2代目“吉本新喜劇の顔”に選ばれた西川忠志さんにお話を伺いました。西川忠志さんは2009年3月、新喜劇に入団。昨年に入団15年目を迎え、記念公演『感謝』を開催。66年目の“新喜劇の顔”を担う西川さんがいま思うこととは?
3月2日が(島田)珠代さんの“新喜劇の顔”終わりの日なんですかね? 珠代さんが花束を受け取った時に、「ありがとう、私は役目を終えました」とおっしゃったので、僕はあの日から“顔”になっているのか、新年度から“顔”になるのか、まだあいまいなんです。
昨年3月に、新喜劇が65周年を迎えて1年間、日本全国、海外も回りました。そのなかで珠代さんが“新喜劇の顔”として、65周年を全面的にアピールして広報活動をしておられました。だから僕は、“新喜劇の顔”は65周年限定なのか、66年目にも“顔”があるかどうかも、正直わかってなかったし、だから突然のことで「え!?」っていう。
あれから、少し冷静になりまして。65周年といえばすごく節目の年で大きな行事もあって、皆さんに新喜劇をお伝えできる盛大なセレモニーという感じです。でも、66年目っていうのは、70年に向けてのまた一歩で、コツコツ年に入ったような気がしております。初代って何事もクローズアップされるし、先頭にたって初めてのことだらけで、開拓もしなければいけない。珠代さんはそういう意味ではすごく大きな存在で、みんなが思う期待以上の成果と広報活動をされたと思って、僕は大大尊敬をしています。そういう意味でも2代目の僕に何ができるのかというと、まだ答えは見つかりません。
ただ、僕自身も父、西川きよしが芸能界に入って、息子の僕も2代目としてこの世界に入ったことを思うと、この感覚でいいのかなという思いが自分のなかで起こったというか。父もコツコツ頑張ってきて今の立場があるんですが、大きなプロジェクトは別として、僕自身は基本は地道に、Instagram(インスタグラム)をやったり、X(エックス)をやったり、日々の「今週は祇園花月でこんなことをやってます」「なんばグランド花月はこんなことをしています」「誰誰さんがこんなイベントをします、皆さんどうぞお越しくださいね」っていうコツコツ活動をしていくことが、66年という、70年にむけた第一歩になるのかなと思います。派手ではない、でも一人でも多くの人に新喜劇を知っていただき、知っていても見たことがない人に、「これは興味があるから劇場に一度足を運んでみたいな」と思わせるそんな活動が、僕が選ばれた理由かなと、感じているところです。
「忠志、今までよう頑張ってきたな」と公演が終わった直後に声をかけていただきました。「とにかくそのままでええんや、今の忠志で1年やれば大丈夫やから。“新喜劇の顔”っていったって、スタッフもいれば座員もいる、みんなで力をあわせて進んでいくんやから。“顔”になったからってお前ひとりが頑張るんじゃなくて、みんなで頑張る。忠志がそのシンボルとして、みんなで進んでいこう」と言ってくださいました。
うーん…“顔”について何かをお話したという事は、特にないです。ただ、新喜劇記念日が終わった週の、なんばグランド花月の通常公演は珠代さんと僕が同じ出番でした。僕はうどん屋さんの主人で、珠代さんは従業員という役です。僕は毎日Instagramを更新しているのですが、舞台上で投稿する写真を一緒に撮らせていただいたんです。2人とも法被を着ていたので、うどん屋の出前用の岡持ちを持って、珠代さんに「僕に渡してもらえません? 僕がこう受け取るので」って。うどんの鉢とかでもよかったんですけど、自分でもよく岡持ちにしたなと思います。岡持ちって出前っていうか、色んな人たちに気持ちを届ける、おいしい味を届けるものですよね。だから、珠代さんが1年間されてきたこと、また新たに一日一日始まっていく新喜劇のこの新鮮なおいしい味を皆さんに届けられるようにと、あの写真を見るたびに思います。
