、新喜劇に出られないということになって、3人がニューリーダーになったんです。(1995年)昔はテレビの収録で抜けるのは禁止だったんです。「ほんわかテレビ」の出演が終わって戻ってきて4人になったんですね。でも、「超!よしもと新喜劇」(MBSテレビ1997年10月~98年3月全国放送、その後「超コメディ60!」として98年9月まで放送)ってあったじゃないですか。あの時に、内場さんと辻本が(東京へ収録に行ったので舞台に)出られなくなった。石田もテレビで忙しくて(舞台に)出られなかった。その期間、1年から2年くらいの間、(座長として舞台に出てたのは)ずっと俺なんですよ。だから打ち合わせも、いつの打ち合わせかわからない。舞台が終わったら打ち合わせに連れて行かれる。出るメンバーも限られているんで、次の週とかぶらないように、やってたんですよ。夕方にやっていた新喜劇の再放送も俺の舞台だったのを見た時に思いました。「飽きられるわ」と。ずーっと出てるからね。その頃は大変でしたね。「さんまのまんま」に出る時に1週だけ休めたんですよ。その1週だけでしたね。番組とかもやっていたので、1日に8本違う芝居したこともあります。役がもうなんかわからない。訳わからないんですよ。番組が終わって内場さんと辻本が戻ってきた時には、「良かった~」と思いましたね。
基本、お客さんを楽しませるというよりも、舞台に出ている人を笑わせたい、みたいな。舞台の上の人を笑わせたら、お客さんも自然と笑ってくれる、僕はそういう作り方ですね。内場さんと絡む時とか、「次の舞台は何を言うんやろ?」、そう思わせるのが好きですね。人と違うことをしようと。同じ事をやっても負けるので、人がしてないことをするしかないんですよね。人の舞台を見るのも嫌なんですよ。どっかで真似してしまう自分がいるんです。僕、1回ギャグをやったら、すぐに飽きるんです。次の舞台で違うことをしたくなるんです。飽き性なんでしょうね。ドカーンとウケるギャグはテレ臭いから、次は使わないんですよ。
(常に新しくするのは大変では?)
しんどいですよ。しんどいのが楽しいんです。まわりに同じことをしてると思われたくない。どういうか…常に新鮮でいたいんですね。お決まりの笑いは好きじゃないんですよ。ここでこれを言うたら必ずウケるとか、これを言わないとダメとか、そのお決まりのことをやってる自分が嫌なんです。
(漫才時代はネタが決まっていたのでは?)
漫才の時も、1回1回違いました。2丁目劇場の頃に、「漫才禁止令」というのが出たんです。漫才をしたらダメ、コントしかダメ、漫才する奴はほかのところで。でも僕らは2丁目劇場に入れられたんです。一応、漫才をしてたんですけど、毎回違ってたので漫才と認めてくれませんでした(笑)。
若手がみんなすごいなと思います。一生懸命ネタを考えてますね。
(誰か推しメンはいますか?)
若手はみんなそれぞれ面白いですよ。もし、俺が今の時代に若手として来ていたら、たぶん出れてないと思いますね。器用な子ばっかりなんで。松浦(真也)のギターとか、吉田(裕)のツッコミとか、みんな一芸を持ってる。上にうまい子ばっかりいるから、もっと下の子らは出にくいんじゃないかと思う。今の時代に俺が若手でおったら、すぐにやめてるかもしれません。
―最近、ハマっていることは?
昔やから通用したんですよ。今はR-1とか見ててもみんなすごいですよ。あんなネタ考えられない。ひたすら拍手を送ってます。
携帯のゲームですかね。人の舞台を見るのは嫌なんで、自分の出番までずっとやってます。
(子煩悩だそうですね)
子ども、大好きなんですよ。よく遊びますね。休みの時は常に一緒にいますし。皆で飲みに行った時も、早く家に帰りたいですもんね。息子なんかは出かける時も、俺と一緒の恰好して、常に真似するんで。娘が小さい時のことですが、俺が熱を出して寝てたら、上に乗ってきて「目を開けなさい」と言うんですよ。あまりに顔が近いんで、そっと目を開けたら「フェッフェ~」と俺のギャグをするんですよ。しんどかったけど、さすがに笑ってしまいました。
2014年8月8日談
1967年8月4日兵庫県出身。
1983年NSC大阪校2期生。