MBS(毎日放送)

第101回 千葉公平

大阪に骨を埋(うず)める気持ちで移住しました。

―「ギンナナ」解散後、新喜劇入団を機に改名されました。

そうですね、心機一転、大阪で新しくスタートをするために、東京にいろんなものを捨てて来たというか、その軽いノリで、名前も捨てちゃおう、と。
(軽いノリですか!?(笑))
あははは~ノリですね(笑)。 で、それをマネージャーさんに言ったら、「いいですね」ってなって、せっかくだからお世話になってる寛平師匠につけてもらおうとお願いしたら、「ええで」と。最初、「お前出身どこや?」と聞かれて、「千葉です」と答えたら、「じゃ、千葉真一やな」と(笑)。次に「千葉平々(ちばぺっぺい)」というのをもらったんです。
(え!?ぺっぺー?)
「どうや?ぺっぺー」って(笑)。響きもかわいいし、僕は好きだったんですが、会社の方で、役を演じるにあたり、「ぺっぺー」はポップ過ぎると。僕からしたら「レイチェル」とか名前の変わった子もいるのにな~と思いながら、「NGが出ました」と言ったら、「考えとくわ」と。何日か後、夜中の1時くらいに電話がかかって来て。奥さんと楽しそうにお酒を飲みながら、2人でいろいろ考えてくれたみたいで。その中に「千葉公平」があったんです。親からもらった名前の公信から1字残して、寛平の平をやるから、「公平」と。いろんな先輩にその話をすると「寛平の寛の方が欲しいやろ? なんで平くれたん?」って言うんですけど、僕は平で全然うれしかったです。
(シュッとしたいい名前ですよね。)
発表してから、同姓同名の伝説的なサーファーの方がいることがわかって、その方には本当に申し訳ないと思ってます。ま、お笑いのレジェンドに付けてもらった名前が、サーファーのレジェンドだったというのが、僕はいいなと思って。波に乗って行きたいな~と思ってます。

―NSC東京2期生ですが、お笑いをやるきっかけは?

なんでしょうね~お笑いは好きだったですが。あ、勉強があんまりっていうのはありますね(笑)。みんなが進学する中、調理師の専門学校へ行ったんです。親が共働きで、土曜日とか学校から帰って来たら自分で料理とかしてて、料理も嫌いじゃなかったんで。そこで、最初の相方の「Mr.都市伝説 関暁夫」君と出会って、意気投合してお笑いやろうか、と。
(じゃあ、最初は料理人を目指して?)
せっかく行くなら資格を取れる学校へ行こうと。関君は実家が寿司屋さんでしたし。2人とも若かったし、取りあえず行っておこうと。
(いつお笑いに方向転換?)
学校に調理準備室という食材とかが置いてある部屋があって、ほかのクラスで豚の丸焼きをやるというので、1頭豚がきっちりパッケージされて準備されてたんです。その豚の口が開いてたので、関が豚の歯を見ながら、「Cの1、Cの13」とか、歯医者さんをやりだして、僕がメモを取るみたいなミニコントが始まって…。
(歯医者さんごっこですね)
それで2人でケラケラ笑ってて。そんなことが増えて、最終的に関が「お笑いやるか?」って言ってきて、「お、やるか!」っていう感じで話がまとまって。卒業してからそっちで動き出そうか、みたいな話になりました。

―NSCで、お笑いをやり始めていかがでしたか?

