MBS(毎日放送)

第113回 森川隆士
(もりかわ・りゅうじ)

「55歳の新人」ですが、役者に定年はないですからね。

―53歳で新喜劇に入団される前に、長いキャリアをお持ちですね。

新喜劇に入ったのは、令和2年(2020年)の8月1日ですが、僕の元々の師匠というのは、ミヤコ蝶々先生なんです。昭和62年(1987年)にミヤコ蝶々新芸スクールに入学しまして、8月に中座の「女ひとり」で初舞台を踏ませていただきました。63年(1988年)の3月3日に蝶々先生のところに内弟子に入って、最後の内弟子を7年やってたんです。
(上方の芸能界を代表する方ですね。もともと役者を目指されて?)
中学生の時、音楽、バンドが流行ってた時期で、素人の学生ロックバッドみたいなのをやってたんです。ま、学生なんで、「テッペン取るぞ!」みたいなノリやったんですけど、高校になっても僕はずっとやり続けてて、素人ながら、自分たちで手売りして100~200人のお客さんを集めてました。
(おおっ! すごい)
高校卒業という大きなターニングポイントで、周りが就職したりでバンド活動を諦めて行くうちに、気がついたら僕しかおれへん、という状態でね。たまたまテレビで見たのが、ミヤコ蝶々新芸スクールという、蝶々先生の学校で。そこに俳優、漫才、音楽もあったんで、「音楽もあるんや」となって、1浪で大学に行こうか迷ってた時に、「ここや!」と思って受けたんです。当然、蝶々先生は知ってますけど、「2時のワイドショー」(1979~1992年読売テレビ)で人生相談してる、面白いおばちゃんやな、くらいの感じで、この先生にすごい憧れてというよりは、学校の校長先生のイメージで。若い子が多かったので、半分遊びのような、ワイワイ言いながら、初舞台も素人ながら踏んでました。

―最後の内弟子になられたいきさつは?

1年くらいした時、たまたま蝶々先生の内弟子の女の子が辞められたのと、運転手さんが病気になったのが重なって。お手伝いさんはいましたが、マネージャーには「3日ほど手伝ってくれへんか?」と言われたんですけど、実際、蝶々先生には「内弟子志望の人が来てます」と伝わってたんです(笑)。
(あはははは~)
とりあえず、あいさつに来てくれという話で、スーツを着て、当時、梅田にあった読売テレビの「2時のワイドショー」に行ったんです。楽屋に制作局長があいさつに来られた時、「紹介しとくわ。新しく入った、内弟子の森川君や」と。僕は音楽の方しかやってなかったんで、「内弟子」という言葉を知らなかったんです。「ウチ(私)の弟子の森川」なのかわからなかった(笑)。
(なるほど~)
その後、「もう1週間くらい手伝ってくれへんか?」と言われて、そのまま舞台に入りました。そしたら、内弟子に入ったから、一気に役が大きくなり出番がひっきりなしにあるんですよね。今までその他大勢の一言二言だったのが、孫の役だったり、出世していく役だったり。蝶々先生が作・演出ですから。見るものすべてが僕の中で、新鮮だったですね。僕はちょっと手伝いに行ったつもりやったんですけど、、だんだん蝶々先生のすごさもわかって来て、面白い方が勝って、どんどんどんどん、この芸能界というか、お芝居の世界へのめり込んで行ったんですね。

―当時、ミヤコ蝶々さんの言葉で印象に残っていることは?

内弟子に入って2年くらいした時に、出世役をしていくお芝居を、中座、名鉄、さらに巡業に行き出したんですね。石井均さんや根上淳さんとかがご一緒で。結婚を申し込みに行った若い青年が認められて、最後社長になって行くっていう出世役なんですけど。5か月くらいその芝居をしているのに、すごく緊張するというか、何か自分の中でしっくり行かない時期があったんですよね。それで蝶々先生に「先生は緊張しないんですか?」って聞いたら、「あのな、人間国宝の歌右衛門さんでも、舞台に出る前に手のひらに人、人、人と書いて、呑み込んで、緊張を和らげて出て行くんや。私らごときが緊張せえへん方がおかしいんやで。ただ、緊張を楽しめるようになったら、一人前やな」と、ニコッと笑ろて言われたのが、心に残ってます。僕はいつも出番前に手に「人、人、人」じゃなくて「蝶々先生」と書くんです。緊張感を楽しめる役者でいられますように、と思って。先生のところに入って良かったなとほんまに思います。最後の内弟子でおれたのもうれしいし、僕の財産やと思います。