珠代さんのお言葉はないけど、この岡持ちの取っ手から伝わってくる気持ちが後押ししてくださってるような。珠代さんが1年間されてきたことを無駄にせずに、少しでも広報係として役に立たないといけないなと思いました。
2代目に僕がならせていただくという発表があったんだよ、と父に伝えると「お前それはえらいすごい役目やないか、責任重大やないか」と驚いていました。
そうですね。父と母も新喜劇の研究生で入り、出会い結婚し、僕が生まれ、その後、僕は芸能事務所に入って、15年前に新喜劇に移籍させていただいて今になります。母が僕を身ごもったときは、まだギリギリまで舞台に立っておりましたので、僕が新喜劇の舞台に立つことになって、緊張するってなったときに、「もちろん緊張するのは分かるけれども、あんた昔、私のお腹の中で何十年も前に一緒に舞台に立ってたんやから」と母がかけてくれた言葉が、お守りになりました。親子にわたって吉本新喜劇にお世話になるなかで、息子が66年目の吉本新喜劇の“顔”に選ばれて、重大な役目を背負わせていただけるというのは、やっぱりうれしいことだと思います。
山の5合目って!? すっごいこと言うてるな! そういわれたら、僕はいま何合目って答えるんですかね? 年数を重ねて、新喜劇の中にいればいるほど、新喜劇のすごさ、大変さ、楽しさ、難しさ、色んなことが分かってくる。何事においても濃くなっていく、というなかでいくと、下降じゃないですけど、山の3合目ぐらいとちゃうかなって思えてきますね。
難しいですね。本当に、一朝一夕にはできることじゃないです。5合目から3合目になったんですけど、やればやるほど、逆にどんどんどんどん難しくなっています。去年15周年という節目でお芝居をさせていただくにあたり、いちからスタッフの皆さんと台本作りをはじめたのですが、ひとつの本を作るってほんまにね、毎回、毎回、血を吐くような思いで一作品、一作品作られているんだなというのが、自分でやってみて実感しました。僕、1回限りのものでもヘトヘトやったのに、これを座長さんと作家さんは2週に1回、祇園花月となんばグランド花月公演は必ずあるので、これをずっと作られてるんや、そのうえお客さんに笑っていただく水準のものを作られているんだって思うと、想像を絶します。これまでは正直、本をいただいたら、自分なりに変えたいとか、言葉尻を変えたいとかあったんです。でも、最初から頭のなかだけで、こんな風にしたらいいんじゃないか、っていうのは大きな間違いだなというのがよく分かりました。そうなってくると、新喜劇自体は喜劇の台本ですから、本当にどんどん、難しさは2倍、3倍になっていってますね。
毎回、舞台を作るなかで、ああしたらいいんじゃないか、こうしたらいいんじゃないかとみんなで話し合いながら作っていきます。初日の幕が開いてから、毎週末のテレビ中継の収録までの1週間の間に、みんなで試行錯誤し、作品自体をよりよいもの、よりお客さんに楽しんでいただけるものにするために、意見を出し合っていますね。
これは常に変わらず、新喜劇に15年前に入った時にかけてくれた内場さんのお言葉です。初舞台も内場さんの作品ですし。内場さんからは「忠志くん、新喜劇に入ったからって、急に何か面白いことをしようとか、なんかふざけたことをしようとか思ってないやろうけど、そういうことではないよ。君が新喜劇に入りたい、また会社が許してくれて、入らせてもらったということは、今まで君が役者として頑張ってきて、俳優としての成果があったからこそ、座員として迎えられたんだから。本をいただき、自分が読んだなかで自分が理解しながら役を演じることをすればいいから、そのなかで感じたことをどんどん掘り下げ、膨らませていくことはいいことだけれども、なにか奇天烈な奇妙な大げさなことをすることはない」と。そのような言葉をいただいてありがたかったです。