最初は人前で何かやるというのは恥ずかしすぎて…。最初の授業で、もともとダウンタウンのマネージャーをやっていたという校長さんが「今から名前呼ぶ奴、立て」と、けっこうな人数呼ばれて。僕も関も呼ばれなくて、立ってた方がいいんだろうなと思ってたら、「今、名前呼ばれた奴、居ても居なくてもどっちでもいいから」みたいなこと言われて、「うわ、怖っ!」って。
(ふふふ。NSCらしいですね(笑))
そうなんですよ。最初はスパルタでしたね。人前でなにかやる時も、他の同期の子はとんがってるから、全然笑ってくれなかったりで、すごい緊張したのを覚えてます。
(1996年に関さんと最初の漫才コンビ「ハローバイバイ」を結成)
最初はいい調子でしたね。スタートダッシュはありました。在学中、生徒たちの漫才コンテストで優勝したり。卒業してすぐ、銀座に7丁目劇場があったんですが、ここで1分、2分、3分と異なる時間でネタを披露して、獲得点数で勝ち上がるオーディション形式のライブがあって、3分ネタで10回勝ち進んだら、黒い服から私服になれるっていうのがあったんですが、3回くらい勝ち進んだあたりで支配人から「お前ら、もう私服でいいから」と言われて、「やったね!」なんて言いながら…。
(すごい! 優秀!)

―約14年続いた「ハローバイバイ」が2009年12月に解散しました。

ま、方向性の違いみたいな感じですよね。関君は、すごいなと思うんです。「都市伝説」という芸人以外の動きを始めて。一番早かったんじゃないですか? その頃ほかにそういうことをしてる芸人はいなかったし。僕は「都市伝説」というものに、あまり興味がなかった。1度、「都市伝説トークライブ」に呼んでくれて、最後の30分、ゲストとして出してくれたんです。その時、「いろんな電化製品の中で、電子レンジだけ小型化出来ないんですよ」と振られて、「そんな小さい電子レンジあっても、お弁当温められないじゃん」と言ったら、バーッとウケちゃって。終わってから楽屋に帰った時に、「ああいうの、やめてくれる? 世界観があるから」って言われて、「ごめん、ごめん」って。
(笑いはいらなかったんですね)
思ったことを言っただけなんですけどね。その頃から、ちょっとベクトルが違うなっていう感じはありました。ほぼネタは関が書いてたので、きっといろいろ溜まってたんでしょうね。次のコンビの「ギンナナ」になってからはほぼ僕がいろいろネタを書いてたんですけど。僕もネタを書きたかったんでしょうね。きっとね。「ハローバイバイ」の後半では「お前も書けよ」と言われて書いたら、「面白くないわ」みたいな感じの時期も続いてたし。

―2010年「ギンナナ」結成ですが、新喜劇との遭遇はいつ頃?

10年くらい前ですか、「ギンナナ」を組んでからちょっとして、石田靖さんの東京のスペシャルコントや、たまに地方の新喜劇公演にも呼んでいただいて。遭遇はそこですね。新喜劇に自分たちが出るようになって、面白いな、と思い始めて。デカかったのは間寛平師匠ですね。石田さんが呼んでくれた新喜劇で、寛平師匠とめだか師匠のお2人のくだりだけで25分くらいあって。寛平師匠のおじいさんがモモヒキの中にまわりにある物を全部入れていくんですよ。
(そう、そう(笑))
東京の僕らはそんなに見たことがなくて。それをやり続けて、ずっとウケ続けてて。「なんだ!? このバケモノ2人は?」と思ったのを覚えてます。あれは衝撃を受けました。
(その後、寛平師匠とお芝居で絡む機会も?)
東京グランド花月に寛平師匠がいらして、僕がチンピラで寛平師匠がうどん屋さんの屋台の前に住んでるおじいさん役で。僕が「誰々いますか?」って聞いても、なかなか教えてくれない、それだけで10分か15分。作り方がね、半分アドリブの感じなんです。それがすごくウケて。舞台上で達人と一緒に試合させてもらってるみたいで、僕自身、すごい楽しかったんですよ。そんなバケモノを生んだ新喜劇って何なんだろうと、YouTubeで見始めて、大阪の本場の新喜劇に興味が沸きはじめたんです。その時、40歳越えたくらいだったんですが、おじさんになって、こんなにわくわくするんだ、って思ったし。この人の原点はなんだろう、というのにも興味が沸きました。僕は土曜のお昼に「よしもと新喜劇」をテレビで見て育ってないので、もっと知りたいなあ、と。

―その頃から、頭の中では大阪で新喜劇をやりたいと?

