第102回 ボンざわーるど

新喜劇って、毎日毎日芸人が闘える場所なんですね。


―芸人になろうと思われたのはいつ頃ですか?

僕、今41歳なんですけど、決意したのは18歳の高校生の時ですね。大阪の阿倍野出身で、小学校、中学校、高校の文化祭とか修学旅行でずっと漫才をやってたんです。高校生の時に修学旅行でやった漫才を教頭先生が見てて、「吉本行けよ!」って。
(あははは~大阪あるあるですね~(笑))
でも僕、もともと警察官になりたかったんですよ。
(え~っ!? 全然違う(笑))
そうなんです。警察官になりたくて、高校3年の秋に公務員試験を受けたんですけど、落ちちゃいまして。そこで悩んでて、たまたまパソコンで姓名判断を見たら、向いてる職業に「コメディアン」とあって。その時に、教頭先生の言葉を思い出して、「あれ? 僕に向いてるのかな?」と。そこから、吉本の願書を取りに行ってすぐ送って、NSCに受かって、そのまま入っちゃいましたね。だからきっかけは姓名判断なんですが、自分が小学校の頃から漫才をやってて「好きやな」と思ってたのがリンクして・・・インスピレーションですね。
(警察官志望からお笑いって、家族の方は?)
びっくりはしてましたけど、そういうのが好きやというのは知ってたし。僕は3男で末っ子なんで、すごい自由にさせてもらってて、したいことをすればいいって、行かせてくれましたね。

―当時、憧れの芸人さんは?

小学校の頃はトミーズさん。ダウンタウン世代なんで、高校生の時に2丁目劇場も観に行ってました。なだぎ武さんがやってたスミス夫人さんがメチャクチャ好きで、なだぎさんが憧れでしたね。単独ライブとかを1人で観に行ってました。当時、大阪の「すんげー!ベスト10」(ABC)とか2丁目芸人のテレビ番組に出てて、NSC入ってからもなだぎさんみたいな面白いお兄さんになりたいっていうのがありましたね。

―NSCに入られていかがでしたか?

僕はもともと、ボケをやりたいと思ってピンで入ったんですが、NSCで「ババリア」というコンビを組みました。たまたま名前の順に並んでた隣の子と仲良くなって、「組もか?」と。僕が溝黒和昭で相方が三浪(みなみ)昇。そのままずっと5年間やってたんです。その三浪君が「どうしてもツッコミが出来ない」と強情やったんで、僕がツッコミになったんです。僕もツッコミはやったことがなくて、参考にしたのが、なだぎさんと、好きだったシャンプーハットのてつじさん。僕の中では2人を完璧にマスターしてやってたんですけど、その2人を掛け合わせてたら、すごい個性的なことに・・・。
(なりますよね~)
僕も不器用な方なんで、その2人をちゃんとマネれてなくて、結局、自分のツッコミになっていたというか。NSCの時は「溝黒のツッコミは独特で面白い」って言われてました。
(個性的なツッコミが生まれたんですね)
NSCのクラス分けの時は、一番上のAクラスでした。卒業して1年目のデビューで「baseよしもと」の3軍に入りました。そこには、ブラックマヨネーズさん、チュートリアルさん、フットボールアワーさん、ロザンさん、ビッキーズさんが、10組いる3軍の中に入ってて・・・そこは凄かったですね。「ガブンチョメンバー」というのがありまして、そこで5年間やってました。ほかに同期で「あるある探検隊」のレギュラー、のちにコンビになる安達健太郎君のシュガーライフも3軍に入ってました。

―順調だった「ババリア」を解散されたのは?

5年やってて、テレビのレギュラーも「クイズ!紳助くん」(ABC)とか「オールザッツ漫才」(MBS)にも2~3年目で出ましたし。結構、順調には行ってたんですが、僕、どうしても東京に行きたくて・・・。相方に言ったんですけど、相方は実家に住んでて、「東京には行きたくない」と。そこで意見が違ってきました。単独ライブとかもやったんですけど、その時もケンカとかしたり。5年目でなかなか難しくなって。その先を考えた時に、方向が違うなと思って、僕の方から解散を言い出したんですね。

