第46回 中條健一

途中でアゴが外れたこともあります。生の舞台ですからね。


―お笑いを目指されていたんですか?

全然そんな気はなくて。関西大学に入って落研に入ったんですけど、プロの世界へとは、思ってなかったんです。中学・高校とラジオで、鶴瓶さんの番組や「ヤングタウン」(MBS)を聞いてて、鶴瓶さんが落研出身の方なので、面白いところやろなと思って入ったんです。別に落語に興味があったわけでもなく。入ったら、まあ、真面目な落研でした。関大はちゃんとした文化研究会だったので、厳しかったですね。1年の時に合宿に当時の三枝(文枝)さんも来はって、僕ら「三枝や~」しかなかったですね。それが、2年になってから、よく食事とか誘っていただいたんですよ。同期が10人くらいいて、そのうちの男3人くらいかな。当時は携帯なんてないですからね。学生課経由の電話で誘っていただいて。当時のうちの師匠(文枝)、今の僕らより若いですよ。40代のバリバリの頃です。僕らみたいな(学生)と、コンパみたいなんがしたい、と、劇団の人や宝塚の人を集めた食事会にいかしていただきましたね。ま、面白い人ですから、やっぱり盛り上がるし、そういう世界もいいなあ、と思ったんですけど…。

―文枝さんとの出会いがきっかけに?

何がきっかけやったかというと、落研やってて、人前で落語をするようになって、たまにはウケるから、そこからでしょうね。大学の授業に全く行ってなくて…(笑)。2年の時に、「4年では卒業できませんよ」と言われて。
(あら!?)
その頃はもう、家を飛び出して、ひとり暮らししたり、連れと住んでたんです。「(卒業)出来ないのなら、やめますわ」と言ったら、大学から、辞めるより休む制度がある、「休学したら」というんで、3年生になった時から休んだんです。1年間は、先輩が働いてる某広告代理店でアルバイトさせてもろてて、そのうちに、「あ、やっぱり(芸人を)やりたいかな」と思ったんです。4年生になる時に、(文枝に)付きました。落語も興味ないし、でもあの人しかおらんやろし。で、「僕は弟子になったほうがいいんでしょうか? やりたいんですけど」と相談したら、「落語は今からせんでもええ」と。はっきり言われましたからね。ちょうど、2丁目劇場とかがオープンした頃で「そこでピンでやったらええがな」と口利いていただいて、(この世界に)入ったんです。入ったという意識はなかったですけど…。

―デビューのきっかけを作られたのが、文枝師匠だったんですね。

それが昭和62年(1987年)です。11月に「なんばグランド花月」(NGK)がオープンした時、劇場にジャンボトロン(大モニター画面)というのがありまして、画期的な劇場やということで、ほとんどの人が覚えてらっしゃいませんけど、それを使ってお客さんにクイズを出す司会を、最初、僕がやったんですよ。
(へえ~~)
うちの師匠より先に、NGKの舞台に僕が立ってたんです。タレントさんの顔を何か所か隠して、「さて誰でしょう?」みたいな簡単なクイズを10分か15分くらいやってたんです。まだ、なんば花月もあり、うめだ花月もあって、こっちはあんまり入ってなかったですね。その当時は新喜劇もなかったし、お客さんは300人くらいですね。NGKの最初は、漫才さん落語家さんが1本、新喜劇のところで引田天功ショーかナポレオンズショーとか、夜はアメリカンバラエティーで、ここは寄席みたいにはしない、という方針でした。そのクイズの司会に、大学の休学中に出てましたから、大学時代にデビューと言われれば、そうですね。
(2丁目劇場の頃は?)
ピンで出てましたけど、それも4月から出て半年くらい、1週間に1回出るか出ないかで。ノーギャラでしたしね。大半、ノーギャラでしたよ。ホンマの若手は。

―当時の思い出とかありますか?

