第3回辻本茂雄

うどん鉢が人生の分岐点。競輪のごとく笑いに向かって突き進む。


―辻本さんはもともと競輪選手を目指されていたんですね。

中学から競輪選手になりたくて、自転車競技に強い和歌山北高等学校へ進学しました。自分でも競輪選手になるんや、とわかっていました。この話、よくするんですけど、うどんの鉢が僕の人生の分岐点になっているんですよ。高校の時、実家がうどん屋だったんで、お母ちゃんが千日前の道具屋筋にうどん鉢を買いに行った。「重たいから駅まで迎えに来て」と言われて、自転車で行ったら、車と接触事故を起こして。病院でレントゲン取ったら、足に腫瘍が見つかりました。すぐに入院して、金曜日に手術やったのを今でも覚えてます。18の時かな。競輪選手しか夢がなかったので、何をしたらいいのかわからなかったですね。アルバイトしながら暮らしてました。そんな時に「うどん鉢を道具屋筋に買いに行くからついて来て」といわれた。当時、NGK(なんばグランド花月)は建設中で、ダウンタウンさんがアイドルみたいに騒がれてました。その時、電信柱に張ってあった「NSC5期募集中」のポスターが光って見えたんです。何かもう1回夢を追いかけたいなとは思っていたので、帰ってから、親父とおふくろに「行きたい」と話したら、「頑張ってみいな」と。うどん鉢を買いに行ってなかったら、腫瘍は見つからなかったし、NSCとの出会いもなかったです。子どもの頃、僕の周りはみんな頭良くて、僕はちょっと不良やった(笑)。周りから「○○みたいになったらアカンで」と言われてました。競輪で全国大会に出て認められた。だから競輪でご飯たべられなかったら、ここ(お笑い)でちゃんと生きていけるように頑張らなあかんと思ったのは確かですね。この世界に入った時、最初は隠してたんですよ。親友にも言わなかった。気楽じゃなかったのかもしれません。

―NSC5期から「新喜劇」に入団された経緯を教えてください。

NSC5期(1986年)は途中で解散になって、卒業公演もしてないです。僕らの時だけです。今残っているのは僕とティーアップの前田だけ。当時、2丁目劇場で稽古があったんですが、秋からすごい番組が始まるというので、稽古場がなくなって、8月いっぱいで解散になったんです。その後、アメリカ村でアルバイトしてた時に、(のちの三角公園USAの)相方が「茂ちゃん、もう1回やろうよ」と言ってくれたのが芸人を続けたきっかけ。彼にはすごく感謝してます。三角公園USAというコンビで、圭・修(清水圭・和泉修)さんがやっていた「ジュニア探検隊」というイベントで新人コーナーに出ました。NSC5期という肩書きは使っていますが、どっちかというとオーディションで受かった組です。その後、大﨑さん(現吉本興業社長・大﨑洋)が新喜劇の担当になって、「やめよッカナ?キャンペーン」が始まって、Tシャツを着たりトレーナー着たりしてましたね。その時、面接で「三角公園、新喜劇に入れ」「コンビの活動も出来るんですか?」「大丈夫や」それだけで終わったんですが(笑)。次の年に、相方が「売れる見込みがなかったらやめると親父と約束してた」と言い出して、コンビを解散しました。ネタの勝ち抜きが名古屋であったんですよ。1週勝ち抜いた次の週、「ちょっと早目に新大阪に来てくれへん?」と言われて、ネタでも作ってきたんかなあと思ってたら、「実は僕やめるんや」「えーっ!?今、言わなあかん?」と。すでに大﨑さんに就職先も紹介してもらっていて、「俺に言うのが先ちゃうの?」と突っ込んだのを覚えてます(笑)。で、ここ(新喜劇)で生きていかなあかん、と。僕ら2丁目劇場の若いお客さんの前でやってたんですが、当時のNGKの年配のお客さんの前では大爆笑取るのは難しかったんで、この舞台で笑い取りたいなという気にはなりましたね。

―初舞台は覚えていますか?

1989年(平成元年)10月のことです。すごくいい役をいただいたんです。主役のライバルの厳しい生活指導の先生役でした。笑いもなく、この役に没頭してくれ、と。でもその後からは通行人が続きました。その当時は今田さんとかもいなくて、新人ばっかり。次の月は、「真田十勇士」とか大作を1か月間やっていたんですが、内場さん、石田くん、ヒロさんは出てましたが、僕は出れずで、低迷してましたね。最初の1回だけですね。いい役いただいたのは。うめだ花月がなくなってからは出る機会がなくなり、どうしたら、舞台に出られるのか。競輪選手を目指していた僕にはお笑いのノウハウはわからないので、勉強しかないと思って、月・木・日と週3日同じ芝居を観に行っていたんです。僕がこの人の立場やったら、どうやって突っ込むやろ、どうボケるやろとシュミレーションしながら、こっそり観てましたね。

―「アゴネタ」はいつからですか?

