第17回 高橋靖子

最初の頃は何度もコケて、お尻に青タン出来ました。


―異色の経歴ですね。

そうですよね。もともとお笑いを目指していたわけではないので。東映の第3回ミス映画村というコンテストで、ミス映画村になって、芸能界に入ったんです。昭和62年(1987年)、大学2回生の時でした。

―女優を目指して?

いえ、短大の2回生って就職を考えないといけない時期じゃないですか。ちょうど6月頃、銀行とか証券会社とかみんな就職を決めていく時期に、私は正直、お金の計算とかしたくなくて。何かないかなと思っていた時、たまたま家で新聞を見ていたら、ミス映画村コンテストというのが目に入ったんです。その欄に「受かれば2年は契約社員として扱います」と書いてあって、そこが一番の魅力で。これに受かれば就職が決まる!と思ったんです。締め切りの3、4日前でしたが、写真を急遽撮ってもらって、応募しました。そしたら、運よく書類で地区、全国と通って、7月には全国大会で決まったので、「就職が決まった!」って。すごい安易な気持ちでした。学生の時も演劇とかやっていたわけではなかったですし。
(かなりの倍率だったのでは?)
その時は少なかったです。2700人くらいしかなくて、その中から3人選ばれました。

―その後は?

ミス映画村の審査員で「水戸黄門」の制作協力をしていたオフィス・ヘンミの社長さん(逸見稔、「水戸黄門」の企画制作でもあるプロデューサー)が、9月から「大岡越前」(第10部)の撮影が始まるからと、それでデビューしたんですよ。みんなが集まる居酒屋「たぬき」の女中で、役は小さかったんですが、うまい具合に、とんとんとんと行ったというか。そのレギュラーを4年やらせてもらいました。2年の契約終了後も「やりたければいてもいいよ」って言ってくださったので、1年ごとに契約更新して。ちょうど時代劇の全盛期だったので、東映で撮っていた「暴れん坊将軍」だとか、「遠山の金さん」にもちょこちょこ出してもらうようになりました。まったく演技経験はなかったんですが、3年くらいすると、ちょっとずつわかるようになってきて、欲も出てきたりして、画面に1人でクレジットされるのが目標で。最初は役名もないような小さい役から、そのうちに画面に2人で名前が出るようになって、最後、1人だけポンと名前を出していただけるような役をもらえるようになって…。
(目標達成ですね)
そこで、10年やって、ちょうど30歳前になったんです。やっぱり女性にとっては30っていう年齢、考えるじゃないですか。このままでいいのかな~って。会社の方もこれ以上契約はしないという方針もあって、それで1回辞めて郷里の岐阜に帰ろうと思って、30歳を機にこの世界を辞めたんです。

―その後はどうされていたんですか?

とりあえず、普通の事をまずしようと思って、車の免許を取って、パソコン教室に通って(笑)。1年して、とりあえず働いてみようと、名古屋市美術館で開催された「ピカソ展」(1998年9月~11月)で、アルバイト的に働きました。それで分かったんですが、毎日電車に乗って9時から5時までの生活が、やっぱり私には無理で。今までいろいろ自由にやって来て、きっちり、きっちりが向いてないと思ったんです。次第に耐えられなくなってきて、ストレス溜まってきて…。そんな時、帰りにたまたま本屋で手に取ったオーディション雑誌に、「京都シアター1200」で吉本の宮川大助・花子さんの1か月公演があるというのが載っていて、大助さんの奥さん役の募集があったんです。しかもそれが、現代じゃなく、ちょっと古風なお話で、「ん?」って、なんか六感が働くというか、これ、もし決まれば「ピカソ展」の後の1か月、仕事があるな、って。私、そういうのすごく多いんですよ(笑)。
(短期決戦型?)
そうなんです(笑)。1か月だけなら所属する訳じゃないし、応募してみたら、書類は通ったので、大阪に受けに来ました。その時、すっごい風邪を引いてて、熱もあって、絶対受からないだろうなと思って、逆に緊張もしなかったんです。それが良かったのか、うまい具合に受かりました。32歳の時でした。その時、初めて(島木)譲二兄さんと(浅香)あき恵姉さんとか、チャンバラの山根伸介師匠とかとご一緒させてもらいました。
(また京都ですね)
でも、実はその時、岐阜から通ってたんです。うふふふ。
(ひょっとして美術展の時も岐阜から?)
そうなんですよ。新快速に乗ったとて、1時間半くらいかかるんです。だから余計に嫌になったと思うんです。座れないし、満員電車だし、朝も帰りも混んでるし…。うちは田舎なので、就職先もないし、若い子は名古屋まで通うのが当たり前なんですけど、私には無理、と思いました。

―初めての舞台はどんな印象でしたか?