NGKの初めての正月公演は、うちの師匠とやすしきよしさんで、超満員になるだろうと。クイズはしない、となって、師匠についてたらええわ、と思っていたんです。今はもう亡くなられましたが、民謡歌手の岸千恵子さんという方がいて、63年には紅白にも出るんですが、京極社中と一緒にコラボで出る、と。その司会を今の染丸師匠(当時の染二)がやるけど、出られない時があるので、代役をやらせていただくことになりました。でも覚えてることをしゃべってしもたら、時間が足れへん。舞台袖から一生懸命、手で「伸ばせ」と合図されても意味がわからない。「伸ばしてくれ」「あ、伸ばすんや」と。それで、三枝さんのエピソードとか話し出したら、だんだんウケてきて、ずーっと喋っていたら、今度は「巻け!」という合図。それもわからなくて、何の合図かな、もっといけるのにと思ってたら、「はよ下がれ!」となって、結局、20分くらい押したんです。もう、めっちゃ怒ってるんですよ。会長(林 正之助)さんとか、やすしさんとかが。「時間どおりに来たのに」と。会長は誰に怒っていいのかわからないから、支配人に「誰や? あの司会! 染二やったやろ! 呼び戻せ!」と詰め寄ってました。そしたら、うちの師匠が、やすしさんに「時間どおりに来るのは当然やからな。まあ、ええがな、正月やねんから」と、全然、怒らないんですよ。その後、シュンとしてたら、「言うても1000人しか見てへんから。俺は何千万人見てるとこに出てるからな。まあ1000人しか見てへんと思っとけ」と、腹の中では怒ってたかもしれませんけど、全然怒らなかったのが印象に残ってます。

―新喜劇に入られたのは?

春に司会を変わることになって、自信もないし、やめようと思いました。大学に戻って卒業しようと。事務所にはいましたけど。その時に、三枝さんの維新塾という、落語以外の弟子の塾が出来ましたから、たまに2丁目劇場を借りて、コントやお芝居をやったり。5年、6年、7年とそんなことをしながら大学を卒業して。卒業する時に、新喜劇の「やめよッカナ?キャンペーン」が終わって、今田(耕司)さん、東野(幸治)さん、ほんこんさんらが東京へ行くとなって、オーディションがあったんです。そこに僕も呼ばれて、(新喜劇に)入ったんです。今みたいなちゃんとしたオーディションじゃなく、行ったら「あ~君や」って。浪漫亭ろみおという名前で出てたから、「あ、ろみお君やろ? ちょっと立って~な。背高かったな。めだかさんと絡めるな。はい、じゃ、来週から」みたいな。そんだけかい! と。92年の春ですね。

―初舞台とか覚えていらっしゃいますか?

覚えてますよ。僕と大山英雄と川畑泰史と3人でうどん屋の客でしたね。うどん屋の大将がめだかさんで、僕と大山で挟んで、頭の上で誰がお金払うとかでモメて(笑)、お客さんもああ背高いなあ、オモロイな~って感じで。それはよう覚えてますね。続けて2週目が学生寮の話で、大山と一緒のオープニングで、僕がキザな学生に扮して、ハケ際に「炊飯器」「じゃあ」とやりましたからね。
(えっ? そんなに古いギャグなんですね!)
覚えてらっしゃいます? キザやのにズボンのチャック開いてるとか、ベタなことやってて。石田(靖)君がおって、「中條さん、ハケ際に何かやったらええやん」と言われて、「試してみるわ」と最初にやったんです。あれが一番ウケましたね。間もへったくれもないけど、何も考えんとやったのが一番ウケるんですよ。そうです、2週目にやったんです。そっから3か月くらい何も(出番)なかったですけどね(笑)。

―しばらくはオープニングに?