父の息子だからということもあって、台本には「頑張りますコツコツと…」みたいなことを書いてくださって。それは僕のギャグでもないんですが、歌舞伎でも型ってありますよね。伝統芸能の歌舞伎と新喜劇は違いますが、父が長年築き上げてきた芸風のなかのひとつとして、「小さなことからコツコツと」を受け継ぐというか。あのフレーズは、父が皆さんに笑っていただこうと思ってやり始めたんじゃなしに、父が参議院議員選挙に初めて立候補した記者会見の時に、「僕は何もできませんけども、小さなことからコツコツ頑張りたいと思いますので、皆さんよろしくお願いします」ってフレーズを、色んな芸人さんが表情やジェスチャーをつけてイジってくださって作られたものなんですね。父も逆にそれを真似して、うわーっとウケて、それを今度は僕が新喜劇でやらせていただいている。これは受け継ぎ、伝承していっていいひとつの芸風なのかなと、15年やらせてもらうなかで思うにいたりました。
めっそうもないです! 先輩としてはいけないことかもしれませんけど、いまだに僕、後輩にあそこはこうしたらいいよ、なんて一切言えません。後輩は後輩なりに考えて、声をかけはる先輩方がいて、そのアドバイスを聞いてやったら舞台上で良くなってるんですよ。でも、僕そんなこと言えません。自分のことで正直、精一杯です。だから、自分の役割もきちんと果たしながら、後輩の面倒もみて、舞台でのアドバイスをする座員さんたちね、僕は本当にすごいと思います。
正直なところをいえば、座員が100何人いれば、舞台に立てる人数は限られてくるんですよね。なんばグランド花月では1回の週公演に約20名、祇園花月が約15名、それで40人弱ですよね、あと60人から80人くらいはその週、お休み。営業がある週は、そこに10数人がいけたりはしますけど、基本80人くらいは新喜劇のお仕事はお休みです。僕が“顔”として色んな広報活動をしていくのは大事なんですけども、いただいた1回の出番を何かの形で成果を出さなければ、次の出番はいただけないんですよ。だから、いただいた役を1回1回やるしかないと。1回1回がほんまにオーディションやと思います。
そうだと思いますね。ましてや先日の新喜劇記念日に「敢闘賞」の発表があったように、4月1日の週から毎週、なんばグランド花月と祇園花月で、その週で一番頑張った座員に敢闘賞が贈られます。頑張ったといえば全員頑張っているので、何か今までとは違うその人を見られたとか、長い短いの出番に関わらず、キラッと光ってたり、お話のなかできちんと役目を果たしてるという人に、会社が評価をしてくださる。賞があるからってわけじゃないんですけれども、やっぱり役者っていうのは、見てくれてるっていうのがうれしいもんだと思うんです。そういうことを形にしてくれて、ありがたいことだと思いますね。
感謝です。それしかないです。Instagramの投稿の最後も毎日「感謝」で結んでいます。本当に感謝です。
いつも見ていただいて本当にありがとうございます。感謝ですね。これからも皆さんの期待、いや、期待以上のものをお見せできるように座員一同、力をあわせて作品づくりに励みますので、今後とも皆さん吉本新喜劇を可愛がってください。よろしくお願いします。
2025年3月21日談
▼以下は2016年9月5日に伺ったインタビューです。
そうですね。父と母が50年ほど前に出会った場所が新喜劇の舞台だったので、新喜劇がなければ、父と母は出会わなかったでしょうし、たぶん、僕という人間も生まれてなかったでしょうし。西川家と吉本新喜劇は切っても切れない縁ということになりますね。
(舞台は小さい頃からご覧になっていましたか?)