そうですね、やっぱり石田さんにも寛平師匠にもお世話になってたし。新喜劇ではないですが、村上ショージさんにもお世話になってたし(※即席コンビ「なりきんショージ」でM-1グランプリ2009出場)。大阪の先輩に縁があって、もっと学びたいというのはありました。
(いつ頃から本格的に考えるように?)
「ギンナナ」の相方は菊池健一っていうんですけど、ほんとに面白い男でした。4年前くらいに、「ギンナナ」この先どうする? という話し合いをした時に、菊池に2人で大阪の新喜劇の門を叩かないか? と言ったことが1回あるんです。そのちょっと前に、菊池が「ハワイへ行きたい。一緒に行こう」っていう話をしてきたんですよ。「ハワイで何するの?」と、何回聞いても「何らかのビジネスチャンスはあると思う」って、はっきりしなくて。「それ、怖すぎるわ」と思って。プラス、「それってお笑いなの?」というところに僕は引っ掛かり…。そのうち「お笑いじゃない」と言い始めて、だったら俺は無理かな、と。その時はそのままになったんですが、3年後にまた「ハワイへ行きたい」と。それからですね、独りになって、いろいろと考える機会が増えて。その中で新喜劇が出てきて。でも、もう43、4歳だし、そんなこと無理、無理と。怖すぎて、誰にも言えずにいました。

―決心を固められたきっかけは?

吉本興業と芸人の契約がいろいろ話題になった時、自分は続けるなら、いくつになっても売れたいと思ったんです。思考がクリアになって、売れるためにはどうする? 誰もやってないことをやろう、それと「大阪の新喜劇に行く」という頭の中にあったことがリンクして、そういう関東人はこれまでいないなと、現実味を帯びて来て。そんな時、野性爆弾のくっきー!さんと喫煙所で一緒になったんです。僕は趣味で盆栽をやってて、インスタグラムに載せてるんですけど、それを見てくれてて、「これ、おもろいやん。盆栽やってる芸人なんていないし。古民家に住んで、盆栽の配信やれや。大阪の古民家安いで! お前、大阪行けや!」って言われて。僕はドキッとして「なんだこの人!?」と、心を読まれたみたいでビックリしすぎて。そこで初めて、「ほんとに大阪へ行こうと思ってるんですよ」と言ったら、「お、新喜劇か? おもろいから、行け!」って、その場で小籔さんに聞いたるわと、LINEし始めて。僕は、まだ完全に決めたわけじゃないし、と止めたら、いつもあんなふざけてる人が、スゲエ真面目な顔で、「ええねん、そんなもん。思ったらすぐ動け」って、ものすごい男前の顔してたんですよ。その後、小籔さんとも話させてもらって。小籔さんは決して甘くはなくて、ちゃんと厳しく「お前の年齢のこともあるし、そんな甘いもんちゃうし。ちゃんと気持ちがあるなら、骨を埋める気でおいで」と言ってくれて。「移住するつもりです」と話させてもらいました。

―大阪への決心はくっきー!さん、小籔さんの存在が大きかったんですね。

あと、宮川大輔さんも、すごく好きな先輩で、昔から一緒に仕事させていただいてて、タイミングよく会うんです。「大阪へ行きます」とあいさつしたら、「めちゃくちゃええやん」と言ってすごく応援してくれて。誕生日会にも呼んでもらって、今もLINEとかで連絡してます。
(2019年12月、「ギンナナ」が解散します)
実は、大阪に来る前に東京の家を解約して、1か月間実家で過ごしたんですが、それがよくなかった。両親との時間がとてもいとおしくなっちゃって。すごく小さくなっていくじゃないですか、両親って。僕はほんと実家に帰ってなかったんで、母ちゃんの飯とか、東京で残った仕事に行く時に父親が駅まで車で送ってくれたりとか。ひとつひとつが沁みちゃいまして。千葉から大阪へ行く日に、両親が留守の間に出ちゃおうと思って、荷物持って実家のドアを開けようとしたら、親との生活が頭に浮かんできて、全然開けれなくて。40分くらいドアノブ持ったまま、涙が出て来て泣いちゃって。涙が止まってから、ドアを開けて、もう泣かないぞと思ったんですけど、新幹線の中で大輔さんから長文のメールが来て、それ読んでまた泣いちゃったんです。
(涙の大阪移住だったんですね)