僕の記憶では、オープニングはその2週しかやったことないです。
(え!? そうなんですか?)
今の若い子ら、達者やなと思いますもん。ちょっと休みがあったけど、(演出の)湊さんがタッパ(背丈)があって、ヤクザ役とか悪役がいけそうやと。「まゆ毛、消せる?」と言われて、剃らなあかんかと思ったら、「剃らんでいい。消すやつあるから」と。最初に消して、出た役が、ほんまのエンディングですね。桑原師匠が病院の入院患者で、いろんな人が相部屋にやって来て、むちゃくちゃになって。最後に「すみません、急患です」というて、「もう誰でもええわ」という時に、僕がガラガラと運ばれてきて、むくっと起き上がって、「よろしく」「いやや~」だけ。一番最初はそれだけでした。トチることはなかったですけどね(笑)。

―あの緑の人になられたのは?

よう聞かれるんですよ、それ。ふふふ。
(吉田ヒロさんが関わってるとか?)
ヒロ君が、僕らが入るときに一度抜けてるですが、何年かたって戻って来て、「久しぶりや」と。5年くらい先輩なんですけど、年は2つ下で。あの年代の人らって、芸歴とかようわかれへんから、ヒロ君とはどっちもタメ口なんですよ。最初の時はオールバックでしたから、「中(ちゅう)ちゃん、もうちょっとリーゼントにしたらええやん」「どうやって?」「やったるわ。中ちゃんの髪質は立つねん。俺のは立てへんけど」と、やってくれて、「もうちょっといけるんちゃうの? ちょっと伸ばしとくわ」。で、髪をどんどんどんどん立てて。その頃は黒のスーツやらいろんな色のスーツ着てました。緑は着たことがなかったんです。紫色のスーツの時に、ヒロ君が「アスパラガスや!」と言うたんです。「なんでや! 色もなにも違うわ!」「シルエットが…」で、ウケたんですよ。「アスパラガス」っていう言葉が面白いんでしょうね。そんなら、スーツを緑にしてもろたらどうやろ? と。ヒロ君の座長の時でしたね。最初はスーツだけでした。で、大槻(衣装)さんが「緑に出来るよ」と、シャツや靴下を用意してくれて。最初は靴は緑色に塗ってたんですよ。ひび割れてくるから、持道具さんが、緑のカバンをバラして作ってくれたんですよ。徐々に徐々に出来上がってきたんです。僕が揃えたわけでもなく。ええんちゃう? ええんちゃう? で、いつのまにか。
(いつ頃完成したんですか?)
さかのぼっていかなわかりませんけど、15年くらい前になると思います。

―トレードマークですが、ご自身で変えてみようとかは?

これはこれでとは、常に思ってます。年齢も年齢やし。お父さん役とかさせてもらいますからね。それはそれでちゃんとしとかんと。ちゃんと芝居できて、社長の役とかもちゃんと出来た方が。ま、緑はいいんですけど、新喜劇見てて、「誰やねん?」と思われてたら、嫌じゃないですか。それに対しては、自分でプレッシャーかけていかなアカンな、と思ってますね。
(ほかにやりたいこととかは?)
嫁さん(秋田久美子)が一緒の座員ですから、夫婦で何かした方が面白いだろうとは思ってます。漫才やるというと、また問題あるかもしれないですか、今、普通に一緒に出るということもないですからね。

―24年間やって来られて、印象に残っている舞台とかは?

