第51回 山田亮

今、めちゃくちゃ楽しいですね。


―広島出身ですが、お笑いを目指されたきっかけは?

たまたま、なんですよ。もともと普通に就職してホテルマンをしてたんです。4年間働いて22歳になって、大学を出たのと一緒やから、「まだ人生変えれる!」と思って、仕事を辞めて。その時もお笑いをするつもりはなく、次に就職するまでに何かしておこうと思って、車で一人旅に出たんですよ。本州1周。広島からずっと青森の方まで。その時、たまたま読んでたスポーツ新聞の端っこに「吉本新喜劇オーディション」って書いてあって。当時(20年前)はまだ広島にそんな芸能の情報はなくて、「話のタネに送ったれ!」と軽い気持ちで応募したんです。旅から家に帰ってきたら、親に「吉本さんっていう人から連絡あったで」と言われて。え? 俺、吉本って友だちいてへんけどなあ…と。「会社の裏のモータープールに来てくれ」という連絡だったんですが、まず「モータープール」の意味がわからない。そこから調べて、駐車場だということがわかって。何日かして、「そうや、吉本に送ったわ」と思い出しました。仕事もしてへんし、ちょっと受けてみようと思って、1次面接、2次面接と広島から通ったんですが、3次面接で3か月レッスンしてから合否を決めますと言われて。もし、受からなくてもこっちで就職したらええわ、くらいの軽い感じで大阪に出てきました。それがなんやかんやで受かってしまって。ま、それがきっかけですね。

―当時は吉本新喜劇ジュニア(YSJ)ですね。

その時のオーディションで受かったのが、7人で今も5人残ってます。五十嵐サキちゃん、伊賀健二、秋田久美子ちゃん、今東京へ行ってる国崎恵美ちゃん、そして僕ですね。何年かぶりのオーディションで、僕らの上が藤井(隆)兄さんで、僕らのあとはオーディションがなくて、師匠の弟子から来た人とか、その後、NSC新喜劇コースの今別府とか、それから金の卵という感じですね。
(広島で新喜劇はご覧になってました?)
それが…記憶が全くなくて(笑)。僕らが小中学校の時は、土曜のお昼は東京のクイズ番組とかが流れてたんです。だから、全然、記憶になくて。受かりましたっていう時に、ちょうど広島公演があって、それを初めて見に行った感じです。オーディション中、3次面接くらいでディスカッションがあったんですが、吉本新喜劇についてディスカッションで、僕、見たことないから、その会話に入れなくて…。絶対受からんわと思いました。
(よく受かりましたよね~)
ほんまですよ! 何故受かったのか。最終オーディションに15人くらい残っていて、受かったメンバーも、「何で俺ら受かったんやろ?」って言うてました。もっとおもろい奴もおったし、僕は大阪弁が喋られへんし…。
(新喜劇も知らずに?)
島木(譲二)さんとかチャーリー(浜)さんみたいな方がわかる程度でしたから。

―初舞台までは?

合格したのが1月で、初舞台が4月でした。ちょうどその時は、うめだ花月があって、川畑(泰史)兄さん、大山(英雄)兄さん以下の若いメンバーでやっていて、そこに初めて出させてもらいました。初舞台は何となく覚えてますね。カップル同士で海辺にデートに来たという設定で、主役の人が出るまでに、4人で笑いを取るという、今でいうオープニングですね。座長は大山兄さんでした。その時はそんなにお客さんも入っていなかったので、緊張することもなかったです。
(その後、NGKに?)
NGKが半年後くらいですかね。10月だったと思います。その時、セリフがしゃべれなくて…(笑)石田(靖)兄さんが座長やったんです。とある島が舞台で、靖さんが島の診療所の医者で、僕は島の人間。「靖さん、島のみんなが待っとるで」というセリフが1週間言えなくて…。
(え? なんで?)
訛ってるから。「お前、訛っとんな」と言われたことが気になって…。「待っとるで」のイントネーションが広島弁と違って、うまく言えなかった。舞台上では「訛ってるな~」とツッコまれて、笑いになるんですけど、自分ではわからんから。それを気にしすぎて、その一言が言われへん。石田兄さんから「全然、言われへんやんけ」と言われて、もうプレッシャーで、緊張して。金曜日に「お前、明日テレビ撮りやで。どうすんねん」「言います」。それでテレビ撮りの時に初めて言えて…(笑)中山美保姉さんに「あんた、やっと幕が上がったね」と言われて、ようやく肩の力が抜けたというか。
(言えないっていうのは、どうなるんですか?)
もう、真っ白になるんです。
(緊張するタイプですか?)
緊張しますね。その時は、先輩のプレッシャーが凄かったんで…。今の若い子らはのびのびとやってるんで、すごいな~と思いますね。感心してます。