―2020年1月、新喜劇に入団されました。

こっちへ来て1か月半、不安でした。こんな東京から来た変なおじさんに仕事が入るんだろうか、とかいろいろ考えて。あいさつ回りとかめちゃめちゃ緊張しました。「誰やねん?」と思う方もいらしたと思うんで。座長さんとの面識もほぼ無かったですね。関東芸人はみんな最初、関西ってやっぱりお笑いの街だ、と思うんですよ。コンビの時に初めて大阪の舞台に出た時も、ものすごい緊張したんです。認めてもらえるのかな、とか。そういう緊張もありつつ、気合も入ってるし…。ようやく2月25日に祇園花月で初舞台になりました。
(中條健一さんとヤクザ役でした)
祇園花月の最初の舞台はちょっと滑ったと思うんですよ。
(スベった!?)
はい、芸歴20何年目に、ちゃんとスベって(笑)。
(ははは~(笑))
それが自分の中では刺激的で。20何年やって来て、どうやったらウケるかとか自分でわかっている芸歴じゃないですか。それがちゃんとスベるって。刺激的で、気合入るし、また頑張ろうと思えたし。プラスやっぱり、川畑さんや中條さんが助けてくれたり。もちろんコンビはお互い助け合うんですけど、いろんな方向からいろんな人が助けてくれるというのは新喜劇ならではだな、やっぱりチーム制なんだなというのは感じましたね。

―その後、3月のNGKの舞台も決まっていたのに劇場が閉館に。

初舞台に立ったと思ったら、自粛になっちゃって…。でも、僕の中ではプラスに考えて、デビューは出来たからギリギリセーフ、と思って。それでもNGKの舞台がなくなって不安な時に、大輔さんがほんとにいいタイミングでLINEをくれるんですよ。「今は不安かもしれないけど、お前だったら大丈夫だから」って。すごい感謝してますね。
(再開後は、観客数の制限やマスクで劇場の雰囲気が変わりました)
そうですね。確かに自分が生きてる間にこんな状況になるとは思ってなかったんで。ただ、千葉公平に関しては不幸中の幸いですけど、こんな状況の中だけど、再スタートまっしぐらの時期だったので、お客さんが少ないだとか、コロナがどうだとか、それほど気にならずに目の前の舞台に集中しよう、一生懸命やろうという精神状態でした。

―舞台に出られるたび、「勉強になる」と思われるところとは?

オープニングでのくだりは、東京でやったことなかったんです。東京の舞台では芸歴も重ねてたんで、最初からある程度出番があったし、説明ゼリフとか任されちゃって、セリフ量が多かったんですよ。こっちへ来て、オープニングの3~4分でどう盛り上げようか考えるのは刺激的で、そこに使っていただいたのがありがたかったですね。
(お客さんを温める意味でも、オープニングは重要ですね。)
重要ですよ。すごい勉強になりました。ひとボケ、ふたボケの中で、収録に向けて、みんなボケ変えたり、言い回しを変えたりしてるのを見て、ここで鍛えあってるんだな、というのがわかったのも勉強になったし。
(印象に残ってる舞台とかありますか?)
最近の川畑座長週で、初めて吉田裕君と松浦君と3人のアマチュアバンドの役をやらせてもらったんですけど。今までよりはストーリーに絡む役で。松浦君のギターに合わせてボケたりもさせてもらって、それが単純に楽しかったし、面白かったですね。いい経験させてもらったなと思ってます。

―漫才コンビではツッコミでしたが、新喜劇ではボケですか?

