MBS(毎日放送)

第99回 佐藤武志

笑いって、健康と違いますか。人間にとって一番必要なもんでしょ。

―久々の新喜劇の舞台でした。

35年ぶりですわ。昭和59年(1984年)3月頭のうめだ花月が最後でしたからね。35年のブランクは長いですわ。初めて平川師匠と漫才した時とおんなじで。緊張とも違う、変な気分でしたわ。出る前の嫌~な感じ、あるんですわ。袖で座ってる時の。
(漫才コンビ・Wヤングとして活躍されていました)
コンビを組む前の昭和57~8年くらいから新喜劇がだんだん下降気味というか、視聴率が落ちて来て。僕が入った昭和48年(1973年)頃は、24~5%ありましたからね。落ちたと言っても10%くらいあったんですよ。そうなった時に、会社が「新喜劇を変えるんや」となって。2月に会社から「平川さんと漫才し」と。その前に平川師匠とシャレで、漫才してましてん。それで、「コレ、行けるんちゃうか」と。僕は以前のWヤングを小学校の頃から見てましたから、「あんなきっちりしたやつ、出来ませんよ。今は冗談でやって、気も楽やから、適当にウケてるだけで」「ほら、ウケてるやろ」と2時間半くらい説教されて。その後、3月8日の金曜ですわ。舞台の合間に、本社から電話で呼び出されて、「月曜日、記者会見やから」「何のです?」「Wヤングやないか、アホ! もう、するって決まってるんや。諦めて漫才するねん。」
(そうだったんですね)
嫌や思てました、漫才。そりゃ向こうは漫才大賞2回獲ってる人やしね、漫才をプロでやってるし。僕みたいな素人が、ぷっと入って漫才出来ません。うめだ花月で4月1日の初舞台、構えましたからね。構えるから、硬なりますねん。「佐藤君、自分な芝居しすぎやねん。漫才はトントン、トントン、いかなあかんねん。芝居したらアカンねん」「あ、そうですか」って言いながら、35年やってましてん。20年経った時に言いました。「僕も好きにやりたいこと、やらせてくれって」。「わかった、今まで悪かったわ」って謝りはって。あ、素直な人やな、って。今から15年くらい前からは、お互い気兼ねなく出来るようになって、楽しい漫才やなあと自分では思いつつ。あんなに元気に梅田や難波を歩いてた相方が、急に「足痛い」と言い出したのが、2018年の9月でしたからね。半年後の2月に足の手術して治って、出て来たら、急に「しんどい」言い出して……。
ゴールデンウィークの出番が、漫才として最後の舞台になったんですけどね。

―新喜劇に戻ると決められたのは?

その後、どうしようかなあ、と。漫才35年やって来て、こんなおっさんが、誰とすんねん、もう無理や、と。嫁さん(浅香あき恵)が、「古巣の新喜劇に戻るのが一番ええん違う? 全然仕事ないこともないと思うし」。で、川畑君も「戻ってきなはれや」と。その2人の声で助かったというか。でも、「僕は古い作家のをやっとたんや。遅い新喜劇。今は早いねん。レベルが違うねん。最近の子は達者や。漫才もそうやけど。ベテランより若い子の方が漫才上手いもん」「いやいや、出来まっせ」と、川畑君がそう言うてくれたから決心したんですけどね。7か月くらい舞台立ってませんでしたし。迷ってましたから。今でもですけど。それに周りはみんな若い子ばっかり。どないしたらええか…。
(昔の新喜劇とは、ずいぶん変わりました)
ほんまに変わりましたからね。どうしよかと思うくらい。昔は10日間公演で、上旬・中旬・下旬と3組あるんですよ。劇場も3つあったし。会社の人間がメンバー決めて、作家がいて、書いてきた台本をそのまま覚えるだけで成り立ってたんですよ。今は、座長が打ち合わせして、メンバーも座長が決める。昔はまんべんなく全員出てましたから。

―最初に新喜劇に入られた時は?

