第2回 内場勝則

先のことは考えてなかった。もう少しだけ走ろうと思っただけ。


―NSC卒業後、「新喜劇」の初舞台はいつでした?

NSC卒業後は2年くらいぶらぶらしてました。漫才ブームだったので、無理から漫才やれとコンビを組まされたけど、どうも違うな、と。で、NSC同期の3人でコントをやってました(劇団インスタント時代)。その当時、なんば花月では山田スミ子さんらが時代劇物とかをやっていた時代で、チャンバラ(トリオ)さんから殺陣を習っていた関係で、出ろといわれて、なんとなく…。殺陣が出来たので、斬られ役とかやってましたね。NSCを作った冨井さん(NSCの初代校長・冨井善則氏)から、3人それぞれ、うめだ花月、なんば花月、京都花月の新喜劇に放り込まれて、2年くらい休みなし。3人のうち、僕は役者やれ、一人は作家やれ、一人はもう辞めろと言われ、3人バラバラにされて会えないようにされて、結局、自然消滅しました。冨井さんから「計画どうりや」と言われました(笑)。NSC同期から先に新喜劇に入っていた子もいたので、僕が最後じゃないですかね。

―もともとお笑い志望だったんですか?

(お笑いに)何の思い入れもないです(笑)。だから、何をやりたいとか聞かれるのが一番困る。高校は工業高校でしたが、2日目で製図書くの嫌やな、向いてないな、思いながら、3年過ごしました。男子高やったから友達は楽しかったですね。卒業後も就職もせんと、ぶらぶらしてバイトばっかり。NSC入ったのも楽しそうやし、劇場やったら、夏は涼しいし、冬はあったかいし、重たい物も持たんで済むし。テレビで見てても、あんなキレイなスタジオに居られたらいいなあ、と。動機はものすごい不純で(笑)。あかんかったら辞めようと思ってました。肩に力が入ってなかったのが、良かったのかも。頑張って残ってやろうという感じでもなく、だらだら残ってたら、今に至った、という…。新喜劇入ってもバイトして、1年で食べられなかったら辞めようと。が、1年で何とか食べられるようになって、じゃあひとり暮らししようと頭金貯めて。次は家賃払えなかったら辞めようと、言うてるうちに結婚して、家買って、子ども出来て、ニューリーダーになって…。あの電信柱まで走って…と思ってやっているうちに、30年くらいですか。怖っ、と思って(笑)。

―入団当時の「新喜劇」は花紀京や岡八郎など名だたる座長時代でしたが、厳しかったのでは?

新喜劇入るのは、ほんまは嫌やったんですよ。恐かった。みんな師匠なんで。(NSCなら)師匠を持たずに入れるって聞いてたのに、なんでいきなり全員師匠やねん!と。若手は師匠の用事を全部しないといけないんですよ。(師匠が)来はったら部屋着に着替えさせて、舞台前には衣装に着替えさせる。舞台の間も何を頼まれるかわからないからずっと楽屋にいないといけない。20何人もの先輩の鏡前を拭いて、衣装用意して…。舞台では若手は「何もするな」「邪魔するな」と言われてました。

―1987年に京都花月が閉館、翌88年になんば花月が閉館し、「新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」でリストラが始まりました。

やっとセリフがしゃべれるようになって、花紀・岡師匠に突っ込む役をもらいました。エエ役ついてきたなと思ってたら、「やめよッカナ?」でリストラ対象になって…。男女漫才がおれへんから、「(未知)やすえと漫才やれ」と言われたんですが、2人とも芝居がしたかったので、「嫌です」と断りました。クビになるんかなと思ったら、そうでもなく。今田(耕司)・東野(幸司)が2丁目(心斎橋2丁目劇場)から座長に来るから、脇役になるぞ、と。まあ、エエか~と。それで次にまた誰もいなくなって(今田・東野が東京進出)、「なんとかせえ」とか言われて。ほんまにみんないないんですよ。お客さんもおれへんし。漫才終わったらみんな帰るんですよ。うめだ花月なんか、足音聞こえますからね。やす・きよの漫才が終わったら、ドワーッと。ずっとお客さんが少なかった。「やめよッカナ?」の頃が一番、厳しかったですね。(それでも辞めなかったのは新喜劇の魅力?)いや、どうかなあ。何なんでしょうね。後づけですけど、楽しくなってきたんでしょうね。もの(芝居)の作り方とかわかってきて、後輩にも教えられるようになってましたから。

―その後、石田靖、辻本茂雄とのニューリーダー時代を経て、99年、座長に昇格。15年が経った今、「新喜劇」は変わりました?