父がやすきよで漫才をやっていた頃、学校が休みの時に、よく劇場に遊びがてら連れて行ってもらいました。舞台を見るというよりは、楽屋でありがたいことに他の皆さんにかわいがっていただいて、遊んでもらえるのが楽しみで…。正直、客席で舞台を見た記憶より、楽屋で遊んでもらっていたことの方が記憶に残っています。
実は、幼稚園の時に子役としてドラマに出していただいたんです。朝日放送が大阪でドラマを撮っていた時代なんですが、宇津井健さんと有馬稲子さんが出演するドラマ(「嫁サこらんしょ」1973年)で、有馬さんが離婚してフランスから帰ってくる子連れの女性の役なので、大阪で洋風の顔立ちをした子どもが欲しいと、捜してて。「大阪でそんな子どこにいる?」 「あ、きよしさんとこの子どもや」と。父に「お子さんを貸していただけないですか」という話になったんです。それで出たのが、お芝居をする初めての体験だったんですが、幼稚園の頃なので、詳しくは覚えていないです。スチール写真とかを見て、何となく覚えている感じです。本格的に役者になりたいと思ったのは、小学校3年生の時に東京の知り合いの家に夏休みに遊びに行った時、連れて行ってもらったミュージカルですね。日生劇場の夏休みこどもミュージカルでフランス文学の「にんじん」(1979年)という、赤毛の少年が髪の色のせいでいじめられるという話をやっていたんです。わざわざ一番前の真ん中の席を取ってくださって。その時、にんじん役を演じてらしたのが大竹しのぶさん。これがすごく印象的で。たった1回しか見てないんですけど、みんなにいじめられて家に帰ってきてボロボロひとりで泣いて、「(歌)居眠りして~た神様~が、作り損ねたダメな子ども、ぼくはにんじん」って歌うんです。1回しか見てないのに、僕、その歌、覚えてるんですよ。
(え~っ!? すごい!)
涙ぽろぽろ流しながら、自分なんて死んだほうがいいんだって、水がたまったバケツに映った自分の赤毛を見て、「こんなの嫌だ!」って水に髪をつけて。子どもなりに苦しんでいる、その演技を見た時に、「ここに立ちたい!」ってほんとに思ったんですね。客席じゃなくて、舞台の上に立ちたい、役者をやりたいって。自分発信で思ったのは、その瞬間だったと思うんです。その時から全く気持ちが変わらずに、今まで来てますね。
(その話、大竹しのぶさんにされました?)
ちょうど同じ事務所で一緒になった時期がありまして、そのお話をさせていただいたら、第一声は「ありがとう」とかじゃなくて、「あなたと私、そんなに歳が離れてるの?」でした(笑)。
この世界に入ったのは、19歳です。両親には、ずっと「お芝居がしたい」と言い続けてたので、それとなくわかっていたと思います。中学校の時に父から「お父さんもこの世界にいるから、止めることは出来ない。ただ、自分が何も持ってなかったら、すぐに終わってしまう。やるならやるで、少しでもいろんなことを身につけておきなさい」と言われました。芸事は嫌いじゃなかったので、ジャズダンスを中学生から始めたり、日舞を始めたり、習っていたピアノも高校まで続けて。高校を卒業する時に、演劇が学べるところへと思って、玉川大学芸術学科へ行きました。それと同時に東京の芸能事務所に預かっていただき、そこから、西川忠志としての芸能活動になったんです。
いきなりではなく、徐々になんですけど…。小学生の頃から、ありがたいことに夏休みに僕が「芝居を見たい」と言えば、東京の叔母さんのところに2~3週間送り出してくれて、いろんな劇場でお芝居三昧してくるという学生時代を送らせてもらいました。それは自分の宝物なんですけど、実際自分でやり始めると、それまで見てきた“演劇”をやろうとしてスタートしたんです。初舞台は、帝国劇場で森繁久彌さん主演の「碧血の波濤―明治太平記」(1992年)でした。その後も、森光子さん、杉村春子さん、山田五十鈴さん、そうそうたる方々と舞台をご一緒させていただく中で、皆さん、素晴らしい存在感の方ばかりなんですが、根底に喜劇やコメディセンスをお持ちだというのを感じたんですね。森繁さんは喜劇「社長シリーズ」や「駅前シリーズ」で、森光子さんも大阪で喜劇を、山田五十鈴さんも芸事を身につけられて、小粋なくすっと笑わせるお芝居をされていて。