ある時、彼女の自殺を止めに来た真剣な彼氏役のところで、池乃めだかさんが、「落ち着いてください、アゴ本さん」って。「辻本や!」でお客さん、ドーンと笑って。そこからアゴネタが生まれたんです。帯谷孝史さんとコンビで、ポットネタ(帯谷の横顔がポットに似ている)と一緒に、大抵チンピラの借金取りの役ですが、けっこう出られるようになったんですよ。1年か2年くらい毎回、同じことの繰り返しで、「僕のやりたいのはこんなんかなあ」と。で、会社のお偉いさんに「アゴネタやめたいんですけど…」と言ったら、「お前がアゴネタやめたら何があんねん。仕事減るぞ」と言われて。「せっかく新喜劇やるんなら芝居の勉強したい」と言ったら、やっぱり仕事が減りましたね。そこからアゴネタを封印。でも芝居をやりたいと思っていた時に、間寛平さん、すごく恩師なんですけど、「間寛平広島横断ツアー」があって、その時に決まっていた人がNGになって、どういう経緯か僕が選ばれました。その後、寛平さんがどこに行っても「辻本って面白いぞ、面白いぞ」と言ってくれて。それがきっかけで、みんなに突っ込んでいく芝居の芯の役をいただいたんです。板前の役で、恋愛物でしたね。

―大人気の茂造ですが、ルーツは?

茂造はもともと髪型が御茶の水博士やったと思うんです。生命維持装置を作るという話で、生命維持装置自体はダダスベリやったんですけど、(山田)花子とおじいちゃんと孫役だったのが最初。一般に印象に残るようになったのは内場さんとの芝居からですね。内場さんはツッコミが鋭いし、上手い。芝居でツッコミますから。今でも覚えているのは「眠らない男」というタイトル。内場さんが徹夜で仕事してなかなか寝られないところに、僕(茂造)がやって来て、ずっと寝かせないで、内場さんにキレられる、その辺からじゃないですかね? (茂造は意地悪じいさんっぽい?)意地悪じゃないんです。いつも思っているのは、このおっさん、うっとおしいけど、おらんかったら寂しいわ~というのがテーマなんです。

―茂造は人気キャラで、茂造のルーツをテーマにした舞台もありますね。

来年、茂造の舞台が7回目になるんです。4か月かけて台本も書いています。毎回どうしようか、いろんな芝居見て勉強せなあかん、と。僕、テレビドラマは毎回全部見てるんです。すべて録画してます。それをヒントに新喜劇でも出来ないかなと考えたり。何より励まされるのは、ファンの皆さんのお手紙ですね。いつも来てくれるお母さんもいます。たまたまテレビで茂造を見てくれて、それをきっかけに舞台も見に来てくださるように。茂造にすごく癒されたと言ってくださる。茂造ファンのひきこもりの子に生で舞台を見せたら、学校にも行くようになったとか、僕らが何かの役に立っているというのを聞くと、頑張ってやらなあかんなあ、と思いますね。新喜劇が大好きな子どもがいっぱいいてて、その子どもたちが元気になる、それを聞くとうれしいですね。

―今の新喜劇に思うところがありますか?

今はちょっと偏っている気がしますね。若手も応援してるんですけど、中堅がうまいこと芝居に絡めていない。「くいぬき」って言うんですが、出てハケてで終わる。新喜劇は年配のファンも多いので、もっと世代を超えて団結してやれたらいいと思います。若い者同士だとやりやすいと思いますが、もっとベテラン、中堅が絡めたらいい。勢いとか、個人個人の力はあると思うんで、その力を合わせて、新喜劇ブームを作るような方向を向けばいいなあと。(若手の中で推しメンは?)伊賀健二なんか、けっこう芝居ができてしゃべれる。真面目すぎて、ちょっと固いんですが、茂造シリーズで一緒に芝居をやっていると、伊賀に芝居を回して他の出演者に突っ込んでいくような役をやってもらいたい。もうちょっと肩の力抜いてくれたらいいんですが。

―ハマっていることは?

昔から、「グルメ数珠繋ぎ」が趣味です。食べに行ったところで大将と話しながら、いい店を教えてもらいます。携帯には何百件も入っています。食べて飲むのが趣味ですね。東京でも行きます。新喜劇入った年から25年通っている店もありますね。あと、英語も何年も前から勉強しようと思ってますが、なかなか。基礎がわかってないんで。娘がけっこう(英語を)喋れるんですが、娘に教えてもらうと、ごっつい偉そうに言われるんです(笑)。

プロフィール
1964年10月8日 大阪生まれ。1986年NSC大阪校5期生。