MBS(毎日放送)

第15回 未知やすえ

考える余地もなく入れられた新喜劇は、居ごこちが良かった。

―高校時代にポケットミュージカルスに出られていたんですね。

吉本のうめだ花月、なんば花月でダンサーとして出てました。もともとは小さい頃から歌手になりたかったんです。中学校の時に同級生といろんなオーディションに応募して、全部落ちて。東京に行くお金もなく、諦めたりしたのもあったんですが、たまたまその同級生が田舎から出てきたおばあちゃんと花月を見に行った時に、「マンスリーよしもと」という雑誌を見たら、新人タレント募集があって、「漫才、落語、新喜劇、お笑い以外のタレント求む」と、歌手とかモデルという部門が書いてあったんです。吉本でお笑い以外のタレント求む、っておかしいじゃないですか? でも歌手というところで、吉本なら大阪やし、東京までオーディションを受けにいかんですむし、とりあえず、親しみのあるところやし。受けてみようか、ということで、写真と書類を送ってオーディションを受けたら、2人一緒に通ったんです。だから、吉本に入って、歌手になるつもりやったんです。

―憧れの歌手の方とかありましたか?

桜田淳子、森昌子、山口百恵の中三トリオが一世を風靡した時代で、「中学生で歌手になれるんや!」って思ったんです。当時、百恵さんがコメントで「母親に楽をさせてあげたいです」と言うてはって、「歌手になったらお金儲けが出来て、親孝行できるんや」という単純な考え方でした。家も決して裕福ではなかったし、自分の小さい頃からの夢が、仕事として叶うのであれば、と。誰かに憧れてというのではなく、ただただ漠然と歌手になりたいという夢でした。

―ポケットミュージカルスでは、どんなことをされていたのですか?

コントの合間に、間寛平さんとか、めだか兄さんとかさんまさんとか人気のある人が歌ってらしたんですよ。私たちは、その後ろで踊っていたんです。歌手になる前に、ダンスも出来たほうがいいと、当時は高校生だったので、週1回、土曜日になんば花月の稽古場で4人くらいでダンスを習っていました。ある日突然、そのダンスチームが解散ということになったんです。ひとつ年上の2人が高校を卒業するので、吉本でタレントとしてやっていくと。私らはまだ高校2年生だったんで、どうしようかなと思っていたら、会社の人から「2人で漫才したらどうや?」と言われて。「ええーっ!?」って。そりゃもちろん、お笑いは好きでしたけど、見てて楽しいだけで、自分がやるとなると…。「歌手を目指してる人に、お笑いは無理ですよ」って断ったんですが、「やめるんか?」と言われたら、とりあえずネタ考えようか、となって。それで「素人名人会のオーディションに行け」と言われたんです。コンビ名は名前そのまま「やすえ・やすよ」で、2人でなんとか作って練習したんですけど、ウケるわけもなく、予選で落ちたんです。「やっぱり、私たちはお笑いじゃないよな」となって、諦めていた時、「素人名人会」の本番収録で漫才の演目に欠員が出て、どうしても漫才がいるから「お前ら出ろ」と。そんな簡単に言われても、予選で落ちた漫才しかないし、「カッコ悪いから嫌です」と言ったんですけど、「名人賞取るとか思わんと、とりあえず、数がいるねん」と。そんな感じで2人で練習して出たんですよ。ぶっつけ本番に近い状態で緊張もしてたんですが、たまたま名人賞をいただいたんですよ。
(えっ!?そうなんですか?)
そおなんですよ~(笑)名人賞でお客さんは笑ってくれるし、鐘はカカカカカカカンカンカーンと鳴るし。「へえーっ!?」ってなって。ものすごくうれしくて。そこから「漫才(やる)?」みたいな感じになりました。

―漫才師としてのスタートは?

ちょうどプロの漫才ブームが終わって、素人の漫才ブームが来てました。東京で「お笑いスター誕生!!」(1980年4月~86年9月NTV)とか、「笑ってる場合ですよ!」(1980年10月~82年10月CX)にも素人の参加枠があったんです。あと小さいイベントに呼んでもらったり。高校3年生の間は賞金稼ぎじゃないけど、お小遣いが稼げるくらいでした。「笑ってる場合ですよ!」では、学校を休んで行かないとダメで、初めて東京のホテルに泊まらせてもらいました。晩ごはんも朝ごはんも出るやん!東京うろうろ出来るやん!で、すごい楽しくて。その時もたまたま5回勝ち抜きのチャンピオンにさせてもらって。ほんとに「素人名人会」で名人賞を取ってなかったら、漫才はやってなかったです。高3になって「就職どうしよう?」となったんですが、「絶対プロになる」と言って、2人で吉本に入ったんです。学校を卒業して4月1日から10日間、うめだ花月の出番だったんですが、プロになったとたん、お客さんが笑ってくれなくて。「なんじゃこれ!?プロってこんなに厳しいんや!」って(笑)。やってたネタも高校生の時に作ったネタだったんですが。最初の頃は奨励賞とかでしたけど、賞もいただいて頑張れてたんですが、だんだんウケなくなってくるし、3年弱くらいして、相方が辞めると言い出しました。