山田さんとは「たぬき」というお芝居でご一緒したんですが、三味線を弾く芸人さんの役で、軽さみたいなものがあるんです。僕はがむしゃらで、熱い、汗をかいて、大きい声を出すお芝居をやってたんですが、コメディでもホロッと泣けるものってありますよね。何気ない空気のようなお芝居の中でもお客さんの琴線に触れて、ホロッと涙が出る。舞台で先輩とご一緒する中で、こういうお芝居がしたいと感じはじめて。でも自分に来るお仕事は、真面目、好青年、というような役が多くて。それまで父がいる世界は自分には縁がないと思っていたんですね。でもいろいろ考える中で、ふと頭の中に新喜劇が浮かんで、コメディや喜劇の勉強を出来る世界が身近にある! それに自分の役者人生で、コメディや喜劇の要素を身につけたいという思いが重なって、手後れにならないうちに、新喜劇で勉強したいと思って、父に相談したんですね。それまでお世話になった事務所にも相談して、自分の思いを伝えると、社長が「役者として色んなモノを吸収して頑張りたいなら、止めないし、また縁があると思う。自分の役者人生を深めるために頑張ってきなさい」と言っていただき、吉本の大﨑社長にもお許しをいただき、吉本に入り、新喜劇に入団させていただいたという経緯です。
2009年3月から半年間、当時は、京橋花月で「よる芝居」という公演があって、新喜劇の方だけでなく、ゲストを呼んでのお芝居があったんですが、そこで経験させてもらいました。
(ずいぶん勝手が違ったのでは?)
もちろん、稽古は前の日だったり、稽古期間が短いということはありますけど、自分に与えられた時間の中で本を読んでセリフを覚えて、稽古をし、本番に挑むという形は変わらないです。ただ、やはり新喜劇というチームワークの凄さを一番最初に感じました。いきなり知らない方が集まって前の日に稽古して、本番というのは、きっと無理。長年の皆さんの経験とチームワークがあってこそです。そこに新しい人が入っても皆さんに助けられ、また育てられながら成長していく気がしました。稽古量の少なさから言えば、ドキドキで、何度も空えずきするみたいなこともありましたけど。いろんな方から、「新喜劇ってアドリブが多いんですか?」って聞かれますけど、中身はアドリブでも、基本はほんとに稽古どおり、ちゃんと巧みに計算されたお芝居を最初から最後まで作り上げる。瞬間的、自然発生的に湧き上がった笑いを広げていくことはあったとしても、同じです。
もちろん。京橋の時も、11月のNGKの時も座長は内場さんでした。ほんとに緊張しました。家で1人で練習していると、母が「明日が初舞台と思ってるでしょうけど、私があなたを身ごもった時、一緒に舞台に立っていたから、明日が初舞台じゃないのよ。安心して行きなさい」とお守りの言葉をもらって、初舞台を務められました。
(どんな役でした?)
真っ白のつなぎを着た宅配便のお兄さんの役で、「お兄さん頑張ってるね~」と声をかけられて、「小さなことからコツコツと…」をやらせてもらいました。
(あれは初舞台から?)
台本に書いていただいているのがほんとにありがたかったです。内場さんからも「無理して笑いを作るより、今まで経験してきたことをきちんと出していけば、それでいいから」と言っていただきました。僕が勝手にやっても、さぶいですし。与えられたことをきっちりやることですかね。まずは台本どおり、きちんとやればいいんだと。
何よりも7年の間に、舞台上に自然にいることがどれだけ難しいことか、またそれが必要なことか、を感じました。ある時、他の舞台からも声をかけていただいて、藤山直美さんとご一緒した折、何気なく「忠志君、自然と舞台にいるね」という言葉をかけてくださったんです。僕にとってはホメ言葉というか、うれしく思いましたね。これは新喜劇のおかげだというのをすごく感じました。今までの汗水流しながらの演技というのもありますけど、大阪のお兄ちゃん、お姉ちゃんとかが会話する中でくすっと笑えるような自然な居ずまい、会話の仕方、それを少しずつ経験でき、自分に少しずつでも備わっていっているのかな、と。
(ご自身でどのくらいのところまで、来れた感じですか?)
