MBS(毎日放送)

第37回 タックルながい。

新喜劇もラグビーもチームプレーやと思います。

―この世界に入りたいと思われたのは?

僕らの時は、土曜日は学校から早く帰って「新喜劇見て」という世代やったんで、新喜劇が大好きで、大好きで。小さい頃から見てて、僕もやってみたい、舞台出てみたいという気持ちになりまして。ずっとラグビーしてたんですけど、高校(報徳学園)を卒業したら、NSCに行こうかなと考えてたんです。でも、大学のチームからお声がかかりまして。東京の大学(法政大学)やったんで、新喜劇を見る機会はなかったんですけど、シーズンオフとかで関西の実家に帰って来た時や、ビデオを送ってもらって見てました。憧れの気持ちが収まらなくて、大学出たらNSC行こうかと思ったら、僕のことを社会人チームが「ぜひ」みたいに言うてくださいまして。さすがにその時は迷ったんです。けれど、ラグビーというスポーツって、今しか出来ないので、ラグビーを辞めることになったら、吉本へ行こうって思いながら、三重県にある本田技研の鈴鹿製作所でサラリーマンラガーになりました。普通は、夢はおいといて、現実の世界に生きていくと思うんですけど、僕は「やめたら吉本」「やめたら吉本」の気持ちが収まらなくて…。

―ラグビーはいつから?

小学校4年の途中から始めました。最初は少年野球をやっていたんですが、全然へたくそで。キャッチボールをしてもどこいくかわからへんし、バッティングも当たれへん。ラグビーをしてた仲いい友達のお母さんから、「長位くん、足速いなあ。ラグビーやり」と、やることに決められて。やってみたら、メッチャ面白くて。今までちっさいボールを投げたりしてたのが、球が大きくなって、持って真っ直ぐ走ってぶち当たったらええねん、と。小学校ではそこそこ身体大きかったんで、けっこうバンバンふっとばせて。「これはおもしろい!」と、少年野球をやめて、ラグビー1本に。そのうち、テレビドラマの「スクール・ウォーズ」(TBSテレビ・1984年)も始まって、ラグビーの魅力のとりこになりました。ラグビーが好きで好きで。小学校の頃は水曜日と金曜日の早朝6時~7時、土曜は昼から日曜は朝から練習。中学校にはラグビー部はなかったんですけど、そのままスクールで、他の道にそれることはなく、不良に憧れることもなく。友達から誘われてもラグビー優先で、遊ぶ時もラグビーやってる友達としかつるんでなくて。高校の時は年間通じて、5日間くらいしか休みがないくらいでしたが、花園の出場機会に恵まれて出させてもらって…。ずっとラグビー漬けやったんです。

―ラグビーを辞めようと思ったことは?

ない、ですね。僕は。みんなラグビー好きで、キツイなと言うのはあるんですけど、仲間と一緒にやっているという思いが強い。ラグビーだけじゃないと思うんですけど、ラグビーは自分自身のことより、仲間のことを大切に思う、そんなスポーツやと僕は思うんです。この練習は1人では出来ないけど、仲間がおるからできる。一緒に泥水すすってグラウンドで走り回るのも、仲間がおるから出来てたというか。高校時代は厳しくて、風邪引いた時でも、練習には参加しなくていいんですけど、先生は「走って汗かけ」と言うて。グラウンドを練習が終わるまでずっと走ってました。「今日は帰ってもいいよ」みたいなことはなかった。だから、僕はずっと、風邪引いたら、走って治すもんや、と思ってたんです。結婚してるんですけど、嫁が熱出した時にも、「走って来い。走って汗かいたら一発で治るから」って。インフルエンザも風邪の一種やと思ってたんですよ。「病気は気持ちやで」と言うてたら、嫁から「何言うてんの? インフルエンザと風邪は違う。私は、あんたみたいに脳みそ筋肉ちゃうわ!」とメッチャ怒られました。

―サラリーマンを辞める時は、決断だったのでは?

辞めた時は、親が泣き崩れたんです。「辞めるで」と言ったら「あかん」と言われると思ったんで「辞めたで」と言うたんです。最初、1年で会社を辞めて吉本へ入ろうかなと思ったら、母親が、「1年なんかで辞めたら、後輩のこともあるし、3年は続けなあかん」と。結局、4年やったんです。社会人大会も出させてもらったし、自分の決断で、よし、辞めようと。芸の世界って、1日も早く入らなあかん、もう26歳やし、遅い。後輩への道は作ったということで、あとは自分の好きなことやろうと。思い立ったら、それしか見えなくなってしまうんです。周りの言葉とか耳に入らなくなっちゃうんですね。

―吉本にはすぐに入れたんですか?