―東京を拠点に20年活動されていました。

蝶々先生が2000年に亡くなられて、その後、立ち上がったばかりの吉本興業のドラマチームに1期で入ったんです。東京の方にも行きたかったので、東京に3年くらい住んでたんですけど、ドラマチームが大阪に撤収になったんですよね。それで5年くらいで一旦吉本を退社しまして、東京に住まいを構えたまま芸能事務所に入って、活動してたんですけど、この新型コロナの影響があって、大阪に家族ごと引っ越すという流れになってしまったんです。結局、新型コロナが原因なんですよ。蝶々劇団がなくなった後は、大劇場をメインにお仕事させてもらってたんですけど、新型コロナが流行り出した2020年1月、2月の五木ひろしさんの舞台を最後に、ぴたっと劇場全体が止まってしまって。生活ベースを大阪に移すというのを家族で決めて、去年の4月に家族ごと引っ越してきたんです。大阪へ帰るのであれば、もともと大阪の蝶々劇団の出身なので、大阪の劇団に入りたいな、吉本新喜劇に挑戦してみたいな、と。一般的に役者の世界でいうと、東京へ出て頑張って、大阪へ引き上げると言うと、なんか敗北して帰ってくるみたいなイメージありますけど、そうじゃないんだ、と、もう一回何かできないか、という自分の中の葛藤があって。実は20代後半くらいに一度、吉本新喜劇に入りたいという時期があって、相談もして流れたことがあったんですよ。10年くらい蝶々先生のとこにいた後ですから、年齢も中途半端で若手でもなくて。逆に30年以上たって、もう一度吉本新喜劇という新しいジャンルの喜劇に挑戦です。

―新喜劇への入団を誰かに相談されましたか?

僕の仲人が大助花子師匠なんですよ。大助花子師匠が名鉄や中日劇場で座長公演をされていた時に参加させてもらっていたんです。それで、新喜劇に入りたいという相談をしました。それと僕が吉本のドラマチームにいた時期に、川畑さんと僕が同い年で、NHK大阪放送局のこけら落としとか、いろいろご縁があったんです。川畑さんにも相談して、誰とお話ししたらスムーズにいくかとか。そんな形で紹介していただいた方にお会いして、今までに出たものを見せて欲しいと。で、宮川大助花子ファミリー劇場「天使の街~東大阪~」(2010年)のDVDが残ってたのでお見せしたり、あと「水戸黄門」(TBS)とか、映像で残っているものは出させてもらったんです。ただ、劇場が全部止まってたので、ちょっと待ってくれと。やっと劇場が動くようになって、新喜劇に配属のOKをもらいまして、大阪の担当のマネージャーとやりとりしながら、各座員さんにごあいさつして、顔を覚えてもらいながら、少しずつ、馴染んでいけるようになったという感じです。

―30年やって来られた舞台と、新喜劇とは違うと思いますが。

そうですね。すごく戸惑いました。これまでやって来た喜劇というのはツッコミが別にはいないですからね。当人同士の会話の中で「それ、なんでやねん」というのはありますけど、関係のないとこからツッコむのを待って、次のセリフというのは、普通の芝居にはないんですね。僕は‘’魔法の言葉“と言うてますけど。
(ふふふ、魔法の言葉)
新喜劇は笑いのプロフェッショナルの集団やから。すごいな、と。本人同士の掛け合いの会話に、横からポンと言うて、ドーンとウケるっていうのはもう、新喜劇ならでは、ですね。もちろん、子どもの頃からずっと見て育ってましたので、大好きなお芝居ではありますね。
(稽古の時間も短いですね)
蝶々劇団の時は3幕芝居で3時間。新作で、本読みして立ち稽古して、3日舞台稽古で、だいたい1週間取ります。ほかの舞台と比べると、うちの劇団すごいな、あの期間でやってたんやな、と思いますけど。新喜劇はもうひとつエグイですよね。前日に本読みして立ち稽古して、舞台稽古、これで終わりやと。それでやってしまうんやからね。やっぱりすごいなと思いますね。

―新喜劇の初舞台は覚えてますか?