どっちかなあ? 出番の多い座長週の川畑さんが回しでツッコミなので、ボケとして使ってもらうことが多いっていう状況なんですけど。僕はどっちをやりたいとか言った訳じゃなく、与えられたことをとにかく全力でやってるだけで。台本上、とてもシンプルなボケだとしても、小籔さんとか川畑さんとかに「ここどうやったらウケますか?」って、僕バカみたいに聞いちゃうんですよ。皆さん、ちゃんとそのキャラクターやストーリーを考えて、お芝居についてしっかり教えてくれて、その通りにやったらウケるようになったりして、「すごい!」って。この歳でうわ~っとなるんですけど…。今、何の質問でしたっけ?
(あ、ボケとツッコミ、どっちが?っていう…)
あ、そうか。今はボケの勉強になってますが、何回か、部分的にヤクザ役でツッコミをやらせてもらった時は、単純に楽しかったですね。あ、やっぱりツッコミ好きなんだなあってその時思いました。

―この先、どんなことをやりたいですか?

こっちの新喜劇の一番好きなところは、ストーリーの中にちゃんと人情が入ってる、そこがすごい好きなんです。うどん屋さんとか旅館、老舗が舞台で。大阪の皆さんは見慣れてるかもしれないけど、東京にはそんなお笑いのお芝居があんまりないので、すごい新鮮です。いつか東京の江戸っ子がやるそば屋みたいな新喜劇がやれたらいいな、と。東京の人情も織り交ぜながら。
(あ~なるほど。東京の下町の人情みたいな)
そこは僕、似てると思うんですよ。大阪は人がすごく優しいなというのがこっちに来て感じたひとつなんです。東京ってやっぱりちょっとクールというか、東京出身の人が少なくて、いろんなところから集まって来てるから、あんまり人に関心がないみたいに言われますけど、東京の浅草や下町の人たちって、意外と大阪の人たちと同じような人情のある人たちなんで。そことなんか混ぜ合わせられたらいいなと思います、いつか。
(舞台では関西弁じゃないですよね)
「関西弁をしゃべれ」とか言われなかったので、関東弁のままやっちゃってますね。今後、新喜劇が盛り上がるためにいろんな人が来てくれたら嬉しいなと思うんです。その手始めじゃないですけど、関東弁がいてもいいなと思ってます。
(舞台での千葉さんは違和感ないです)
あ、ほんとですか? メチャクチャうれしいです。もしかしたら、普通に大阪弁の役が来たら、やるかも知れないです。大阪弁の長ゼリフはちょっと想像できないですけど(笑)。ボケで「大阪弁がヘタクソ」というのは何回かありましたけど。どうなっていくのか、自分でも楽しみです。
(ご活躍を期待してます!)

―ところで、趣味は盆栽ですか?

盆栽ですね~。
(いつ頃から?)
5年くらい前ですかね。僕が持ってる盆栽はいろんなところで買ったりとかしてるんですけど、一から種を植えたり苗を植えたりしてると、自分の生きてる間には完成なんてしないんですよ。
(へえ~そういうもんなんですね)
例えば樹齢100年とかいう盆栽は、いろんな人のところを渡り歩いてる。苗を植えてる盆栽屋さんもいるんですが、その人たちは先代や先々代が植えた苗を売って生計を立ててる。その人が植えたのをまた子供や孫が受け継ぐわけで。そういうとこが千葉はけっこう好きで。僕の持ってる盆栽たちもきっと誰かの手に渡って行くんだろうかとか。生きてるうちに完成しないっていうのが魅力ですね。新喜劇もきっとそんな感じなのかな、と。
(なんかすごい、通じるものを感じました)
そうなんですよ。ジジイになったら絶対やろうと思ってたんですけど。始めちゃいました(笑)
(千葉さんの大阪生活は、YouTubeチャンネル「西成ハウス」でご覧ください)

2021年3月9日談

プロフィール

1975年10月24日千葉県出身。

SHARE
Twitter
Facebook