それまでラグビーしかやったことがなくて、どうやって入ったらいいんやろ? と。NSCは当時25歳までとか年齢制限がありましたし。誰かのお弟子につくのか、入り口がわからなくて…。そんな時、進行係の存在を「マンスリーよしもと」で知りました。その時は、進行係を4人で回していたんですけど、3人になったら1人増やすみたいな感じで。たまたま電話したら、「今やったら行ける」と。
(電話1本で?)
はい。NGKの進行係で1年半くらい勉強させてもらって、そのうち、新喜劇のオーディションがありまして、金の卵の前なんですけど、オーディションを受けました。それで、今舞台に立たせてもらっている流れです。

―芸名もラグビーから?

「タックルながい。」というのは、日本ラグビー界のスターの平尾誠二さん(現神戸製鋼総監督)にいただきました。ケツカッチンの和泉修さんがラグビーをお好きで、僕が進行係の時から声をかけてもらってたんですが、平尾さんとは大学の同級生で、学生時代から仲良くされていて、その関係で、「今日、平尾とメシ行くけど、来るか?」となって。お会いしたら、修さんが、「芸能界にラグビー経験者はいろいろいるけど、ここまでしっかりやっていた奴はおらんから、お前から名前つけたってくれへんか?」と。ラグビーに関係する名前でということで、「タックルでええん違う? 芸能界でバチバチタックルいけるような」ということで、平尾さんにつけていただいたんです。芸能界ではなかなかタックル出来てないですけど…。名前を観ていただいた時に、一文字増やしたほうがいいということになって、「。」をつけました。

―世界が一変しましたね。

入った当時は、憧れの人と一緒におる! みたいな。ずっとドキドキと緊張の連続でした。僕がちっちゃい頃から出てはる人と一緒にいる。夢の世界におるみたいで。木村進さんとか、寛平師匠とめだか師匠のサルネコはテレビにクギづけになって見てましたから。めだか師匠の50周年で見た時は、懐かしいなあ、と。
(初舞台は覚えてますか?)
初舞台は確か、内場さんが座長で。高校生の役で、友達とケンカして、チンピラのお兄ちゃんを連れて仕返しに行く。そのお兄ちゃんが平山(昌雄)さんやったと思います。楽屋のお仕事とか、いろいろご指導いただいたのも平山さんでした。早く来て先輩の化粧パフを洗うとか、師匠が入られた時はお茶をお出しするとか、用事を聞くとか、台を拭いて、コップを洗うとか。でも、1年目は新喜劇の舞台は2回だけやったですね。
(えっ!)
ほぼ毎日、劇場の近くの弁当屋さんとかでアルバイトしてて、バイト終わったら、NGKで新喜劇見させてもらってたんです。2年目は3~4回くらいで。その頃、「クイズ!紳助くん」(ABCテレビ)のなにわ突撃隊に出させてもらいました。番組が終わってからは舞台にも出させてもらう機会が増えまして、ヤクザであったり、強盗であったり、警官であったり。ガタイを生かすような役をいただいて。だからオープニングのカップル役とかはいまだに一度もやらせてもらってません。手ぇつないで、カップルええなあ、と(笑)。

―お芝居のことで先輩とかに相談されたりしたことは?

そうですね。僕、メッチャメチャ緊張しいなんです。今、やっとこさ、セリフを言えるようになってきたんですけど。警官役の「失礼します。この近所で強盗事件が発生しました。犯人が2人、逃走中です。まだつかまってないので、くれぐれもご注意ください」みたいな説明ゼリフとかを舞台袖で、敬礼から稽古するんですけど、暗い舞台袖から明るい舞台に出た瞬間に、覚えとったセリフが全部、緊張でパーンと飛んでしもて…。「何しにきたんや」とツッコまれて、「あの、え、あの、え、なんやったか。強盗です」としか言えなくて、「お前が強盗やろ」と。
(笑いにはつながりますね)
僕は一の介師匠のスナックでアルバイトさせてもらっているんですけど、師匠から、「とりあえず、慣れなんやけど、なんぼ緊張してもセリフは言えるように、何回も何回も練習することやで。緊張するのはわかるけど、芝居が入ってないんやろな。ただ頭で覚えたセリフを読んでるだけで、芝居になってないんやな」と言われました。先輩の芝居の見方とか、いろいろご指導していただいて。「辞めるのは簡単やけど、せっかく入ったんやから、やり続けることが大事やで。せっかくラグビー辞めて、その夢を捨てて、それより膨らんだ夢がよしもと新喜劇やろ」と。

―この先、やりたい役とかは?