―その後、すぐに新しいコンビ「カナリア」を組まれました。

同時期にコンビを解散した安達君と「組んで東京に行こうか」と。実はその時、ひとつのターニングポイントがあったんです。吉本の社員さんから、その頃まだ座長じゃなかった小籔さんが、「溝黒を欲しがってる」と聞いたんです。「これから新喜劇を盛り上げていくのに、ババリアの溝黒と山崎静代ちゃんを欲しいと言ってるから、いっぺん、話しに行き」と言われたんです。僕、すごい迷って・・・。
(そうでしょうね~)
その頃、M-1グランプリが始まってて、「ババリア」で2回くらい出て、準決勝まで行ったんです。今新喜劇に入るのか、漫才やるのか2択やったんですけど、僕、2丁目劇場の頃、めちゃめちゃ小籔さんのビリジアンさんが好きで、尊敬してたんです。小籔さんのとこに話しに行くと、たぶん、そのまま論破されちゃうというか。新喜劇に決まっちゃうなと、ピンときちゃったんで、これは行かんとこと思って。
(スルーですね)
やっぱり漫才が好きやったんで、行かなかったんですよ。で、安達君と組んで、「カナリア」として東京でスタートしたのが2003年ですね。

―新しいコンビで東京へ行かれるのは、かなりチャレンジでは?

もともとのコンビだったら、東京吉本につなげてくれるんですけど、僕らは新しいコンビだったので、ゼロからで、東京吉本の所属でもなかったんです。1回、アマチュアというか、所属が無くなったんですよね。
(え!? そうなんですか? 厳しい)
2003年はM-1もアマチュアでエントリーして、準決勝まで行けなくて、これは無理やったなあ、と。そこから東京の1年目の若手とかが受ける、「会議室ライブ」というのを受けに行って、そこから上がって行って・・・。半年くらいで、「ルミネtheよしもと」の一番下のランクまで行けたんです。
(やっぱり実力ありますね)
安達君がネタ書くのが得意な方だったんです。その時のオーディションライブってネタが1分しかないんですよ。1分ネタをその半年でいっぱい作って。トントン拍子にルミネの舞台まで行けました。
(M-1には毎年挑戦を?)
7年間、準決勝止まりで決勝に行けずにいました。どうやっても決勝の壁が分厚くて。当時、東京って全国のテレビ番組のオーディションがいっぱいあったんです。そのオーディションも1分ネタが多くて。以前、「会議室ライブ」とかで使ってた1分ネタがメチャクチャあって、それがすごい役に立ったんです。「爆笑レッドカーペット」(フジ)で、やってたネタが全部ハマって。毎週「次のネタありますか?」と聞かれてもどんどんあったので、結構出られて、それで人気が出て調子が良くなって。その勢いで2010年のM-1決勝に行けたんです。

―M-1の決勝はいかがでした?

決勝まではね、ほんとに大変やったですけど。でも、僕が今までで一番幸せやった時間が、M-1の決勝が決まった日から決勝の当日までの2週間なんです。みんなからメチャクチャちやほやされるんですよ。「頑張れよ! 絶対優勝出来る!」とか(笑)。決勝行ったら、9分の1の確率で1000万円もらえますし、優勝したらみんな売れてましたし、もう夢しかなくて。その2週間はメチャクチャ幸せでしたね。決勝当日の朝なんか、今までの人生で一番気持ちがよくて、身体が軽くて一番体調も良かったというか。気持ちってすごいあるなと思って。
(優勝できなくて、ガッカリされたのでは?)
結果、9位やったんですが、僕自身は、その時、4850組の9位だったんで、そんなにめげてなくて。もう11年に経ちますけど、今でも「M-1出てるしな」とは、ちょこちょこ言われますし、お笑い界の賞レースの中ではM-1ファイナリストは大きいです。その後、東京でもレギュラー番組や仕事も増えましたし。でも、賞味期限は1年でしたね。そこからは実力が足らなかったのか、東京ってやっぱり厳しくて。また次のヒーローたちがいっぱい出てくるんで。舞台とか営業とかはあるんですけど、2年目からは仕事がどんどん減って来て。2011年、東日本大震災もあったりして、激減しました。

―「カナリア」は2018年まで続きますね。

結局、14年やったんですよね。M-1も出続けたんですが、一番最後の2017年は2回戦落ちしてるんですよ。それがすごい悔しくて。いろいろ調べたら、過去のM-1ファイナリストで2回戦落ちしてる人ってほぼいなくて、変ホ長調と僕らだけなんですよ(笑)
(調べたんですね(笑))
もともと安達君と大阪で組んだのも「M-1に出よう」というのがきっかけで、「M-1で優勝しよう」というのは根底にあったんです。でも2回戦落ちした時に、僕の中のピーンと張ってた糸が切れちゃったというか。14年でいろいろやってきたこととか、何か全部が弾けちゃった気がして・・・。自分勝手なんですけど、全部がちょっと「もう、嫌だ!」となりまして。「カナリア」がもう無理だ、限界だって思っちゃって。で、僕から安達君に「解散しよう」と言ったんです。結成14年で、あと1年、M-1の挑戦権があったんで、安達君からは「ラストイヤーだけやろう」と言われたんですが、若手たちが凄すぎて、1年では勝てる気がしなかった。それよりも早く解散して、俺、自由になりたいって(笑)。その時、僕は38歳やったんですけど、これでもう漫才はやめよう、と決めたんですね。結局、20年間、無理してツッコミをやってました。もともとボケの人間になりたかったいうのもありまして、解散してピン芸人になって、解放されて。そこから「ボンざわーるど」っていう名前をつけて。自由を手に入れましたね。あははは(笑)