印象に残っているのは、初舞台かなあ。1回小籔の時に、スーツが緑から黄色になって、赤になるという、だんだん紅葉していったこともあります。あと、アゴ外れたということがありましたね。
(アゴ外れた!?)
親知らずを1か月の間に一気に4本抜いたことがあるんです。筋肉が落ちると、あくびしたら、戻し方がわからない時があるんですよ。2000年くらいやと思いますが、僕が兄貴分で烏川とヤクザ役で、一旦ハケた時に、舞台袖であくびして、アゴ外れたんです。戻らなくて、「何してますの? 兄さん」と聞かれたんで、筆談で、「アゴ外れたから後半のセリフしゃべってくれ」と書いたら、「え~ウソでしょ、兄さん!」。ちょうどウエスタンの恰好をしていたので、スカーフで口元隠して。さっきと違うじゃないですか。「後ろの奴、どないしたんや?」と。舞台上でネタになりましたね。楽屋ニュースにもなりました。まあまあ舞台上でアクシデントやってるんですよ。青野さんに殴られて、鼻血出るとかね。
(普通は当てないじゃないですか?)
当てたんですよ、あの人。ごっつい手してるから。小指くらいが鼻にバーンってなって。芝居止まりました。そのあとティッシュ詰めたままで芝居続けなあかん(笑)。
(そうですよね~続けなあきませんもんね)
ほかにも石田に顔面蹴られたり。力が強いんで、舞台上で倒れて、脳震とうですよ。ずっと照明見ながら起きられへん。
(大変ですね~)
生の舞台ですからね、何かと起こります。ガラスのテーブル毎日蹴ってて、
テレビ収録の時、たまたまバーンって蹴ったら、ガラスが落ちて割れたんです。「あ~あ、知らんで。これ高いで~弁償せなあかんで」って。(テレビは)あんなん好きですよね。そこはカットしない。その前の川畑さんのシーンがほぼカットされて、「兄さん!」って怒られました。次の回からちゃっちいテーブルに変わってましたわ。

―これまで、やめようかなと思われたことは?

それはあんまりないですね。常にミーハーでおるからかも知れないです。新喜劇におって、知られることで、いろんな人と出会えるのも楽と言えば楽やし。ある意味プレッシャーですけど。
(ミーハーというのは?)
この世界に入るのも、「あ、三枝や」から入ったし、入って色んなところ連れて行ってもらったし、新婚旅行なんてイチロー選手の招待ですからね。
(ええっ!? ホンマですか!?)
若い頃にあの人が出てきて、200本打った時に、僕の大学の3つ上の先輩が、まだ球団を買う前のオリエントリースに入社してて、本社から球団に出向して、広報でベンチにおったんですよ。何かで連絡つけた時に、「会えます?」みたいな感じで。(イチローは)名古屋の人やから、「新喜劇見たことありますよ」と。そっから劇場にも来はるし、川畑とも一緒に練習に行ったり。
(ずい分前からのお付き合いですね)
地震の翌年、96年ですかね。僕も出身は神戸やし。その辺からの付き合いで、ずっと。嫁さんと婚約した時に、思いっきり新聞に名前が出たんです。「イチローがキューピット」って。僕のことを嫁さんが大嫌いやったのに、まあ冗談で「イチローさんに合わせてもらえるから」と言うたのが、記事になって。発表したのが、2009年の10月の終わり頃。周りの人には全部言うてたんですが、本人(イチロー)にだけは後から言うたらええかなと思ってたら、たまたま日本に帰ってきてて、「『おはよう朝日』(ABC)見てたら、僕の名前がバンバン出てくる。中條さん、結婚、なんで僕に言わないの?」とメールが来て。嫁さんとあいさつに行ったら、嫁さんが「新婚旅行、アメリカ行きたいです」言い出して、「来てくださいよ」って。
(すごいですね~それは、ミーハーにもなりますね)
さかのぼると、関大に入ってなかったら、落研に入ってなかったら…。
(落研の先輩がオリエントリースに入ってなかったら、球団を買収してなかったら…)
そう、そう、そう、そうなってくるんですよ。1年違ってたら…と。
(運命的なものを感じますね)

―そんな中條さんが最近ハマっていることは?

今ですか? 今は息子中心の生活になってますね。趣味が掃除・洗濯やったのが…。完全に妥協ですね。掃除は。なんぼきれいにしても無理です。
(きれい好き?)
でした。もう、無理です。4歳の息子に振り回されてるというか…。はっきり言うて、今、楽天のコーチで古久保(健二)っていうのが、僕と同い年で4歳の孫がおるんです。僕、息子やで。おじいちゃんの感覚でもあるんです。甘いですね。息子が野球をやるといえば、あらゆるコネを使ってやりたいと思います。ふふふ。

2016年4月4日談

プロフィール
1965年3月17日 兵庫県生まれ。1987年4月 入門桂三枝。