―漫才コンビ解消ですね。

それまでずっと相方について家から劇場まで来てたんです。近所のバス停で待ち合わせて、連れて行ってもらっている状態。電車に1人で乗れなかったんですよ。相方がおらんかったら、どうしようもなくなる。それで2人で会社に行って、「コンビ解散します」と。相方は賢い子で、商業系の簿記の資格をもっていたので、今すぐ辞めて働いても十分やっていける。「お前は何の資格を持っているんや?」と聞かれて、「原付です」って言ったらメッチャ笑われて。「喫茶店でバイトでもします」と言ったら、「お前はアホやから吉本に残ったらエエねん」って言われたんですよ。相方も「それでエエんちゃう?」と言ってくれて、吉本に残ることに決めたんです。今思えば「アホや」と言われたけど、愛情のある大阪弁の「アホ」でした。そう言ってもらってなかったら、今、ここにいないですね。

―新喜劇へ入団の経緯を聞かせてください。

漫才を辞める年、84年12月30日まで最後のうめだ花月の舞台があって、その2日前くらいに会社から電話があって、「明日劇場終わったら、晩、新喜劇の稽古やから」って言われたんです。「はあっ!?」って。私、新喜劇に入るってひとっことも言ってないし。これからどうしていこうか、コンビ解散してから決めようと思っていたし、相方は小学校・中学校の同級生なんで、終わったら温泉旅行でも行こうかって言うてたら、考える時間もなく、「明日から晩に稽古に出て、正月の出番はうめだ花月や」と。「いや、いや、いや、待ってくださいよ」と言ったんですけど、「お前に考える余地はない」と言われて。泣く泣く…でもないけど「えーっ、新喜劇~!?」と思いながら行ったのは、覚えてます。

―初舞台は覚えてますか?

覚えてます。うめだ花月ですね。最後の幕閉め時の寛平兄さんのお見合い相手の役で、「オレ、こんな奴いやや~」と言われる超三枚目の役でした。アハハハハハッ。振袖だけ着て派手にして、寛平兄さんにフラれる役。今思ったらスゴイですよね。当時は寛平さんのほかに、木村進さん、室谷信雄さんが座長で、船場太郎さん、花紀京さん、岡八朗さん、平参平さんもいらっしゃいました。私が一番初めに入れてもらったのは、間組だったんですよ。そこにめだか兄さんがいて、女性のトップはあき恵さん。ラッキーやったと思います。厳しい人がいなかった。普通なら一番下なので楽屋の用事とかもいっぱいあるんですけど、もともと師匠がいないので、何をどうしていいかわからない。楽屋の失礼ごとはわかってましたが、新喜劇は先輩のお手伝いもしないとダメ。でも、自分ではすぐ辞めると思っていたので、(お手伝いを)することもなく。邪魔しない程度に居てる感じやったんですけど、ほんとに居ごこちが良くて…だんだん、だんだん新喜劇が楽しくなってきて、続けて来れたと思います。

―印象に残る舞台は?

2年くらい寛平兄さんの優しいチームで廻ってました。役柄も最初三枚目やったんですよ。子ども役とか、おばあちゃん役とか。二枚目役はあき恵姉さん、園みち子さん、高橋和子さんに決まっていました。自分でも二枚目をしたいとは思ってないし、ゆるい感じで楽しくやらしてもらってたんですが、初めて花紀・岡組に行くことになって。「怖い」「厳しい」と勝手に思っていて、稽古は良かったんですが、初日に舞台に出たとたん、緊張しすぎてセリフを全部忘れて。岡師匠が小さい声で「なんや?」って言うのが聞こえて、「ひえ~怒られる」と思って、今度は涙が出てしまって…。「セリフ忘れた~」って言って舞台の上で大泣きしてしまいました。お父さん役がやなぎ浩二さんやったんですけど、花紀師匠が「この子の保護者誰や?」と言ったら舞台に出てきてくれて、「この子はこういうことが言いたかったんですわ」とつないでくれて、「ほな連れて帰れ」と言われて、舞台からハケたんです。周りの先輩も「これは怒られるな」「雷落ちるな」と誰も声をかけられない状態で、とりあえず、「舞台が終わったら謝りに行け!」ということで、謝りに行きました。岡師匠に最初に「すみませんでした!」と言ったら、「おう」と低い声で言われて、「怖っ」と思って、花紀師匠にも「すみませんでした!」と言ったら、頭をぽんぽんと叩かれて、「お前のセリフ、誰も取れへんからな。しっかりしゃべりや」と言われて、えー怒られへんかった、それがまた嬉しくて涙が出て、「ありがとうございました!すみませんでした!」と言って、周りも「良かったな~」みたいな感じで。そこから、反対にすっごい花紀師匠に可愛がってもらいました。それも辞めずにすんでいるひとつですね。振り返るとけっこう波があるんですけど、なんか(新喜劇に)残ってるな、って。

―「新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」の時はどうでしたか?