―ピン芸人生活はどうでしたか?

ピン芸人を3年東京でやって、いっぱいネタを作ったんです。でもやっぱり、ルミネには立てなくて。東京にはいっぱい小さい劇場があって、他事務所ライブというのがあったんで、そこにお願いして、他事務所の人と一緒に出させてもらったんですが、めちゃくちゃスベったんですね。自分では面白いと思う新しいネタを、20年間の芸歴を背負って作ったんですけど。いろんな舞台でスベリまして。なかなかうまく行かず。そこで思ったのが、やっぱり、「ツッコんでくれる人が欲しいな」と。僕、変なボケいっぱい出すんですけど、ツッコミがないと伝わりにくい、笑いにならんのやな、と。お笑いの原点なんですけど。いろんな東京のピン芸人の人って、ピンで爆笑を取ってるってほんとにすごい、職人やな、と。僕はボケをやりたいけど、ツッコんでくれる人がいないと成立せえへんと、勉強になって。40歳になってもうて、遅すぎるんですけど。あはははは(笑)

―新喜劇に入ろうと思われたきっかけは?

東京のMXテレビでちょくちょく新喜劇を見てたんですけど、「あ、ここいいな~」と思って。漫才以上に1人のボケをみんなでツッコんでくれる。「ここ、メッチャいいな~」と思ってて、そう言えば小籔さんが言ってたな~と。
(思い出した?)
もう、17年前なんですけど。それがあって、新喜劇行こかな~と思ったんですよね。その時はもう結婚してて、子どもも出来てたんで、奥さんに「大阪へ行くってなったら、どう?」と言ったら、「いいよ」と言ってくれて。それで、行こうっていう覚悟が出来て、小籔さんに連絡したんですよ。実は、昔言ってもらってたんですけど、新喜劇に入りたいって言ったら、「いや、遅すぎるやろ!」と言われて(笑)。
(状況も変わってますよね)
小籔さんに連絡したのが去年の7月だったんで、新型コロナもあったし、「今来ても仕事ないし、お前を使うところも難しい。今、座員が120人いるし、若手が多いから、お前が入って来ても、その若手と闘わなあかん。仕事がなくても頑張って行く覚悟があるんやったら、おいで」と言ってくれはって。その覚悟はあったんで。

―ほかにも何か理由があったんですか?

そもそも僕、劇場の楽屋が世界で一番好きな場所なんですよね。
(ほ~楽屋が!?)
ほんとに楽屋が世界一楽しいところなんですよ。いろんな芸人さんたちが、舞台やテレビとかで言えないこととか全部、普通にしゃべってるし。ピン芸人になった時、劇場になかなか行けなかったんで、すごいフラストレーションが溜まってたんです。新喜劇ってベテランから若手までいて、そこの楽屋に行きたいっていう・・・あははは~芸人にならないと入れない世界なんで。不純な動機ですけども(笑)。
(あはははは~)
それにピン芸人の頃に、一人旅を世界10か国くらいしたんですよね。その時にいろんな人種や考え方に出会って、世界が面白いなというのがあって。それを大阪に帰って生かしたいというか。僕も20何年の芸歴があるんで、そこで吸収したものを新喜劇に生かしたいし、何かしら新喜劇に貢献出来ることがあるやろな、って思ったんです。

―新喜劇に入団されたのはいつですか?

入団したのが昨年(2020年)の12月1日で、川畑さんの祇園花月で初舞台に出していただきました。もともと川畑さんが東京のルミネで新喜劇をやる時に何回か僕を使ってもらってて、僕が入ったことを喜んでくれてたんです。それが12月23日くらいですね。祇園花月は10人くらいでやるんで、何回も出てくる一般人の役でしたけど、オープニングでうどん屋の店員の珠代さんにツッコむ役を初舞台でさせてもらいました。
(おお~っ)
僕が中学生、高校生の時からテレビで見てた珠代さんに舞台上でツッコむというのは、緊張感もあり、うれしさもあり、だったんですが、やっぱり、漫才のツッコミのやり方と新喜劇のツッコミのやり方は全然違って、うまく行かずに・・・。セリフを言うだけじゃウケなくて、珠代さんを困らせちゃいましたね。「私をもっと生かして!」って。1回目の洗礼でしたね。

―NGKの舞台には?