そうですね…パッと思ったのは、(山の)5合目? でもお芝居は舞台上のものだけじゃなくて、日々の客席の空気感も変わりますし、それもひっくるめて1回1回のお芝居なので、客席の空気を感じるというのは、まだ全く出来てません。舞台からハケて来た時に、他の皆さんが、「今日はかわいい子来てるな」とか、「前の人寝てるで」「あのおばさん、よう笑ってくれはるな~」とか言われるんですが、なっかなか、僕、そこまで目が行かないです。だから、今までより少し舞台に自然に立てるようになったとしても、それはお芝居の部分だけで、お客さんの空気を感じて出来てるかというと、そこは0点に等しいです。劇場全体の空気感をつかみながら、その日の空気にあわせてナチュラルに出来たらなと思います。
最初も申し上げましたが、なくてはならないものです。皆さん、かわいがってくださるので、ありがたいの一言です。
(ご両親が舞台を見に来られたりしますか?)
たまにですけど、見てくれることもあります。とくに母ですかね、「ほんとにあなたは人様に助けられてるね。もっとそれを感謝しいや」というようなことをいつも言われますし、自分でもそう思います。
そうですねえ……基本は、普通の真面目な演技の中から、自分が発信するよりは、皆さんが拾ってくださって、「お前、何真面目やねん!」と突っ込まれる形が多いので。それはお芝居としては正解なんですけど…。
(突っ込んでもらってナンボですね)
そうです。自分が出す色合いの中で、ツッコミの方がいてくださり、相手の方が振ってくださる中で、西川忠志とはこんな雰囲気なんやと、見たお客さんに印象づけられるような、そういう新喜劇での存在感を増していきたいということですね。
(新喜劇の中での西川忠志色(いろ)を…)
色を深めて行きたい。それが何なのかというと、やっていく中でつかんでいくもんじゃないかな、と。
自分発信という意味で、これまでやってこなかった、ブログを始めたんです。名前も「西川忠志の忠義の忠に志す!」っていうんですけど。何気ない自分が普段思ったこととか、感じたこととかを発信して、みなさんがどういう風に見てくださるか。心では思っても行動に移してなかったんですが。やっと。
(ほかには?)
朝起きたら、必ず40分くらいストレッチと、ラジオ体操はやりますね。今まで色んな舞台や現場で稽古でやってきた中で、自分にあった物を取り入れながら、自分なりに作ったモノです。朝出る時は人様に見られるので、身だしなみは僕なりですけどきっちりしたいんです。少しでも皆さんに元気そうやなという顔を見ていただきたいので、そこだけはどれだけ朝が早かろうと、前の日が仕事で遅かろうと、家を出る前に、プラス、ストレッチをする時間を入れた時間前に起きて、毎日仕事に出かけるようにしてます。自分の気持も違いますね。
(真面目ですね~)
真面目の定義が自分でもよくわかってなくて。そこが真面目やといわれるんですけど(笑)。自分自身、真面目だとは思ってません。朝起きると眠たいし、毎日、大の字になって、深い呼吸から始めるんですけど、やっているうちに気持ちよくなってきて、終わった時には、すがすがしいんですよ。「わ~きもちいい~!!」って。その気持ちが待ってるから、その感覚を自分で知っているから、眠たい目をこすっても、40分後にはそれが待ってると思うから、続けられるのかな。あははは(笑)。
(ありがとうございました)
あ、無精ひげを伸ばしているのは、役柄だというのを書いておいてくださいね!
2016年9月5日談
1968年4月20日大阪府箕面市出身。