今までやってきた東映の演技だと、台本どおりきっちり言わないといけないし、監督の指示通りに動かないといけないのが基本だったのに、全然自由で、ぶっちゃけ、セリフも勝手に変えてもいいし、作ってもいいし、その時によっても全然違うし、こんなのもあるんや~と思って。面白いな、と思いました。いい役をつけていただいて、楽しい1か月でした。
(度胸ありますね)
でも私、小さい頃は手も挙げられない、発言も出来ない子だったので、昔を知ってる人は、「ええっ?」って絶対いうんですよ。目立ちたくない子どもだったので。
(いつから変わられたんでしょう?)
なんですかねえ。自分でもほんとによくわからない。何かヘンなんですよ、私。やれっていわれると、しかたない、やっちゃおかっていうタイプはタイプ。押されたら「じゃ、やろか」って。ミスコンの時も、歌もあったし、ひとつのセリフを「嬉しそうに・悲しそうに・怒って」とかあって、「やれ」と言われたらやるタイプなんです。

―新喜劇に入られた経緯は?

京都の公演の打ち上げの時、営業の方から「新喜劇というのがあるんですけど、よかったら入ってみませんか?」と声をかけてもらって。その時は全然入る気なくて、そのまま終わったんですが、2か月くらい経ってから、また声をかけてくださって。「1回、大阪に来てみない?」と言われて話をいろいろ聞かせてもらって、「とりあえず写真撮っておかない?」と言われて、いつの間にか、「じゃあ、入りますか?」みたいなことに。その間、3か月くらいあったんですよ。入るか入らないか決めてなかったんで。その間に単発のお仕事をちょいちょいいただけたんです。うめだ花月でやっていた「爆笑コメディー 名探偵・山田花子」(関西テレビ1998年10月~99年9月放送)にゲスト的な感じで出してもらって、新喜劇ではなかったんですけど、「こんな感じか~」「面白いな~」と思ってました。

―ちなみに岐阜では「新喜劇」を放送してましたか?

やってます! 1週間遅れかな? 子どもの頃は見てたんですけど、学生時代は部活をやっていた(陸上とバレーボール)ので、土曜日は家にいないし、東映で撮影のない時は映画村で着物にかつら姿でお客さんに接していたり、JAC(ジャパン・アクション・クラブ)の人と忍者ショーとかで立ち回りをやっていたので、正直、テレビを見る環境になかったんです。だから、ほんとに新喜劇の方には申し訳ないんですけど、座長クラスの方しか知らなくて。入った時、エレベーターで一緒になった人が座員の方と知らなくて、後で「しまった!」とか、失礼なことがありました。でも、「新喜劇に」と言っていただいたのは、ご縁かなあ、と。今までも偶然とかでつながってきたし。ちょっと、(芸能界に)戻りたい気持ちもあったんですよ。
(結婚という選択は?)
相手がいなかったんですよ~ほんとに! 相手がいたら考えたかも知れないんですけど。入ってからも相手がいなかったんですけど(笑)。

―初舞台は?

夏で(吉田)ヒロ兄さんが座長の舞台で、オープニングのお客さんの役でした。この頃、新喜劇が3組に分かれて全国ツアーをやっていた時で、NGKの初舞台より、1週くらいそっちが先でした。まだほかの人と全然なじんでないのに、ツアーに入れられたので、たぶん周りの人も「こいつ何やねん」という感じだったと思うんです。私も皆さんを知らないまま、入ったので、芝居をするより何よりも。いきなり全然知らない人の間に、今までにないところから入ってしまって、すごい大変でした。

―お芝居では何が大変でしたか?