19歳ですわ。高校卒業して、大学行くつもりしてました。親もね、大学行くもんやと思てました。ところがね、家から高校まで歩いて12、3分やけど、毎日おんなじ人と会うんですわ。この人生、何が面白いんやろな、と思ってね。普通のサラリーマンですわ。きっちりした時間に出て来て、こんなん嫌やなあ、どうしよか、どうしよかといろいろ考えてて。高校2年の1学期でやめましたわ。
(え!?学校やめたんですか?)
いや、学校やなくて。受験勉強をせんとこ、と。高校は行くけど、大学は行けへん、と。で、いろいろ考えてて、お笑いが好きやったというのもあるけど、新喜劇の募集があって受けたんですわ。その頃、新喜劇の面接で40~50人来てました。昔の心斎橋筋2丁目劇場の上が本社。狭~いとこで、1人1人面接ですわ。「君何しとったんや?」「バイトですわ」「何ぼもらえるねん? そっちの方がええのに。こんなん金になれへんで」。1週間以内に必ず電話すると言われたのに、1週間経ってもかかって来ない。「落ちたんかな?」と思って、こっちから電話したら、「明日からなんば花月行け」と。
(えっ!?)
その時、この会社は「やる気のある奴だけ、自分から電話して来よる。どうでもいい奴はかけてきよれへん」と思ってる。そんな会社やねんな、と思いましたわ。かけた奴しか来てませんでしたもん。3人しかいてませんでした。3人ともみんな返事がないから会社に電話かけたと言うてました。
(面白い~(笑))
そこで最初は進行というのをしますねん。普通2~3か月、舞台袖で緞帳上げたり下げたり、セット作りを手伝ったりとか。それが僕は10日だけ。昔いた、平参平さんの付き人がおらんようになったんで、「お前、この人の用事せえ」と。それで、すぐ10日後に京都花月が初舞台やったんですわ。
(へええ~すごい)
ごっつい、恵まれてました。演技経験は全くない。素人ですよ。当時は若い子は素人が多かった。先輩には漫才をやってたとか、新劇をやってた人はいっぱいいましたけどね。僕らが入った時代、昭和48年(1973年)、仁鶴師匠がトリでしてん。仁鶴師匠の全盛ですわ。仁鶴師匠が終わったら、客が帰りますねん。まだ新喜劇あるのに。それほど仁鶴師匠は凄かったですわ。仁鶴、仁鶴、仁鶴ですもん、あの時は。新喜劇あるのに、半分くらい帰りよる。「仁鶴見たら、もうええ」っていうそんな時代でしたわ。

―新喜劇って、当時から前日の稽古だけだったんですか?

そう、そう。僕、この世界入ってびっくりしましたもん。いきなり上の人に「なんば花月行け」言われて。出番は京都花月でしたけど、向こうまで行かれへんから、稽古はなんば花月で。当時はなんば花月が終わるのが遅くて、夜9時半くらい。そっからロビーで稽古しますねん。1回本読みして40分くらい。次に「立ち稽古しよか」で、1時間ちょっとくらいですわ。次の日、日曜日やったから、出番が遅くて昼の12時で、「11時に京都花月」で終わり。普通4、5日くらい稽古すると思いますやん。「嘘やん!こんなんでみんな覚えてきはるの?」これはビックリしましたわ。

―その初舞台は覚えてますか?

覚えてますよ。うどん屋の客ですわ。ようあるパターンでね。「大将、これ美味しいわ」「そうか~ありがとうな」「なんぼでっか?」「50万円や」ドテ~ッ。で、ハケて行くっていう、それだけですわ。昔はお客さん、厳しかったからね。客から「聞こえんぞ~」とか、ちょっと笑ろたら、「真面目にせんかい!」。今なら、笑ったら、客も笑いまっしゃろ。それがなかったんです。噛んだりしたら、「何や、ダラ!」みたいな声が聞こえてきますねん。今は同じように笑うでしょ、時代は変わったな~って。
(昔はお客さん、厳しかったんですね)
厳しかったですよ、あの時は。だから噛めませんでした。ちゃんとやらなあかんと思って、硬くなりますねん。

―新喜劇の先輩も厳しかった?

厳しかったですね。用事ばっかりしましたもん。5年やりましたからね。みんな辞めていきますねん。また一番下になりますやん。先輩が来たら、服かけて、お茶出して、鏡拭いて、掃除して、それ以外に平参平さんの用事も全部しましてん。その時代に、木村進と間寛平が座長になった(1974年)のは、すごかったと思いましたわ。
(確か、若い座長だったと)
2人とも23、4歳でした。うめだ花月、京都花月、なんば花月と出待ちがいっぱいいてましたもん。ズラーッといて、キャキャア言うてんねんもん。出待ちがあんだけいたら、座長せな、しゃあない。テレビもね、レギュラー持ってはったし。ようけ出てはりました。
(一番下で、辞めようとかは?)
それはなかったんですよ。6年目でレギュラーもろたんです。ちょうど漫才ブームの時で。「モーレツしごき教室」(MBS)「花の駐在さん」(ABC)、「吉本コメディ」(YTV)、「吉本ホットコメディー」(KTV)……番組もようけありましたから。

―当時の新喜劇の舞台ではどんな役を?

帯やん(帯谷孝史)と一緒に暴れてましたね。僕が25歳で向こうが29歳。僕が警官で向こうがヤクザの役。普通に捕まえてハケるだけじゃ面白ないから、「帯やん、俺、ムチャクチャするわ」いうて、ヤクザをメチャメチャにしてたら、ホンマにケンカみたいになってしもて。そしたら船場太郎兄さんが「お前ら、どっか運動場借りてやって来い!」て。そんなんがウケて。たまたま作家が見てて、「お前ら、いつからやってるんや?」「昨日から」「今度使たるわ」。それで「吉本コメディ」(YTV)という番組に出ました。2人とも若いから暴れるだけでっせ。セット潰して、服ちぎって。それで仕事ようけもらいました。漫才ブームと同じくらいの時期ですわ。
(暴れてたんですね)
ずーっと暴れてました。25歳の頃ね。45歳の時にまた違う番組で、それも同じ作家でね。吉本の担当が、「佐藤さん、すみません、役はあんまりいいことないんですが、どうしても佐藤さんにやってもらいたいと」。3つしか出番あれへんけど、普通に帰ったらアカンな、と思って、バン!ボン!バン!と。そっからまたその番組で2年くらいやりましたわ。今、65歳ですわ。20年おきに暴れてまんねん。ふふふふふ。
(あ、暴れてるのは20年おきなんですか!?)
そうなってますな、考えたら。次は85歳やね。だから、こないだの記者会見でも、「目標は桑原和男さんですね。あれを抜かないと辞められませんねん」言いました。

―長い芸歴ですが、新喜劇でお世話になった先輩は?