―その後はどんな役を?

基本、若手の頃はオープニングのお客さんの役ですね。うどん屋のお客さん、ホテルのお客さんとか。4人くらいカップル同士で出て来て、ひと笑い取って。最初の頃はウケへんから、みんなで集まって反省してました。ずっと残って、ネタ考えて。次の日の朝、早く来てネタ合わせして。土曜がテレビ撮りなんで、5日間スベってると、兄さん方が「こういうネタやれ!」と。そうやってお笑いの作り方を覚えさせてもらったり。
(お笑いとしてはゼロからの出発ですね)
全くです。広島の文化にツッコミはないですからね。
(挫折はありました?)
ずっと挫折ですけど(笑)ハハハハ…ずっと。何にもわからない。言われても理解するのが難しい。誰かがボケて、僕が「なんでやねん!」と言ってもセリフなんですよ。ただセリフを読んでるだけで。川畑兄さんと一緒に車に乗ってる時に、「セリフには間(ま)があるやろ」「その間(ま)がよくわかってないです」と言うたら、持ってたタバコを目で吸うしぐさをされて、「おかしいでしょ!」って言うたら、「それ!その間!」みたいなのを教えてもらいました。それが、間であって、自然なツッコミやと。「なんでやねん!」と声張るだけと違うねん、と。自然なツッコミを覚えなさい、って。そこから始まったんで、次第にオープニングを任されるようになった時はうれしかったですね。

―印象に残っている舞台ありますか?

「許してやったらどうや」が自然に出来た時のことは印象深いですね。結局、僕、訛ってるんで。辻本さんの週で天丼(てんどん)の廻し(同じフリやボケを繰り返すこと)で、「あなたはこれを言うてください、あなたはこれ、そしたらこうなります、1回合わせてみましょうか」という時、僕が最後に言ったセリフ「じゃあ、茂造さん、許してやったらどうや」が、どうやらごっつい訛っていたらしくて。それを辻本さんが拾い上げて、「何がですか?」「訛ってたからアカン」、「訛ってません」「訛ってた」にお客さんが反応して…。そこをいじったら、お客さんにウケた。その時に出来上がったんですね。その出来上がった舞台は覚えてます。僕は訛ってるつもりはなかったんで。
(いつ頃の話ですか?)
10年くらい前ですかねえ。

―辻本さん率いる3人ヤクザの洗練されたローテーショントークは面白かったです。

まあまあプレッシャーがありました。なかなか自分では楽しめてなかったですね。間違えられないというか。プレッシャーで、よく皆から「顔色悪いわ」とか「目が死んでる」「疲れてんで」とか言われてました。
(完成度の高いやり取りでしたね)
怖い人ら(ヤクザ)がそういうことをする面白さでしょうか。3人ヤクザも最初は、平山(昌雄)も初めて、僕も初めてやから、輪唱トークとか、もうボロボロで…。

― 一番苦労されたのは大阪弁ですか?