テレビってセリフをマイクが拾うから、そんなに声を張らなくていいじゃないですか。「普通に喋れ」って言われていましたし。そっちはできるんですけど、大声を張るとか、お客さんの笑い待ちができなくて。「笑い待ちって何?」って感じで。「笑い待ちしろ」って舞台の袖で怒られたりもしました。それに私は普通に芝居をしようと思って、間を作るんですが、間を作ったら、セリフを忘れたと思われて、別の方が取っちゃったりしたんですよ。「え? どういうこと? 間を開けたら、セリフ取られるの?」って。こういうこともあるんや、普通にやりすぎたらダメなんやと思って。今、特に芝居のテンポが早くなってるじゃないですか。同じお芝居なんですけど、そういうところが違うんだ、と。あと、舞台で人のまん前に立っちゃったりとか…。

―怒られてメゲることはなかったですか?

いや~怒られるのは東映の時、けっこう怒られていたので(笑)。東映に入った当時、全く演技経験がなくて、「大岡越前」の時にゲキ怒られしたので。その時よりは全然…大丈夫でした。
(どんなことで怒られていたんですか?)
そうですね、フィルムでワンカメなので、照明がまず当たるところに立て、カメラを抜けろとか、素人が絶対無理じゃないですか。しゃべりながらカメラを意識して、照明に当たりながら人にかぶらないように、まして動きながらなんて。セリフを喋るだけでも精一杯なのに…。ズブの素人なので、怒りやすかったんだと思います。「ああ、もうこの監督には絶対怒られないようにしよう」と思って頑張りました。あの監督がいなかったら、今の私はないです。

―舞台でのハプニングは?

そんなにないんですよ。ありがたいことにケガもないし。初期の頃にチャーリー師匠のセリフでコケる時、何度もコケるのを全部真面目にやってたら、お尻のところに青タンが出来ました(笑)。同じところをぶつけてたらしく、お風呂に入って、「これ何?」と思ったら、ああ、チャーリー師匠でコケてるからだ~って。最近はうまい具合にごまかしつつコケれるようになりました。

―新喜劇になじむのは難しかったですか?

ほかの人と比べたらやっぱり雰囲気違うじゃないですか、最初に、桑原師匠から、「それを失くすな」と言われたんですよ。「お前はそれがいいとこやから、変に染まろうとせずに、今のそのままを保っていたらいいよ」と言われました。(中山)美保姉さんも、私のように話の筋を運ぶ役は「目立たないけど、絶対必要な役だから。誰かがやらなあかん大事なところやから、頑張ってやったらいいよ」と言ってくださって。私も笑いは作れないし、作ったところで「寒い」といわれるから、まず、出来るところをやろうと。そこでひとつ極めれば、何か困った時にも、ここだけは出来るから、任せてくれることもあるかも知れない、と思って。私は器用じゃないし、お笑いができる人はいっぱいいらっしゃるし。最近はちょっとキレる役もあって、楽しいですよ。入ってきて良かったと思います。結婚してたら、今の私はないし、ちょうど、(未知)やすえ姉さんと30代の人の隙間の年代にはまったので…。

―これからの目標は?

娘役が終わって、だんだん母親役が増えてきてるので、「お母さん役は靖子さん」と、今度はそっちの分野を作れるとうれしいですね。今、仕事をしてるのが一番楽しい。結婚の予定もないし…(笑)。いつまでも新喜劇をやっていられたら、と思います。最近、一番嬉しかったのが、出番でパラパラパラと拍手がもらえるようになったことです。最初の頃は「こいつ誰やろ?」と思われていたのが、お客さんから認識されてると思った時、すごく嬉しかったです。何にもないと寂しいですけど、パラパラパラでも「うれしい!」って。

―今、個人的にハマッてるものは?

みんなにバカにされるんですけど、ドラマが好きです…韓国ドラマが好きです。どのドラマが好きと言うわけではなく、まんべんなく好きなので。1年に2回くらい、ロケ地を巡って、1人で韓国に行ってるんです。もう8回くらい行きました。ひとりで地図を持ってロケ地を捜して、地下鉄に乗り、バスに乗り…。最近は、あのドラマに出ていたあの場所に行きたい、例えば遊覧船が出てきたら、あの遊覧船に乗りたい、とか。で、ドラマを見て「あの場所だ!」ってそれが楽しいんです。
(韓国語しゃべれるんですか?)
いえ、喋れないんですけど。私ヘンなとこ、度胸あるんですかねえ。
(あると思います)

2014年10月7日談

プロフィール
1967年5月26日 岐阜県生まれ。