芸の世界でいうたら、何のギャグもないし、目立ちしろがない。でも立ち回りはカッコええな、とか思って。殺陣の方を平山さんにずっと、習って、勉強させてもらってまして。新喜劇の特番とかで、立ち回りがある時は、ちょっとでも立ち回りの多いところに行きたい、ちょっとでも前に出たいな、と。何年もご指導いただいて、稽古させていただいてたら、(亡くなった)山根師匠から、「一緒にやれへんか」とお声をかけていただいて。2年ほど前から「チャンバラトリオ軍団」というのに入れてもらっていたんです。この5月に山根師匠が引退されることになって、山根師匠の最後のお弟子さんになる平山さんが芯取るには、後輩を1人ということになって、2人で「チャンバラJAPAN」をやらせてもらっています。

―新喜劇の魅力は?

身近な存在というか…。一の介師匠とか島木師匠とか、諸先輩方を見とっても、ファンの方にも嫌な顔せず、急いでる時でも「ちょっと急いでるから、握手だけやけど」とか、話かけづらいとか、大スターみたいなオーラじゃなくて、身近じゃないですか。常にお客さんと一緒というか。気取ることのないのが、僕が、新喜劇の好きなとこですね。新喜劇って見てる人が多いので、子どもを小学校に迎えに行った時とかでも、気軽に声をかけてもらえるんです。愛されているなあ、と実感します。そんな新喜劇からラグビーを発信できたら。得意な分野で皆さんに喜んでいただけるような新喜劇の笑いが全国に伝染して行けば…と思います。新喜劇もラグビーもチームプレー。ラグビーは自分のことより仲間のことを思って。だから「One for All、All for One」。新喜劇もひとつの芝居をトスして持っていく。競技は違うけど、チームワークでは一緒のところがあると思うんです。
(ちなみにラグビーはどこのポジションだったんですか?)
僕ね、スクラムの最前列のプロップっていう、背番号でいうたら、1番とかをやってました。そのポジションの中では小兵やったんですけど。花形ではないんです。花形はバックスでキックを蹴ったり、ウイングでパス貰って走ったり。僕は見えないところで力仕事というか。ガチンとスクラム組んで、背骨が折れても球だけは味方に出すんや! という気持ちのポジションです。笑いのパスはなかなかつなげてないですけど…(笑)。

―憧れの先輩はいますか?

憧れてる先輩といえば、キャラクターは全然違うんですけど、一の介師匠です。弟子にしてください、ではないんですけど、僕の中では一の介師匠が僕の師匠やと思ってます。ああいう誰からも愛される、お客さんからも社員さんからも先輩芸人からもそうですし、後輩からも「もう、一ちゃん兄さんとは遊んだれへんからな!」「そんなこというなよ~烏川~」みたいな。先輩からも後輩からも愛される、人生の手本のような、素晴らしい存在です。お店でも芸人が日替わりで1週間バイトさせてもらってたり。役者としても人間としてもああいう方になりたいなと思ってます。

―これからやりたいことは?

イベントになるんですが、新喜劇というお笑いを通じて、ラグビーの魅力を発信して行けたらと。4年前のニュージーランド大会の時から、8年後のジャパン大会を目指して、ラグビーを盛り上げていこうと「ラグビー新喜劇」というのを年に1回やってます。元ラガーマンのNGKの支配人の新田さんがプロデューサーで、吉本の中でラグビーをされていた芸人、新喜劇でいうと、川畑座長、烏川さん、松浦真也君とか僕とか、で、あとはシャンプーハットこいでさん、ケンドーコバヤシさん、ぼんちきよしさんとか。きよしさんは名門啓光学園の出身なんです。それに、現役のラガーマン、トップリーガー、日本代表に入っていた選手もお呼びして。お客さんもラグビー好きの方が来てくださるので、トップリーガーが来たらどの選手でもワァーとなるんですけど、次回ワールドカップに出場した選手に来ていただければ、絶対盛り上がると思うんです(2016年1月開催予定)。今はラグビーを知らなかった人でも、五郎丸ポーズは知っているみたいな。何がきっかけでもいいんですけど、ちょっとでもラグビーを知ってもらって。こんなエキサイティングな素晴らしいスポーツなんやと、1人でも多くの人にスタジアムに足を運んでもらえたらと。そのためにも、「ラグビー新喜劇」でPRさせていただければと思います。

2015年11月2日談

プロフィール

1973年10月16日兵庫県西宮市出身。

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