新喜劇が楽しくて、ちっちゃい笑いじゃなくて、最後の大きな笑いのためにお芝居をするというのがすごく楽しくなって、新喜劇で頑張っていこうと決めていた時に「やめよッカナ?」に入るんですね。漫才ブームの後だったので、漫才が終わったところで、お客さんがドーッと帰るんですよ。当時はなんば花月もうめだ花月も、転換の時にセットを建てるのを新喜劇の若いメンバーが手伝っていたんですけど、みんなで「はよセット組んで、はよ幕開けよ!」というくらい、緞帳の裏でもお客さんが帰る音が聞こえる、寂しい時代でしたね。キャンペーンでは、今すぐ辞めるんやったらお給料の3か月分もらえる、残るとしても出番があるかわからない、このまま新喜劇が続くかどうかもわからないと言われて。面接の時に、結婚する前のことですけど、内場君と漫才せえと、男女漫才が欲しいからと言われたことがあるんです。私は、漫才をやってから新喜劇に入って、漫才がしんどいのもわかっているので、「漫才には戻らないし、出番がないとしても、新喜劇がしたいです」と新喜劇に残りました。二丁目から来たメンバー、今田(耕司)、東野(幸治)、130Rとか、もっと下のメンバーと一緒に基礎練みたいなのをさせられたりとか。発声をやったり、体操をやったり、いろんなことやらされましたね。メッチャ嫌でしたけど。何で今頃やるねん、こんなこと、と。今田君とかはやってないのに、なんで今田君より先輩の私がこんなことせなアカンの?と。それでも「残りたい」という気持ちだけでやってました。

―役柄は?

マドンナ的なことはその頃からちょこちょこやってましたね。その時、あき恵姉さんとかも辞められてましたし。中山美保さん、末成由美さんと私までの間がごそっと空いてるんですよ。で、私の下が新喜劇の中でいなくて、珠代ちゃんくらいかな? 珠代ちゃんが二枚目ではないので…(笑) 必然的、年齢的にも私になってくるということで。その頃はパンパンに太ってましたけど。アハハハ。そのあと、座長が内場君、辻本君、石田君になった時(99年)にも、年齢的に合うのが私やったわけです。

―結婚、出産を経て、07年からは年1回、女座長公演をされています。

子どもが出来た時は1年ほど舞台をお休みさせていただきました。15年くらい前でしたか、会社から「座長にならないか?」というお話をいただいてたんです。でもその時は結婚もしていましたし、まだ子どもが小さい頃でしたし、変な話、内場君も座長で、家の中に座長が2人もおったら、ややこしいじゃないですか。それに内場君の姿を見てたら、ものすごい大変やのもわかるし、違うところで神経を使っているのもわかりますし、2人でそうなってしまうのは、私の中では違うな、と思っていたので、お断りしてたんです。「やめよッカナ?キャンペーン」の後で、新喜劇の流れの中でちょっと違う刺激が欲しい、という時に、そういうお話をいただいてお断りして、それやったら期間限定で年に1回だけ、自分にも勉強になるし、「やってみませんか?」とお話をいただいたのが、座長公演のきっかけですね。年に1回、1週間だけやらせてもらっています。
(もし、内場さんが座長を辞められたら…?)
いや、いや、いや、ならないです、ならないです。そんな大変な。毎月1回とかはもう。1年に1回でも大変やのに。

―ご自身を虜にした新喜劇の魅力とは何ですか?

魅力ですか?(ちょっと考えて…)私の中では「サザエさん」みたいな感じで、舞台の役の中におじいちゃん、おばあちゃんがいて、お父さん、お母さんがいて、子どもたちがいて、近所の人がいて、いろんな事件が起きていく。そんな生活に近い状態の面白さというのが、すごい魅力的なんじゃないかなと思ってます。現実から離れたもの(舞台設定)もあったりするんですけど、どの世代から見ても楽しく、家族で見ていて話が出来るというのが、魅力かなあと思ってますし、新喜劇のメンバー自体も楽屋もそんな感じなんですよね。生活の中でのほんわかした楽しい時間が作れると思うので、新喜劇がいややな~と思う人はそんないないと思うんです。見てくださる方が笑顔になる、楽しい時間を過ごせるのがいいところだと思います。

プロフィール

1963年8月7日大阪府東大阪市出身。 

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