基本、そんな変わってないと思うんですよ。僕は新旧、ダメな時といい時も知ってるんで。僕ら旗揚げして座長になったわけじゃないですから、バトンもらって次に渡さないといけないものだと思います。基本的には、勧善懲悪で、「サザエさん」の世界なんで、わかりやすい家族劇であって、誰も死なないというのが最低のルール。お笑いのパターンも繰り返しは3回みたいな。ただ、モノが新しくなるだけ。昔やったらお釜さんでご飯を炊いてたのがジャーになったり、固定電話が携帯になったり。それによってバリエーションが変わるだけで、やってることは一緒。オモロイなということは変わらないと思う。定番のギャグ言うてコケのは面白いですもんね。瞬間的に笑わせるのとじっくり笑わせるのを組み合わせながら…。きっちり組み立てたものは他の劇団がやるので、フリースタイルでいいと思います。今は入れ替え制なんで、楽といえば楽。昔はずっと同じお客さんで、笑わせるのは大変でしたから。ルールがあってないような劇場でした。それで鍛えられましたけどね。

―若手で気になる新喜劇メンバーは?

今の若手、元気あると思うんですよ。僕らも「やめよッカナ?」の時に、手探りでやってました。毎日徹夜で3人(石田靖、辻本茂雄と)で残って、「どうしよう?」と話してました。座長の肩書きも何もないですが、自然と意見を言う奴が決まってくるんですよ。声の大きいもんが勝ちやからね。3人で意見詰めて、台本を作る打ち合わせにも3人で行ってました。僕らも引っ張っていく力がなかったし、作家も力なかったし。ただ、先人の方に俺らの時代に潰したって言われたくなかっただけです。で、ON(王・長嶋)のスター野球はやめて、全員野球しようか、と。誰が笑わせてもいい。若い奴でもいい、どっから笑いが来るかわかれへんのが、新鮮やったのかも知れません。必死ですから、みんな同じ方向を向いてましたね。今、吉田裕とかの世代に、同じ空気を感じます。その世代がガッと横並びで上がってきたらいい。僕らなんかいつまでもおったら、煙たいと思って(笑)。今の空気があの時(ニューリーダーの前くらい)と似てますね。次々みんながいろんなこと考えてきます。

―意外な「今、ハマってるもの」

トレッキングみたいなもんですかね。外に動き出そうかなと…。(えっ、内場さんといえば、読書では!?)それがね~「マンスリーよしもと」という雑誌があって、読書感想文を毎月書かされる。趣味が仕事みたいになって、本が嫌いになったんですよ(笑)。ずっと10年続きましたからね。選んだ本がハズレの時は書くのも辛い。最近、自分で車を運転するようになって、ちょっと動こうか、という気になりました。で、たまたま3日間休みがあったんで、一番最初にいきなり屋久島へ行ったんですよ。往復10時間歩いて、縄文杉も見てきました。歩いてて、あ、気持ちええな~と。年齢いったら2日後に(筋肉痛が)来るよなと思っていたら、来ないんですよ、疲れが。一緒に行ったレイチェルは身が入った(筋肉痛)んですが、僕は何もない。パワーもろたと思ってます。この間、京都の大文字山へ行ったんですよ。てっぺんまで行ったら風が吹いて桜吹雪が舞ってて。次は高野山行こうかと。ゆっくり歩いて、自然見て緑見て…。たまに舞台の合間に生玉さん(生國魂神社)に行ったりします。次は乗馬もしようかと思ってます。屋久島行ってからやたら、肉を食べるようになりましたね。それまでそんなに食べなかったのに。僕、けっこうジェットコースターも好きなんですよ(笑)。

プロフィール
1960年8月22日 大阪生まれ。1982年NSC大阪校1期生。