一番最初は淡路島の劇場でした。次に川畑座長で祇園花月、その後、同じ話をバージョンアップしてNGKでもやらせてもらいました。森田まりこさんが出来の悪いわがままな社長で、その母親が浅香あき恵姉さん。僕は不当にリストラされた社員で、些細なことでクビになって。それを恨んで、母娘の旅行先の旅館に押しかけて来る役。そこで、初めて母娘の思いが通じ合って、まりこ社長が「給料も倍にします、もう1回働いてくれませんか」と土下座して謝るんです。最初は「給料もいままでどおりでいいから働かせてください」と引っ込む芝居でした。僕は自分で「リストラされたことで嫁と子どもが実家に帰って、家族がメチャクチャになった」というバックボーンをつけたんです。稽古の時に、川畑座長と相談して、「皆さん、ご迷惑おかけしてすみませんでした。社長!今から実家へ行って嫁と子どもを迎えに行ってきます」というセリフを足させてもらったんです。それまで、泣きのいい芝居してるのに、ちょっともったいない。新喜劇にはいらないかも知れないですけど、思いを伝えて引き揚げたかったんです。祇園の支配人が楽屋まで来て、川畑座長に、「今回、えらいええ芝居してるな」と言うのを耳にした時、参加させてもらって良かったな、と思いました。次にNGKになった時には、僕と吉田裕さんと2人がリストラ役になって、増やしたセリフが台本に載りましたからね。うれしかったです。で、最後に吉田裕さんが「俺は給料倍にしてや!」で、引っ込むと、ドーンとウケて。森田まりこちゃんも涙を流して、お互いガチンコでお芝居しましたからね、感動しました。

―舞台での失敗とかありますか?

失敗はいっぱいありますけど。新喜劇って皆さん、名前をけっこう呼ぶんですよね。この前も、すっちー座長の時に、岡田直子ちゃんのお父さん役をした時、さんざん、「直子、直子」って呼んでるのに、最後、娘の結婚を認めて、相手に「直子をよろしく」と言わなあかんセリフで、「直子」という名前が一瞬出なかったんです。「うちの娘をよろしく頼むで」で、普通は成立するじゃないですか。すかざず瀧見君から「今、名前忘れたん違います?」とツッコまれて。「こんなしんみりしたシーンで。名前言うてくださいよ」「誰やった?」みたいな。直子ちゃん本人が小声で「直子です」って。
(ふふふふ)
ダーッとウケましたけどね。あんなとこでツッコんでくるんやと。名前の間違いは、多いんですよ。あと、刑事役で、青野さんとオクレさんと未知やすえさんを捕まえた時に、ひとりひとり名前を呼んで「全員、逮捕や!」と言うところを、名前に気を取られて「お前ら全員クビや!」と言い間違えて。どっから出て来たのか自分でもわかれへん。「え!? クビ?」みたいな。
(あはははは~)
やすえ姉さんとか本気で笑ってるし。同じ刑事役のタックルさんも次のセリフが言えないくらい笑ってました。後で、謝り倒しましたけどね。

―この先、どんな役をやって行きたいですか?

子どもの頃の新喜劇の印象は、ちゃんと泣いて、最後にドーンと笑うみたいな。新喜劇でちゃんと泣けてたような記憶があるんです。そんなお芝居パートのところをしっかり任せていただいて、泣く時は泣いて、みたいな役をやらせていただきたいなと思っています。あと、僕は55歳になりましたけど、若い座員さんが多い劇団になので、早く歳のいった役を、お父さん役からお爺さん役が出来るようになりたいな、と。お爺さん用のカツラも自分で作ったりして。
(え!? 自分でですか?)
自前で、白髪の入ったやつを作って、会長さんとか社長さんでも使えるかな~と。お父さん役とかもね。泣かすところは森川やったら、泣かせてくれる、泣きの森川みたいな、そんなポジションになっていけたらいいのかな、と。若くて元気なうちの老け役やったら、長く出来ますし。蝶々先生は40代で日本のおばあちゃんとして、映画に出られて賞をもらったりとか。お母さんもやりますけど、若い頃からおばあちゃん役が多かったんでね。そういう師匠を見てたので、どちらもやれる役者になりたい、というのがあります。