その後、また川畑さんの班で、年末年始のお正月公演に出させていただきました。NGKの舞台には「カナリア」の時に、何回か立ってたんですが、その時の風景と全然違って、緊張感がハンパなかったですね。今別府君とコンビで、初めて借金取りの役を黄色のスーツ着てやらせてもらいました。1週間の公演で、すごかったのは、毎日毎日みんな違うボケとかツッコミを試してて、テレビ収録までに完成形にするんです。それってすごい闘いなんですよね。新喜劇のテレビ放送は時間制限があるんですが、初日はどうしても長くなるんで、芝居を削って行くとか、新しいボケを入れてウケるようにしていくとか。それがほんと、M-1の予選から決勝までと一緒で。漫才師って、賞レースがすごい興奮するんですけど、それを新喜劇の人って、毎週やってる、恐ろしいところやな、と。それには僕、ほんとにヒリヒリしました。そのヒリヒリ感を久しぶりに味わえて、芸人としてメチャクチャ楽しかったですね。40歳になってもこうやって毎日闘える場所があって、それがすごく芸人として幸せで。
(楽しみな日々が続きそうですね)
ほんとそうです。一の介師匠とか70代ですし、オクレ師匠もそうですし。みんなその年齢になるまで、ずっと闘ってるんや、死ぬまで芸人として闘える場所なんて、メチャクチャ面白いとこですよね。

―印象に残っている舞台は?

NGKのすっちーさんの舞台ですが、すっちーさんは若手とかいじるのが、すごい上手で、僕のこともいじってくれて。メガネのこととか、鼻がデカいとか。メガネ取ったら犬みたいな顔してるな、とか(笑)。僕を犬みたいに「この髪切ってるの、トリミングショップやろ? メチャメチャうまいこと切られてるな」(笑)とか。
(あはははは)
すごくうまく扱ってくれて。やっぱりツッコミの人がいるっていうのはうれしかったです。川畑さんも僕と髪型が似てる、もじゃ吉田君をもじゃもじゃコンビで出してくれて、2人が入れ替わるっていうボケとか作ってくれはったり。あとは僕自身が(新喜劇で)認知してもらうために、ギャグを作らないとダメですね。おじいさんになるまでにギャグをいっぱい作りたいですね。

―憧れの先輩は?

こんな人になりたいと思うのは島田一の介師匠ですね。やっぱり、あの人の愛され度というか、ただのハゲネタだけじゃなくて、返しとかがすごくて。一の介師匠も1週間で毎日違うこと言ってますし、すごい闘ってるな~と。70歳なのに、ハゲをいじられた時のツッコミの早さ、ハンパなくて。
(あはははは~)
よくその声出せるし、よくそんなキレのツッコミ出来るなって。僕のお父さんお母さんも70代ですけど、それを考えたら、すごい生き方してるなと。だから尊敬してて、あんな歳の取り方してる芸人になりたいなと思います。みんなから愛されて、いじられて、ツッコまれて、舞台であたふたしたりしてやっていく。そんな芸人になりたいですね。

―大阪の新生活、今ハマっていることは?

今、子どもが1歳なんですけど、男の子で、面白くてしょうがなくて。すぐ近くの大型スーパーに行って、一緒に遊ぶのがたまらんのですよね。自分と顔も似てる、自分の分身のちっちゃいのがいてて、それを奥さんと育ててるのが、すごい楽しいんですよ。やっぱり、芸人の奥さんは一番大変というか。奥さんからしたら、毎日仕事の時間違うし、TikTokとか動画作ったりとか「何やってんねん?」と思うような変なことばっかりしてるんで。苦労かけている分、子育ても助けなダメですし。奥さんを幸せにしてあげたいというのが、今、一番思ってることですね。また下積み時代に戻っちゃったんですけど、僕にとっては大事な時期で、2~3年は待ってて欲しいというのがあって、それ以降は絶対に食わしていく環境は作って、家族を幸せにしたいっていう・・・真面目なこと言っちゃってますけど・・・。
(幸せ感が伝わってきます。ぜひ、お子さんと一緒に出来るようなギャグを作ってくださいね)

2021年3月26日談

プロフィール
1979年6月14日大阪市出身。