やっぱり平参平さんはもちろんですし、それと、木村進、間寛平ですよね。一番世話になったのは、その3人ですよね。僕はけっこう、先輩にかわいがられたというか。若い時は僕、あんまり酒飲まへんかったんです。飲みに連れて行ってもらって飲めるようになりました。その中で一番覚えてるのは、3年目かな、22か23の時に、花紀京・岡八朗師匠の番組があったんですわ。コントで、「昨日お互いどんなことあった?」というオチのところで噛んでもうて。八朗兄さんから「お前、噛むな!」言われて、もうこれで仕事ないわと思ってね、その時、楽屋に島田一の介兄さんがいて、「こういう時にクヨクヨするなよ、お前。かまへん、かまへん。飲みに行こ!」と。これだけ、いまだに忘れません。ありがたかった。「ちょっと噛んだぐらいで。これからやないか」と。僕より、2~3年先輩ですねん。そしたら、また次の週もオチの仕事来ましてん。今度は噛まれへん(笑)。そのあとも結構、その番組で使ってもらえて。それが一番印象に残ってますね。

―この先、新喜劇でやりたいことは?

暴れるだけですわ。能のない、暴れるだけでね、「元気やで~」という、それだけですわ。「こんなおっさん、おるねんで」というだけです。今さら若い役もでけへんし、年寄り役しかない。その上で体張って、まだ出来ますよと。
(今、身体を張ったネタはあんまりないような…)
だから僕は相変わらず昭和なんですわ。昭和の定番ですわ。いまだに昭和94年や思てますもん。令和も平成もおません。昭和94年ですわ。
(新喜劇にぜひ、昭和の風を…)
吹きまっか? 今みんな個性強烈でっせ。全員がいろいろ考えてるなと思って見てますねん。こっちは個性もないし、普通のおっさんやしね。

―長い間続けて来られて、ご自身にとって「お笑い」とは?

健康、違います?
(健康?)
笑えなかったら、人間やないでしょ。お笑いっちゅうのは。人間にとって一番必要なもんでしょ。怒るとかはいらんと思いますねん。笑いっちゅうのは一番誰でも持っとかなあかんもんやと思いますね。それがあったら争いごともないですわ。笑いがなかったら、人間、おかしなるんちゃいます? これでまとまってるの違うかな。怒っとっても笑えるから、許せる、というか。それほど笑いって大事やなと思いますわ。
(貴重なお言葉、ありがとうございます)

―プライベートでハマっていることや趣味は?

映画を観に行くとか、プロ野球とか。巨人ファンです。東京へ行ったら、東京ドームのチケットを知り合いに取ってもらうんですわ。それと、甲子園の高校野球。春・夏、絶対行くのと、高校ラグビー、大学ラグビー、社会人ラグビー。トップリーグはおもしろないですわ。それが僕の趣味。あと、朝ご飯作るのとね。
(そうなんですか! 毎日?)
結構迫力ありまっせ。僕ね、体重80キロあったんです。それはアカン、朝歩いたら痩せまっせ、と人に言われて。45歳くらいからタバコもやめて、6時頃起きて、1時間くらい歩いて。3か月で8キロくらい痩せましてん。こっからまた半年くらい止まりますねん。それで、夜走ることに。週に3回、4回10キロほど走ったら、66キロくらいでまた止まりよる。後輩に誘われて、井岡ボクシングジムやスポーツジムも行っとったんです。そしたら、今は62~3キロですわ。朝・昼・晩、ちゃんと3食食べて、酒も飲みに行ってましたよ。
(歩くのがきっかけで、朝ご飯作られるように?)
朝早いから。7時くらいに帰って来て、風呂入って、暇ですやん。作ろかと。お義母さんと、僕と嫁はんと娘の4人分。パンとサラダと目玉焼きとウインナー、フルーツ、いっぱいですわ。見たらびっくりしますわ。ホテルの朝食よりええやろ、と。
(家族円満の秘訣ですね)
僕ら漫才は、はよ帰って来るのもあったし、ほとんど休みないからね。「朝ぐらい作ったるわ。寝とき、寝とき」言うてね。夜はちゃんと向こうが作ります。そは相身互いで、ね。夫婦は共同生活やから。せなアカンときはやらなあきません。
(これからは奥さまと共演ですね)
楽は楽ですね。昔も新喜劇で一緒でしたから。
(これからも舞台に昭和の風を吹かせてください)
昭和が一番好きやからね、僕は。

2019年12月9日談

プロフィール

1954年10月5日兵庫県出身。

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