―最近はバラエティにも出演されています。

ありがたいことに、「よしもと新喜劇NEXT」(MBS)によく出させていただけるようになったので。
(身体を張ってますね)
えへへへ(笑)まあまあ、一生懸命やって、僕なんか面白いのか、面白くないのか自分でようわからんとこがあって。「一生懸命やってる森川さんの姿がいいですから、気にせんとやってください」と言われて。そこから生まれてきたギャグとかを、また舞台で使わせていただけて。酒井藍座長の舞台の時に、急きょ、ひとつネタが無くなったんで、「NEXTでやってるネタを入れていいですか」と提案したら、「私が途中でフリますから、ノッてください」というだけの打ち合わせだけで、ドッカン、ドッカン、ウケて。ああ、皆さん、天才やなと思って。即座に対応するのが凄いですよね。
(他の舞台にも出たいという気持ちは?)
もちろん、あります。呼んでいただけるのであれば。ただ、新喜劇を見た時に、「あ、森川さん出てるな」と覚えてもらうには、まずNGKで新喜劇の舞台にしっかり出させていただいて。もし機会があれば、他の舞台にも喜んで行かせていただきます。そっちの方が元々のベースなので。

―新喜劇のお芝居で、普段、心がけていらっしゃることは?

新喜劇の稽古は、本読みがあって、立稽古1回やって、そのまま舞台稽古になるのが、新喜劇スタイルじゃないですか。僕は必ず立ち稽古の段階で台本を持たない、というのをマイルールにしてます。これは蝶々先生にさんざん言われてきましたから。内弟子は忙しい上に、役もだんだん大きくなって来て。ベテランさんは本を持って、チラチラ見ながら立ち稽古する。僕らがちょっと覚えてなくて、本を持って出たら、「お前、なに本持ってんねん! そのくらいのセリフ量で本持って、あんたはスターか!?」と怒られて。もう、「すんません」しかないですね。「他にやりたい奴、おるか?」に、手を挙げてセリフを覚えてる人がいたら、バッとその場で代えられますからね。
(うわっ! 厳しい)
やっぱり本を持ちながらだと、目も死ぬし、手も死ぬし、言うてるセリフに何もハートが伝わってこない。そやから、本は持たない。新喜劇はアドリブが多いから、何をしてるか、ほかの人の動きも見えるじゃないですか。全体を計算して稽古できるので、僕はまず、(台本を)外してみせる。自己アピールもありますが。
(若い座員さんも学ぶところがありそうですね)
いえいえ、若いけど、皆すごいですから。回転も速いし、覚えるのも早いし。僕らも見習わなあかんところ、いっぱいあるしね。ま、今までやってきた歴史もあるので、呼んでいただける間は、バラエティにしても、「55歳、新人、2年目です!」言うて、何でもやりまっせ、と。ま、役者は定年がありませんからね。

―今、ハマっていることや趣味は?

この歳になってハーレーに乗るようになりました。
(え~っ)
大型免許取って。学生時代から乗りたくて、原付は乗ってたんですけど。車に乗ってからはバイクに乗ることがなくて。30年以上経って、新型コロナの休みの間に、免許取って、今ハーレーに乗ってます。他にも出来なかったこと、魚釣りに、畑もやってるんですよ。
(え!? 畑も?)
もともとこっちが地元なので、荒地で草だけ刈っていた200坪くらいの地を開墾して。昨日も、段ボール箱10個分くらいのじゃがいもを収穫して。その前は玉ねぎ、夏野菜も今植えたんで。明るい農村やってます(笑)。内弟子の頃に、蝶々先生の食事は僕が作ってましたから、料理は得意というか。それでいろいろ作ったり。玉ねぎも1年分くらいは、ベランダに吊るして。今、玉ねぎ高いから、近所に配ると喜ばれますね。小ぶりですけど、味は美味しいです。無農薬やから見た目より、身体にいいものをと思って。収穫の時は車で行きますけど、水やりくらいはハーレーで行ってます。バイクと釣りと畑ですね。コロナだからと家でくすぶっててもええことないし。身体を使って、子どもらも連れて。1個のじゃがいも作るのにこんなに大変なんや、食べ物ってありがいねんなと、子ども心にぼそっと言うてたから、良かったのかなと。畑は土を作るところから始まる。根を張るには最初の基本が大事やなと。何でもつながるんですね。苗も上っ面がよくても、下がダメやったら、育たないし、病気になるしね。土さえきっちり作っておけば、あとはちゃんと見てやって、雑草取りも、栄養持って行かれるから大事。こまめに取ってやってたら、どんどん大きくなる。今はYouTubeもあれば調べ物も出来ますしね、素人でもびっくりするくらい、取れますから。楽しいですよ。

2022年6月24日談

プロフィール

1967年4月25日大阪府出身。
2020年8月1日新喜劇入団。

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