そこは今でも訛ってますからね。それこそ最初の時に、「気にしてたら前に進まんわ」と思ったんで。訛ってようが関係ないわと思って、喋るようにしました。最初は練習してたんですけど、小さい声とでかい声とでは、全然違うんですよ。声張ったとたん、言えてたはずなのに言えなくなる。そんなん気にするより、とりあえず声出そう、気にしてたら声も出へんようになる、と思って。

―しばらく新喜劇から離れられていましたが。

僕の場合、突然すぎたんで、周囲は気になったようです。
(辞めようとは思われませんでしたか?)
「明日辞めます」という時、「一時の感情で辞めることはない」と言うてくれる人がいて。結局、4年か、5年そのままで。今も独身ですけど、もし、その時、結婚して子どもでもいれば、とっくに辞めてたと思います。
(また戻って来られました)
今が一番楽しいですね。5年間止まってて、やっとすっきりしたというか。36歳の時に離れて、1年~2年は荒れてたんです。でもいろんな人の話も聞いて、やっと5年かかってすっきりしたというか。今年から舞台に戻って、楽しくて。
(離れてみて、気づいたこととかありますか?)
いろんな世界があるねんなと。これは自分の責任やと思うんですけど、以前は人付き合いとかもシャットアウトしてたんで。自分から若い子とお喋りしようと、飲みに行ったり、ご飯行ったりしてたら、みんなに「兄さん、私のこと嫌いでしょう?」「俺のこと嫌いやったでしょう」って言われて。初めて「それは違うねん、俺が線引きしてたからで、申し訳ない。俺は全然お前らのこと嫌いじゃないし」って。今、若い子らと一緒に舞台に立って、話したら楽しいですし、これまで喋る機会なかった先輩も、一緒に楽屋におって楽しいですね。

―休んでいる間の心の支えとかありました?

支え!?(笑)支えは…とりあえず、生きないと。とりあえず、飯食って、生きないと、です。よく、芸人やってて、店やったりしたら、二足のわらじ履いて、どっちつかずになるぞ、芸も中途半端になるぞって、若い時言われたんですけど、全然関係ないですね。何しようが、生きないと。まず。僕は焼酎バーでバイトしてました。とにかく飯食わなアカン。でもその時は人としゃべるのも嫌やったんですけどね。店長まで2年やりました。けっこう貯金とかしておいて、ほんまに、引きこもりました。バイトもしない、営業の仕事の連絡があれば行くんですけど、それ以外は、自分のペースで生きよう、と。起きたい時間に起きて、腹減ったら飯食って。人間らしくありたくて。ずっとバタバタだったので、とにかく1回、止まりたい、自分らしく生きたいと。
(それがいいリセットになったんですね)
ほんとに。今思えば、それがあったからやと思いますね。お金も底をつき、ちょうど働こうという気になって。それまでも営業はちょこっとあって、奈良健康ランドが始まってからは、月1回のペースで仕事ですね。そんな感じを3年くらいやってて。祇園花月も今年に入ってから出させてもらって。祇園花月に出たのは若手より遅いですからね(笑)。

―これからの抱負は?

若い頃は座長になりたいと思っていたんですけど、今はもう僕らより若い子が座長になると思います。この先、若い子が座長になった時に、いいアイデアが出せる立場でいられるように。若い子が僕の考えたことを、「それいいですね~」とか「使わせてもらいますわ」とか、言ってもらえたらいいですね。一緒にええもん作る、支えになれたらいいな、と思います。

―最近、ハマっているものとかありますか?

今更ながら、韓流ドラマを見てるんです。今更…流行も終わった頃に。恋愛ものとか見ないんですけど、スパイものとか好きで。日本のドラマでも刑事ものとか好きなんです。「相棒」とか。海外の南北スパイ物とか好きで、最近、ちょいちょい見ます。
(競馬もされてますよね)
はい。相変わらずされてます(笑)。ま、小遣い程度、話のタネに。広島で仕事していた頃、ギャンブルは一通りやったんですよ。大阪出て来て、家の前にパチンコ屋があって、1万円負けた時に、「あ、この1万円あったら1週間飯食えたわ」と思ってスパッと辞めました。競馬は好きでも週1回ですからね。一人旅も一番最初に行ったのは京都競馬場なんですよ。春の天皇賞が見たいと思って、それ目指して行ったんです。
(インドア派ですか? アウトドア派ですか?)
もともとアウトドアなんですけど…(苦笑)。金とヒマさえあれば、どこでも行きたいタイプです。

2016年9月5日談

プロフィール
1974年1月27日 広島県生まれ。